第22話 ひっかき傷
【間宮 菜々未】
きみかさんは待ち合わせの雑踏の中でも目を引くような外見で、話が上手で会話が途切れるようなことはなく、相手が気づかないくらいのやさしさをいつもそっとくれる。近くにいると、つくづくモテそうな人だとより感じた。
簡単に承諾して付き合ってくれたから不安もあったけれど、その日からこまめに連絡をくれたり、少しでも時間が会えば会いに来てくれたり、週末は必ずどこかへ誘ってくれたり『彼女』としてちゃんと私を大切にしてくれた。
光は自分のペースを乱さないタイプだったから、こんなふうに私のことばかりを気にかけてくれることはなかった。
別れてから一度だけ『今度取りに行く時のために荷物をまとめておいてほしい』と連絡があったけど、そこから三週間が経っても、それ以降なんの音沙汰もなかった。だけど、そのことにそこまで違和感は感じなかった。それはきっといつも私が、光のことを猫みたいだと思っていたからだろう。
早く光を忘れたかった。目にするもの、耳に入ってくるもの、全てが結局はどこかで光に結びついて、そのたびにしつこく痛みが走った。
それはまるで、光が私の体につけていった治ることのないひっかき傷だと思った。私はただ、それでもきみかさんならいつかこの痛みをかき消してくれると信じた。
きみかさんは積極的な人だった。付き合おうと言葉を交わしたその帰り道にはスッと自然に手を繋がれ、付き合って一週間も経つと「家に行ってもいい？」と聞いてきた。
正直、光の香りでまだいっぱいの部屋にきみかさんを入れるのは気が進まなかった。だけど、それを拒めばきみかさんを失ってしまうかもしれないと思うと、そんな勇気も持てなかった。
結局承諾したものの、どうゆうつもりで言ったんだろうと、実際に招き入れる時は内心少し体が強張った。だけど付き合って一ヶ月が経ち何度部屋に遊びにきても、きみかさんは私に、手をつなぐ以上のことは何もしなかった。
自分から離れたと言っても、７年付き合ってた彼女と別れたばかりの私を気遣ってそうゆう空気になるのを避けてくれていることを、私はなんとなく感じていた。私自身もまだそこまでは心がついていかなくて、気づかないふりでそれに甘えた。
いつまで経っても取りに来ない光の荷物のことも、もちろんきみかさんは気づいていた。だけど、それに何も言うことはなく、私たちはいつもただお酒を飲んでは、まだ知らないことだらけのお互いの話をして過ごした。
ある夜、珍しくバイト上がりの時間からだいぶ遅れて家へやって来たきみかさんはいつもと少し違う様子に見えた。何かあったのかと聞いてみると、仲のいいあの倉田さんが彼氏のことでかなり落ち込んでいたらしく、話を聞いていたとのことだった。本当に可愛がっている後輩のようで、きみかさんは自分のことのように胸を痛めていた。
申し訳なさそうに遅くなったことを謝るきみかさんをソファーに座らせ「お仕事おつかれさま」と缶チューハイを渡し乾杯をした。いつものように隣に腰を降ろしそのまましばらくテレビを見ていると、突然肩に手を回され、強引な力で引き寄せられた。
これまで何度も同じシチュエーションを繰り返しても何も起きなかったため完全に安心しきっていた私は、一瞬何が起きたか分からなかった。
「菜々未さん、さすがに私のこと警戒しなさすぎ。このままずーっと何もしないと思った？」
体に腕を回されて包まれたまま、今までで一番近い距離できみかさんの声を聞いた。
「……でも、何度うちに来てもそんなことなかったし……」
伝わってしまいそうに心臓がドクドク言い始める。
「私、菜々未さんが思ってるほどそんなちゃんとした人間じゃないから。もうだいぶ我慢したし、もういいよね？」
そう言いながら、きみかさんは手の平を私の頬に添えた。まっすぐ見つめる顔がどんどん近くなってきみかさんの唇が触れそうになった寸前、私はとっさに顔をそむけてしまった。
「私とキスするの嫌？」
「……そうじゃないけど……今は……そうゆう気分じゃなくて……」
煮え切らずに取り繕う私を、きみかさんは乱暴にソファーへと押し倒した。
「じゃあそうゆう気分にさせるから……」
拒む間もなく、きみかさんの唇が右の耳に触れた。唇はそのまま這うようにして首筋へと降りてゆく。だんだんと荒くなってゆくきみかさんの息づかいを感じながら、私は何も出来ずに固まっていた。一度肌から唇が離れ間近で目が合う。きみかさんの目は私を恨むような乱暴な目つきをしていた。その目が杭のように体をソファーに打ち留めて、私はさらに動けなくなった。
体に覆いかぶさられ、唇が鎖骨を味わうように動いた。同時に腰のあたりから薄いシャツの上をゆっくりと滑らせて上がってきたきみかさんの手が、私の左胸に触れた。
光といた時の習慣ときみかさんへの信頼感で、私は下着を身に着けていなかった。当たり前にそれに気づいたきみかさんは
「これってこうなることを待ってたってこと？それとも私のことナメすぎてんのかな……」
そう言いながら慣れたその指先一つで私を感じさせようとしてくる。
「だっ、だめっ！！やめて！！」
