妹に何もかも奪われたので、すべてお返しさせていただきます
「ソフィア、これ以上君との婚約を続ける意味はないだろう。婚約は破棄させてもらう」
その言葉が、静寂だった舞踏会の空気を裂いた。
瞬間、ざわめきが広がり、視線が一斉にこちらへ向けられる。
私――ソフィア・エルンストは、何も言えなかった。
口を開いても、溜め息がこぼれるだけで言葉にならない。
婚約者、ラグナル様の隣で、小さく震えているのは私の妹、ベロニカだ。
涙を浮かべた妹は、か細い声で言った。
「ごめんなさい……お姉様。私……ずっと、ラグナル様のことが……でも、お姉様が……っ」
「君が妹に酷い仕打ちをしていたことは知ってるぞ、ソフィア!」
その声が会場に響いた瞬間、空気が変わった。
誰もが私ではなく、妹のほうに同情の目を向けている。
『まさか、ソフィア嬢が妹をいじめていたなんて……』
『おかわいそうに、ベロニカ様……やっと真実が明るみになったのね』
違う。私はそんなこと、一度だってしていない。
それなのに――。
「君の高慢な態度には、以前から辟易していたよ」
ラグナル様は冷たい声で言い放った。
「ベロニカは君と違って実に可憐で、素直で、思いやりのある女性だ。僕の婚約者として相応しいのは君ではなく、ベロニカだ!」
ドンっと何かが崩れ落ちる音が、心の中で響いた。
ああ……また、だ。また、ベロニカに奪われる。
私のドレスも、宝石も、髪飾りも、侍女も、両親の愛情さえも――。
すべて、妹に奪われた。
彼女が今日身につけているものはすべて、元々私のものだったのだ。
ベロニカの、〝人から奪う才能〟には敵わない。だから私はもう、諦めている。
「……わかりました」
伯爵家嫡男であるラグナル様と、伯爵家長女の私が婚約したときも、ベロニカは「お姉様、いいなぁ」と言って、私から彼を奪う気満々だった。
彼女の愛嬌と要領の良さ。そして《奪う》ことによって、すべてを手に入れてしまうその能力に、抗うことはできないのだ。
恋愛結婚でもないし、そんなに欲しいのならまた私から奪っていけばいい。
既に私は、そう覚悟ができていたのだろう。
「これで満足? 婚約者も、両親の愛情も、ドレスも……何もかも私から奪って、満足した?」
「……っ、私は……奪ったつもりなんて……!」
努めて冷静に、妹に向けて放った言葉に、ベロニカは意外そうに目を見開いてから、わぁっとラグナル様に泣きついた。
「おい、ソフィア! そういうとこだぞ!! よくこんな人前で妹をいじめることができるな!!」
人前で私に恥をかかせたのは、どちらかしら。
その言葉を呑み込んで、私は背筋を伸ばし、ゆっくりと二人を見据える。
「な、なんだよ……! その生意気な目は……!」
ラグナル様が一瞬怯んだようにたじろいだけど、私は彼の隣で偽物の涙を浮かべている妹へ、視線を向けた。
「ベロニカ――」
「な、なんですか……」
「これまであなたが私にしてきたこと……これからしっかりお返しするわ」
低く、静かに告げた私の言葉に、ベロニカは一瞬だけ表情を硬くした。けれどすぐに、それを隠すように眉をひそめる。
「……は? 何言ってるの、お姉様」
「そうだぞ。今更彼女に感謝して恩返ししようとしても、もう遅い!」
意味がわからないと言わんばかりに顔を歪めるベロニカと、何かを勘違いしているラグナル様。
私は彼らのやり取りに一切の興味を示さず、ただ静かに踵を返す。
――これから起きる未来を、彼らは知らない。でも、それでいいわ。
背後から、ラグナル様とベロニカが何かを囁き合っている声が聞こえたけれど、そんなものにはもう意味がない。
