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一、ラピスマトリクスの涙

 ――伝統は呪縛だ。

 そんなことを思いつつ、馬車の小窓の向こうの景色を見やる。悠然と流れる峰々をいくら眺めても、心は少しも晴れなかった。

 まだまだ先が長い。公都ムゥダ=ヴァハナに着くにはあと数時間はかかるそうだ。

 時折、向かいに座す女性と雑談を交わして気を紛らわせたりもした。しかし会話が途切れれば、思考回路はたちまち同じ憂鬱に巻き戻ってしまう。

 なんでも、世間では「時代が移り変わりつつある」などと囁かれているらしい。具体的に何が変わっているのかは諸説あるようだ。たとえば各地で身分の壁が薄くなっているとか、男尊女卑の意識が薄れつつあるとか。

 まやかしだ。少なくとも自分は、世の変化を実感できていない。

 そんな立場ではないからだ――生まれる前から墓に入るまでの期間、一貫して大きな選択は何ひとつ自分でできない身の上と言えよう。

 ゼテミアン公国第二公女、セリカラーサ・エイラクス――愛称セリカ――は、十九回目の春を迎えたばかりだった。晩春に予定されていた生誕祝いも待たずに自国を発たされたのには、本人にとって非常に不本意な理由がある。

 今夜、夫となる男と初めて顔を合わせる。明後日、結婚式を挙げる。

 平たく言えば政略結婚だ。

 ――退屈だ。退屈な人生に、これからなりそうだ。

「バルバ」

 肘掛に頬杖をついた姿勢のまま、向かいの席の侍女を呼んだ。セリカより三つほど年下で、耳の下で切り揃えられた髪とそばかすが印象的な女性は、名をバルバティアという。ここ数年ほど仕えてくれていて、今となっては気心の知れた友人だ。

「なんでしょうか、姫さま」

 彼女はどこか緊張した面持ちで応えた。主と話すことに緊張しているのではなく、おそらくは環境が変わることへの不安の表れだろう。

「知ってた? このアルシュント大陸で女が伸びやかに暮らすには、平民くらいがちょうどいいそうよ」

「そうでしたっけ」

 バルバティアは小さく首を傾げた。彼女は中流貴族の家から大公家へ奉仕に来ているのだからセリカよりは平民と関わる機会があるだろうに、どうもピンと来ないらしい。

「ええ。極端に身分が低くても、高くても、好きなように生きられないんだわ」

 そういうセリカは、この話を誰に聞いたかは忘れていた。観劇の際にフィクションから吸収したのかもしれないし、兵士の噂話を盗み聞いたのかもしれなかった。

「姫さま……」

 バルバは所在なさげに両手を握り合わせて俯いた。眉の端が悲しそうに垂れ下がっている。萎れた花のように背を丸める姿に、ちくりとセリカの胸が痛んだ。

「ごめんなさい、独り言よ」

 いたずらに心配させないように微笑みで誤魔化し、話題を打ち切る。

 視線を再び外の景色に向けてみた。四方八方が山に囲まれているというのは、新鮮と言えば新鮮である。このヌンディーク公国と違って、祖国ゼテミアンの公都は平地にあった。

 これより以前、最後にゼテミアンを出たのがいつだったのか、思い出せない。

 公族に於いての女の政治的価値及び発言権は一貫して夫の地位に依存しており、十六歳でディーナジャーヤ帝王の後宮に入った姉や十四歳でヤシュレ公国の貴族の家に嫁いだ妹に比べれば、嫁ぎ先が長らく定まらなかったセリカにほとんど自由は許されなかった。

 妙齢の未婚の姫である内は公の場に顔を出すこともできず、旅行目的でも外交でも国を滅多に出なかった。

 ようやく長旅に出られるかと思えば、隣国への片道行路。

(なんて、憂えてみるけど)

 これまでの生活の中に涙して惜しむほどの何かがあったのかと言うと、そうでもない。故郷は恋しいが、家族に関してはそれほどでもない。姉妹とは既に一緒に暮らさなくなって久しいので、別れて寂しかったのは兄くらいだ。親に至っては、むしろやっと解放された気分である。

