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第51話 大丈夫だから

【倉田 奈央】







 尾関先輩と言い合いをしてしまった次の日、バイトは休みだった。



 顔を合わせないですむことにほっとする気持ちと、こんな状態でまたしばらく会えないことに落ち着かない気持ちを抱えながら、昼下がりに近所の喫茶店へ出かけた。



 読書でもして心をリラックスさせようと行ったのに、ページをめくるたび、やっぱり尾関先輩のことがちらついて、本の内容は全然入ってこなかった。



 そうして2時間ほど過ごした夕方の帰り道、店長から電話があった。忙しいかと聞かれ、喫茶店から家に帰ろうとしてるだけだと伝えると、時間があるならちょっとだけ店に寄ってほしいと言われた。それはいいとして、今日出勤してるはずの尾関先輩と顔を合わせてしまうことだけが少し引っかかった。そのせいで即答出来ずにもごもごしていると『店の外で待ってるから!』と店長は何かを察したように言った。



 商店街を店へ向かって歩く。かなり目立つ髪の色の人が、その風貌に似つかわしくないホウキを手に持ち、慣れた動きで歩道を丁寧に掃除している姿が、かなり遠くからでもすぐ目に入ってきた。



「店長ー!」

「おー!倉田ちゃん!ごめんね〜休みなのに」

「いえ、特に何もしてなかったですから。でも、突然どうしたんですか?」

「実はさ、今日尾関風邪引いて休みなんだけどさ……」

「えっ!尾関先輩が風邪!?珍しいですね……私、先輩が休んだところなんて一回も見たことないですよ……」

「3年に1回くらいかな?あいつが休むの。いつもバカみたいに丈夫だけど、そのくらいの周期でツケが回ってきて、ドカッて体調崩すんだよね」

「そうなんだ……そんなこと、全然知らなかったです……」 

「そっか。前回の時は倉田ちゃんの休みと重なってたのかな?今回は夜勤でだいぶ無理させたからさ……日勤に戻って解放された途端、溜まってた疲れが一気に爆発したのかも」



 責任を感じている顔をする店長と向かい合いながら、こないだの葉月で『全然平気』と言いながら無理をしていそうだった先輩を思い出した。



「……それでさ、これ持ってってやろうと思ってたんだけど、この後面接入ってたのすっかり忘れてて……」



 そう言いながら店長は後ろを振り返った。その背後には、畳まれて積まれた空の納品ケースがあった。その上に置かれていた銀色の保冷バッグを手に取り、それをそのまま私に差し出す。



「……なんですか?これ」



 私は特に考えもせず、流れるようにそれを受け取った。



「あいつへのお見舞いの品。めちゃくちゃ弱ってるっぽいから元気出る食べもの買ってやったの」

「うわぁ!店長が先輩に優しい……!」

「なによ?私はいつだってあいつに優しいでしょ」

「いや、先輩からしたら店長は常にジャイアンですよ?」

「ジャイアンも映画の時はいいヤツじゃん?私も風邪の時はいいヤツなんだよ」

「……理にかなってますね」

「で、倉田ちゃんにお願いっていうのは、これを私の代わりに尾関に渡してほしいんだわ」

「渡すって?」

「尾関んちに届けてほしい」

「えー!?ダメダメダメ!!ダメですよ絶対!私が家なんかに行ったら絶対拒絶されますって!」

「そんなことないって!むしろ私が行くより喜ぶから!倉田ちゃんの顔見たらあいつ一気に元気になるよ」

「……それはないですよ。……それなら、香坂さんに頼んだ方が……」

「それは、逆にもっと寝込こんじゃうかも……」

「……なんで?」

「まぁとにかく!玄関先でパッと渡すだけでいいからさ!せっかく買ったのに、急がないと悪くなっちゃうし、他に頼める人いないんだよ。今回だけは緊張事態だからお願い!」

「……はぁ……分かりましたよ……」

「ありがとー!助かるよ!」



 私が渋々承諾すると、店長はこうなることを見越していたように、ポケットの中からあらかじめ用意していたメモをサッと取り出した。そこには、先輩の家への行き方の地図が簡略的に書いてあった。



「じゃあ尾関には私から連絡しとくから!よろしくね〜!」


 

