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十、渦に呑まれるなかれ

 遥か頭上の狭い窓枠に鳩が停まった。

 指を差した途端に飛び立ってしまったが、その姿が見えなくなって数秒経っても、目はこげ茶と灰色の羽の美しさを忘れられずにいた。

「ははうえ、みましたか! ハトさんがとてもきれいでしたよ」

 少年は部屋の隅に蹲る母の元へ明るく話しかける。

「……アダレム。窓の下から離れるのです」

 応じた声は暗く厳しく、空虚な部屋の中をこだました。触れられたわけでもないのに、アダレムは叩かれたみたいに身を強張らせた。

 ごめんなさい、だって、と口ごもる。そんな彼に、彼女は繊手を伸ばして手招きする。幾度となくそうしてきたように、子は母の腕の中に飛び込んだ。

「世界は恐ろしいのです。お前にとってはよくないことばかりなのですよ」

「でもここはなにもないし、ぼくはおてんとさまにあいたい……」

 もう何日も外に出ていなくて、退屈だった。窓に停まる鳩くらい、心ゆくまで眺めたい。

 それにこの部屋は空気が良くないようだ。

 部屋の角からもくもくと立ち上がる白い煙が、しつこく視界を滲ませる。香炉からの慣れない香りに鼻がツンとする。

 空気の質と関係があるのかはわからないが、一晩通して眠るのが難しく、何度も目を覚ましてしまう。妙に弱気になってしまうのはそのせいだろうか。

「いけません。お前にはまだわからないだけで、外には混沌しかないのです」

「こんとん……」

 いきなり両頬を冷たい手で包まれた。覗き込む女の顔は、恐ろしい。アダレムは生まれて初めて母に近付いて欲しくないと感じた。

「はな、して! ください!」

 混乱した。母は、こんなことを言う人ではなかった。なかった、はずだ。

「アダレムよ、可愛い我が子よ。陛下に最も良く似た子。人の群れに触れてはなりません。お前まで陛下のように病に落ちてしまってはいけません。ここにいなさい。ここなら、ハティルが守ってくださいます」

 すぐ上の兄の名を出されて、アダレムはぎくりとなった。

 ハティル公子に好かれていないのは子供心ながらによくわかる。しかしアダレムの方はなんとかして兄に好かれたいので、近寄るのを諦められない。そのせいで余計に鬱陶しがられているのもわかっている。

 鬱陶しそうにしていても、なんだかんだ言って相手にはしてくれた。

 そして時折ハティルが向けてくる眼差しは、とても悲しそうだった。それが気になって気になって、やはり近寄るのをやめられない。

 ――向けられた感情が「憐憫」であることを、幼児はまだ理解できない。

「ひとのむれって、なに」

「おぞましいものです。穢れてしまいます。ああ、おぞましい」

「……」

 うわ言のように繰り返す母の拘束から、アダレムは身をよじって何とか逃れる。四つん這いになって、窓から床に形を成す光を求める。

 日差しが暖かい。それでも、涙はすぐには乾かなかった。

 人は生まれ育った区域を飛び出て初めて、世界の広さを知ることができる。

 では狭かった世界が更に狭まった時、人の心はどう歪むのか。

 少年は、言葉もなく悠久の空を見上げ続けた。


_______


 嫌な空気だ、とエランディーク・ユオンは真っ先に感じた。

 いつものように自身が煙たがられるのとはわけが違う――宮殿の庭や内なる通路を歩く面々からは、別種の緊張が感じ取れる。

 それこそ、裏山に面する門から現れた珍妙な一行を誰も疑問に思わない程度には、意識が他に向いているらしい。

 とりあえずエランは近くの会話に耳をそばだてる。

 知らぬ間に足を止めてしまったのか、背後の騎士たちから「公子?」と不審がる声がした。何でもない、とエランは無難な笑みを浮かべて再び歩き出す。

(大公がいよいよ「危篤」――)

 ひそひそ話だったので部分的にしか拾えなかったが、どうやらそういうことらしい。

 掌に滲む汗に気付かないふりをする。

 いつしか右方に現れていた人影に、軽く会釈した。

「お帰りなさいませ」

 そう迎えてくれたのは他でもない、ヌンディーク公国の宰相の座にある男だ。

 瘦せ細った長身で背中はやや曲がっているため立ち姿に覇気を感じられないが、齢五十を超えても未だに褪せる兆しを見せない眼力と長く黒い顎鬚が、彼の印象を思慮深い賢者のものとする。

 一度深く腰を折り曲げてから、宰相はよく通る声で言った。

「所領の方はもうよろしいので?」

「問題ない」

 エランは短く答えた。

「そうですか、それは安心いたしました。殿下の身を案じてセリカラーサ公女までもが都を飛び出したと聞いた時は心臓が潰れるかと思いましたよ。無事に合流できたのですね?」

 これらは、エランらがムゥダ=ヴァハナを逃れた後に広まった虚構だ。徹底的に根回しをされていたのか、今こうして戻っても、去った前日の空気とまるで変わらない。自分だけが蚊帳の外に放り出されたのかと疑うような、異様さがある。

 裏を返せばここにつけ入る隙がある。あくまで向こうが不正をしていないていでのし上がりたいのであれば――こちらが動くほどに計画は綻ぶ。

「ああ、この通りだ。しかし公女殿下は長旅でお疲れのようだ、すぐに部屋で休ませる」

 エランは自らの背後を示した。武装した兵士が七人と、全身を布で覆ったすらりとした物腰の女性が佇んでいる。

 当然ながらこの女性はセリカ本人ではない。イルッシオ公子から借りた兵士の一人がちょうどいい体格だったので身代わりに立てたのである。全ての事情を聞き知っている宰相は、自然な所作と流暢な言で話を合わせてくれた。

 そこかしこで聞き耳を立てているであろう連中の為の演出だ。

「……時に殿下」背の高い宰相は身を屈めて声を潜めた。「頼まれていた調べ事ですが、結果から言って『可能です』。前例があります上、法典の中には反する記述がありません」

「そうか。何から何まで恩に着る」

「なんの、目的が一致する限り、我々は協力を惜しみません。ご武運を」

 歪な笑みを浮かべたかと思えば、宰相は優雅に礼をしてその場を辞した。

 エランも身代わりの「姫」を寝室まで送り、大公の住まう区画へ向かった。

 移動しながら、なるべくゼテミアンの兵士を周りに印象付ける。彼らを実際に戦わせることになるかは不明だが、こうして連れているだけでも抑止力になるだろう。

 父がいるはずの建物の前まで来て、ついに足止めをされた。

「何人たりとも面会できません。医師さまからのお達しです!」

 頑なな拒絶と厳重な警備は予想していたことだ。エランは涼しい顔で「そうか」と頷いた。眼球のみを動かして、周囲を観察する。

(過剰なまでの緊張感。これは、どっちだ? 父上の死を隠蔽しているがゆえか、それとも本当に危篤なのか)

 結局そのところは探り切ることができなかった。勘で当ててみるならば、後者ではないかと思う。

 すぐに勘よりも当てになる情報源が現れたので、思考を一度切り替えることにした。深刻な顔をして外付けの階段を下りる者をさりげなく瞥見する。取り巻きを伴って出てきたのは、エランが現在最も会いたい人物――第六公子その人であった。

