ストレスから見た日本文化と個人主義
たまには社会的なことも考えてみようと。若干アクチュアルな問題意識がありつつ例の如く抽象論です。
第1 ストレスという病理
丸山眞男は『超国家主義の論理と心理』で戦前の日本では「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という現象が生じていた事を指摘し、戦前の日本を「上からの圧迫感を下への恣意の発揮によって順次に委譲して行く事によって全体のバランスが維持されている体系」と表現した。
氏はその原因を天皇を中心とした同心円状の国家構造に帰するのだが、その当否は措くとして、現代日本においても「抑圧の移譲による精神的均衡の保持」という現象が実際に存することは事実である。
大企業に虐められた下請け(法的には「中小受託」と言い換える事になったそうだが)の社長が部下にパワハラを働き、部下がそのまた部下に、それが平社員まで行き着けば平社員が家族にDVを働きDVを受けた子どもが学校でいじめを行い、いじめを受けた子どもが非行化して家庭や社会で暴力を働くという痛ましい連鎖を、我々は残念ながら容易に想像することができる。この例では、大企業を起点に置いたが、実際には移行しているストレスの起点は大企業という訳でもない。大企業のエリートと呼ばれる人々もまた強いストレスに晒されているだろうから。
道義的・倫理的問題とは切り離して、このストレスの移転という社会的病理現象の動態を観察するとき、ふと、ストレスは何処から来るのかという疑問が生じてくる。
この日本人全部を巻き込んだ悲惨なババ抜きでババを流しているのは一体誰なのか。筆者は、ストレスを移譲する際にその程度を増幅する者は居るにしても、この社会的病理に明確な根源はないと考える。月並みな考えだが、人が共同して暮らせば、必然的にストレスが生まれるという考えはそれほど不自然ではないだろう。
このババ抜きゲームは、以下の単純な前提を承認すれば説明がつく。
仮定1 社会では自然にストレスが発生する
仮定2 人は一定以上のストレスを保持・消化できない
仮定3 人はストレスを移転することができる
『銀河英雄伝説』のレベロ議長ではないが、人は良心的でいられる範囲で良心的であるにすぎない(仮定2)。許容値以上のストレスが回って来た人間は、それを下に回すか、さもなくば壊れるかという二者択一を強いられる。
その両極が、「自殺」と先般公安3課が設立されるに至ったローン・オフェンダーという形での「無差別殺人」であろう。
仮定1より、社会には不断にストレスが流入し続ける。
人々はストレスという通貨をやり取りしているのだが(仮定3)そこには、ある種の経済が発生する。しかし、ストレスという通貨は、現実の通貨と異なってある限度を超えては貯めておくことができないのであるから(仮定2)、その経済は著しく活発で、その「経済成長」には眼を見張るものがある。
ストレスは人から人へ移譲される際、容易に増幅し(いじめ問題やSNS を見よ)、社会全体にストレスが蔓延する事になる。
そして、その行き着く先が自殺か無差別殺人である以上、この病理はやがて社会を滅ぼす。
けれども、世界には多くの社会が現存している。それは、社会がこの病理に対する免疫機構を十分とは言えないまでも用意していた事によると考える。
第2 ストレスという病理への対処
その例として、日本型システムと個人主義システムとを考えてみたい。
1 伝統的な日本文化のメカニズム
ストレスの病理を抑え込むとは、以下の関係を保持することである。
(社会に生ずるストレスの総量) ≦ (社会が保持できるストレスの総量)
この時、左辺は、(自然発生するストレス) +(移譲時に増幅されたストレス)と分解される。
日本型システムの前提は、自然発生するストレスが多いことである。これは、山がちで居住部分が少ない国土に人が密集しているという避け難い日本の風土によるものと考えられる。高い人口密度での生活は必然的に多くの人間との接触を生じ、それゆえに自然発生するストレスの増加を招く。