 一番仲の良い侍女を連れてきているので、心細さも薄まっている。勿論、新しい生活や侍女に慣れた後には彼女はいずれ実家へ帰すつもりだ。バルバには他に居場所が、帰るべき家があるのだから。

 いっそ心機一転しよう。

 新しい人生に挑戦する機会だと思えば、いくらか前向きな気持ちになれそうだった。

(前より窮屈な生活になるでしょうけどね)

 他国の妃の席に収まる以上、宮殿の中ですら好き勝手に過ごせなくなるだろう。聞いたところ、ヌンディーク公国はゼテミアン以上に古くからの慣習を重んじるらしい。

 それがなんとも、皮肉な話である。

 アルシュント大陸で最大の人口と領土を誇る帝国、ディーナジャーヤ。

 過去数度に渡る略奪戦争を経てその属国となったヤシュレ、ヌンディーク、並びにゼテミアン公国は、当然ながら多方面で帝国の影響を受けている。使っている通貨も同じ、四国同士では国境などあってないようなものだ。

 それゆえ、昔ながらの自国の伝統や服装にこだわっているのは大公家と貴族階級くらいのもので、国民の過半数は時代の流れとやらに身を任せている。好きな食べ物を選び、好きな服を着ているはずだ。

 不自由だ。

 そして、どうやっても生まれる家は選べない。

 二十年近い人生を歩み、セリカは未だに己の境遇に甘んじられない自分を、どう思えばいいのかわからなくなっていた。

 幼馴染と将来を共にする約束をしているというバルバが、少なからず羨ましい。彼女が大好きな相手と幸せいっぱいの家庭を築く未来を想像するだけで、自然と胸の奥が温まった。

 対してセリカは、顔も知らない男の子供を産まねばならない。顔どころか――歳が近いらしいのは聞いているが、それ以外の情報を一切持っていない。

 そうなるよう仕組んだのは母だった。相手について何も知らない方が不安も少なく済みますからね、楽しみは後に取っておくものです、なんて言っていた気がする。

 知っても知らなくても逃れようが無いのなら知らない方が気楽だろう、とセリカも割り切ることにした。物凄く醜かったり性格が最低最悪なゲス野郎だと予想していれば、いずれにせよ期待を裏切られる心配も無い。

 怖くないと言えば嘘になる。それでも、逃げ出そうなどと企むには、セリカは聡すぎた。

「きゃっ!」

 バルバの小さな悲鳴で、物思いから覚める。いつの間にか道が険しくなったのか、馬車がガタンゴトンと大きな音を立てながら進んでいる。

 興味を惹かれて、窓の外に目を向けた。道路沿いに、いい感じに生い茂った森が見える。

「停めて!」

 セリカは思わずそう叫んでいた。急に呼ばれた御者の男が驚き、言われた通りに手綱を引く。

「どうしました!?」

「ちょっと降りる。二時間もすれば戻るから」

 用を足す為ではないと、念の為にセリカは補足した。荷物の中から、愛用の道具を取り出し、腰を浮かせる。

「二時間? それでは大使さまの馬車と大きく差がついてしまいます」

 御者が前方を指差した。

「構わないわ。あたしが立ち合わなくても、商談はできるでしょう」

 縁談を敢えて商談と称する。

 政略結婚とは、国同士の交流を繋いだり強める為の措置。――交流?

 実際にはそんなにあやふやな言葉で形容できるものではないと、セリカはしっかり理解していた。ゼテミアンはヌンディークから、ヌンディークはゼテミアンから、欲しい「持参金」があるのだ。

 花嫁側ゼテミアンからのブライドウェルスは分割で支払われる手筈となっている。先週から少しずつ鉄が運び込まれていて、花婿側ヌンディークからのダウリーがちゃんと支払われたと確認された暁には、契約通りの量まで届けられる。