 地上に降りると、少年は心底驚いた表情でこちらに歩み寄った。

「エラン兄上、お帰りなさい。思ったより早かったですね」

「そうだな。案外早く片付いた」

 白々しい笑顔と挨拶が交わされる。場がざわついたようだが、エランは目の前のハティルのみに集中しているため、取り巻き連中が何を言っているのかは全く耳に入れていない。

 ――穏便に交渉したい。

 しかし相反する想いも持ち合わせていたのか、自覚していた以上に腹を立てていたのか、口からは穏便ではなく高圧的な物言いが飛び出ていた。

「よし。ツラ貸せ、ハティル」

「それはどういう……?」

 聞き覚えの無い誘い文句だったのだろう、意味がわからずに少年は瞬いた。

「ついて来い。話をしよう。そうだな、隣の屋上薔薇園なんてどうだ」

「わかりました」

 聡い弟はひと思案した後、従順そうに頷いて見せた。

 そうして階段を上り、くだんの薔薇園に踏み入る。

 双方の暗黙の了解で付き人は連れていない。静かな場所で薔薇の香りに包まれながら、エランは切り出す言葉に窮していた。

 雨粒が肌を打つのを感じる。あまり長く話ができないかもしれないな、とぼんやり思った。

「僕が憎いですか」

 やがてハティルの方から口火を切った。感情を抑えているような声色だった。

 エランは特大のため息をついてから、弟を見据える。

「……その質問には答えづらい」

「謝りませんよ」

 微笑。十二歳といえど、誰よりも宮中の悪意の波に揉まれてきた公子だ。容易に腹の内を探らせてはくれない。

「お前とアスト兄上のせいで多大な迷惑を被ったわけだが、それとお前を憎むのとは、違うと思っている」

「さすが寛大ですね」

 抑揚のない声が返る。エランは思わず頭をかいた。

 ――腹を立てているのは確かだが、怒りの矛先は、己が内に向けられているのだ。

 それをどうやって伝えるか、そもそも伝えるべきなのか、考えあぐねている。今は自分のことよりハティルだ。

「継承権がそんなに欲しいか」

「欲しくなんてありませんよ、そんなもの」

 少年は低い声で吐き捨てた。何やら聞き覚えのある台詞で、まるで自分と話しているような錯覚に陥る。

 ここに引っ掛かりを覚えたエランは、雨水を吸いつつあるターバンの布を耳にかけた。視界を開くためではなく――右目が使いものにならないのだからそんなことはできない――なんとなく相手に素顔を見せるべきだと感じたのである。

「欲しくないが、手にする必要があるんだな」

「…………」

「沈黙は肯定と同義。だが大公の座を望まないなら、こうまでする動機がわからない。 脚光をさらったアダレムへの腹いせか? アスト兄上と手を組んだなら最終目的は国土の拡大、或いは帝国への報復か」

 末子の名を聞いた時だけ、ハティルが僅かに身じろぎした。

「どうやらアダレムに絡んでいるのは間違いないようだな。お前は、先見の明と視野の広さを持っていると思ったが、こんなことをしでかすとは」

「知った風な口をきかないでください。年に何度と帰らないあなたに、何がわかりますか」

「わからないからこうして探っている」

「――今更何を!」

 突然ハティルが声を荒げた。見上げる双眸は鋭い。一瞬、気圧されたほどだ。

「周りに積極的に関わろうとしなかった非は確かに認める。だから改めて聞かせてくれ。ハティル、お前は何をそんなに追い詰められている?」

 問いの答えが出るまでに、しばしの間があった。薔薇の花びらを打つ雨の音がやけに大きく響いた。

 雨に濡れながら少年の唇が何度も開閉する。

「わかりますか。周囲の期待を一身に浴びて育つ幼き日を。後に生まれた赤子に夢を奪われる虚しさを。けれど何より、自分が当たり前のように受け入れ望んでいたものが――どこにも存在しないのだと知るのが、どれほど苦しいかわかりますか!」

「わかるか」突き放すような見下すような言い草に苛立ち、エランはつい嘲った。「お前は、不幸自慢がしたいだけか?」

 暗に「甘ったれるな」と言ってやった。

 不運のエピソードで競うのは筋違いだが、エランにもそれなりに引き出しがある。察しの良いハティルもそのことに思い至り、乾いた笑いを漏らした。

「……失礼、あなた相手にこんな話は不毛ですね。それに、公子は誰しも一度は『末子』だった……」

 違うんです、と彼は頭を振った。

「選択肢があるから人は迷い、争う」

「それには私も同意見だが。選択肢は自由そのものだ」

 雨音が大きくなっている。互いの言葉を伝え合うには、声を張り上げる必要があった。

「自由は大事です。でも僕はそれよりも、対立の無い世界であればいいと思ってます」

「お前の言う世界はこの国のみを指すのか。わかっているだろうが、アスト兄上を引き込んだからには――」

「大義名分が立つぶんだけいいじゃないですか! 内紛に裂かれるのだけはあってはならない。愚かで醜い、兄弟喧嘩が勃発するよりは! 帝国に挑んだ方がまだ美談になる!」

「美談……!? そんなものは世迷言だ!」

 話がかみ合わなくなった手応えを感じ、エランは拳を握る。

「僕ら兄弟はその危うさに見てみぬふりをしているだけです。いつでも殺し合うつもりで笑い合っている。そうでしょう、エラン兄上。ベネ兄上たちだって」

「…………」

 否定しようにも、できなかった。ハティルは尚もまくし立てる。

「母が同じなのに、同じ側に居るはずなのに、アダレムから遠く離れてしまった。僕は……期待されていると、思っていた。けれど褒める語句を並べながらも、有象無象が求めていた傀儡こそがアダレムだった。御しやすい、駒なんです。そうとわかった時、自分が信じて浸っていた『期待』が、巧妙な嘘だったと理解しました」

「奴らにしてみればお前の聡明さは邪魔だろうな。だがアダレムを幽閉したお前は、その有象無象とどう違う?」

 ちがいませんね、とハティルは額を押さえて笑った。泣いているようにも見えた。雨のせいで判然としない。

「あの無邪気な瞳を向けられる度に――僕はただ一人の弟を、けがれ潰れる前に救ってやりたいと想い、同時に首を絞めてやりたいと思いましたよ。人の気も知れずに、なんて能天気なんだろうって」

 ――痛々しい告白だった。

 細い両肩を掴んで目を覚ませと揺さぶってやりたかった。かろうじて、堪える。

「あの子は大公になってはいけない。けれど、僕らが表立って対立したら、諍いが長引いてどんな結果を生むか知れない。父上が悪いんですよ。ハッキリしないから」

「ハティル、私はお前が共謀者に何故アスト兄上を選んだのか、わかった気がする。明晰がゆえに慎重になりすぎるお前と違って、思い切りがいいからだ。しがらみをものともしない自由さがあるからだ」

「……どういう意味です」

「お前のそれは合理的な結論に聞こえるが、違う。逃げているだけだ。一丸となってうまくやっていけなくてもいい。共存する努力すらせず、最悪の結末に怯えていていいのか!」