こんな選択をして本当によかったのか――きっと彼女たちは後悔する。
だって私には彼女たちが絶望する未来しか見えないのだから。
*
「――お嬢様、こちらをどうぞ」
我が伯爵邸の裏庭。唯一私が心安らげる、小さな温室。ここは誰も訪れない、今では忘れられた場所だった。
紅茶を差し出してくれたのは、伯爵家に手伝いで通ってくれている、子爵家の子息、アレクト・ヴェルナ―だ。彼がこの温室の管理をしてくれている。
「ありがとう、アレクト。でもお嬢様はやめてって、いつも言ってるでしょう?」
「お嬢様はお嬢様ですからね」
「私たち、年齢だって一つしか変わらないじゃない」
今年十八歳になる私と、つい先日十七歳になったアレクト。だからむしろ今は、同い年なのに。
真面目で律儀なアレクトは、うちに仕えているからと、私をお嬢様扱いしてくる。
……言い換えれば、この家で唯一私をお嬢様扱いしてくれる人でもあるのだけど。
「そういえば、先日の舞踏会での話、聞きましたよ。酷いですよね。俺がその場にいたら、お嬢様を助けることができたのに!」
「……いいのよ。あなたがここにいてくれるだけで、私は私でいられるのだから」
あの日以来、私は自室に引きこもっている。
出かければスキャンダル好きの貴族令嬢たちから噂の的にされるのは目に見えているし、部屋から出ればベロニカがいる。
両親も、私がベロニカをいじめていたという話を信じているだろう。
何もかもを妹に奪われてしまった私は、おとなしくしていたほうがいい。……今は、まだ。
「でも、またここに来てくれてよかったです。しばらく姿を見なかったので」
「ええ。ここにはあなたしかいないから」
彼は、王立学園の騎士科に通っている。
裕福ではない子爵家の生まれで、母親は亡くなっている。それからうちの手伝いをしに来てくれるようになったのだけど、剣の才覚とまっすぐな人柄で、多くの信頼を集めている。
騎士科に通いながら、こうして毎日のようにうちにも通って……とても大変なことだと思うけど、立派だわ。
「またお嬢様にお会いできて、俺は嬉しいです」
「……ねぇ、あなたはどうしていつも私に優しくしてくれるの?」
思わず、そんなことを口にしてしまった。
彼は少し目を見開き、それから笑った。
「……優しくしてはいけませんか?」
「そうじゃなくて。ただ……私にはもう、何もないのに。私の味方だと言ってくれる人も、いないのに」
「関係ありませんよ。俺は、あなたが昔から変わらずに花に水をやって、傷ついた動物の保護をして、甘い紅茶が好きで……とても優しい人だと、知っていますから」
にこりと、あたたかく笑うその顔は、とてもまっすぐだ。
「……それだけで?」
「それだけで十分です」
彼の静かな笑みが、優しく胸に染み渡る。
こんなふうに言ってくれる人が、まだ一人でもいてくれたなんて。
ベロニカはこの温室には足を運ばないから、彼のことを知らないのだろう。
知ったとしても、裕福ではない子爵家の彼には興味を示さないかもしれないけれど……。
私が彼と親しいことを知ったら、きっと私から奪っていく。
だからどうかその前に、彼女に《お返し》ができますように。
◇◇◇
「どうして……どうして、うまくいかないのよ……!」
私は扉を叩きつけるようにして部屋へ戻った。
姉から奪ったラグナル様が、ここ数日私に冷たい。
来週は一緒にパーティーに参加する予定なのに、ドレスも装飾品も全然プレゼントしてくれない!
私のことが大好きで大切だったはずの両親も、なぜだか姉の将来を心配している。
姉ではなく、私がラグナル様と結婚することになったと、喜んでくれるはずだったのに……どうして!?
