彼はせつないぐらいに必死なのだ
「かわちゃん、何をするの。」
「いいじゃん。俺は今日から研修で一週間横浜の本部に缶詰なの。可哀相な俺にお餞別渡したくなったでしょ。じゃあ行って来ます!」
さっさと出張鞄に俺の保冷袋を片付けると、彼は瞬間移動かと思う速さで走って逃げた。
署内一足の速い楊の駆け抜ける足音が、彼の消えた後にダダダダダと彼を追いかけるようにして署内にむなしく響いていた。
その数秒後、はっと何かに気づいた様子の山口が戸口に走り寄り、そこから大声で消え去った楊へと叫び声を上げたのである。
「かわさん!一週間も何て聞いてないよ!俺のご飯はどうなるんですか!」
「お前も飯かよ。本当にお似合いだな。」
「いえ、あの。いえ、あぁ!」
山口は自分の失態に両手に顔を埋め、そして耳まで真っ赤にして戸口にしゃがみ込んだ。
「はは。飯付きの夫婦ごっこがしたいのなら、俺が叶えてやろうか?まぁ、まずはクロを奪還という試練があるがな。」
山口は顔を両手からひょいっと上げると、しゃがんだままの姿で俺を見上げてきた。
普段は敢えて細目にしている目元を、本来の眼の大きさどころか目玉が転げ落ちる程に大きく見開き、その中で玄人が猫の眼と称する透明感の高い瞳がぐるぐると動いているのだ。
俺の眼が色素が薄い褐色で金色に輝くのと違い、山口の瞳は緑がかっている褐色である。
その猫のような瞳を、まさに風呂に入れられて狼狽した近所の猫と同じ様子で俺の眼下にて煌かせているのだ。
「クロトを奪還て、クロトは今どこに行っていると?」
俺はその猫の瞳を覗き込むようにして腰をかがめ、そして山口に耳元に囁いたのである。
「お前こそ知っているだろう。お前は何を水野に頼んだのかな。」
山口はハウっと大きく息を吸い込み、ぐるぐると動き回っていた瞳はとあるデスクへと一瞬動いた。
密告者はお前かと言う風に。
そのデスクの持ち主は、山口の元相棒であった葉山友紀巡査部長である。
葉山は玄人に惚れたからと玄人の恋人となった山口と相棒を解消したのだが、同性愛者どころか根っからの異性愛者であった葉山が玄人に惚れたのは、彼に同性愛的要素があったからではなく、純粋に玄人の外見によるものだ。
玄人は一見どころかつくづく眺めても女性にしか見えない。
本人は胸が膨らんだから女性化してしまったと落ち込んでいるが、女性化する前から子供のように痩せている華奢な体からは、男性性など一切感じられることなどなかったのだ。
そして、止めかのようにその体に乗っている童顔の顔が思いっきりの女顔で、それも人形のような美少女顔ならば、女性だと勘違いした者を責めること自体が酷だろう。
可哀想な葉山は、少女としか思っていなかった相手に一目惚れして、そして男性とわかった後も変わらずに玄人に優しく接し、そのために気持ちが解消されるどころか一層玄人の虜となってしまったのに違いない。
同世代の同性の友人が一人もいなかった玄人が、友人となってくれた優しい同世代の同性に対してできうる限りの媚を売るだろう事は簡単に想像がつく。
実父からはネグレクト、他人からは集団による暴行どころか拷問までも受けた事のある彼は、自分を好いてくれた人に嫌われまいと必死になるのである。
「友人だと思っている佐藤や水野に乗せられて不幸な選択をしたら、彼は友人だと思っている水野と佐藤こそ失いませんかね。」
玄人が夕飯はいらないと家を飛び出した数分後、俺は葉山の電話を受け、彼は俺に飲み会の詳細を伝えた後にそう言って締めくくったのである。
彼は玄人の悲しい性質を知っていた。
「――それに引きかえ、お前は。流されやすい奴に洗脳依頼か?」
「すいませんでした!」
ガバっと勢いよく床に両手をつくと、山口は俺に向かって額を床にこすりつける勢いで深く首を垂れた。
「でも、洗脳は無いはずです。俺はただ、クロトと一緒に住めるように修行しているって、クロトに伝えて欲しいって、み、みっちゃんに。」
「みっちゃんに、頼んじゃったんだぁ。あーの真っ直ぐな水野だったら、馬鹿正直にクロを煽るだろうにな。あーあ、どうしようかな。」
なんと俺のいつもの口癖に、四つん這いのままの山口がガクガクと震え出した。
本気で俺に脅えている様子に俺の方が驚き、少々内心で首を傾げた程である。
公安時代に髙に教育を受けた山口は、標的を殺しかけて島流しにされた男ではなかっただろうかと。
整った顔立ちをスマイルマークのような表情で歪め、均整の取れた体をも猫背にして、その他大勢に紛れ込んで標的に近づくという人間兵器だったのではないのかと。
「もう一ヶ月伸びてもかまいませんから、クロトと引き離さないで下さい。」
がばっと起き上がって俺に上げた顔は、借金取りかヤクザに本気で懇願する一般人の脅えた表情で、俺に違和感しか与えなかった。
「――お前、どうしたよ。そういや、お前はクロと一緒に住みたいと騒ぐ割には、一緒に住んだ後のビジョンは無いよな。もしかして、俺とクロを引き離す事だけが目的か?」
山口の瞳孔は大きく開き、俺の言った事を肯定しているも同然である。
確かに俺に監視されながら性的行為を試みるのは嫌だろうと俺は鼻で笑い、そのような馬鹿な思考回路で計画を立てた人間を完全に潰す事を思いついた。
「山口、みっちゃんに電話してな、楊のいない間クロと生活してみるって言いな。今日はお前が飲み会にクロを迎えに行って連れ帰るんだ。」
俺の提案にもろ手を挙げて喜ぶかと思ったが、流石に元公安の刑事、俺の思惑に気づいて恨みがましい目で見上げるだけだった。
「酷いですよ。下手したら完全にクロトに嫌われるかもしれないじゃないですか。」
「一緒に住む事はお前が望んでいたことだろうが。叶うんだから喜べよ。」
俺は高笑いしながら相模原東署を後にした。
おいしいものが食べられない上に、体を求める恋人に玄人がどう対処するかな。
そして、山口よ。
抱けないお人形さんに恋慕するむなしさを、お前は一体どうするのかな。




