腹を空かせた豹の前に横たわるウサギさん
家に帰るのがこんなに幸せな気持ちになるなんて知らなかった。
俺は百目鬼の罠に嵌るまいと居残りを志願し、彼にその旨をメールした。
「玄人君を迎えに行くどころか、本日の居残り組に決定してしまいました。彼の安全を考えて遅くなるようでしたら髙か松野さんに頼みます。すいません。」
百目鬼からはその後の返信も何もなく、何も無いことから俺は不安に苛まれたが、その後、歓迎会が終わる頃に髙からメールが届いた。
「玄人君はかわさんの家に一人だ。なんちゃって居残りはしないで直ぐに帰れ。」
帰ります。今すぐ帰ります。
俺は急いで帰り支度をして、そして今、ここにいる。
あぁ、家のドアの鍵を開けるのがこんなにドキドキするなんて。
鍵を……開けた!
さぁ、僕の可愛い玄人はどこにいるのかな。
ただの助平なだけの自分に哀れさも半分感じたが、玄人の姿を目にしたら全てが報われる。
俺は一階のリビングを覗き、俺をサプライズお帰りなさいをする玄人がいないことを確認してから、ほんの少しがっかりしながらも楊の部屋へと向かった。
玄人はこの家に泊まる時は、楊のベッドで眠るのである。
彼のスウェーデン製のベッドはサブベッドが収納されている面白い作りで、そのサブベッドは専ら玄人専用となっている。
「あれ?いない?」
クローゼットも開けて玄人を探すが見つからない。
俺はここで百目鬼を思い浮かべた。
あいつは俺をガッカリさせるためならば労力を惜しまない人間だ。
そして、玄人を俺以上に慈しみ庇護しようとするのだ。
俺が帰る前に玄人を連れ帰ったのだろう。
「仕方ないって。嫁と姑の関係だろ。」
水野にかけられた慰めの言葉に、「俺が嫁だったのか?」と軽い衝撃があったがどうでもいい。
とにかくあの親父は、玄人を自分から引き離すものは、神でも殺す勢いなのだ。
玄人の継母による虐待を聞いたが、今の百目鬼の占有の仕方はそれと全く違うようでそれに近い点がある気がする。
継母は彼から友人や親族などとの縁を事ごとく切り捨て、持ち物も金も奪い、彼が外に出られない囚人として囲っていた。
それに対して百目鬼は、玄人が外に出ることを考えないほどに物でも何でも与えて甘やかし、何も出来ない人形にしての支配だ。
継母に対しては逃げ出そうと抵抗の意思もあった玄人だが、百目鬼に対しては自由意志を持って、彼こそ何でも百目鬼に捧げて百目鬼に縋り付こうとしている有様だ。
だが、彼は生きる事にとても臆病なのだから仕方がない。
出会った頃から、彼は何度も肉体的にも精神的にも痛めつけられているのだ。
絶対仕返しをしない弱い生き物だからと、悲しい事に鬱憤晴らしの標的に選ばれるのだ。
「あいつは寿命が短いんだ。楽しい事ばかりじゃないと可哀相だろ。」
百目鬼によると武本家の当主の寿命は五十年だそうだ。
それ以外にも武本家は呪いを受けている。
六月に肉体を傷つけられた時に受けた呪いで玄人は殺されかけ、改名することで武本玄人の存在が抹消されて彼が死んだものとなるだろうという、百目鬼の頓智のような呪い返しによるもので生き延びられた。
しかし、その功労者の筈の百目鬼は、玄人の短い寿命は呪いではない、と言い切った。
「あいつはインブリードし過ぎたってだけだ。血統書つきの犬猫は体が弱くて寿命が短いだろ。あいつの染色体異常もそのせいなんだろうな。」
俺は呪いの方が良かった。
呪いならば祓えれば寿命が伸びる。
玄人のいない空しさからかろくでもないことばかりが頭に浮かび、その考えを振り払えるように頭を軽く振ると、首筋を揉みながら俺は自分用にあてがわれた部屋に向かった。
この家において「子供部屋」に位置づけられて作られた部屋だ。
前の持ち主による内装が替えられないまま楊に引き渡されたそこは、白い雲が浮かぶ青空の壁紙に、草原のような色合いの毛足の長いカーペットが敷かれている。
変な場所にあるコンセント以外、俺はこの内装を気に入っている。
この内装を生かすために俺はパイプベッドを置いた。
百八十を超える身長の男が足を伸ばせる手頃な値段のベッドがそれしかなかっただけだが、部屋に設置してみると、ベッドが草原に浮かぶハンモックの様にも見えて、俺は気に入ってもいるのである。
ドアを開け、俺は固まった。
なぜならば、俺の目の前に夢のベッドが見えるからだ。
真夜中の草原の中に浮かぶベッドが、空ではなく、中身入りなのである。
なんと、捕食されるための生き物が、おいしそうに熟睡して転がっているのだ。
パンツを履いただけの姿で。
チクショウ、百目鬼め。
あの男はこの場面を俺に見せた上で、修行僧のような振る舞いを俺に課し、そして望んでいるのだ。
彼の意に反したら俺は玄人の前から完全に排除されるだろう。
「無理だって。ここまでされて、俺の精神ぐちゃぐちゃよ。」
俺は冷たいシャワーを浴びて、一階のリビングのソファで寝た。