 ほうきを片手に大きく手を振って見送るご機嫌な店長を背に、私は地図の通りに歩き出した。



 昨日はほとんどケンカみたいな状態で帰っちゃったし、今も正直色々ともやもやしたままだし、先輩とどう接したらいいのか分からなかった。



 店長から言われたように、玄関先で素早く渡してすぐに帰ろう……そんなシュミレーションを頭の中でしているうちに、もうアパートの前に着いていた。



 尾関先輩の家ってこんな近かったんだ……



 わざわざ自転車で出勤するほどの距離じゃない。先輩は出勤時間をなるべく短縮出来るように、横着して自転車で来てるんだな……と数年後越しの事実を知った。



 4年近く一緒に働いてて、初めて先輩の住むアパートを見る。かなり古い建物のようだけど、どこの部屋も扉だけは違和感満載に新しかった。メモに書かれた部屋番号のプレートを探そうと目の前の扉から見始めると、そこがもう目的の部屋だった。



 今この中に尾関先輩がいるんだと思うと、なんだかんだで緊張の波が押し寄せてきた。私は、悔しい気持ちになりながらも、バッグから鏡を取り出して前髪を直し、軽くメイク直しまでしてからインターホンを押した。



 しばらくすると、静かな部屋の奥からこっちに向かって足音が近づいてきた。



「あんなさーん?」



 え?あんなさん?



 聞こえてきた言葉に疑問を抱いたと同時にガチャッと扉が開き、上下グレーのスウェット姿の尾関先輩が、イワトビペンギンのような寝グセのまま出てきた。



「えっ!?なんで奈央!?」



 私の姿を見た途端焦った顔をして、手ぐしなんかじゃ何一つ変わるわけがないその強力な寝グセを必死に直そうとしだした。



 目はトロンとして、ほっぺは赤く、なるほど確かにこれはあきらかに具合が悪そうだとひと目で分かった。大変な状態なのに不謹慎にも初めて見るその姿が無性に可愛いくて、こっちまで頬が赤くなりそうだった。



「店長から頼まれて来たんです。面接入ってたの忘れてたからってお願いされて。……店長から何も連絡きてないですか?」

「いや、今ちょうどきたところだったんだけど……『もうすぐ着く』としか書いてなかったから、てっきりあんなさんが来るもんだと……」

「……ジャイアンめ……」



 やられた。 

 


「え?ジャイ……?」

「いえ。これ、店長からのお見舞いです」

「あ……ありがと」



 手さげの保冷バッグを手渡す時、かすかに指が触れてしまい、思わず目が合った。



「……じゃ、じゃあ、お大事に……」



 私は動揺を隠して、予定通りのスムーズさで帰ろうとした。すると、



「待って!……少し上がっていけば?」



 突然の意外な先輩の言葉に、瞬時に胸がぎゅっとした。昨日あれだけ揉めた上に信用も薄れかけてる人に対して、簡単にそんなふうになってしまう自分が情けなくなってくる。



「……でもほんと具合悪そうですし、先輩は人に部屋に入られるの苦手だろうし、別に私なんかに気使わなくていいですよ」 



 遠慮するにしても可愛げがない言い方だな……とと自分でも自覚した。



「……もし奈央が嫌じゃないなら……私は上がってっていってほしい。家にまで来てくれてすごく嬉しいし……」



 熱のせいか先輩は素直すぎた。そんなふうに言われたら、なんて言ったらいいのか困ってしまう。



「……あ、ていうか、風邪うつったら大変だよね!大事な時期なのに。ごめん、勝手なこと言って……」

「あっ……あの、やっぱり……少しだけお邪魔してもいいですか?せっかくだから……」



 私は完敗して自分も素直になった。先輩は、ぱぁっと明るい顔になって『うん!』といい相づちをうつと、私のために玄関の靴を端に寄せた。



「お邪魔します……」



 靴を脱いで上がらせてもらうと、すぐそこはキッチンのあるちょっとしたスペースになっていた。



「ここ座って」

「ありがとうございます……」



 先輩は私にイスを差し出して、そこからつながっている奥の部屋へと入っていった。部屋とキッチンは襖で区切れる造りのようだけど、見た感じいつも開けたままで使ってるっぽい。先輩が何かごそごそとしている間に、私はさりげなく家の中全体を見渡した。