「全部……全部手に入れたはずなのに……っ」
その呟きには、誰も答えない。
「どうして侍女が誰もいないのよ! 一体何をしているの!?」
昨夜、聞いてしまった侍女たちの声。
『ソフィアお嬢様、ラグナル様との婚約を破棄されたんですって』
『まぁ……一体どうして?』
『詳しいことは知らないけど、ラグナル様はベロニカお嬢様と婚約し直したらしいわ』
『ええっ? それって、略奪ってこと?』
『いくらなんでも酷いわ。ソフィアお嬢様、かわいそうに……』
『しーっ! 誰かに聞かれたら大変よ!』
もちろんそれを聞いた私はすぐに飛び出していって、誤解を解いてやったけど。
「他の侍女たちにも、その噂が広まっているのかしら……お父様に言って、そんな奴ら全員解雇してやるっ!」
*
「――あら、ベロニカ様。今日はお一人ですの?」
その一言は、ほんの何気ない挨拶だったのかもしれない。
けれど、私の頬がぴくりと引きつる。
結局今日のパーティーで、ラグナル様は私をエスコートしてくれなかった。
「……ラグナル様は、急用で来られなかっただけよ」
「まぁ、それは残念。最近お二人を見かけないものですから、心配で」
「ご心配いただきありがとうございます……ですが、お気遣いなく」
貴族令嬢たちの笑みの裏にある〝探るような好奇心〟が、私の神経を逆なでする。
一生懸命淑女の笑みを作って、精一杯平静を装った。
「……それにしても本日のお召し物はなんだか……」
「ええ、とても個性的ですわね」
おほほほほ――。
扇で口元を隠しているけれど、完全に目が私を馬鹿にしている。
どうして……! 以前なら、誰もが私をちやほやしていたのに……!
華やかな装飾が施されたドレス。姉から奪った純白の宝石のネックレス。
〝完璧〟に着飾ったはずの自分が、なぜか〝何かが違う〟と見られている気がする。
『――ねぇ、あのドレス、以前ソフィア様が着ていたものよね?』
『アクセサリーもそうよ。でも、ソフィア様のほうが上手に着こなしていたわよね』
『ラグナル様が急用というのも嘘よ。だって彼、平民の女を身ごもらせて、ついには勘当されるとか』
『あらまあ――』
「……!!」
小声で交わされた噂話。振り返ってみても、誰が言ったのかわからない。
それでも、その言葉は確実に私の胸を刺した。
姉のほうが着こなせてた?
ラグナル様が平民の女を身ごもらせて勘当?
……なによ、それ……そんなの、あり得ない……!!
「……っ」
唇を噛んで、笑顔を保つ。
――けれどその夜、私に近づいてくる人は一人もいなかった。
◇◇◇
「なんだか、今夜は空気が軽い気がするわ。舞踏会の喧騒が嘘みたい」
「お嬢様は舞踏会に行かれなくて、本当によかったのですか?」
この日の夜。私は再び、温室を訪れていた。
「もちろん。あんなところより、ここにいたほうが百倍楽しいわ」
「それならよかったです」
「……アレクトは、舞踏会には参加しないの?」
アレクトだって貴族の子息。今では立派な紳士だし、ちょっとパーティーに顔を出せば、すごくモテるはず。
「俺は……そうですね。一人前の騎士になるまでは」
「ふぅん……」
そう言って微笑んだアレクトは、外見だけなら既に立派な騎士だった。
外見だけではなく、紳士的で真面目なところも、騎士道にのっとっている。
「アレクトならすぐに立派な騎士になれるわ」
「ありがとうございます。きっとなりますよ。それから、正式に申し込むんですから」
「……何を?」
ぽつりと呟くように囁かれた言葉を聞き逃さず、問う。
すると彼は、少し照れたような笑みを浮かべて、人差し指を立てた。
「まだ内緒です」
「何よ、それ……」
ちょっと気になるけれど、〝まだ〟ということは、いつか教えてくれるのかもしれない。
言いたくないのなら、今無理に聞き出す必要はない。
そのときまで待とうと決めて、私は空を仰いだ。
「……ねぇアレクト。もし、私が誰かに酷いことをしたら……あなたも私から離れていくのかしら」