 双方の大公は既に契約書に署名している。それでもゼテミアン大使がセリカに同伴するのは、再三の言質を取りたいからに他ならない。

 これらの手続きは結婚式などよりもよほど重要視されていた。

 ――セリカラーサ・エイラクスという人間が消えていく。誰も本当の自分を知らないし、今後も知ろうとしないだろう。

 未だに不服そうに抗弁する御者を無視して、馬車を飛び出した。

「ひ、姫さま! 危険です。護衛を連れてください」

 バルバが声を震わせて叫んでいる。

「いらない。何かあったら叫ぶわ、そんなに遠く離れないから」

 この路は人通りも多く危険度が低いからと、セリカの馬車についている護衛は一人しかいない。彼には荷物を守らせた方が得策だ。

「でも日が暮れる前には確実にムゥダ=ヴァハナに着かないと! 夜道は危ないです!」

「最後に、好きなことをして過ごしたいのよ」

 低い声でそう返すと、窓から身を乗り出したバルバが怯んだのが見えた。その隙に一直線に走り出す。

 あっという間に馬車を後にした。

(せめて楽しい思い出を胸に抱えていれば……当分は頑張れる、わよね……)

 優しく澄んだ森の空気に包まれながら、セリカは滲み出す涙に気付かない振りをする。


_______


 数分ほど闇雲に走ったら、人工物に行き当たった。

 森の中の空き地の隅に建てられたそれは、物見やぐらより一回り小さく、地上から七フィート(約2.13m)ほど上げられた木製の小屋だ。

 狩猟用の隠れ場所――ハンティング・ブラインドだと、一目でわかった。

 セリカは傍らの梯子に近付いた。此処でなら獲物に気付かれずに長時間張り込める。誰のものかは知らないが、ちょうどいい。

(人の気配がしないし、いいわよね。借りますよ、っと!)

 片手で戸を開いて身を滑り込ませる。

 床が短く軋んだ。一人か、多くても二人が同時に使えるような強度と広さである。食べ残しくらい落ちているのではないかと思ったのに、案外清潔だった。しばらく誰も使っていないのか、それとも最後に使った人間が丁寧に片付けたのか。中にあるのは素朴な椅子ひとつである。

 戸を含めた四方の壁のどれもに、幅広い窓が開いている。好みの角度を見つけて、セリカはそこに椅子を寄せた。

 そして肩にかけている弓矢を下ろした。

(確か、大物を狩るには長時間居座った方がいいのよね。まあ、あんまり高望みしないでおこう)

 そもそもブラインドを見つけるとは思っていなかったのだ。これだけで既に儲けものである。

 ――三十分経った頃。

 ガサガサと、小柄な生き物が草を踏む音がした。目を凝らして待つと、丸っこい鳥がひょこひょこと空き地に進み出た。

 お世辞にもきれいだとは言えない、ざらついた指で弓弦を静かに引く。

 感じるべきは掌に触れる感触、弓の重み。風向き。獣の動きに視線は釘付けになり、僅かに震える草の動きを事細かに追った。

 目標を的確に射止める筋道を茂みの隙間に見定め、呼吸を限界までに遅めて機をうかがった。

 地面を突いていたヤマウズラが、ふいにひょっこりと頭を上げた。鳥類独特の俊敏な首の動きで周囲をひとしきり警戒した後、また餌探しに戻ろうとする――

 セリカは弦を放した。

 草が乱される音、矢が地を打つ音、弓弦が弾ける音などが鼓膜に交差する。

 息を呑んで周囲を見回した。

 数枚の羽根が舞っているだけで、望んだ結果を得られなかった事実を知る。

(狙いはちゃんと付けたのになー)

 逃げられた。落胆するものの、高揚感の方が勝っていた。

 筋肉に走る微かな負担が心地良い。楽しい。こうして弓を手にしている間だけは、余計な感情がまとわりつかない。

(あたしはやっぱり、これが一番「生きてる」って実感できる)