 奥の部屋には机やギター、備えつけではなさそうなクローゼット、たんすなど、先輩の持ち物は全てこの一室にまとまってるくらいに物で埋まった部屋だった。



 もう一つ、右側にもキッチンスペースからつながる部屋があった。左の部屋は襖2枚分の入り口だったけど、右の部屋は襖1枚分の狭い入り口。だけど、そっちの襖も開いたままで中は丸見えだった。そこは寝室のようで、隣の部屋とは正反対に、右の壁に寄せたベッドが一つ置かれているだけで他には何もなかった。



「今どきオール和室なんだよね、ここ」



 突然左から話しかけられ振り向くと、先輩はマスク姿になっていた。どうやらさっきはマスクを出していたらしい。



「……そうなんですね、でもあんまり和室だって分からないですね」



 寝室を覗き見してたところを見られたかもしれないと恥ずかしくなりながら、白々しく返した。



「一応中はリフォームしてくれてるから和室は和室でも新しい感じの和室なんだよね。どうせするならフローリングにしてよ!って感じだけどね」



 二人だけの空間で、しかも初めて入る尾関先輩の家の中で、私は座ってるだけでも息がしづらいくらいだった。なのに先輩はいつもと変わらないどころか、自分の家だからか、むしろ普段よりもリラックスしてるように見えた。



「そうだ、お茶!……こんなんしかなくてごめんね」



 そう言って冷蔵庫から出したペットボトルのお茶を出してくれた先輩は、会話の調子とは違ってふらふらと力ない動きをしていた。



「大丈夫ですか?気使わなくていいですから、寝てて下さい。病人なんだから……」

「うん……ありがと。体調もだけど、昨日バイトから帰ってからなんも食べてなくて普通にお腹空きすぎちゃって……」

「えっ!?なんでですか!?食欲なくて食べれないんですか!?」

「食欲はめちゃくちゃある……でも、食べるものが家になくてさ……買いに行く元気もなくて……あんなさんがなんか買ってきてくれるってさっき言ってたんだけど……」

「あっ!さっきの保冷バッグ!元気が出る食べもの買って来たって言ってましたよ!これ、早く食べましょう!いいですか?開けちゃって」

「うん……」



 カッチリと留められたプラスチックのボタンを外して急いで中を見ると、そこには生の高級ステーキと瓶のステーキソースが入っていた。



「……病人にステーキって……」

「ステーキ?食べたい!」

「うそでしょ!?20時間くらい食べてない上にそんなに具合悪そうなのに、ステーキなんて食らべれるんですか?!本物のいきなりステーキじゃないですか!」

「別に平気だよ、元気ない時って肉食べたくなんない?」

「なんない」

「そお?私はなにがなんでも肉なんだよね。さすがあんなさん、分かってくれてる」

  


 嬉しそうに保冷バッグの中を覗き込む先輩を見て、なんとなく店長にイラっとした。



「……あの、私でよかったら焼きましょうか?」

「いいの?」

「こんな高級なお肉焼いたことないから、私なんかが焼いて台無しにしちゃわないか怖いですけど……」

「奈央が焼いてくれるステーキ食べたい!」



 尾関先輩はキラキラと目を輝かせ、無邪気にねだるように言った。



 ……なに?この人?

 熱出てると素直になる体質なの……?