人に迷惑をかけ、騒ぎを起こし、和を乱すことを極度に嫌う我々の文化はそのような前提においても自然発生するストレスを低減しようとする我々の祖先の知恵であろう。銭湯ではさりげなく前を隠し、すれ違う時は傘を傾け、行列では一定の間隔を器用に維持する我々の行動はストレスの病理に対する一次的防御と見做しうる。
そして、我々の文化は元来、忍耐を美徳とする(近時この文化は急速に廃れているものの)。これは、火災の拡大を防ぐために家を倒してしまう破壊消防にも似た、自己犠牲による、移譲の過程でストレスが増幅されるプロセスの切断である。人口密度の高い日本の社会は木造住宅の密集地に喩えられよう。一度火がついて仕舞えば、我々の社会は一気に燃え上がる。
そこで、国民がお金を溜め込むとデフレで不景気になるように、一人一人がストレスを溜め込むことでストレス経済を縮小させ、かえってストレスの全体量が削減されるというのが忍耐の精神によるストレス低減メカニズムである。このような忍耐の精神は、ストレスの病理に対する二次的防御である。
このように、日本文化はストレスの自然発生を抑える和の精神とストレスの再生産を防ぐ忍耐の精神とを兼ね備えている。
このシステムは功利的に見れば極めて優れている。このシステムが上手く機能すれば、全員が我慢する代わりに全員が大きな利益を得ることができる。治安が良く人の目が行き届いた衛生的で人情あふれる町というものが今も日本の随所にある。
あるネット記事で最近のマンションは防音性が向上しているのに騒音トラブルは増えているという不動産業者の報告を目にした。権利意識の高まりと近所づきあいの疎遠化によって、今までは気にしていなかった生活音が「騒音」に変化したのだという。
一部の極端化した権利意識がいかなるストレスをも拒絶し、それゆえにかえってストレスの増幅を招く(子どもがはしゃぐ声にすら神経を尖らせながら生活しなければならないというのは随分窮屈なことだ)のに反し、我々がよくいう「お互い様」という精神、相互の寛容と忍耐というストレス増幅に対する二次防御によって、我々は比較的豊かな生活を享受してきたのではないかと推察する。
他方、日本型システムの病理も無視できない。
それは、自らは忍耐することなく人に忍耐を強いるフリーライダーの存在可能性である。それは、和の精神(ストレスを発生させない)、忍耐の精神(ストレスを移転させない)ということ自体がストレスを伴う事に由来する。
いわゆる囚人のジレンマが生ずるのだ。
囚人のジレンマは、二人の共犯者が取り調べを受ける際、二人とも黙秘すれば二人とも無罪だが、自分一人だけが自白すれば自分だけ無罪、二人とも自白すれば二人とも有罪となるという前提で囚人はどうすべきかという思考実験である。
二人の囚人をA、Bとすると、以下のパターンがありうる。
(1)A黙秘、B黙秘→A無罪、B無罪
(2)A自白、B黙秘→A無罪、B有罪
(3)A黙秘、B自白→A有罪、B無罪
(4)A自白、B自白→A有罪、B有罪
見て分かる通り、最善の結果は(1)のパターンで、AもBも黙秘すれば二人とも無罪となる。日本型システムで言えば、全員が一定のストレスを受け入れることで社会全体のストレスが最小化されるのが(1)パターンだ。
反対にAにとって最悪のパターンは、(3)で、自らは黙秘したのにBが自白して自分だけ有罪になるパターンである。これを社会に引き直すと、自分だけが我慢してストレスに耐えているという馬鹿らしい状況という事になる。
このような事態を避けようとすると、Aは自白する他なくなる。そして、Bも同様に考える結果、AB双方にとって最悪な事態である(4)となる。これは、ストレス経済がインフレーションを起こした状態であり、冒頭で述べた悲痛な連鎖である。
そして、日本社会がこのような陰湿な連鎖を慢性的に患ってきた事は、どうやら否定できないようだ。