「意外と理想主義なんですね! うまくやっていこうだなんて」

「理想を追い求めるあまり、極論に走っているのはお前の方だ!」

「そう、かもしれません」

「私も人と分かり合う努力から逃げ続けていた一人だ。偉そうに説教する権利は無いが……」

 いつしか俯いていたハティルの肩を、今度こそ掴んだ。目が合うのを待ってから、続きを綴る。

「お前は一度でも、アダレムにどうしたいか訊いたことがあるか」

「無意味ですよ」

「対立を失くしたいなら、結託すればいい」

「無理です」

 目を逸らされ、肩の手も払われた。エランは頭の中で何かが弾ける音を聞いた。

「頭ごなしに否定するな! 私たちは翻弄されるだけの傀儡じゃない、意思の通う人間だ。操らんとする糸を断ち切ることだってできる!」

「……エラン兄上が大声を出せる人だったとは、驚きました」

 それまで鬱々としていたハティルの応答が、ふと感心したような色味を帯びた。

「私自身が一番驚いている。ここ数日で色々あったからな」

他人ひとの為にこんなに必死になれるんですね」

「お前の気持ちがわかるとは言い難いが、アダレムの今の状況は他人事と思えない。私もかつては……そうだな、ちょうどお前が産まれた頃のことだ。一時期、軟禁されていた」

 語られた内容に興味を惹かれたのか、ハティルは瞳の焦点をこちらに戻しかける。すんでのところで思い直し、背を向けた。

「全て遅すぎます。結託どころか、アダレムが僕と関わりたいはずがない。それにもう、父上は」

「待て。話はまだ終わっていない」

 そう言って手を伸ばした時――

 隣の建物が急に騒がしくなった。直感的にエランは、事の重大さを汲み取った。

 最も恐れていた凶報が、雨音をかいくぐって耳朶に届く。

 自らに訪れた感情の揺れは、目の前の少年の表情の移ろいとほぼ合致した。

 驚嘆。そろそろ起こりうるだろうと予想していた事態の訪れを、それでも信じたくないという心の拒否。きたる動乱への恐れ。焦燥、再び驚愕。とにかく途方に暮れる。

 次にハティルがこちらを見上げた頃には、ひどく複雑な顔をしていた。

「身罷られた……? ああ、悪いのは父上だ。僕らをさんざん振り回し、果てには勝手に死んでいった、父上が悪いんです」

 どうすればいいですか、と唇の動きだけで訴えられる。面貌には六歳年上の兄に助けを求める弟の弱さと、決裂を前にして加害者に転じかけている男の凶暴さが同居していた。

 お前は真面目だな、とエランは苦笑した。

「考えたくない。僕はもう、何も、考えたくないです」

「わかった。なら、こうしよう」

 耳障りなほどにゆっくりと、エランは愛用のペシュカブズを鞘から解放した。

「正式に決闘を宣言して、証人を呼んでもいい。代理を立ててもいいぞ」

 体格的に不利なハティルへの、配慮のつもりで言った。次いで、勝者敗者に課せられる条件を提示した。

 ハティルは押し黙って聞いている。

 話が終わると、釣り気味の目を一度細めてから、腰に手をやった。

 鞘に組み込まれたまろやかな赤いオニキス、柄を彩る透き通った青いトパーズ、刀身に施された複雑な紋様。宝刀としての美しさのみで比べるならば、ハティルの賜ったそれの方が上等だ。大公ではなく母方の祖父からの贈り物だったという。

 同じ型のナイフでありながらも子供の手で振るえるような小ぶりで、使い込んでいる痕跡も無い。

 第六公子はまだ成人していない。ゆえに帯剣していても道具そのものは実用性よりも見た目重視で、本人の戦闘経験も浅い。

 だがハティルは自ら凶器を構えた。全ての不利もリスクも承知の上で、挑戦を受けるとの意思表明だ。

 立ち会う者が居ないのなら、どちらかがうっかり手を滑らせて相手を殺してしまっても仕方ない。決闘だと思っているのは個人だけで、両方が生き残って話がかみ合わなかったならただの殺し合いになるが――

 稲妻が天に閃く。

 後を追うように轟音が落ちる寸前、刹那の眩さの下で――エランは弟が悪意に微笑むのを確かに視認した。

 どちらからともなく、動いた。


_______


 狭い窓を無理に通ったせいで、セリカは身体中の至るところで鈍い痛みを感じていたが、それにかまっている場合ではなかった。自らの全体重を支える、縄代わりに結び継がれた布にしがみつくのに必死だ――たとえそれが両脇下にしっかりと結び付けられているとしても。

 薄気味の悪い闇に身を沈めてゆく。

 地面がまだ遠い、気がする。そろそろと壁伝いに下りながらそう思った。

 窓の外から縄を握っているハリャの腕は大丈夫だろうか。こちらの体重を支えているからにはかなりの無理をさせているに違いないのに、してやれることといえば、なるべく静かに急ぐことだけだった。


 ――それを垂らして掴まらせて、アダレム公子を引き上げるのね。

 ――いいえ、子供の腕力では酷です。公女殿下、中に降りて公子殿下にこの縄を結び付けてください。彼を引き上げた後に、今度は私が壁を上って公女殿下に縄を投げます。


 数分前のやり取りだ。扉の錠をこじ開けるより壁にとりついて窓から攻めた方が早いからとハリャが判断し、セリカが実行している。

 塔の窓は、狭くとも、細身の女や子供ならかろうじて通れる幅があった。しかし衣越しにも皮膚が擦れ、関節がレンガにぶつかって痛かった。戻りもまたあれを味わうのかと思うとうんざりだ。

 しばらくして靴の裏が地面に触れた。態勢を整え、折り曲げた膝を立たせる。

「おそとからきたのですか」

 ふいに聴こえた囁き声に、セリカは身を強張らせた。素早く振り返り、声の主を警戒する。

 子供が明かりの届く方へと這い出るのが薄っすらと見てとれた。普段と違ってターバンをしていなかったので咄嗟にわからなかった。

「アダレム公子」

 望んでいた人物に簡単に会えたことに安堵したかった、が。

 妙に胸が騒ぐ。塔の中の空気は重く、人の通常の臭気がお香に隠しきれていないような、何とも言えない臭いがした。

「ええ、そう、塔の外からね。あなたをここから連れ出しに来たわ」

「おそとはこわいところです。ひとのむれがいます」

 四つん這いの少年から、不可解な返事があった。意味がわからずにセリカはたじろいだ。

「ぼくは、おそとにでたら、やまい、にかかります。おそとは『あく』にみちています」

「何を言ってるの……」

「あくって、わるいことをするひと、かんがえるひと、だって。おねえさんは、わるいことかんがえますか。おそとのひとに、あったら、ぼくはしんじゃうんですか」

 質問の嵐に気圧されて、セリカは何も言えない。薄明かりに揺らめく瞳は清らかそうに見えて、同時に深い影を秘めていた。

(病って何? 体のこと、それとも比喩なの)

 答えを誤ったら、彼は一緒に来てはくれないのだろうか。言いようのないプレッシャーを感じながら、なんとか頭を働かせる。

 被り物を脱ぎ捨て、腰を低めて、六歳の公子と目線の高さを近付けてみた。

「怖い人じゃないわ。アダレム公子、前にもお会いしました、あたしはセリカといいます。隣の国からやってきた、あなたのお姉さんになる予定の姫です。この命に誓って、あなたに悪いことなんて、しません。考えません」

 幼児はむくりと起き上がった。

「おそとはこわいところです?」

 あぐらをかき、先ほどの言葉を繰り返すも、今度は疑問符がくっついていた。

「世界は怖いけど、怖いだけじゃないわ。あなたにひどいことをしようって思う人がいるのと同じくらい、あなたを守りたい人がいるはずよ」

 ――我ながら、安易な気休めだと思う。けれど子供に届くのはきっと、冷たい現実よりも心のこもったきれいごとの方だ。そう信じたかった。

 両の手の平を上向きに差し出し、敵意が無いことを表す。アダレムは、穴が開きそうなほどにセリカの手を見つめた。

 幼い彼の中にどのような葛藤があるのかは見当もつかない。つかないが、熱心に説得を続ける。

「外は楽しいこともいっぱいあるわ。かわいい動物も、きれいな花も、あと……」

「おおきなおそらと、そらとぶとりさん、います?」

 いつしか少年は前のめりになっていた。

「そう! そうよ、広い空を飛ぶ鳥がいるわ。もふもふのリスさんもいるわ」

「じゃあ、おそといきたいです。つれてってください、おひめのおねえさま」

「もちろん!」

 光の戻った目で、アダレムが立ち上がる。セリカはそんな彼に笑いかけながら、これから縄を結びつけることと、外で待っている宰相の味方がひっぱりあげてくれる旨を説明した。小さな公子は何度も頷いた。

 よかった、なんとかなりそうだ、そう思って縄に手を付ける――

 ふらりと空気が動いた気がした。

 覚束ない足取りで、人影が近づいてくる。この大きさは、アダレムの時と違う、大人のそれだ。

(他に誰かがいた……!? しまった、この人は!)