 ならいつもずっと微熱でいてくれればいいのに……。かなり本気でそう思いながら、空腹で倒れそうな先輩のために早速準備を始めた。



「じゃあ、キッチンお借りしていいですか?」

「うん。引き出しとか自由に開けて何でも勝手に使って。って、ほとんど何も入ってないけど」

「分かりました!じゃあ先輩は焼けるまでベッドで寝てて下さいね」

「寝てるなんて悪いよ、作ってくれてるのに」

「一応これもお見舞い中ですから、病人っぽくしてて下さい。無理されてると気になっちゃうし、ステーキ焦げちゃいますよ?」

「……分かった」



 そう言うと先輩は私に言われた通り、よたよたとベッドのある部屋へと入っていった。やっぱり抜群に聞き分けがいい。



 アパートの築年数に反して、一度も使ってないのかと思うほどピカピカのガス台に、同じくほぼ新品のフライパンを置いて火をつけた。

 ステーキを乗せ、一瞬手が空いたところで 振り返ってみた。すると、ベッドに横になった尾関先輩は、あのゾンビーナのぬいぐるみを抱いてこっちを見ていた。



「なっ、なんで寝てないんですか!?」

「今から食べるのにマジ寝はしないよ」

「……それ、ベッドに置いてるんですね、ゾンビーナのぬいぐるみ……」

「うん。ぬいぐるみはやっぱりベッドの枕元が定位置だからね。人恋しい時は抱いて寝れるし」 

「ぬいぐるみ抱いて寝るなんて、先輩も女の子なんですね」

「抱いてるぬいぐるみ、ゾンビだけどね」

「そう言えばそうですね……」



 色々思うことはあるくせに、視線の先で先輩に抱かれたゾンビーナが心底羨ましかった。



「もう出来ますよ!」

「やったぁ……もう限界だった……」



 先輩はまたユラユラとふらついた足取りで戻ってくると、おもちゃのように心もとない作りのイスにドスッと体重をまかせて座った。私はそれを見届けてから、小さなテーブルの上にステーキを置いた。



「わー!最高だー!めちゃくちゃおいしそー!!」

「いいお肉、台無しにしてないといいですけど……」

「絶対おいしいって!ってか、イス一つしかないのに私が使っちゃってごめんね」



 尾関先輩はナイフとフォークを握った状態で、立っている私を見上げ、申し訳なさそうに謝った。



「そんなのいいですから!気にしないで早く食べて下さい!」

「……じゃあいただきます!」

「はい」

「……うわっ!!おいしぃー!!すっごいおいしいよ!奈央のステーキ!」

「……よかったです。でも、元がそもそもすごいいいお肉だし、味付けもちょっと塩コショウしただけで、メインはステーキソースだから、私のステーキってわけじゃないですけど……」

「そんなことないよ!奈央の焼き方が上手だからだよ!すんごく絶妙だもん!本当においしい!ステーキソースなくてもいいくらい!」



 先輩はその後も「おいしい!おいしい!」をずっと繰り返しながらすごい勢いで食べ続けた。少し弱った顔で目を細めては、幸せそうにまた可愛く笑う。そんな姿をすぐ近くで見てたら、一緒に暮らしてるみたいな錯覚になって、私もすごく幸せな気持ちになった。



 でも次の瞬間、ふいに香坂さんのことが頭に浮かぶと、まやかしの幸せは一瞬で消えて、代わりに胸がズキッと痛んだ。



「ごちそうさまぁー!あ〜おいしかったぁ……奈央が作ってくれたステーキ、最高だった!」



 満足そうに、子どもみたいな笑顔を向けてくる尾関先輩と目が合う。きっと香坂さんの前でもこの顔を見せたんだろうな……。胸が苦しくなって涙が出そうになった。



「……香坂さんの料理を食べた時も、そんなふうに言ったんですか?」

「え?」

「……バレンタインの日、香坂さんの家に行ったんですよね?……私が誘っても少しの時間も会えないって断ったのって、香坂さんとの約束があったからだったんですね……」



 そんなこと言うつもりじゃなかったのに、このところ押し込め続けてき

た気持ちが滝のように溢れ出て、次々と口からこぼれてしまった。



「ちょっと待って!それは誤解だって!」

「じゃあ家には行ってないんですか?!」

「それは行ったけど……。元々約束してたわけじゃないよ!あの日、偶然用事の帰り道で会って、ごはん食べに来ないかって誘われて……。初めは断ったんだけど、その日娘さんの誕生日だったみたいで……娘さんは来ないのに、いっぱい料理作っちゃったって聞いて……。それで不憫に思って、少しだけ付き合うつもりでお邪魔しただけで……」