 しかしそれも、弓を手にしている間だけである。腕を下ろせば嫌でも現実を思い出す。異国で誰かの妃になる以上、自分の時間は失われるということ。

 趣味は所詮、趣味に過ぎない。たとえ立場が許したとしても、セリカは男として生きて成功するには力量不足で、公族の女として生きていくには粗雑過ぎた。

 それでもできるだけ長く好きなことをしていたかった。弓の腕を日々磨いた分だけ姫らしさからかけ離れ、縁談が持ち上がる度に片っ端から蹴飛ばしてきた。

 終いには親には「下手に結婚させたら相手の不興を買いかねない」と慎重に扱われる結果となったが、セリカは何も後悔していない。

 思えばどうして、ヌンディークとのこの縁は成り立ったのだろうか。

(なんだかんだで気にしたことなかったわ)

 矢を回収しに行こうと戸を開く。梯子を下りながらも、考え事を続けた。

(十九にもなって結婚してない姫を受けたんだから――)

 下りきって、地に着いた。くしゃり、と旅用の長靴が草を踏む音がする。

(向こうも何か事情が?)

 くるりと踵を返した。何か視界に不自然なものが映っているようだが、意識はすぐにはそこに行かず。

 足元に注意しながら、踏み出そうとしたところで。空中で右脚を止めた。

 一拍の間、身を凍らせる。

 そのまま足を下ろしたら別の誰かの爪先を踏むからである。

 黒染めの革の長靴を、眼差しでなぞる。膝当てまで付いているとは珍しいデザインだ、ちょっとかっこいいな、なんてぼんやり思った。

 視線は更に上った。裾を長靴に仕舞い込んだ黒いズボン。それを覆うのは、白く縁取られた紺色――膝丈の薄い羽織り物のようだが、左右のどちらかを上に重ねるのではなく身体の中央に緩く引き合わせる、見慣れないタイプだ。

 羽織り物を留める細いベルトは靴と同じ黒い革。そのベルトから細長いものが提げられている。美しい彫刻の施された鞘に見えた。

(あの大きさはナイフ、よね。股の上にこんな目立つモノをぶら下げる心理……)

 なんとも言えない気分になって、セリカは顔を上げた。

 半袖の羽織り物の下から覗くのは、ボタンをきっちりかけ合わせた詰襟の黒いチュニック。チュニックは普通だが、羽織り物の仕様には稀なるものを感じた。ヌンディーク公国の人間はこんな服装ではなかった気がする――

「ぅわおっ」

 眼差しが交差した途端、喉から変な声が漏れ出た。ずっと片足立ちの体勢を保っていたことを身体が突然思い出したのか、腰から力が抜けた。

(スカートじゃなくてよかった!)

 開いた脚をすかさず閉じる。旅装として履いていた麻ズボンに感謝した。同時に、見知らぬ他人を随分とジロジロ見ていたのだと今更ながら思い出す。

 とりあえず謝ろうと思って、相手を見上げた。

 青灰色の瞳とまた目が合った。と言っても左目だけだ。浅い筒みたいな変わった形の帽子から流れる布に、顔の右半分が隠れている。

 青年はこちらを見下ろすだけで助け起こそうとしない。無関心そうな表情を浮かべている。

(こいつ、いつから居たの)

 何故話しかけもせずに突っ立っていたのか。理由もなく人を驚かせるのは、あまりに礼節に欠ける。不審者かと警戒しながらセリカは立ち上がった。青年はやはり微動だにしない。

 正面から見据えて、また驚くこととなる。

 なんと目線の高さが同じくらいだった。差は一インチ未満だろうか、首を曲げることなく対応できる。

 確か、ゼテミアンの女は大陸中の他の国よりも平均身長が高いと言われていた。

(本当だったのね)

 とはいえ、セリカは知り合いの女の中では背が決して高くない方だ。きっとこの青年こそ、平均より低いのだろう。

 立ち話をしながら人を見上げることはよくあっても、ありのままで目線が合うのは新鮮だった。そのせいか、いくらか毒気が抜ける。

「惜しかったな」

 やがて、気だるげに青年が言った。低めの声で、丁寧で聴き取りやすい発音の共通語だ。

「え、何がよ」

 一方、セリカはつい突っかかるような語調で応じた。

 すぐには答えず、青年が首を巡らせる。その弾みで、彼が左耳に着けている涙滴型の装飾品が目に入った。

 銀色のチェーンから垂れる大きな涙。暗めの群青色に、白い斑模様と金の斑点が浮かんでいる。

 こういった不純物の多い石はラピスラズリと呼ばれず、別の名があったはずだ。それが何だったのか、思い出せそうで思い出せない。

(流石は宝石大国、ヌンディーク公国ね)

