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八、整理と采配

 政権争いと無縁な人生であれば良かった――この期に及んで、ヌンディーク公国第五公子はそんな風に考える。

 領民が健在で、治める土地が概ね平和であればそれで事足りた。俗世のしがらみから離れて、悠久の空の下、無限の大地をいつまでも駆けていたかった。

 生き甲斐とは、そういった何気ない欲求の連なりであってもいいのではないかと思う。

 そして周りに期待されないというのは空しいと同時に、気楽だった。母が他界してからの数年、誰にも咎められずに都の諍いから抜け出すこともできた。

 ――まさかこんな形で追われるとは。

 奴らが仕掛けたのがほんの一週間早かったなら。エランディークはもしかすると、もっと従順でいたかもしれない。

 今は尊き聖女に進呈した誓いがある。国の行く末を左右できる立場にありながらその権力と義務から目を逸らしたら、きっと彼女が望む「人助けの心」から遠ざかるだろう。

 抗わねばならない。エランの決意はいつしか、確固たるものとなっていた。

 問題はセリカラーサ公女の身の安全をどうやって確保するか、である。

 国が傾ぐような事態となれば、縁談は破談となる。公女は所在を失い、祖国へ帰されるはずだった。

(セリカは私に与する方を選んだ。こうなっては最悪、暗殺者に狙われる)

 どうやってゼテミアン公国まで無事に帰せるのかを考えあぐねていた。時間はあまりない――

 出し抜けに、服の裾を掴まれた。

 エランはついクセで左肩から振り向いた。

 通常、自分と接し慣れていない人間であれば、必ずしも左側に控えていてくれるとは限らない。視界に入っていなくとも声は届く。相手にとってはその程度の認識、だったりする。

(そういえばセリカは割といつも左側に居るな)

 静かな気遣いに、静かに心打たれる。

 そんな彼女の横顔は心なしか青ざめている。衣服を掴まれたと言っても、本人はこちらに目を向けていない。

 下町を歩いたことがないからこの人込みと空気感に気圧されているのか、真っ先にそう考えたが、どうやら違うらしい。オレンジヘーゼル色の双眸は空を見上げていた。

 遥か上空に鳥影がある。それは、あっという間に過ぎ去った。

 猛禽類を見かけるのは、別段珍しいことではない。にも関わらず、何故かセリカは異様に怯えている。そんな姿を眺めていると思い知らされる――自分は彼女について何も知らないのだと。

「あの鳥がどうかしたのか」

「……や、あれってお兄さんのハヤブサ……?」

「隼? 私にはよく見えなかったが、『お兄さんの』というのは」

「な、なんでもないわ。行きましょう」

 セリカはぎこちなく笑って誤魔化した。先を急ごうと、エランの長すぎる袖を引っ張って促している。

 ――家族を思い出したのだろうか。恋しがっているのだろうか。

 この時になってようやく、エランはセリカの意思を聞いていないことに気付いた。道が分かれるのが当然の成り行きだからと、訊かなかった。

(いや、そうじゃない)

 帰りたいか、と一言訊けば済むことだ。

(もしも訊いてみたとして……全く別れを惜しまれなかったら)