 ほっそりとした白い腕が伸びる。

「いかせません」

 女性の、震える声がした。

「な!?」

 掴みかかってきた彼女をセリカはすんでのところでかわした。鈍い音を立てて壁に取りついた後、女は凄まじい形相で振り返り、再び飛びかかってきた。

「曲者が、アダレムからはなれなさい! いかせません、連れて行かせませんよ!」

「待って、話を!」

 抗弁を試みたが、相手は暴れ叫んでばかりでみなまで言わせてくれない。仕方なく、のしかかる体重を払おうとする。そこでふと気が付いた。

(なんて細い手足……それにすごく軽いわ)

 めいっぱい振り払おうものなら簡単に大怪我をさせてしまう。こんなに弱っていながら、連れ去られんとしている我が子を救いたい一心で、力を振り絞っているのだろう。

 痛々しい。

「この子は奪わせません」

「奪うつもりはないわ、外に連れ出すだけよ! こんなところに長くいていいはずないじゃない! あなたも一緒に――」

「甘言です! そんなことを言って、皆わたくしたちを使い捨てにしたいだけです。もう騙されません、ここ以外に安全な場所なんてありません!」

「違う、あたしは」

 共に連れ出すなり説得するなり――どうにか助けてやりたいという気持ちが迷いとなる。セリカはつい抵抗を止めて、されるがままに任せた。髪が抜かれ、皮膚を引っかかれても、歯を食いしばって耐えた。

 きっと他の何かと天秤にかけられるようなものではないのだ。親の、子を庇護したい想いというものは、セリカの理解が及ばないほどに強固だ。

「ははうえ! ははうえ、やめてください」

 その絶叫を境に、セリカを揺する手が止まった。

 女性は、己の脚に抱き着いた幼児を、緩慢に見下ろした。

「大丈夫ですよアダレム、ここは母に任せて、お前は大人しくしていなさい」

 宥めるような声色に、アダレム公子は謝罪しながら頭を振った。

「ごめんなさい、ごめんなさい、ははうえ。ぼくは、でます」

「何を! 聞き分けのないことを、お前は……!」

「ごめんなさい。おそとはあぶないから、ははうえはここにいてください。でもぼくは、でる。ここをでます。だって、なにもない。おそとにはせかいがある。みんな……あにうえがいる」

 六歳児の表情は信じられないくらいに穏やかで大人びている。紛れもない、覚悟と慈愛がそこにあった。

 いつの間に、そんな風に考えていたのか。

「あにうえは、おそとにいます。ぼくも、いっしょじゃないと、だめです」

「そんな」張りつめていた糸が切れたように、彼女はセリカから手を放し、よろめいた。「周りの期待に応えすぎたハティルに続いて、お前までもが急ぎ足で大人になるのですね……」

「じかく。もてって、はてぃるあにうえが、いってました」

 アダレムが母の脚から離れる。幼いながらもその顔は誇らしげだった。対する母は、力尽きたようにその場で膝から崩れる。

(すごいな……)

 セリカは蚊帳の外から感嘆した。

 子供は何も考えていないように見えても、ちゃんと周りのあらゆるものを見聞きして吸収しているのだと、聞いたことがある。彼はもしかしたら大人が思う以上に色々と事情を理解しているのかもしれない。

 何と言っても、一番近しい肉親があのハティル公子なのだ。今はまだ鳥やリスを追いかけたい年頃だとしても、この第七公子はいつか兄たちに追いつくのだろうか。

「信じてください。あたしやエランディーク公子は、あなたがたの敵ではありません」

 セリカが妃にかけた言葉は、おそらく届かなかっただろう。近付いて確かめると、彼女は気を失っていた。

 今度こそアダレムの脇下に縄を結び付けた。それから三回引っ張って「引き上げろ」の合図を窓の外のハリャに送る。

「ははうえ、またあとで。ぜったいむかえにきます」

 そう言いって、小さな公子は光の方へと上って行った。見ると、セリカよりかはよほど楽そうに窓を通り抜けている。

(なんかぷるぷるしてた。まあ、高いわよね)

 怖いのを我慢しているのだろうけれど、後のことはハリャに任せるしかない。アダレムはもう大丈夫だ。

 ひと息ついて壁に額を当てた。

 鉄が擦れ合い、重く軋めく音に、セリカは硬直した。

 扉が開いたのだ。それ即ち、扉を外から「開けられる」人物の訪れを、意味する。

 ぞっとした。身体の向きを変えようと固まった筋肉を意地で動かすが――

 ――衝撃と共に何者かによって壁に押さえ付けられ、それは叶わなかった。

 打った箇所が痛みに痺れる。セリカは首だけでも振り返らせて、突然の来訪者を見上げた。

「……腹黒ロン毛野郎……!」

 暗がりに光る微笑が恐ろしく美しい。最も会いたくなかった男の姿を認め、毒を吐くしかなかった。

「あはは。何だい、その呼び方。それで行くのかい」

 男からは水の匂いがした。

 それを意識した途端に天気が崩れ、轟音が炸裂した。けたたましい降雨が塔の屋根や壁を叩き、内側にまで響いた。

「会いたかったよ。麗しの姫殿下」

 撫でるような声が、セリカの頭頂部から耳の後ろへと這う。気色悪さから逃れたくて、反射的に顔を背ける。

 濡れて濃くなっているのか。男の衣服と髪に焚き込まれた香に、噎せ返りそうになる。

「いやあ、美しい。かわいそうな弟を守るようにして排除したいハティルと、己の立場から逃げない末の公子か。ここはアダレムの勝ちかもしれないね」男はひとりでに話し出した。「閉じ込めたら自滅してくれないかなと思ってたんだけど、そう簡単には行かないものだね」

 がっかりしているようなその発言を耳にして、セリカは激しい嫌悪を覚えた。熱い息を壁に吐き付ける。

「……さんざんかき回してくれたわね、悪党が」

「へえ、私が何をしたって? エランもアダレムもハティルもウドゥアルも、みんなピンピンしてるじゃないか」

 長兄ベネフォーリ公子の名が含まれなかったところに、この男の腹の底が窺えた気がした――が、今はどうでもいい。

「未遂で終わったからって、みんな結果的に無事だったからって、あんたが悪事を企んだ事実は動かないわよ。肉親を閉じ込めたんでしょ、毒を盛ったんでしょ!?」

 言葉にするとますます腹が立つ。そうだ、この男のせいでエランは死にかけたのだ。

「じゃあ君が裁いてくれるの」

「ふざけるのも大概にしなさい。何が『じゃあ』よ、あんたに選択の自由が許されると――」

「公都にエランの味方が少ないのが、何故かわかるかい」

 全く予期せず、男が新たな話題で切り込んできた。思わずセリカは言葉に詰まった。

「大公に推すのが難しいからだよ」

「母親が異国の人間だから……?」

「それもあるけど。それだけであそこまで肩身の狭い思いはしない」

 今までになく真剣な口ぶりに、我知らずにセリカは聞き入る。次の言葉を黙って待った。

「布の下はもう見たかい。あの傷はね、第三公妃がやったんだ。乱心して我が子を切ったんだよ」

「……!」

 セリカの動揺から、男は何かを察したように喉を鳴らして笑った。嫌らしいほどに顔のすぐ近くから聴こえてきた。

 身じろぎしたが逃れられそうにない。手首を掴む手が、肩を壁に押し付ける力が、強すぎる。

「詳しい経緯は省くとして……そんなことよりもね、狂気は受け継がれるって思われてる。みんなエランを持て余してしまうんだよ。いつか母親と同じように壊れるんじゃないかって、どうしてもその不安がチラつくんだ。そりゃあ隠すしかないね? あの傷痕は、否応なしに当時を――あの事件を思い出させるから」