 その辺を何気なくほっつき歩いている若者ですらこんなにも美しいアクセサリーを身に着けているものなのか、と感心せざるをえない。或いはそれなりの家柄の者なのだろうか。見慣れない服装だけれど、身なりは綺麗だ。

「……的を射る練習はしていても、生き物を狙ったことが無いだろう」

 青年の視線の先を一緒に辿った。先ほどヤマウズラを外して空しく地面に突き刺さった矢が、そこにある。

 馬鹿にされているのだと、遅れて理解した。

「あっ――る、わよ! 勝手に決めつけないでくれる!?」

 矜持が傷付けられた反動が頭の中で跳ね回る。セリカはずかずかと矢の傍まで歩いて、ひと思いに引っこ抜いてみせた。

「鳥は、頭を上げた時に人間おまえの匂いを捉えていた。あの後また餌に夢中になったように見えたが、警戒心が残って、俊敏に避けることができた。風上に立ちながら匂いを十分に消さないのは、初心者のやりそうなミス――」

「初心者で悪かったわねえ!」

 腹立たしい。背後から淡々と理屈をこねていないで、いい加減に黙ってはくれないだろうか。

「そんなに言うならあんたが射止めてみなさいよ」

 セリカは青年の真正面まで戻って、ずいと弓矢を両手で押し付けた。

 瞬きひとつせずに彼はそれを見つめ、無理、と返した。

「できないって言うの? 結局口先だけなのね」

「片目だと遠近感がずれるから、私に飛び道具は扱えない」

 ――至極ごもっともな理由があった。

 それでも納得し切れずに、食い下がる。

「だって、あんたのブラインドじゃないの」

「別に私のではない。この建物は多分、季節が移ろう前からここにあった」

「あ、そう……」

 それじゃあ自分では狩りができないくせに、得意げに知識だけひけらかしたの――と突っ込みたいところだったが、思い直した。元から片目だったとは限らないし、誰かに付き添うだけでも知識は身に着く。この人は普段、弓ではなく罠担当をしている可能性もある。

 かくいうセリカもこれまでの狩りの経験は、兄弟について行った数回だけだった。それも公都内にある狩り場だ。的を当てる練習ばかりしていたのも図星だし、あまり人のことをあれこれ言えない。

(なんだか、やる気失くしたわ)