咄嗟に体を起こし、自分で自分の体を守るように必死に拒んだ。きみかさんはそんな私を見て苦く笑った。
「……ごめん、そうゆう気分じゃないって言ってたのに無理に……。よくないね」
「……ごめんなさい」
謝るだけで理由は言えなかった。
そのことがあってから、きみかさんからの連絡はなくなった。あんなに露骨に嫌がってしまったんだ、このままフラれるのかもしれない……と多少覚悟をしていたけど、数日ぶりの電話の内容は意外なものだった。
「あ、もしもし？菜々未さん？」
「……あっ、うん……」
「最近ちょっと忙しくしててなかなか連絡出来なくてごめんね！」
本当に忙しかったのか、そうゆうフリをしているのかは分からなかった。だけど電話先の声は変わりなくてとりあえずそれにほっとした。
「あのさ、今度丸一日空いてる日っていつ？」
「丸一日って、朝から夜までってこと？」
「そうそう」
「……山登りでもするの？」
私の大真面目な質問にきみかさんの笑い声が返ってくる。
「山登りかー！それもいいけどさ、ディズニー行かない？今さ、うちの店で期間限定で少し安くチケット買えるんだけど」
シーかランドかどちらがいいか聞かれて、私は光と行ったことがなかったランドを選んだ。
そしてそれから二週間後、私たちはディズニーデートへ出かけた。ディズニーランドなんて何年ぶりだろう。シーには五年前、お互いの就職が決まったお祝いに光と来た。
あの時、光は珍しく朝からすごくテンションが高くて、入場ゲートを抜けると周りの目も気にせず私の手を強く引き、目当てのアトラクションまで走っていった。
そこそこ値段のする、期間限定のトイ・ストーリーのポップコーンBOXを缶ジュースを買うくらいのノリで買い、一日中嬉しそうにそれを首からかけていた。そこから小リスのように何度もちまちまとポップコーンを出して食べる姿が、可愛くて可愛くてしかたなかった。
『次来た時もこのBOX持ってく！』と光はにこにこ笑って言っていたけど、結局それが最初で最後のディズニーデートになった。
私たちはあまりアクティブな方ではなくて人混みも苦手だったから、その後も『また行きたいね』とはよく口にしていたけど、なんだかんだでいつも身近な場所ばかりで過ごしてしまい、行く機会がないままこうして終わってしまった。
ただ、あの日から何年経っても、光の部屋に行くと壁に取り付けた飾り棚の一番目立つ位置に、あのポップコーンBOXは飾られていた。
きみかさんと歩きながらポップコーンのカートの前を通り過ぎた時、ふとトイ・ストーリーのBOXが目に入った。あの頃の物とはデザインは全く違うけど、それを見た時、どうしようもなく懐かしい気持ちに襲われた。
「ポップコーン食べる？」
きみかさんが私のちょっとした仕草に気づく、
「ううん。見てただけ」
アトラクションを乗り尽くすというよりは歩いて世界を巡るように散歩をして、疲れたらレストランに入って少しお酒をたしなむ……そんなふうにゆっくりとディズニーデートをした。
閉園時間は２２時だったけど、私たちは２１時前には出口のゲートを出た。電車を乗り継いでようやく地元の駅に着くと、きみかさんは
「今日はあっちから帰ろうか？」
と、いつもとは違う小川沿いの遊歩道を通って帰ることを提案した。
「今日楽しかった？」
そう尋ねながら、そっと私の右手を取ってつなぐ。
「うん！でもやっぱり少し疲れたね、もう若くないから」
「２０代で何言ってんの！」
「学生の頃とは全然違うもん。大学の時は開園から閉園までめいっぱい遊び尽くしたけど……」
そのまま普通にしていれば問題なかったのに、私は自分の発言に反省する素振りを見せてしまった。それはもう、『光と行った時のこと』と暴露したようなものだった。
「そっか」
そのまま言葉少なに歩いていると、薄暗い視線の先に、土手の茂みの中で女の子がしゃがんでいるような姿が目に入った。
「あれ？倉田？」
私よりも先に気づいたきみかさんは『』ちょっとごめんね』と言い残して私をその場に残し、倉田さんに駆け寄っていった。
きみかさんの大きな声がして私もその場へ向かうと、倉田さんが彼氏からもらった大切なネックレスを落としてしまったと知った。私は自分が同じ立場だったら……と倉田さんの心のうちを思い、一緒に探した。
すぐ近くまで来ると、倉田さんの服はかなり汚れてしまっていた。すでに長いことここで探しているようだ。それによほど大切なものなのか、涙を必死にこらえているようにも見えた。
きみかさんと私が参戦し始めると、倉田さんは本気で放っとおいてほしそうにそれを拒んだ。それは親切心に対して無礼にもとられる態度だったけれど、そんなふうになってしまう倉田さんの心情を私は理解出来たので、全く気にはならなかった。
それよりも私は、大切な人からもらったものを土に這いつくばってまで探し続ける彼女の姿を見て、どこの誰かも知らないその相手の人が羨ましく思った。
例えばもしもお揃いの指輪をどこかへ落としてしまったことがあったとして、光はあの倉田さんみたいに、泥にまみれながら一生懸命探してくれただろうか……
きみかさんに家まで送ってもらいながら、私はそんなことばかり考えていた。