「アストファン・ザハイル……」

 こらえ切れない怒りが声を掠らせる。四肢をがくがくと震えさせる。 

「何かな、姫殿下」

「とことんまで、ムカつく奴ね」

 能天気な返事があった。

「私が? 何故?」

「今の話が全部本当だったとしても、あたしは本人の口から聞きたかった! それをあんたみたいな、人の気持ちを何とも思ってないような奴なんかに!」

 気が付けばセリカは、肘を後ろ回しに突き出していた。骨に当たった手応えはあった。

 男の漏らした呻き声に「いい気味だ」と思う。だがこんなものでは全然足りない。振り返り、唾を吐きつける。

「人の傷を、ヘラヘラ笑って語ってんじゃないわよ! あんたってほんと、クズね!」

 アストファンは頬についた唾液を拭き取ろうともせず、ただ怪しげに口角をつり上げた。

「クズで結構。生憎と私は、気の強い娘が格別に好きだよ。いつまでそんなことを言っていられるか見ものだ」

「つっ――!」

 視界が転じた。

 鎖骨や顎が硬いものに擦れて、じんじんと痺れる。皮膚に当たる感触は壁のそれに比べるといくらか滑らかに思えたが、その分、砂粒のような汚れがあるような――

 ――目を開けなくても、床に押し倒されたのだと理解できた。

「放せ外道!」

 屈辱に視界が滲んだ。

「うん、放さないよ。どのみち君の王子様は、取り込んでいてここには来れない。塔を兵で囲ませてあるし、大声を出しても無駄だ」

「えっ」

 聞き捨てならない情報がサラリと落とされたことで、セリカはしばし己の置かれている状況を忘れた。

(囲まれてる……)

 となれば、先に外に逃れたはずの二人はどうなっているのか。

 更に失意を広げるような言葉が、アストファンから投げつけられた。

「決死の救出劇もここまでだね、お疲れさま」

 ――読み負けたのか。

 もっとうまいやり方があったのではないか。イルッシオに借りていた兵士をこちらに回すべきだったか。否、それではエランの守りが手薄になっていた。どう組み替えても、或いはこの男は戦力の少ない方を突いたのではないか――。

 いずれにせようまく頭が回らない。腰にのしかかる圧力が思考を妨害する。

「あんたは……なん、なの……! こんな、何がしたいのよッ」

「そうだねえ。君は、勘違いしてないかい。別に私は崇高な目的なんて持ってないよ。どうせ何も思い通りにならない一生なら、少しでも面白い方へ進みたいじゃない? 野望は大きく、お祭りはより派手に。私は人がもがき苦しむのを眺めるのが好きなんだ。それだけだよ」

 男のあまりにも平然とした返答に、絶句した。

 ものの見事に歪んでいる。歴史の中では「地位や権力・財力を与えてはならなかった悪人」が現れるのも稀ではないが、まさか身近なところで出会うとは、セリカは予想だにしていなかった。戦慄した。恐怖が直に伝わるのは癪だが、不可抗力だ。

(こいつ、誰も咎めてないだけで裏ではやばいことしてるんじゃ)

 公子たちのスタート地点は似ていたはずだった。思えば、似たような台詞を第五公子が口にしたのを聞いたことがある気もする。

 解釈を広げれば、窮屈は公子に限ったことではない。大陸に生きる大抵の人間は、何かしらしがらみや枷を持って生まれてしまう。そこからどう生きるかが、人の真価を定めるのではないか。この国に来てからセリカは、次第にそう思うようになっていた。

「想像してみなよ。たとえエランの尽力で何もかもが丸く収まったとしても、代償として、君という得難いパートナーを失うんだ。ゾクゾクするね」

 香の匂いが近付いた。

 衣服が掴まれる。焦り、喚き散らした。

「最っ低! 社会のゴミ! はた迷惑が服を着てるだけの、ケダモノ以下!」

「聞こえないな。もっともっと叫んでおくれよ」

 鉄の摩擦音がした。セリカを組み伏せたまま、クズ男は器用に刃物を鞘から抜いたらしい。

 冷たい予感が全身を駆け抜けた。下手に暴れようものなら、切られる。

「知ってたかい。こういう時って黙って抵抗しない方が加害者の男も興ざめして、早いトコ終わらせてくれるらしいよ。まあ私はそんな生ぬるいことはしないから、期待しないように」

「――――」

 助けて、と。声にならない悲鳴が、喉でつっかえた。

 エランが来れるか来れないかの問題ではないのだ。すぐに泣きごとを言ってしまったら、何の為の別行動か。

(呼んじゃだめだ。任されたのに、ひとりで成せないようじゃ、パートナーを名乗る資格が無い)

 血が滲むほどに強く唇を噛んだ。

 今は耐える以外に、何ができようか。ここで汚れてしまっても婚約は破棄されるだろうが、セリカはそのことに思考を向けるのが怖かった。

 脳裏にちらつく衝動。普段は潜在意識の奥底に眠っている原始的な凶暴性が、呼び覚まされる。

 何もできない。絶妙な具合に押さえつけられていた。抗えない悔しさに、頭の奥が赤く染まる。ゼテミアンの母語で幾度となく「死ね」との呪詛を呟いた。

 帯が、スカートが、切り裂かれるのを感じた。衣擦れなんて聴きたくないのに、耳を塞ぐ術がない。

 何もできない間は、何をすればいいか。

 妄想した。

 隙を見つけた瞬間、それとも解放された瞬間。どう報復してやろうか。どこを、引きちぎってやろうか。暗い妄想だけが心の拠り所だ。

 悲しくなんてない。居場所が無くなっても、エランの隣にいる未来が手に入らなくても。この男だけは、ズタズタにしてやる――!

「ひっ」

 肌が冷たい空気に晒された。そこに髪のようなひんやりと柔らかい感触が接したかと思えば、次は、もっと熱を帯びたものだった。手の平。そして指。

 気持ち悪い。家族以外の異性にここまでの接近を許したことが無いのだ。肌に触れられたことも、無い――

 違う、それは違った。ひとりだけいた。だが、こんな吐き気を催すような接触では決してなく。

 この場面でエランを思い出すのがひどく申し訳なくて、虚しくて、無理やりに思慕を憎悪で上塗りしようとした。涙を堪えつつ、両目は血走っている。

 臀部に熱が掠った。

 ――死にたい。

(死ぬなら、絶対こいつを道連れにする)

 ひときわ物騒な思いに支配された。

 されたまま、数秒が過ぎた。

 どさり、と大きな物音がして、セリカは重みから解放された。

(誰か来た?)

 脱力してうまく起き上がれない。せめて横に転がってみると、気絶させられたと思しきアストファン公子の輪郭が目に入る。

 嫌悪感が原動力となって、セリカは急いで上体を起こす。壁に背が当たるまで後退った。

 おそるおそる、顔を上げる。

 どこかで見たような筋骨隆々の戦士風の男が佇んでいる。左腕が三角巾につられていて、鎧もところどころ欠けているが、眼光は相変わらず鋭い。男は殴るのに使ったらしい剣の柄を一度見下ろしてから、あるべき場所に収めた。

 何で、とセリカは口に出さずに唇だけで訴えかける。見えたのか察したのか、男は抑揚の無い口上を述べた。

「主の意思は己が意思。己がつるぎは、主の剣」

 そして淡々と動く。アストファンの手足を縛ってから、背を向けたまま、マントを差し出してきた。

 セリカはゆっくりと手を伸ばしてそれを受け取った。よろよろと立ち上がり、破けたスカートの代わりにマントを腰に巻き付ける。

 微かな香りが鼻孔に届いた。

(あ、このひと……エランと同じにおいがする)

 以前外套を借りた時は気が付かなかったが、衣服に染み込んだ香の種類や組み合わせ、食べるものが似ているからだろうか。

 親近感は安心感を連れてやってくる。ついさっきまで胸中で渦巻いていた悪感情のことごとくが、浄化されていく。

「濡れて不快でしょうが、申し訳ありません」

 ぼそりと彼は謝った。

 言われてみればマントはかなり水を吸っていて重いし、冷たい。言われるまでわからないほど、気が動転していたともいう。

「いいわよこれくらい。ありがたく使わせてもらうわ」

 外は大雨だ、怒れるはずがなかった。

 そろりと傍らに行ってみた。近付く気配に気付いて、大男が振り返る。

「助かったわ、タバンヌス」

「役回りです」

 無表情な男の返答はそっけない。が、次の瞬間ぐっと眉間に皺を寄せた。「当然のことをしたまでです」と続けて、それも思い直したのか、頭を振った。

「……失礼」

「どうしたの? 何を謝ってるの?」

 うまく言葉にできないのを嘆いているのだろうか、とセリカは首を傾げた。

 すると彼はザッとその場に跪いた。

「え、何? ちょっと」

「エランディーク公子は現在、ハティル公子と対峙中です。鬼気迫る様子で刃を交えています」

「!」

「主が、自分がどんな人間であるかを思い出せ――……いえ、取り戻せたのは、公女殿下のおかげです」 

 頭を下げたまま、タバンヌスがまたしてもぼそりと言った。

「エランには、あなたが必要だ」

 それきり彼は沈黙してしまった。

(思い出した? 見失ってたって……?)