アレクトが驚いたように私を見つめたのがわかる。でも、すぐに静かに口を開いた。
「たとえ世界中があなたを信じなかったとしても、俺はあなたを信じますよ。俺は、あなたをずっと見てきましたから」
〝俺はあなたを見てきた〟
その言葉があまりにまっすぐで、胸がきゅうっとなる。
彼は、私の〝力〟を知らない。
知らないのに、優しくしてくれる。
でも、この優しさは本物だから、きっと大丈夫――。
「ありがとう、アレクト。でも、あなたはあなたの道を行って。私は、大丈夫だから」
彼は騎士になるのが夢。
その夢は、じきに叶うだろう。
きっと、彼は幸せになれるわ。私を幸せな気持ちにしてくれたのだから――。
「……そう言われても、引き下がるつもりはないですけどね」
「え?」
アレクトの声は、低くてまっすぐだった。
*
ラグナル様と私の婚約が解消されて、数ヶ月。
「……アレクト、今日も来ていないのね」
ここ最近、アレクトはうちを訪れていない。
今週は騎士の試験があると言っていたし、忙しいだろうから、仕方ない。
けれどちょっぴり寂しい気持ちで一人、テーブルに着いた私。
――そのとき、温室の扉が勢いよく開け放たれた。
「見つけたわ……こんなところにいたのね!」
甲高い声が響き渡る。
現れたのは、顔を真っ赤に染めたベロニカだった。怒りと憤りで顔を歪め、ドレスの裾を踏みそうな勢いで私に詰め寄ってくる。
「返して……! あんたのせいよ、全部……全部……!」
怒りと涙と憎しみに満ちたその顔は、どこか歪んでいる。以前はあれほど、自分の〝可愛さ〟に誇りを持っていたのに。
「ラグナル様が……平民の女を身ごもらせて、勘当されたの! 両親だってお姉様のことばっかり気にしてるし、侍女たちだって、最近は私のお世話を嫌がるのよ!? どうなってるのよ!!」
私の前で泣き叫ぶ彼女は、かつて私が大切にしていた、刺繍の美しい薄紅のドレスを着ている。
……でも、正直言って、まったく似合っていない。そもそも私とベロニカでは身長差があるし、サイズが合っていないのに、彼女は無理をしてでも私のドレスを着ている。肩の飾りも、レースの縁取りも、着せられた不格好な人形と同じように……かえって滑稽だった。
「どうして……全部、崩れていくのよ。全部私のものだったはずなのに……っ!」
彼女の中にあった、《奪うことでしか満たされない》欲望が、今にも爆発しそうだ。
でも、私は静かに口を開く。
「私は何もしてない。ただ、《返した》だけ。あなたが私にしたこと、全部ね」
その一言に、ベロニカの目が見開かれた。怒りで唇が震えている。
「はあ!? 返しただけ!? どういうことよ!?」
「私には人から受け取ったものを返す能力があるのよ。……知らなかった?」
「何……、それ……」
「だから、あなたが私にしたことが、ただあなたに返っただけなのよ」
「……っ!」
そう、私には特別な能力がある。
ベロニカが《奪う》のが得意なら、私は《お返し》が得意なのだ。受け取ったものを相手に返す力。
善意には善意を。悪意には悪意を――。
これまではなるべく使わないようにしていたけれど……私はあの日、この力を解放した。
だから私からすべてを奪った妹が不幸に転げ落ちていく未来を、私は知っていた。
彼女は私から……奪いすぎたのだ。
「そんなはずない……! そんなの、あり得ない! 私のせいじゃない……っ!!」
「でも、あなたはすべてを失ったのでしょう?」
「……なら、また奪ってやる……っ! 私のもの全部、返してよ――!!」
それでも懲りないベロニカの震える手が、私に向かって伸びてきた――まさにその瞬間だった。
「それ以上、彼女から奪おうとするのはやめたほうがいい」
低く、鋭く、冷ややかな声が、空気を切り裂いた。
アレクトだ――。彼が、今日も来てくれた。
けれど、いつもの作業着姿ではない。彼の服装に、私は一瞬目を疑った。
