【二之陣】 馬超、名乗る
金曜日 夜
普段なら帰り道の背景として視界を通り過ぎるだけの近所の公園。
背の低い茂みに潜むコオロギやキリギリスらの大合唱が、むしろ夜の静けさを一層強く感じさせる。
そんな不思議空間の片隅で、李織は咄嗟に連れてきてしまったこの奇妙な男について思案していた。
「なあ娘よ、いったいどうなっている?
これだけ道や建物が整った街で城壁のひとつも見当たらんとは」
件の彼は、園内で最も高い木によじ登って夜の街並みを見渡している。
「城壁って……ここただの田舎町ですよ?お城なんて無いです」
「馬鹿な、城下町では無いのか?
郊外のいち集落にこれほどの民が暮らしていると?」
男は納得がいかぬという様子でぼやきながら樹から降りてきた。
いい大人が木登りなどする機会はあまり無いと思うのだが、その体裁きはなかなか手慣れているように見える。登山やボルダリングが彼の趣味なのだろうか?
本当ならさっさと帰宅し適温のシャワーで一日の汚れを洗い流したかったが、この珍妙な人物をどうするかが問題だった。
異質な出で立ちをした、名前すら知らぬ男を自宅に招くなどリスキーすぎる。
一人暮らしの女子高生としてどう考えても避けるべき事態だ。
とはいえ、彼が曲がりなりにも厄介事から救ってくれたのは事実である。
そしてそんな相手が、見るからに苦慮の中でもがいている様を放置したまま帰路につくのはいささか憚られた。
さっきからまるで要領を得ないことを言ってる彼だが、とりあえずこの辺りにまるで見覚えが無いレベルで道に迷っていることだけは明白だ。
「して娘、結局ここは何という町なのだ?」
「――――ここは漢凪市です。
ついでにあたしは錦 李織ね」
さっきからムスメムスメと呼ばれていたことに思い至り、李織は自分から名前を明かした。
人間という生物は、初対面で片方が名乗ったらもう片方も名乗るという暗黙のルールが自然と働くものである。
だからとりあえず、なんて呼べばいいのか彼の名前を聞いておこう。
あと一応連絡先とか。年齢不詳で住所も不明っぽいけど強いし顔は結構いいし……
「ニシキイオリ、か。
俺は蜀の驃騎将軍 斄郷侯 涼州牧 臨沮の督 馬超 孟起」
(?????)
得体のしれない単語が長蛇の列を成し、李織の耳から耳へと通りすがった。
もはや途中から脳が聞き取ることを拒否し、変わらず背後で調べを奏でている虫たちの声と同類程度にしか認識できない。
「ちょ、ちょっと待って。えーっと、なんて呼べばいい?しょくの……」
「いや、今のは忘れろ。
名を馬超、字は孟起という。」
「――――」
明快に名前を教えられた李織が、今度こそ固まる。
(――――ショクの、バチョウ……蜀の馬超?)
その名前には覚えがあった。
まだ彼女が小さな子供だった頃、父の本棚にあった漫画で見た名前だ。
――――三国志。
下手をすれば日本史よりもそっちの方が詳しい日本人がゴロゴロいるのではないかというほど、
この国にも深く浸透した中国の古典……を元にした創作物である。
数ある登場人物の中でも、今なお鮮やかに李織の脳裏に焼き付いている名前のひとつ。
それが馬超だった。
時の権力者曹操に父と弟を謀殺され仇討ちを誓った勇将。
仇敵の命へあと一歩まで迫りながらもついに届かず、後に主人公劉備の軍勢に加わった作中屈指の豪傑。
「そ、そう。馬超さん、ね。よろしく……」
今度は李織の方が困惑の中に放り込まれた。
(馬超?まさか本当にあの馬超!?なんでここにいんの!?)
――――こんなフィクションじみた展開で現代に迷い込み自分の目の前に?
あまりに信じがたいことだが、そう仮定すればさっきからこの馬超(仮)に感じていた疑問の数々に説明が付くのもまた事実である。
彼がどこから落ちて来たのかまるで見当がつかないし、何らかのドッキリ企画だとしたら、ここにいる彼や先ほど一掃された3人組の演技力は尋常ではない。
引っ掛かってしまっても恥じることはないと思える程には。
「で、ニシキとやら。陽平関はどっちか分かるか?南鄭でもいい」
李織は返答に詰まる。
果たしてどこから説明したものか。理解してもらえるだろうか。
まさか古代中国の三国時代にタイムスリップなどという知識が存在するとは思えない。
「えっと、まずここは中g……いや蜀じゃなくて日本って国で――――」
「馬鹿な蜀ではないだと?」
馬超は改めて街中の様子を見渡し、深くため息を漏らす。
「本当に知らぬ間に国境を越えたというのか?
死病で寝床から一歩も動けなかったというのに」
「死病……?」
「そうだ、あれだけの息苦しさもいつの間にか消えている。何もかもがおかしい」
それを聞いた李織は、昔の記憶を手繰り寄せる。
――――馬超の死因は、たしか病気だったはずだ。
漫画で見た物語の後半。劉備玄徳の死に伴い、主人公の役目は諸葛亮孔明に交代する。
その頃からしばらく舞台裏で蜀の国境を守っていた馬超だが、久しぶりに名前が出て来たと思ったらそのページで病死してしまったのである。
後のエピソードにて孔明は〝片腕を失った思いだ〟と表現していたが、読んでたこっちも何とも言えぬ喪失感を覚えたものだ。
「?」
ふと、馬超がこちらをまじまじと見ていることに気が付く。
それも、何やら険しい顔つきで。
「あの、あたしの顔になんか付いてる?」
敵意を抱かれてる訳ではない。それは李織にも分かるのだが、その精悍な真顔に凝視されると、
まるで金縛りにでもあったかと錯覚するように身動きを躊躇してしまう。
「今更になるがお前の方こそ本当に身体は平気なのか?