 どんな人間であるかを取り戻した――そう言われると、なんとなく思い当たる節があった。

 父と兄が「性根が真面目」だの「責任感が強い」と評したのを嫌そうにしていたのは、エラン自身が思い込んでいる「自分」の像と周りの人間に見えているものとの食い違いがあったからか。

 無気力だが、無関心ではなかった。家族と国を想っていながらそれに見合った行動をしていなかったのだ。

 ――そうか、今は戦っているのか。

(あたしのおかげかどうかはわかんないけど……)

 もっと必死に生きてみたらと言ったのは憶えている。どんな形であれ力になれたのなら、嬉しい。

「ありがとう。でも、あなたも必要だと思う」

 大男はふいっと顔を背けた。照れたのだろうか。

「その話、後で詳しく聞かせてね。昔のエランがどんなだったかとかも、興味あるわ」

「…………」

「返事は!?」

「承知」

 渋々だがようやく返事があった。よろしい、とセリカは満足げに笑った。

「行きましょうか」

 もはや脅威ではなくなった第二公子をタバンヌスが担ぎ上げるのを見届けてから、踵を返した。

 震えはもう止まっている。


_______


 ――信念の重さだ。

 刃の重さは、意思の強さゆえだった。剣術や動きの切れも筋力もこちらが勝っているのに、なかなか決定打を打ち込めないのは、相手の覚悟がそれだけ強固であるからだ。

(ハティルは心の底から、他勢力を排除しての統率が真の平和に繋がると信じているんだな)

 十二歳の弟によって振り回された長いナイフを、自身のそれで受け止める。

 型に多少の不安定さはあっても、少年が日頃からよく鍛えられているのがわかる。動揺を最小限に抑え込んで、勝つ為にどう動けばいいのかを模索しているのだ。

(敵対してるんじゃない。目的地が同じで、そこに至るまでに辿ろうとする道のりが違うんだ)

 つばぜり合いをしたのは数秒に満たない間のこと。体重を乗せて押し切り、次のひと突きを送り込む。僅かに遅れてはいたが、ハティルは体勢を崩しかけたままで何とか受け流した。

 鉄が擦れ合うひどい音が、しばし響いた。このままではまずいと直感する。エランは己のペシュカブズの変化に気付いていた。

 刃こぼれしている。皮肉だが、戦闘経験が浅いぶんハティルの持つ凶器はほとんど使用された形跡がなく、新品に近い状態で戦いに臨めているのだ。

 何度となく激しく衝突していれば、どちらの得物が先に音を上げるかは明白だ。

 そうこうしている内に、屋上薔薇園に人影が上って来るのを、視界の端で捉える。

(横槍が入る前に決着を)

 稲妻が走った。雷の爆音が、一瞬の隙を示す。

 瞬く間に決断した。武器を手放す。姿勢を低くして踏み込み、左手でハティルの右手を制し、右手で左肘を掴む。

 勢いに任せて倒れ込んだ。

 それからは揉み合いになった。偏った視界の中で、トパーズの青が光るのが見えた。

「ぐっ……!」

 己の喉から漏れた呻き声で、顎を切られたのだと遅れて知る。痛みの度合いからして、傷口はきっとそれほど深くはない。

 今一度、ハティルを見やった。被り物はほどけて息が荒いが、その瞳には静かな決意の炎が灯っていた。狂乱の兆しはどこにもない。この者は、理性を保っている。

 ならばと名を呼び、再度訴えかける。

「聞いてくれ。敵対しているように錯覚しているだけだ。距離があるように見えるだけだ。私たちは、わかりあえる」

 ハティルは目を細めただけで、返事をしなかった。

「この距離なら錯覚しようがないな」

 そう言ってやると、怯んだように見えた。

「……上に立つ者の妥協は破滅への第一歩です」

「妥協なくして複数の人間が、複数の群がりが、ひとつところで暮らせるわけがない」

「そうとも限りませんが」

「武力による支配を指してるなら、長年制御のかなわなかった我がルシャンフ領の先住部族の例を、反論とする」

「ぐうの音も出ないですね」

 ――イィイン。

 異論が出なくても、手は出るらしい。突然の一撃を凌げたのは、培った経験で磨かれた反応速度のおかげだった。

「笛……?」

 ハティルは眉根をひそめて、渾身の攻撃を止めた短い鉄の棒を睨んだ。

「いい音色だぞ」

 何故か自慢げに答えてしまった。エランは笛の両端に両手を添えて、本来の倍の力を乗せる。元々腕力はこちらが上だ、この体勢でハティルが持ち堪えるのは至難だった。

「そんなもので……!」

「固定観念だ。鉄笛も、立派な武器になる」

 エランは手の中の笛を巧妙に捻って、ハティルの宝刀を遠くへ弾き飛ばした。

 その時点で既に、二人は大勢の宮廷人に取り囲まれていた。身を起こして周囲を一瞥した後、エランは無言で弟に手を差し出した。

「……発想の柔軟さでは、僕の完敗でしょうね」

 第六公子は呆れたような疲れたような顔でため息を吐き、差し出された手を取る。

「こんな大雨、何年ぶりですか」

 立ち上がっても、ハティルはすぐには目を合わさなかった。

「私の記憶だと六年だ」

「そうでしたね。アダレムが生まれた時、三日三晩は雨が降り続けましたね」

「よく憶えてるな」

 ふふ、とハティルは暗い笑いをする。

「怖かったんですよ。雷がじゃない。僕は、天の恵みに恐れをなしたんです。こんなに祝福されて生まれる公子が羨ましくあり、そして恐ろしくもあった。どんな人生を背負わされるんだろうって。もう自分の入る余地はないのかなって」

「へえ。存外、私も大して違わないことを思っていたぞ。いよいよこの国にとっては用済みか、とな」

「……――エラン兄上、今もそう思ってますか?」

 ようやく目が合った。年相応の好奇心がそこにあり、エランは思わず笑い出した。

「必要とされているかどうかなんて知ったことか。私が国と民にどうしてやりたいか、のみ追求する。今はそれでいい」

「そう考えられる時点で、あなたは強いのですよ」

 ハティルはやはり呆れたように嘆息した。

「逆に訊くが、天候が神々の祝福の表れなら……今日は何が生まれるんだ」

「兄上は何だと思います?」

「さあ」エランは空を見上げ、意味深な間を置いてから、視線を戻す。「それより、忘れてないだろうな」

 声を低めて念を押すと、ハティルは苦い顔で、もちろん、と応じた。

「負けた方が勝った方に無条件に従う。期限は本日からひと月、ですよね」

 決闘開始の際に交わされた約定――それこそが、思想を擦れ合わせるほかに、戦わなければならなかった理由だ。

「笑っていられるのも今の内だ。馬車馬に生まれ変わった方がまだマシだと思うくらい、働かせるぞ」

「嫌な言い方をしますね」

「それが罰だ」

「僕は己の選択を後悔してません……が、負けは認めます。しでかしたことの代償を払うつもりです」

「聞き分けが良くて何よりだが、お前は何かと苦労しそうだな」

 真面目すぎるのも考え物だ。心中で苦笑する。

「お構いなく」

 しれっと答えてハティルは被り物を整え直した。少年の所作や表情からは、先ほど「何も考えたくない」と口走った時の危うさも緊迫感も抜け落ちている。

(それでこそ、正面からやり合った甲斐があったというもの)