「……あなた、誰?」
ベロニカが、ぽかんと口を開けたまま立ち尽くしている。アレクトに、見とれているのだろう。頬をほんのりと赤く染め、声が少し高くなった。
「……王宮の、騎士様?」
そう、今日のアレクトは、騎士団の制服を身にまとっていた。
黒と銀の縁取りが施された制服。磨き抜かれたブーツ。背筋をぴんと伸ばし、まっすぐにこちらを見るその姿は、眩しいほどに凛々しかった。
「俺が誰なのかも、わからないのですね」
「あなたのような素敵な騎士様、一度見たら忘れるはずがありません……!」
ベロニカは、彼が誰だかわかっていない。
彼女はかつて、アレクトをただの下働きの少年だと思い込んでいた。
作業着を着ていた彼を見て、「小間使いにしても無能そう」と吐き捨てたこともあった。
でも今のアレクトは、堂々と騎士団の制服に身を包み、誰よりも凛としていた。
「大丈夫ですか?」
説明するのも面倒な様子で溜め息をつき、アレクトが私に視線を向ける。
「え、ええ……」
私は小さく頷いた。けれど次の瞬間、存在を無視されたと思ったのか、ベロニカが叫んだ。
「何よ……もう新しい男ができたの!? ねぇ、こんなあばずれやめて、私と――!」
ベロニカがアレクトの腕に手を伸ばした――けれど。
ぱしっ、と、アレクトはその手を、まるで汚れを払うかのように冷淡に振り払った。
「……あなたは、彼女から奪いすぎた」
「え……?」
ベロニカの表情が、呆然としたものへと変わっていく。
「俺はアレクト・ヴェルナーですよ。あなたが散々馬鹿にしていた」
「……アレクト……って、うちの使用人だった!? えええええっ!? う、うそ…………」
信じられないというような顔で固まってしまった妹を前に、私はもう一言も返さない。
「なんで……こんなに素敵になるなんて……。どうして、よ……」
ガクンと、膝から崩れ落ちるように倒れ込むベロニカを見て、私は思った。
元々地位や権力を持っている高位貴族男性にしか興味のなかった彼女には、この世には努力で地位を手に入れることができる人もいるのだと、想像もつかないのだろう。
「行きましょう。もう、〝お返し〟は終わったのですから」
「ええ」
ただ私の横に立っていたアレクトが、静かに私の手を取った。
*
そのまま、私たちは屋敷を出て近くを少し歩いた。
夕日が差し込む小さな公園に立ち寄ると、オレンジ色の光がアレクトの銀の肩章を照らしてきらりと輝く。
「ねぇ、その服……」
真新しい騎士服。銀の留め具には王宮騎士団の紋章が誇らしげに刻まれている。
「今日、合格通知をいただきました。これで騎士団の正式な一員になれました」
アレクトはまっすぐに私を見つめ、少し照れたように笑ってそう言った。
「本当!? すごいわ、おめでとう!」
「真っ先に……あなたに知らせたくて。騎士服を借りて、そのまま走って来てしまいました」
「すごく似合ってる。おめでとう、本当に……おめでとう!」
思わず声が弾んだ。心からの祝福を込めて言葉を届ける。
王宮騎士団に入るのは、決して生半可な努力で叶うものじゃない。力だけでも、頭脳だけでも足りない。清廉さと覚悟、その両方を試される厳しい門。
アレクトがそのすべてを乗り越えたのだと思うと、胸の奥が熱くなる。
私は、アレクトが騎士になることを強く望んでいたのを知っている。だから、まるで自分の夢が叶ったみたいに嬉しい。
「俺は、ずっと……」
ふと、アレクトの目が伏せられた。けれど、それでも彼は決心したように続けた。
「俺はずっと、あなたに相応しい男になりたかった。あなたは、俺の憧れで、支えで、救いだったから」
そう言ってアレクトが懐から取り出したのは、少し色褪せた小さな花飾り。淡い桃色の布花が、ほころぶように揺れている。
「覚えていますか? 昔、あなたが落としたこの花飾りを俺が拾って……そしたらあなたは「ありがとう」と言って、これを俺にくれました」
