001. 完璧な判断者
ネオ東京の中心部、未来都市の象徴である量子計算センターの威容が朝日に輝いていた。2087年3月15日、この日は人類史上最も野心的な技術革新「量子道徳計算システム(QMCS)」の正式運用開始の日である。世界中の主要都市で同時に運用が始まり、ネオ東京はその中核拠点の一つだった。
量子物理学者アレックス・チェンは、朝のリニア特急に乗りながら、10年に及ぶプロジェクトの集大成を実感していた。41歳になる彼は、QMCSの中核アルゴリズム「確率道徳エンジン」の開発主任として、このプロジェクトに青春を捧げてきた。彼の両親は台湾出身で、科学者として日本に移住。アレックスは東京大学で量子物理学を学び、後に量子倫理学という新しい学問分野を確立した第一人者となった。
センターに到着すると、世界各国からの来賓や報道陣で溢れかえっていた。セキュリティ検査を通過し、開発者専用エレベーターでメインホールへ向かう間、アレックスは緊張と達成感が入り混じった複雑な心境だった。
「チェン博士、おはようございます」若手技術者の河野美和が笑顔で迎えた。彼女はアレックスのチームで量子確率計算の専門家として活躍していた。「今日の式典、緊張します?」
「少しね」アレックスは苦笑いを浮かべた。「10年間の成果がついに世界の審判を受ける日だから」
メインホールは最先端の量子ホログラフィック技術で彩られ、式典の参加者たちは世界中の運用センターとリアルタイムでつながっていた。壇上には国連事務総長、各国首脳のホログラム、そして量子倫理委員会の面々が並んでいた。
式典が始まり、開会宣言に続いて、プロジェクト総責任者のエリザベス・モーガン博士が登壇した。白髪の混じった端正な顔立ちの60代の女性は、落ち着いた声でQMCSの理念を説明した。
「本日、人類は道徳的判断の新時代に踏み出します。量子道徳計算システムは、単なる人工知能ではありません。これは量子力学の原理を活用し、無限に近い確率分岐を同時に計算することで、あらゆる倫理的決断において最適解を導き出すシステムです」
モーガン博士の演説は続いた。「人類の歴史において、道徳的判断は常に不完全な情報と個人的バイアスの影響を受けてきました。QMCSは、この限界を超え、純粋に客観的で最適な倫理的判断を可能にします」
アレックスはその言葉を聞きながら、自分たちが成し遂げたことの重みを感じていた。彼自身、「完璧な判断者」の創造に情熱を注いできた一人だった。複雑な倫理的ジレンマを解決し、人類が直面する難問に対して最適解を提供する。それは科学者としての究極の夢だった。
モーガン博士の演説後、実際のデモンストレーションが行われた。世界的な医療資源配分の難問がQMCSに入力され、システムは数秒内に詳細な解決策を提示した。それは従来の国際機関が数ヶ月かけて議論してきた問題だった。
会場からは感嘆の声が上がり、拍手が沸き起こった。アレックスも拍手に加わりながらも、どこか心の奥に小さな不安が潜んでいることに気づいていた。あまりにも完璧すぎる答え。それは人間の直感的な倫理感と本当に一致するのだろうか?
式典の後半、開発チームのメンバーが紹介され、アレックスも壇上に立った。スポットライトを浴びながら、彼は自分の貢献について簡潔に語った。「QMCSの開発において、私たちは単に効率的なシステムを作るだけでなく、人間の価値観と調和するシステムを目指しました」
式典は成功裏に終わり、アレックスは多くの祝福と賛辞を受けた。しかし、帰路につく彼の心に、今日見た「完璧な判断者」の姿が、彼の想像していたものと微妙に異なるという感覚が残っていた。それは言葉にできない違和感だったが、この日は達成感に浸ることを選んだ。明日から始まる新しい時代において、彼自身がその「完璧な判断者」の真価を見極める役割を担うことになるとは、まだ知る由もなかった。