いくら何でも胸の腫れが尋常ではないぞ」
「~~~っ……!!」
こちらの表情などどこ吹く風、真剣に気遣う眼差しで続ける馬 孟起。
「俺に医術の心得は無いが、お前が何らかの疫病に苛まれているのは見れば分かる。
虫刺され程度ではそれほど巨大な腫瘍にはなるまい。しかも位置からして肺や心の臓……
最悪命に関わろう。たとえ貧しくとも医者に診せるべきd――――」
「みせるかっ!」
ぱちーんと、虫たちの合唱に平手の音が乱入した。
胸のサイズにコンプレックスを持っていた李織はつい、引っぱたいてしまったのだ。
「……急になにをするニシキよ」
「誠に遺憾ながら病気じゃないんです。
二度と、金輪際、未来永劫、心配しなくていいの」
一字一句、打ち込むように吐き出した。
「むむ。同じく病苦に蝕まれた身として配慮したつもりだが、杞憂であったか。
民族が違えば時に身体構造から異なると」
どうやらこの男、李織の胸が疾患か何かでこうなっていると本気で誤解していた模様。
三国志の時代からおよそ1800年。女性の標準的な体形とやらもきっと変化していったのだとは思う。
普段からちょくちょく学校の友達にからかわれている李織の胸は、古代人馬超視点だともはや病巣に見えるということか。
「……うんもうそれでいいや。なんかゴメン」
猛将の顔に作ってしまった赤い手形についてとりあえず謝罪する。
一応彼なりに、病によって命を落とした馬超なりに心配してのことだった訳で。
「いや、何ともないならそれで良い。この狼藉も不問としよう」
「なんか、寛大だよね馬超さんて。偉い将軍ってめっちゃ不敬罪とか使ってそうなイメージなのに」
「……さっきも言っただろう。女子供のやることに目くじらなど立てぬわ。
蜀の法はそういう形式的礼儀を重視するものではない。
ついでに俺も昔から偉そうな奴は気に食わん」
「ぷっ……」
なにそれ、と李織はつい吹き出してしまった。
「どうかしたのか?」
「いや別に。何でもないの」
漫画で見ていただけの李織は、馬超の具体的な地位など把握していない。
それでも地元西涼では父に代わって軍閥のトップ、蜀に加わってからも結構高位の将軍だったことくらいは分かっている。
そんな人物から〝偉そうな奴〟なんて言葉が出てくるとは思わなかった。
ここまでのやりとりで親しみを感じてしまったのだろう。
李織は馬超の為に何か出来ることはないかと考え、思い出す。
「えっとね馬超さん。とりあえず貴方について分かっちゃったことがひとつ」
李織はすぐ近くにある、ゾウを模した滑り台の階段に足をかけた。
「なんだ?」
「さっき言ったでしょ?助けてくれたら色々教えてあげるって」
途中まで階段を登り馬超の方へと振り向く。この際伝わるかどうか気にしていても仕方ない。
三国時代を生きていた彼がなぜこの現代に居るのか。
なぜ病苦が消えているのか。
なぜ日本語での会話が成立するのか。
彼が正真正銘本物の馬超だとしたら、李織が持つ現代の――――主にフィクションに関する知識を動員して察するに、答えはもうコレしか思いつかない。
「率直に言うと、あなたは蘇ったのです」
「蘇った……?」
「そう!――――えと、何かの力に選ばれて、あなたは二度目の人生を得たのです!
新しい命を手に入れたのです!」
「――――」
めでたく時を越えて生き返ったと思しき馬超サンを導く女神にでもなったつもりで、両手を天に掲げ高らかに宣言する李織。
……やってて顔が熱くなってきた。急にどうした自分よ。なんだこの転生ごっこは。
まずい。馬超は口を一文字に結んだまま、やはり真顔でこちらをじっと見ている。
真剣に驚いているのか、こいつ何やってんだとドン引きしているのかさえ見分けがつかない。
いくら伝わるように伝えたかったとか励ましたかったとしてもやっぱり流石にこれは無かったか、
と軽く後悔していると――――
「ならば尚更こうしてはおれん。なんとしても速やかに蜀へ戻らなくては」
馬超は別の意味で再起してしまった。
頭のおかしな痛い娘だと思われていなかったことへの安堵など忘れ、ハッスルしすぎた解説が通じていなかったことに李織は焦る。
「い、いやだから二度目の人生なんだってば今あなた」
「だから務めを果たしに行くのであろうが。
今こうしている間にも我が主や蜀の同志たちは戦っているというのに、俺だけこんな所で道草を喰ってる訳にもいくまい」
ひたすら蜀への帰還だけを追い求める馬超を諭そうとして、李織は気付く。
彼の現状を教えると言いながら、無意識のうちに肝心なところをぼかしてしまった、と。
当然ながら三国志は遥か昔の出来事だ。馬超が気を揉んでいる事柄はとうに終わった話である。
だが本当に彼が晩年の馬超だとしたら、真実を聞かせるべきなのか。
その望みはもう叶わないと。
蜀の国は魏に征服されて無くなった。その後ほどなくして魏の国も消えた。
だからもう気にするなと、明かしてしまって良いものか――――
逡巡の末に、李織は決心した。
「あの……もう時間も時間だし、とりあえず今夜はうちに来ませんか?」
【今回の登場人物】
錦 李織:当たり屋に絡まれたところを馬超に助けられ、
そのまま拾ってしまった高校生。
馬超 孟起:三国志に出てくる我らが錦馬超。
死ぬ直前で現代に飛ばされた。
蜀へ戻りたい。