「……あのときの、花?」
「ええ。当時、母が亡くなったばかりで沈んでいた俺に、あなたはこの花をくれたのです。それが俺の始まりでした」
――そうだ。アレクトがうちに来るようになってすぐの頃、そんなことがあった。
花飾りを拾ってくれたアレクトが、「とても綺麗ですね」と言った後、「母が好きだった花です」と語った顔を見て、私はこの花飾りを彼にあげたのだ。
私にとっては、何気ないことだった。あのときはまだ、ベロニカもそれほど欲が強くなかったから。
でも、アレクトの指が丁寧に花飾りを撫でるのを見ると、それは宝物のように大切にされてきたのだとわかる。
「今でも大切にしてくれているなんて、嬉しいわ」
「あなたにとっては何気ないことだったのかもしれない。でもこの花飾りは……あなたの優しさは、一人の少年を救いました」
アレクトは、本当に心の美しい人。
私のほうが、どれだけ彼に支えられてきただろう。
けれど……アレクトが騎士団に入団すれば、もううちに来ることもなくなるだろう。そうすれば、彼には会えなくなってしまう。
それを思うと、ちょっとだけ寂しい……でも、彼が騎士になれたことは、心から喜んであげなくちゃ。
「――ソフィア」
そのとき、彼が私の名前を呼んだ。
初めてアレクトが私の名前を呼んだ驚きで、弾かれるように彼を見上げる。
「俺の騎士としての初めての誓いは、あなたに捧げます。あなたが困っているとき、苦しんでいるとき、泣いているときは、必ずそばにいます」
「アレクト……」
立派な騎士としての所作で私の前に跪くと、アレクトは私の手を取ってそう言った。
いつの間にか、彼はとても大きくなっていた。
この花飾りをあげたときは、私のほうが背が高かったのに。いつの間にか抜かされて、声も低くなって、肩幅も、腕の太さも、足腰も、全部――彼のほうが大きくなっていた。
「ずっと、あなたからもらった〝優しさ〟を返したかった。ようやく、返せるときが来ました」
「……あなたからのお返しなら、ずっともらっていたわ」
むしろ、私が彼に少しでも《お返し》できていたのなら、嬉しい。
もっとも、彼なら私の力がなくても、立派な騎士になれたでしょうけど。
「私もね、あの家を出ようと思っているの」
「家を出る?」
「ええ。ベロニカも少しは懲りたでしょうけど……これまでの事実は変わらないから」
両親も、侍女も、何もかも。ベロニカに奪われてしまった私は、この家に居場所がない。
今更返ってきたものは、もう本物ではない。
だからこの数ヶ月で、家を出て一人で生きていけるよう、準備をしてきた。
これは、ラグナル様との婚約が破棄されたときから考えていたことだ。
家を出て、自分の力で生きてみたいと。
アレクトが騎士になる夢を叶えたのを見て、決心がついた。
「私のこの力が、誰かの役に立てたら嬉しいと思っているの」
「その力が……素敵ですね」
アレクトが優しく笑ってくれる。彼の笑顔だけはずっと変わらない。
「もちろん俺は応援してますよ」
「ふふ、ありがとう」
私たちの間に優しい風が吹いた。
それは、奪うのではなく、与え合うことで生まれるあたたかな風。
悪意には報いが。
善意には希望が。
それがこの世界の優しさのかたちだ。
私の第二の人生は、今ここから始まる。
お読みいただきありがとうございます。
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●もう1作妹ものの短編書きました!最強の妹が出てきます。
『悪役令嬢だった私は妹の幸せを祈る予定でした(予定でした)』
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『妹と婚約者に捨てられたけど、聖女をやめてこっちは楽しく暮らしてます』
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