「……でも、結局は泊まったんですよね?香坂さんからそう聞きましたけど」

「それは!その日ちょっと疲れすぎてて、お酒飲んだらついいつのまにか寝ちゃって……それで、起きたら朝になってたってだけだよ」

「……だけ?香坂さんのこと、抱きしめたのに?」

「……抱きしめた?」

「香坂さん嬉しそうに話してましたよ?先輩に抱きしめられたって」

「……とにかく、すみ……香坂さんとは何も……」

「いいですよ!すみれさんで!二人が二人きりの時だけ下の名前で呼び合ってるのも、私知ってますから」

「……なんで知ってるの?」

「休憩室の外まで声が聞こえました」

「……うそ……でも聞いて!それも事情があるんだって!」

「事情?……誰にも秘密にしてたけど、本当の本当は香坂さんと付き合ってるって事情ですか?」

「そんなんじゃないって!!」

「心配しなくても大丈夫ですよ、誰にも言いませんから。そんなに警戒して必死に隠さなくったて、私は先輩の妹も同然なんですから」

「あー!もう!だからっ!!」



 尾関先輩は勢いよく立ち上がり、私の方へぐんぐんと近づいてきた。ところが、3歩目の足を前に出したと同時にガクッとよろめき、私はとっさに両手で先輩の体を支えた。



「大丈夫ですか!?」



 顔を覗き込むと、先輩は何も言わずにそのまま私の体を引き寄せ、強く抱きしめた。熱いくらいの体温と、下着をつけていないやわらかい胸の感触が、スウェットのトレーナー越しからでも伝わってきた。



「……奈央……お願いだから……最後までちゃんと話聞いてよ……」



 顔は見えないけど、息苦しそうに話す声は、かすれた涙混じりだった。何か言おうとしたけど上手く声が出せなくて、沈黙になってしまった。すると、尾関先輩は息を整えるようにゆっくりと話し始めた。



「……香坂さんのこと下の名前で呼んでるのは……前の旦那さんの名字で呼び続けると、そのたびに色々思い出すだろうと思って、それを避けるためにそうしてた。……そしたら『自分だけじゃ恥ずかしい』って、香坂さんも私のことを下の名前で呼ぶ流れになった……。それから、妹も同然て話だけど……それ香坂さんに聞いたんだよね?……確かに、奈央のことをどんな存在か聞かれた時、そう言ってごまかしたことがあったけど……それは、本心なんか言えなかったから。私は、奈央のことを妹なんて思ったことなんか一度もない……奈央は……妹なんかじゃない……」



 すでに速くなりすぎている鼓動が、限界を超えてまだ速くなる。頭がぽぅっとしてくらくらする。先輩から流れてくる熱で、私も急速に高熱状態にになってるのかもしれない……



「……あと、その……香坂さんを抱きしめたっていう話だけど……それに関しては、私にはそんな記憶なくて……」

「……じゃあ、香坂さんが嘘ついてるってことですか!?」

「いや、香坂さんはそんな嘘つかないだろうし、事実、そういうことはあったのかもしれない……。だけど、本当に私にはそんな記憶はなくて……」

「……記憶がない……?」

「そんなの納得出来ないだろうし、信用してもらえないのは分かる……。だけど、何も嘘なんかついてない。私は全部本当のことしか話してない。だから、どうか信じてほしい……。誰にどう思われてもいいけど、奈央にだけは誤解されたくない……」



 先輩の言葉が熱い息と一緒に耳に届く。私を抱きしめる先輩の腕が痛いくらいにさらにきつくしまった。高鳴っていく心臓の音は、もうどっちのものか分からなくなった。



「奈央……私……」



 その時、先輩の体の力ががふわっとほどけるように消失して、身長が一瞬で10cmくらい縮んだ。



 私は慌てて両腕を先輩の胴に回した。体全体にずしっと、10秒と支えていられない重さがかかる。先輩はもう自分の力だけでは立っていられず、今にも倒れそうな寸前だった。



 私が焚きつけたせいで興奮して、体に負担をかけさせちゃったんだ……。見たことないほどこんなに具合を悪くして、滅多に休まないバイトまで休んでる状態なのに……私はそのお見舞いで来たはずなのに……そんな先輩に対して、何をしてるんだろう……



 とにかく、このままここで倒れられたら、とても私の力ではベッドに連れていけない。まだギリギリ先輩が立ってくれてるうちに移動しないと……



「先輩!少しだけ頑張って、ベッドまで行きましょう!」

「……ぅん……ごめん……」



 かろうじてゆっくりと一歩づつ足を前に出す先輩に肩を貸しながら、ベッドのある部屋へ連れていき、なんとか無事に横たわらせることが出来た。



「先輩、ちょっとだけ寝返りうてますか?」

「……うん……」



 もう一度本人の協力を少しだけ借りて、体の下になってしまったかけ布団と毛布を引っ張り抜いて、その体にかけた。意識はあるけどすごく苦しそうに顔を歪ませている。



「……あの、病院行った方がいいんじゃないですか?」

「……大丈夫」

「……でも……」

「ごめん、ほんとに大丈夫だから……」


 