 ――ひとつくらい獲物を手にしてから馬車に帰りたかったのに。

 だからと言って、粘る気力が無い。

 道具を仕舞って背負い直し、帰り道を確認する。御者に伝えた二時間よりもずっと早く戻れそうだし、これでいいのだろうと自分に言い聞かせた。

 それにしても、とふいに青年が口を開いた。こちらをじっと眺める青年の青灰色の瞳は、どこか冷たい印象を与える。

「さくらんぼみたいな頭だな」

 瞬間、セリカはこめかみに青筋が浮かぶのを感じた。

「……初対面の人間をまず見た目から侮辱するのが、この国の礼儀なのかしら」

 努めて平静を保とうとする。が、その試みはすぐに失敗に終わった。

「美味しそうだと褒めたつもりだが。赤黒いさくらんぼは見た目の渋さに反して果肉が甘く、好きだな」

「あんたの食べ物の好き嫌いなんて心底どうでもいいのよッ!」

 ――いけない。

 唾が飛ぶ勢いで怒鳴ってしまった。いくらしとやかさに欠けることを自覚しているセリカでも、これには反省した。

 確かにこの髪は、母譲りの、滅多にない色合いではある。黒光りする深い赤紫――そう表現するのが一番シャレているのではないかと、自分ではこっそり思っていた。

 今までに果物と比べられたことはない。というより、食べ物に似ていると感じていても誰も面と向かって言っては来ないだろう。

 収まらぬ苛立ちをどうすれば吐き出せるか。紺色の帽子の下からうかがえる茶みがかった黒を見やり、その答えを思い付いた。

「そっちは泥みたいな髪色ね」

「よく言われる。淀んだ川底の土とそっくりだと」

 仕返しのつもりだったのだが、思いのほか青年は平然としていた。それどころか、同情を誘う返しだった。

「け、結構心ないこと言う人と知り合いなのね……」

「そんなものだ。お前もたった今、泥みたいだと言っただろうに」

「あんなの腹いせよ、本気でけなしたいわけじゃないわ。ん、気品に紛れた遊び心っていうか? 野性的でいい色じゃない」

「…………無理して褒めなくても。泥でいい、私は気にしていない」

 呆れたような顔をする青年に対して、セリカはバツが悪くなって小さく舌を出した。適当に思いついたことを口にしたのを見透かされてしまった。気まずいので、さっさと話題を変える。

「そんなことより、いきなり出てきて何なのよ? 物凄く吃驚したわ。助言を乞うた覚えは無いし。誰よあんた、何様のつもり」

 青年の鼻先に人差し指を突き指して、大袈裟に非難した。否、決して大袈裟ではない。

(乙女を尻餅つかせて驚かせたんだから、弁明くらいするべきよ!)

 改めて強気になり、相手を睨みつける。

 青年は全く怯まないどころか、意外そうに目を見開き、眉を上げた。

「わからないのか」

「はあ? わからないから訊いてるんでしょ。間抜けなこと言わないで」

 激しく言い返してくるのかと思ったら、青年はただつまらなそうな顔をした。何なのだ、一体。何故そんな顔をされねばならないのか。セリカには心当たりがまるでなかった。

「――すぐにわかる」

 それだけ言い捨てると青年はこちらに背を向けた。淀みない足取りで、速やかに木々の間に消えて行く。

 後を追おうだなどとは、勿論セリカは考えなかった。

「変なヤツ」

 嘆息混じりにひとりごちる。変な男、変な国、変な日。無人となった森は、セリカの独り言をことごとく吸収する。

 日が傾きかけている。周囲の大樹の影がいつしか長くなっていた。極め付けは、長々と響くカラスの鳴き声だ。

 胸の内に得も言われぬ物寂しさが広がっていった。

(はあ、帰ろう。受け入れたくない未来から目を背けるのは、もう止めにしよう)

 運命の呼び寄せる方へ――彼女は一歩ずつ、重い足を進めていく。


_______


 ヌンディーク公国首都ムゥダ=ヴァハナは、公宮に近付くほどに上品そうな空気感を湛えるようになった。

 道中に見てきた下町とはまるで違う。ちなみにこれまでに通り過ぎた地区の建物の密集ぶりや路の賑やかさはどこか祖国ゼテミアンの首都を彷彿させたが、斜面に建てられている分、妙な開放感があった。

 宮殿周りの建築物は、本当にこの大陸の人間が建てたのかと疑問に思うほどに異様な外観をしている。現代の主流であるはずの四角い外壁が見当たらない。どうやってあの形になるのか、屋根は丸かったり変な針が伸びたりしている。焼きレンガではなく干しレンガを使えばああなるのだろうか。

 大公の周辺は別世界――そういった部分もやはり祖国と同じに思えた。ゼテミアン公国の首都も、玄関を飾る巨大円柱などが特徴的な、旧い建築物がひしめき合うような場所だ。

 願わくば一度じっくりと町を観光してみたい。

(願ったところで、叶わないか……)

 夜の翼に追いつかれないように、御者は急いで馬車を走らせていた。最初こそ「あれは何?」の質問に答えてくれていた彼は、目的地に近付いた頃には相槌すらしてくれなくなっていた。

 緊張感が伝わってくる。遅れたのはセリカの所為なのだが、自分が咎められるのを怖れているのだろう。

(悪いことをしたな)