 顎から首に垂れる血を、エランは手の甲で拭った。

「さて……」

 大公の側近だった者や大臣たちの表情が醜く歪むのを、エランは確かに見た。奴らの不安を煽る為に、会話は敢えて周りにも聴こえるような音量で行っていたのだ。

(これを機に炙り出せたら好都合だな)

 ――じきに蹴散らさねばなるまい。

(結託できる相手が宰相だけなのは今後問題となるだろうが、対応はおいおい考えるか……)

 視線を向けたのがきっかけだった。宮廷人の人だかりは、押し寄せるようにして一斉に騒ぎ出した。

 幸いと、イルッシオ公子に借りた兵も薔薇園に上がってきていた。彼らが間に飛び込んで壁となってくれたが、喧噪はしばらく収まらない。

 エランは絶えず、敵意や思惑の気配を探った。察しの良い輩なら、さっそく傀儡化せんとする対象を切り替えようと、検討しているところだろう。

 ついでに投げかけられている言葉を断片的に拾う。どれも失笑せざるをえない内容だった。

「聞いたかハティル。『陛下の近くで血を流すなど、悪ふざけが過ぎる』『混乱に乗じて悪巧みか』と言われているぞ。心外だ」

 悪巧みをされた側として、少々嫌味を込めて言う。聡い弟はバツの悪そうな顔をする。

「この騒ぎ、どう収めればいいんですか」

「それは――」

 だしぬけに、どよめきが上がった。

 最も騒がしい方へと目を凝らす。ほどなくして、図体の大きい男が、人垣をかきわけて前へ出た。

「タバンヌス、どうしてお前が」

 旧知の男の登場に留まらず。驚愕を誘う顔ぶれが次々と集まった。人だかりの方も、気圧されて場所を開ける。

 タバンヌスによって地面に投げ出されたアストファン公子。次に歩み出たのは、宰相。

 宰相が痩せ細った長身を折り曲げて地面に膝をつくと、彼の背後から色白の若い女が現れた。女の背中から、五・六歳ほどの男児が飛び降りる。

「アダレム!」

 意図せずハティルと声を揃えて、末弟を呼んだ。男児は無邪気に笑って駆け寄ってくる。

 目線を逸らしたハティルを尻目に、エランはしゃがんでアダレムを迎えた。幼児は抱き着く一歩手前で転び、わっと声を上げながらエランの右膝にもたれかかった。

「無事だったか。少し痩せたな、ちゃんと食べていたか」

 細い両腕を掴み、立たせる。

「たべてたです。ごはん、おいしくなかったです」

 アダレムはこくこくと首肯した。先ほどの走りっぷりといい、五体満足で間違いないようだ。

「そうか、よく我慢した。後で好きなだけ美味しいものを食べような」

 頬をむにっと軽くつまんでやる。アダレムはくすぐったそうにした。

「あい。えらんあにうえ、またりすさんといっしょに、あそんでください」

「ああ、約束だ。……リスの分まで約束はできないが」

 動物は気まぐれだ、餌付けしても戻ってきてくれるとは限らない。深刻そうに断っておくと、アダレムは楽しそうに笑った。

 そしてふいにむくれた顔をする。どうしたのかと問う間もなく、アダレムは隣へ逸れた。

 隣のハティルはいつの間にか背を向けている。その背を、末弟が遠慮なしにぽかぽかと殴った。

「ははうえが、かわいそうです。はやく、だしてあげてください」

「わ、わかった。わかったから、落ち着け」

 六歳児なりの本気の拳を、ハティルは困惑気味に受ける。

「ほんとですか」

「ああ。この後すぐ、なんとかする」

「ほんとのほんとですか。じゃあ……ゆるします」

 殴る手を止め、第六公子は「いーっ」と歯を見せて笑った。それを受けたハティルは、苦しげに唇を震わせる。

「アダレム、僕は……、ごめん。許してくれなくてもいいよ……でも、ごめん」

 幼児が唖然となって兄を見上げた。

「わ、わ。だいじょぶですか。やまい、ですか? あにうえも、ごはんおいしくないですか」

「別に僕は病じゃないし、宮殿のご飯はいつも美味しいよ! ああクソ! はなれろ!」

「だいじょぶなんですか。じゃ、あそびましょう。あにうえ、あにうえ、はてぃるあにうえ、あそんでください」

「連呼するな! くっつくな、服がベタベタして気持ち悪い!」

「えへへ」

 まるで木肌にひっつく虫の容貌だ。再三怒られて、ついにアダレムが離れた。

 そんなやり取りを眺めながら、エランは口元を覆って笑みを隠した。決して仲良くないはずの兄弟はこれからも、複雑な想いが拭えない関係であり続けるだろう。

(溝が完全に埋まらなくても、境界線が残ったままでもいい。探り探り、きっとやっていける)

 おせっかいだと思われようが、今度はできるだけ手助けをしたい。

 エランは首を巡らせて、依然として跪いている宰相に楽にするよう声をかけた。宰相は頭を垂れたまま立ち上がる。

「ありがとうございます。ではご報告いたします。先刻、大公陛下がご崩御なさりました。エランディーク公子殿下。法定にのっとりまして、お願い申し上げます――ご決断を」

 風雨の響きを除いて、場はすっかり静まり返った。誰しもが、まるでエランの息遣いすら逃さぬように耳を傾けている。

 視線の重さを質量に換算できるなら、きっと馬十頭分はあっただろう。

 決断を迫られていると言っても、エランの返事は決まっていた。問題はそれが喉まで出かかって止まっていることだ。

 身に纏うものの感触が急に意識を占める。母から贈られた耳飾の重さ。顔の右半分を覆う布の、濡れた肌触り。鼻先から垂れる水滴。

 喉の奥が引き締まって息がうまくできない。そんな中、視界に動きがあった。先ほどアダレムを背負ってきた女が、すぐ傍まで近付いてきた。

 肌の白い女はヌンディーク公国にあふれているが、これほど色素の薄い瞳はあまり見ない。橙色のアクセントが美しい、ヘーゼル色。角ばった目の形も特徴的だ。

 女は数歩の距離を残して立ち止まった。微かな笑みを、朱色の唇にのせている。

『好きだけどね。そうやってかっこつけないとこも』

 彼女の微笑につられ、遠くない過去を思い出す。

 目が合うと、セリカはパチリと片目を瞬かせた。意味のわからない仕草を前に、あっという間に肩の力が抜けていった。

 腹から呼吸をして、声を張り上げる。

「暫定! 空いた大公の座はこの私、エランディーク・ユオン・ファジワニが埋める」

 数秒の静寂。次いで、今日一番のどよめきが上がった。押し寄せる人波を、タバンヌスとイルッシオ公子の兵士たちが身を挺して食い止めてくれる。

 有象無象の考えが手に取るようにわかる。兼ねてより、数ある公族の中で一等大公を任せられない男だと思われていることくらい、知っていた。

 だからどうした、と一笑に付す。

「――最後まで聞け! 暫定と言ったのが聴こえなかったのか。ひと月……三十日後に私は退位する。だがひと月の間に、ハティルかアダレムか、大公世子を必ずや決定してみせる。それからの数年間、世子が成人して大公に即位するまでは、代理を立てて政を回せばいい。資力・人材が集中している都はそれで十分回せる。対して、属領ルシャンフの領主は簡単に替えられるものじゃない。私はいずれ元の役目に戻る」