伝統的な(と言っても筆者は知るのはせいぜいここ半世紀の日本社会だが)日本社会は概ね(1)パターンでストレス経済をデフレ化し、世界最高水準の治安を誇る住みよい社会を築いたが、その内部には避け難く(4)パターンのストレスの連鎖が存在し続けたというのが日本型システムの実相であるように思う。
2 個人主義システム
個人主義という思想は、人間固有の尊厳性という前提に基づいている。その事は、一定程度以上のストレスをプライバシーの名の下に拒絶するという文化を帰結する。
日本文化がストレスの連鎖を自己犠牲的な破壊消防で食い止めるのに対し、個人主義文化は、権利という防火壁で燃え盛る火の手からプライベートな空間を防御しようという試みである。
古代ローマに端を発するこの思想は、今や世界中に伝播し一概にその前提条件を云々することはできないのだが、特に個人主義の発達している米国を想起するなら、この考え方は人口密度が低く自然的に発生するストレスが少ない場合に機能しやすいのではないかとの仮説が立つ。
比喩的に言えば、木造住宅が密集している日本では破壊消防が必要になるが、広々とした土地に家が点在しているなら防火地帯を設ければ事足りるといったところだろうか。
権利の尊重という思想は日本文化の和の精神同様、自然発生するストレスの総量を抑えるという結果に繋がり易いが、それは副次的効果に過ぎない。個人主義システムが社会のストレス総量をコントロールすることができるのは、ストレスの移転を企図する者に対し、主体が権利を主張することでそのストレスを押し返す事によってストレスの移譲と増幅というプロセスを切断するからである。
ここに日本文化と個人主義との違いが現れる。日本文化は自己犠牲の文化であり、個人主義は自己防衛の文化なのである。
イェーリングが『権利のための闘争』で個人が自己の権利を守る事で国家の秩序が保たれると主張したことにも似て、個人主義システムでは、個人が自己をストレスから防衛する事で社会のストレスが最小化される。
このシステムの利点は、西洋文明の叡智たる法技術の存在だろう。常識や道徳、マナーや「お天道様」といった「あいまいな」、権威的な保証しか有しない日本型システムに対し、個人主義システムは最終的には執行官や刑務官という暴力によって担保された権力的な確かな保証を有している。
このシステムに弱点があるとすれば、その最大の点は、古き良き日本社会のような「相互の人権侵害」によって成立する豊かさを拒絶せねばならないという事であろう。個人主義システムは、最大多数の最大幸福という定式を修正し、「個人の権利を侵害しない限りでの」という前提を付け加えるのだから。
仮に、ひとたび生活音を「人権侵害」と看做すならば(もちろんこれは極論だ)「お互い様」の精神で気楽に暮らすという事はもはや許されず、常に音を立てぬよう気を張って暮らさなくてはならない。
もう一つ弱点がありうるとすれば、権利のための闘争を怠る者への対処である。個人主義システムでは、ストレスの伝播を全員が押し返す事でストレスの流れを遮断する。しかし、訴訟を提起したりハラスメント窓口に出向くという事は相当なコストであって、大抵は「割りに合わない」。けれども、そのように考えてストレスを押し返さないという選択をする者が増えると、社会の中で人にストレスを移転するという行為が合理的なものとなる。
これではストレスの連鎖が切断されず、火事が燃え広がってしまう。
日本型システムでは忍耐は美徳であったが、個人主義システムでは権利の為の闘争は国家共同体に対する義務である以上、権利を防衛しない事は敵前逃亡に等しいのだ。スパルタのファランクスの如く大楯を整然と並べてストレスと闘っている戦線で、一人が盾を捨てて逃げ出すという事は許されない。「ツイフェミ」と称される人々が「非難しない人も同罪」と述べるのも理屈は通っているのだ。
だから、個人主義システムが機能するには、(あれはジョークらしいが)電子レンジに猫を入れるなと説明書に書かなかった事による損害賠償を求めて出訴するくらいの気概が国民全体になくてはならない。
