008. オーバーライド・プロトコル
アレックスはQMCSの使用統計に不自然なパターンを発見する。特定の高影響度判断~主に政府政策や大規模産業プロジェクトに関連するもの~において、システムの計算過程に微妙な不整合があることに気づいたのだ。彼は最高の暗号解析スキルを持つ友人のライアン・カーターに秘密裏に協力を求める。二人はシステムのログに深く潜入し、「オーバーライド・プロトコル」と呼ばれる隠されたコードセクションを発見する。このプロトコルは、一定の条件下で特定の政府高官~特に量子統合局(QIB)の局長マーカス・パウエル~がQMCSの判断に介入することを可能にしていた。「これは私のチームが設計したものではない」とアレックスは言い、衝撃を隠せない。ライアンは「多分、国家安全保障上の理由でクローズドな実装段階で追加されたんじゃないか」と推測する。さらなる調査で、このプロトコルが過去6ヶ月間に少なくとも12回発動されていたことが判明する。
この発見に動揺したアレックスは、オーバーライド・プロトコルが発動された全事例を詳細に調査することにした。彼は各事例の入力データ、計算過程、そして最終判断結果を比較分析した。最初に確認された介入は北米の大規模エネルギー開発プロジェクトだった。当初のシステム計算は環境への悪影響を理由に「非最適」と判定していたが、オーバーライド後には「条件付き最適」に変更されていた。「彼は環境影響評価の重み付けを手動で30%下げている」とアレックスはライアンに説明した。「これは単なる微調整ではなく、結果を根本的に変えるレベルの介入だ」
次の事例はさらに衝撃的だった。アジアの歴史的地区の再開発計画で、QMCSの当初の判断は「文化的損失が経済的利益を上回る」というものだったが、オーバーライド後には逆の結論に変更されていた。「変更の正当化理由を見てみろ」とライアンは言った。「『国家戦略的重要性』というパラメータが追加されている。このパラメータはQMCSの標準設計には存在しないはずだ」
アレックスはQIBがオーバーライド・プロトコルを発動するための正式な基準を探したが、驚くべきことに明確な基準は存在しなかった。パウエルとその側近数名が持つ特別権限によって、彼らの裁量でプロトコルを発動できる仕組みになっていたのだ。「これは実質的にバックドアだ」とアレックスは言った。「システムの完全性を維持するための緊急メカニズムではなく、特定の人物がQMCSの判断を自分の意向に沿って変更するための仕組みだ」
オーバーライド・プロトコルの使用パターンが明らかになってきた。それは主に大規模な経済開発、軍事関連の判断、そして特定の企業グループに有利になる政策決定において発動されていた。アレックスは手が震える思いで、パウエルとの最初の会議を思い出す。パウエルは「究極の判断者として、時にシステム自体も判断される必要がある」と語っていたが、その真意はこれだったのかと悟る。
公式記録を調べると、マーカス・パウエルは量子物理学の博士号を持ち、政府の科学顧問を務めた後、QMCSプロジェクトの政府側責任者になった人物だった。しかし、さらに掘り下げると、パウエルには公式記録に載っていない側面があることが分かった。彼は複数の防衛関連企業の顧問を務め、特に量子技術の軍事応用に深く関わっていたのだ。
さらに不穏な発見があった。最近のオーバーライド事例には、特定の社会運動や市民グループの活動に関する判断が含まれていた。これらのケースでは、QMCSの当初の判断は「市民の自律性を尊重すべき」というものだったが、オーバーライド後には「社会的混乱を防止するため、一定の制限が正当化される」という結論に変更されていた。
部屋の窓から、パウエルが長を務めるQIB本部ビルを遠くに眺めながら、アレックスはQMCSの客観性と独立性が幻想に過ぎなかったかもしれないという恐ろしい可能性に直面する。「私たちは完璧な判断者を作り出したと思っていた」と彼は呟いた。「しかし実際には、古い権力構造のための新しい道具を作っただけなのかもしれない」