「ご英断にございます!」次なる抗言が飛び出るより早く、宰相が大げさに手を叩いて感嘆した。「これで我が国はしばらく安泰です!」

「ご即決、ありがとうございます。どうか我らファジワニ家を率いてくださいませ」

 流れに乗って跪いた者が意外にももうひとり。殊勝な弟だった。正確にはハティルはアダレムをも――後頭部を押さえつけることで――平伏させているため、二人か。状況を理解しているのかいないのか、アダレムは呑気そうに「ひきーてくださいませ!」と復唱している。

 更にはセリカとタバンヌスが跪いた。特にそんな必要もないだろうに、イルッシオ公子の兵までもがくるりと身を翻して、それに倣う。徐々に、群衆の中からも後に続く者が出始める。

 奇妙な空気になった。直立したまま異論を唱えたそうにする者、その場を去る者、最後まで流れに乗らない者も少なからずいた。

 当のエランと言えば、頭を下げる人々に囲まれても、優越感も何もあったものではない。早く終わらせたい、それしか考えられない。

「尊き聖獣と天上におわす神々に誓って、私は国と民に尽くす。ヌンディーク公国の未来に、栄光あれ」

「栄光あれ!」

 大抵の者が沸き立つ中、

「すぐにでも即位式を……!」

 と誰かが呟いたのが聴こえた。

「即位式よりも葬式だ。まずは聖職者を手配しろ。差し当たり父上の件に関しては、進行は宰相殿に一任する。よろしいか」

 謹んで拝命いたします、と宰相が深く礼をする。

「さあ皆、濡れて冷えているだろう。早く中に入るぞ」

 そっちはお前が仕切れ、とエランは第六公子に伝えた。命じられたままに、彼はアダレムを連れてテキパキと屋上から人を追い払う。第二公子はどうなされたのかと問う者も居たが、それを言葉巧みにあしらったのもハティルだった。


 屋内に入ったところで、人だかりから密かに離れる。

 誰もいない一室に滑り込む。後についてきた足音はひとり分だけだ。ちょうど三歩後ろから、静かに。

 部屋の中央に至ると、エランは唐突に前後反転した。背後にあった人影が、驚いたように立ち止まり、輪郭を揺らした。

 ――なんなの? 

 小さく発せられた疑問に覆い被さるようにして、抱き寄せる。

「わっ! もう……びっくりした」

「悪い」言葉とは裏腹に、腕の力は勝手に増した。衝動のままにかき抱く。「無事でよかった」

「それは、こっちのセリフよ」

 拘束を逃れようとセリカがもぞもぞ動いている。解放してやると、真っ先に手が伸びてきた。躊躇いがちな指先が顎下を撫でる。くすぐったい。

「公子サマが顔に傷増やしてんじゃないわよ。ばかじゃないの」

 心配する声がひどく切なく、胸を打った。薄闇で表情が見えないのが悔やまれる。

「好きで増やしたんじゃな」

「口答えしないの」

「スミマセン」

 手を優しく包み込もうとしたら、叩かれた。邪険にされているのとは違うのだと直感した。照れ隠しが可愛くて、愛おしい。

「……違うわね、もうちょっとしたら大公サマか。ね、エラン、あんた大丈夫なの。あんなに嫌がってたのに、それでいいの」

 ふいに近付いてきたと思ったら、セリカはぽすんと肩に頭をのせてきた。被り物がずれているせいで前髪が垂れ出ている。

 エランはなんとなくそのひと房の髪を見つめながら、彼女の背中をそっと撫でてやった。

「大丈夫じゃなかったら、セリカが骨を拾ってくれ」

「やだ」

 駄々をこねる子供のように、首筋に顔を擦り付けてくる。

「どうせ一時的だ。約定通りに街道を開設できなかったら、お前の国に何をされるか」

「それもそうね」

 異国の姫はくすくすと静かに笑った。

「ところでお前……身だしなみに不可解な点があるが」

 再会してからずっと気になっていたことを口にした。腕の中のセリカはびくりとなって姿勢を正した。

「え、うん? 色々あってスカートが破けちゃって……その、深く考えないで」

「鎖骨あたりに傷もあったような――」

「転んだのよ! 転んで擦りむいたの」

 そうか転んだのか、とエランは反射で答えたが、全く納得できなかった。何故しどろもどろとしているのか、まるで隠し事をしているようではないか。

「失礼いたします。ご報告が」

 見計らったかのように、タバンヌスが部屋の入口から、姿を見せずに声だけをかけてきた。

 入口まで行って、続きを話すよう促した。背後でセリカが「ちょっとあんたは黙ってなさい!」と騒いでいる気もするが、後回しだ。

 実は先ほど――タバンヌスから切り出された話はそのようにして始まった。

 問題は後に続いた内容だ。耳朶を通り、脳に至って、言葉の羅列が意味を成した時。胃から煮えたぎるような熱さがほとばしった。

 部屋から飛び出る。控えていたタバンヌスを押し退け、廊下の床に横たわる男を蹴った。

 無心で。どこを狙うわけでもなく。蹴った。

 その内に、男は目を覚ました。

「――ずいぶんな……ご挨拶だね……!」

 鼻血を垂らして何か言っているようだが、構わずに蹴り続ける。

「ちょ、ちょっと! エラン! やめ――ねえ、あんた止めなさいよ!」

「止めてよろしいのですか」

「よろしいっていうかこれ死んじゃうでしょ!?」

 後ろからタバンヌスに羽交い絞めにされてやっと、エランは息をついた。まだ腹の虫は収まりそうにない。血まみれになって苦しげに咳き込んでいるクズ男を見下ろし、吐き捨てる。

「おはようございます、アスト兄上。私の妃に暴行を加えてくださり、大変ありがとうございます。私から心ばかりのお礼です」

 体内では腸が煮えくり返っていながら、舌が練り出した言は凍てついていた。最後にもう一度だけ、顔を蹴っておいた。

「お前、は……やっぱ、いい性格……してるね」

 自慢の美形も鼻が折れていては影も形もない。何かを言われているが、無視する。

 廊下を見回すと、異変を聞きつけた者が遠巻きにこちらの様子をうかがっている。

 タバンヌスに放されたと同時に、袖が引っ張られた。振り向くと、セリカが申し訳なさそうな顔をしていた。

「あんた、自分がめちゃくちゃにされても冷静だったのに……。あたしは平気よ、タバンヌスに間一髪で助けてもらったし。怒ってくれて、ありがとう。本当に平気だからね」

「…………わかった」

 今、彼女に不安そうな顔をさせているのは自分だ。そう思うと、頭は多少冷えていった。

 壁に片足をかけ、身を屈めて、第二公子本人とすぐ近くの数人にしか聴こえないように囁く。

「どう対処するかは、大公家の威信と尊厳、そして外交に関わる。秘密裏に処理するなら死刑は論外か」

「生ぬるいよ」

 アストファンは嘲笑ったが、エランも嘲笑で返す。

「安心してください。牢に投げ込む以外にも、自由を奪う方法なんていくらでもある。きっとご期待に添えますよ」

 衛兵を呼びつけて、これでこの件はひとまず終いとする。必要以上に奴と同じ空気を吸っているのも嫌だ。セリカの手を引き、歩き出す。

 まだ、父への最後の挨拶をせねばならないのだ。エランには、別れに対して特に感慨が無いように感じられたが、本人を前にすればまた違ってくるだろう。

「きっと大変なのはこれからよね」

 廊下を度々振り返りながら、セリカがぽつりと言った。

「他人事みたいに言うが、お前もだ」

「え?」

「葬式、即位式、結婚式と息をつく暇もない。大体お前、この国の服にまだ慣れてないだろう。結婚式の衣装は相当に息苦しいんじゃないか」

「う、わぁ。ドタバタしてて忘れてた……絶対めんどくさい……」

「今更やっぱり帰るってなっても、帰す気はないが」

「わかってるわ。結婚式のひとつやふたつ、やってやろうじゃないのよ!」

「頼もしいな」

 本心からの感想だった。この先の人生にどんな難事が降りかかろうとも――この娘が共に居るのならば、それだけで頼もしい。

 エランは口元が緩むのを止めなかった。

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