 門を通って少しすると馬車を降りた。

 燭台を持った初老の男性が、広大な前庭を彩る噴水の前に佇んでいる。ゼテミアン大使だ。彼の後ろに使用人らしき人影が数人控えていた。

 まずは挨拶を交わし、荷物を預けたり馬を休ませる手配などを済ませた。

「全く、すっかり暗くなっているではないか。何をちんたらやっていたのか。こちらは会談も終わったというに」

 大使が御者を責め立てる。二人の間に、セリカがサッと立ち入った。

「遅くなったのはあたしが寄り道をしたがったからよ。他の皆を責めないであげて」

「公女殿下……相変わらず、貴女は困ったひとです」

 初老の男性はあからさまなため息を吐いた。

「結果としては無事に着けたんだから、別にいいじゃない」

「無事に着けなかったら、誰かの首が撥ねられたかもしれませんぞ。以後、ご自分の振る舞いにもっと責任をお持ちください」

 ――あんたなんかに言われなくてもそれくらいわかってるわ!

 腹の奥から湧き上がる怒りを飲み込んで、代わりにセリカは顔に薄笑いを張り付けた。

「ご忠告どうも。善処するわ」

 ふん、と大使は鼻で笑ったようだった。いくら生まれが上だからとこちらが粋がっても、父の側近である彼にしてみれば、セリカなど単なる世間知らずな小娘に過ぎない。

 悔しいが、この力関係は揺るぎない。

「先方と話も付きましたし、私はもう休みますぞ」

「そうなの、ご苦労だったわね」

 労いの言葉をかけつつ、依然として薄笑い。

 大使は踵を返しかけたが、途中で立ち止まった。伝え忘れた何かを思い出した様子である。

「ああそうです、ヌンディークの宰相殿が迎えに来ています。なんでも、殿下の為に晩餐会を催すそうですよ」

「……晩餐会?」

 セリカの笑みが僅かばかり崩れた。

「どうぞ、良い夜をお過ごしくだされ」

 大使は曖昧に笑ってから、それきり口を噤んだ。その背中を、セリカと侍女のバルバティアが追う。

(誰が何を催すって? あたしの為に?)

 正直のところ、結婚式までに誰とも会わせてもらえないものと予想していたので、それまでの時間を独りで自室で過ごすのだと勝手に思い込んでいた。

 それが、初日で晩餐会。そうと知っていればもっと急いで来たのに――。

 旅の疲れがあるのに今から猫被らなければならないなんて面倒だ、という気持ちが半分。残り半分は、どんな顔ぶれが来るのだろうか、と楽しみな気持ちがあった。更に言えば――許婚も来るのだろうか。

 十九歳のセリカラーサ公女は、夢見がちな乙女ではない。まだ見ぬ夫と運よく素敵な絆を築けるなどと、夢想したりしない。

(でも自分の人生だもの。何でもいいから楽しめる要素を見つけてこそ、生き甲斐があるってものよね)

 たとえば武術の特訓を付けてくれそうな義理の兄弟とか、親友同士になれそうな義理の姉妹とか。

(せめて婚約者があたしより腕の立つ男だといいな)

 そうであれば、仲良くなれずとも尊敬の念を抱ける。

 期待したい、けれども期待しすぎるのが怖い。逸る気持ちを抑えて、セリカは静かに歩を進める。

「公女殿下。ご存じですか」

 正殿に続く階段を上る間、大使がまた声をかけてきた。

「何を?」

「貴女の夫となられるのは、ヌンディーク公国第五公子です」

「…………そう」

 唐突に開示された情報を噛み締めんとして、その場で立ち尽くした。

(大公の五番目の息子。五番目か……ビミョーそうな立ち位置ね)

 その心境、果たしていかがなものであろうか。公位継承権を持たないのだから、男児にとっては張り合いの無い人生になりそうな気はする。

 きっとこの辺りの境遇は人格にも反映されていよう。

 ――やはり期待しすぎない方がいいのだろうか。

 セリカは目を伏せて心を落ち着けた。

 次に顔を上げた時には極上の微笑を浮かべて、階段の上で待ち受ける大使と宰相の元へと歩み寄った。

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