第3 現代日本の悲劇
我々が呼吸している日本では、現在、日本型システムと個人主義システムとが入り乱れている。日本型システムで一旦形成された社会の病理を除くため、個人主義システムが導入され、徐々にその影響を拡大している。
第一の悲劇は、我々が既に和の精神と忍耐の精神による「お互い様の文化」による高い水準の社会を享受し、これに慣れてしまっているという点である。
個人主義システムの浸透は、必然的に社会水準の低下を招く。個人主義を貫徹するならば、そのような水準の自由は、一部の個人の犠牲に基づく「ズル」であり、不当という事になるのだろう。
けれども、一度得た暮らしを手放すという事は非常に困難である。個人主義システムの浸透が進むにつれて、フランス革命にE.バークが激怒したように、保守主義が高揚し個人主義の唱導者との間で社会が二分される事になるだろう。
保守主義者にとっては、社会的病理に対処するために受け入れた個人主義が古き良き日本社会を破壊する様子は、さながら、ハブを食べて貰おうと輸入したマングースがヤンバルクイナを食い荒らしてしまったあの悲劇のような感があるだろう。
他方、弁護士などに多く見られる個人主義の唱導者からすれば、保守主義者が守ろうとしている文化そのものが人権侵害を生む構造的暴力であって、これを根絶したいと望む事だろう。
両者の対立は激化の一途を辿る。
第二の悲劇は、日本型システムが個人主義システムを否定できるだけの論理を持ち合わせていない事である。洋行帰りの学者が作り上げた日本のアカデミア、とりわけ法学の世界の前提は個人主義である。現代日本における論理とは、個人主義の論理への適合性であって、日本型システムが論理的でないのは当然である。
論理というもの自体が個人主義に占拠(あるいは啓蒙)された以上、論争で日本型システムを擁護する事は極めて困難である。よしや、三島由紀夫の『文化防衛論』のように精緻な理論を提出しても、一般に理解される事は期待されない。
また、日本型システムの病理を個人主義システムの法学が効率的に解決しうる事は事実である。その種々の病理を解決する必要性を起点に日本型システムを切り崩す運動に保守主義者が抵抗する事は困難である。
けれども、論理の不存在は敗北を意味しない。むしろ理由もなく主張される事柄に対しては反論不能であり、結果、伝統というものは頑強である。この事の悲劇は、両システムの支持者の間の対話不能性にある。
第三の悲劇は、ストレスを受忍するという事柄についての評価が、一方では美徳とされ、他方では敵前逃亡とされる事である。
社会に日本型価値観と個人主義的価値観が混在し、現在のところ個人主義が公的な分野では優勢でありつつも日本型価値観が私的部分ではやや優勢というのが筆者の観察であるが、それゆえに我々は悩まなくてはならない。
今まで美徳とされたことが悪徳と非難されるという変化が起こりつつある。TPOで上手く正義を使い分けるというクレバーな生き方もあり得ようし、三島のように文化に殉じる人もひょっとしたらあるかもしれない。
第4 文化的衝突への希望的観測
筆者は文化については楽天主義者である。きっと、これから日本は個人主義社会に転換してゆく事だろう。しかし、それは天平文化のように一時的に外つ国の文化の影響を強く受けて日本社会が変容するに過ぎない。
個人主義の思想と理論とを我々が消化し切った後、必ず国風文化が花開くを信ずる。日本文化には長い年月を要するにせよ西洋思想を取り込むだけのキャパシティがある。日本文化は、歴史上、何度も舶来文化を取り入れながら発展してきた。
筆者は、我々、今の日本人が為すべきは、攘夷運動よろしく個人主義思想を排斥する事ではなく、我々の祖先が漢字を我が物とし、かな文字を生み出して世界的に稀有で豊かな表記体系を生み出した(昨今では更にそこにアルファベットも加わった)ように、個人主義思想を咀嚼し、来る国風文化の時代の基礎を固める事にあると信ずるものである。