 息をするだけでも辛そうな姿を見ていると、罪悪感と言葉に出来ない感情で、自然と涙が出てきた。



「……ごめんなさい……具合悪いのに……私……」



 すると、ベッドの側で立ち尽くす私の太ももに、力なく伸ばした尾関先輩の指先が軽く当たった。近くに呼んでると察して枕元に座る。目を閉じたままの顔をじっと見てると、しばらくしてゆっくりと先輩は目を開けた。



「……そんなに心配しないで。普段風邪引かないから、たまに引くといつもこんな感じなの。しばらく寝てればじきに直るから……」

「……でも……すごく息苦しそうだし……」

「あと30分もしたら、奈央のステーキが効いてくるよ」

「……そんな、エスタックイブじゃないんだから……」

「私にはイブより効くよ」



 力なく投げ出されたままの右手をしまおうと、そっと手首を掴んだ。手首まで熱い。さっきよりもまた熱が上がっているようだ。本当に病院に行かなくていいのか不安になりながら、かけ布団の中に手をしまおうとしたその時、突然先輩の右手に力が戻り、掴んでいた私の手をぎゅっと握った。



「ちょっとだけ……手つないでてもいい?」

「えっ……」

「……嫌?」

「……嫌なことなんて……」



 尾関先輩と手をつなぐなんて初めてだった。ただ手をつないでるだけなのに、たったそれだけで私は、今まで誰からも感じたことのない安心感を感じていた。



「……奈央、体調がちゃんと元に戻ったら、話したいことがある。大事なことだから、こんな状態じゃなくて、ちゃんと話せる時にちゃんと伝えたくて……。風邪が治ったら、聞いてくれないかな?」

「……待ってますから、早く良くなって下さい」

「分かった」



 先輩が嬉しそうに微笑むと、長い間刺さったままの罪悪感のトゲが胸の中でうずいた。

 


「……私も、尾関先輩に話したいことがあります。ずっと言いたくて言えなかったことがあって……聞いてもらえますか?」

「……うん」



 嫉妬に狂って自分の辛さばっかりぶつけていたけど、思い返せば不条理すぎる。私にはまず、尾関先輩に話さなきゃいけないことがある。正直に話して、ちゃんと謝らないといけないことが……。



 つないだ手から、お互いの気持ちが伝わりあってるような不思議な感覚を感じた。まだはっきりと言葉では交わしてはいないのに、あんなにどこにあるのか分からなかった先輩の気持ちが、今はここにある……そう迷いなく言える。



 こんなことを、何年もずっとずっと夢見てた。もしこの夢が叶う時が来たとしたら、その瞬間、きっと私はその喜びで先輩に抱きついたりするんだろうなと想像していた。だけど、現実は全く違った。



 ひっそりとその時間を大切に大切に感じて、ほんの少しだけ触れている体温に心が満たされ、ただ静かに心で『好き』と想うだけだった。



 尾関先輩は黙ったままじっと私を見つめている。少し潤んだその瞳を見てまた突然不安に襲われる。



 真実を話したら、先輩はその()で私をどう見るんだろう……。一年半もの間嘘をつき続けてきた私を、今の気持ちのまま変わらずに想ってくれるだろうか……。



 失う怖さでつないだ手が震えた。それが伝わってしまわないように手を離そうとした。指が完全に離れそうになった時、逃げようとする私の手を先輩の手がまた捕まえた。



「帰っちゃうの……?」

「私がいたらゆっくり眠れないだろうし、もうそろそろ……」

「……もしかして、これから明ちゃんに会いに行くの?」

「え?……そうゆうわけじゃ……」

「なら、もう少し側にいてほしい」

「……私、先輩の側にいてもいいんですか……?」

「どうしたの?」



 恐くて仕方なくて、黙って泣くしか出来ない。



「……大丈夫だから」



 合わせられずにそらしていた目線を戻すと、大きく胸を上下させながら呼吸する先輩が、その熱い両手で私の冷えた手を包んで温めてくれた。



「ずっと私の側にいて」

「先輩……」



 その時、角砂糖が熱いコーヒーに溶けてゆくように、胸の中いっぱいになっていた不安がじんわりと消えてゆくのを感じた。




 きっと大丈夫……。

 もう温かさしか感じない。

 きっと私たちはこうやって、この先も手をつないでいられるはず……。















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