002. システムの約束
QMCSの運用開始から一週間が経過し、アレックス・チェンは自宅のバルコニーでコーヒーを飲みながら、東京湾に昇る朝日を眺めていた。彼のアパートはネオ東京湾岸エリアの高層住宅の上層階にあり、かつての東京湾埋立地を再開発した未来都市の景観が広がっていた。
「おはよう、QMCS。今日のスケジュールを教えて」アレックスが言うと、部屋中に設置された量子ホログラフィックインターフェースが反応し、彼の前に予定表が浮かび上がった。
「おはようございます、チェン博士。本日は午前10時から量子倫理研究所での開発報告会議があります。午後は14時からQMCS導入効果分析チームとのミーティング、16時からは公共医療システム最適化プロジェクトの相談が入っています」システムの声は穏やかで、自然な抑揚を持っていた。
アレックスは予定表を見ながら、QMCSが既に社会に浸透し始めている状況を考えていた。わずか一週間で、世界の主要国はQMCSの判断を行政決定に取り入れ始めていた。特に医療資源配分、都市計画、環境政策などの分野では、QMCSの「最適解」が次々と実装されていた。
彼はデスクに向かい、過去10年間の開発プロセスに関する記録を開いた。QMCSプロジェクトの始まりは、2077年の「グローバル倫理危機」と呼ばれる国際的な混乱期まで遡る。気候変動による資源争奪、AIの急速な発展がもたらした労働市場の崩壊、遺伝子編集技術を巡る倫理的対立。これらの問題が同時多発的に噴出し、既存の国際機関や倫理委員会では対応しきれなくなっていた。
この混迷の中、量子コンピューティングを倫理的判断に応用するという革新的アイデアが生まれた。アレックスは当時まだ若手研究者だったが、量子力学における「多世界解釈」と倫理学を融合させるという彼の論文が注目を集め、プロジェクトに招聘されたのだった。
彼の理論の核心は単純かつ革命的だった。量子コンピューターを使えば、無数の可能性を同時に計算できる。つまり、ある倫理的決断がもたらすあらゆる結果を、無数の異なる確率世界線において同時に評価し、最も「望ましい」結果をもたらす選択を特定できるというものだった。
アレックスは開発初期の苦労を思い出していた。量子状態の不確定性をどう倫理的評価に変換するか、観測による波動関数の収束問題をどう解決するかなど、理論上の難問が山積していた。特に困難だったのは「倫理的善」をどう数値化するかという問題だった。
チームは世界中の哲学者、倫理学者、宗教指導者、社会科学者を集め、2年間にわたる集中討議を行った。その結果、「人間の繁栄指数(HPI:Human Prosperity Index)」という複合指標が開発された。これは生命の保全、自由の確保、平等の促進、福利の最大化、環境持続性など、多くの価値観を統合した指標だった。
「本当に様々な価値観を一つの指標に統合できるのか」という批判も多かった。アレックスは当時、批判者との激しい議論を重ね、時には深夜まで続くオンライン討論に参加していた。その過程で、彼は親友であり哲学者のナオミ・タナカと知り合った。彼女はQMCSに対して建設的な批判を続ける数少ない人物の一人だった。
技術的課題も途方もないものだった。量子確率計算を安定して行うためのハードウェア開発、倫理判断アルゴリズムの最適化、セキュリティ対策など、数千人の科学者やエンジニアが昼夜を問わず取り組んだ。アレックス自身も何度か燃え尽き症候群に陥りかけたが、「人類が直面する倫理的難問を解決する」という使命感が彼を支えた。
開発の最終段階では、世界各地で小規模な試験運用が行われた。特に医療資源配分での成功例は印象的だった。南アジアでのパンデミック発生時に、QMCSが提案した予防接種と医療資源配分の戦略は、従来の方法と比べて25%多くの命を救ったと報告された。
コーヒーを飲み干したアレックスは、時計を確認して準備を始めた。今日の会議では、運用開始後初めての本格的な性能評価が行われる予定だった。
研究所へ向かう途中、彼は街頭の大型ディスプレイに映し出されるQMCSのニュースを目にした。システムが推奨した環境政策が、国連総会で採択されたという報道だった。以前なら数年かかる国際合意が、わずか数日で形成されている。
「数十億の確率シナリオを計算し、最適な倫理的結果を導き出す」
それがQMCSの約束だった。アレックスはその約束が現実になりつつあることを実感し、誇りを感じると同時に、何か見落としているものはないかという微かな不安も感じていた。式典の日に覚えた違和感は、まだ彼の心の片隅に残っていた。