 情けない話だが、少なからず傷付く自信があった。

 そんな雑念を振り払わんと、小さく嘆息する。

「行きましょうって、お前、行き先がわかるのか」

 エランはフードをより目深に引き下ろした。目立ちすぎるのを避ける為に、町に入ってすぐにフード付きの外套を二着入手したのだ。

「わかんない。どっち?」

 例によってセリカの返事はそっけない。一方で、その瞳は右へ左へと忙しなく飛び回りながら輝いていた。市場が、大通りが、山羊を引く人が、物珍しいのだろう。

「あの路地を通ったら右だ」

 彼女は言われたままに方向を修正した。そしてここに来て突然思い当たったように、質問を口にした。

「で、どこに行くの」

「タバンヌスの母の家だ。名を、ヤチマという」

 そう答えると、ふいにセリカが立ち止まった。次に口を開くまで、かなりの間があった。

「…………置き去りにしたの、申し訳ないと思ってるわ」

 躊躇いがちに振り返ったその表情は曇っている。主語が無くとも言わんとしていることは伝わった。

「気にするな。それがその時選べる最善で、本人の希望だった」

「でも……」

「お前が気負うことじゃない。契約だからな」

 少しでも元気付けようと思って、笑いかける。するとセリカはぎゅっと眉間を絞った。

「それ、あいつも言ってたわ。何なの、契約って?」

 その単語を引き金に、改めて様々な思い出が蘇った。

 一拍置いてエランは息を吐く。歩きながら話す、と言って足を踏み出した。

「もう八年も前になるか。母が事故で亡くなって、私はヤチマを解放した。その後の生活に困らないようにと、安全な行き先を探し、十分な金を持たせた」

 彼女は以前からエランの母親の生家の奴隷だった。同じく奴隷だった夫と死別してからは、母専属の奴隷になったという。

 母がヤシュレ公国からヌンディーク公国に嫁ぐ時が来ても、子供二人を連れて一緒についてきた。

 そこまでの縁だったとしても――奴隷階級の人間にとっての義理には、居心地の良い場所が前提だ。

「いくら主人に恩義を感じていても、個人の夢を諦めずにいたりもする。ヤチマがそうだったのは知っていた。何も持たない私に仕えさせるよりは、手放すべきと判断した」

 勿論、抵抗された。

 お嬢さまの忘れ形見を置いてどこかへ行くなんてわたしには無理です――と泣き付かれたりもした。しかしエランは頑なに押し切った。

「……タバンヌスだけが残ったのはどうして?」

「本人が願い出たからだ」

 脳裏に八年前の映像が過ぎった。

 当時まだ成人して間もなかったタバンヌスは、今のような屈強な外見からはほど遠く、武術が少し得意な、精悍な顔付きの少年だった。体力があって要領も良く、どんな仕事にも就けただろう。

 エランは何度も諭した。町に働きに出て可愛い嫁を見つけて、幸せを掴みに行け、と。母と妹と離れていいはずがない、とも。


 ――ではエランさまは、この先おひとりで、御身の幸せを掴めるのですか。


 必要以上に表情筋を動かさないあの男が、あの時どれほど悲しそうな顔をしたのかは、今でも思い出せる。

 返せる言葉が無かった。

 実母を喪ったばかりの十歳のエランには、幸せというものがわからなかった。きっと遠いどこかの山を越えれば見つかるような、そんな漠然とした浮世離れた他人事のように思っていたのだ。

 ついには根負けして、奴隷から従者に昇格させることで妥協した。


 ――いいかタバンヌス。お前は解放されて人の所有物じゃなくなった。これは契約だ。私はお前を傍に置いて、命令はするが、真の意味で何かを強要したりはしない。従うかどうかはいつだって自分で決めろ。

 ――御意にございます。

 ――もうひとつある。いつか私の命と己のそれを天秤にかけなければならない状況になったら、その時にどうするかもお前の自由だ――


「待って、どういう意味なの。従者なら当然、主人を優先したいわけで……でも自分可愛さに逃げてもいいってこと」

 気難しげな表情でセリカが問いかける。

「それもあるが、私はあいつが身を挺して主人を助ける性分であるのを知っていて、もしも私が『助けるな』と命令した場合も無視していいと言ったんだ。怒りはするが、恨みはしない」

 つまり何を選ぼうとも、本人の意思を尊重する契約だ。

「ややこしい約束をしたものね。今のあんたの顔見てると、十分恨んでるみたいだけど」

 セリカの指摘でハッとなり、エランは自らの表情の強張りを唐突に自覚した。

「……そうか」

 気まずくなって目を逸らす。いつの間にか長く伸び始めた街中の影を眺め、気を紛らわせた。

「そうよ」――答えた彼女の声は柔らかい――「また無事に会えるように、祈ってるわ」

「ありがとう」

 本当は祈る以上の行動に出る心積もりだったが、ここで語るのは憚られた。

 それからは静寂を供にして、進んだ。やがてこじんまりとした住宅街に出る。

 目当ての家を見つけて扉を叩くも反応は無い。干し煉瓦を並べて建てられた玄関の階段に、二人して腰を下ろして待つことにした。と言っても、間隔はやはり微妙に離れている。

「もうしばらくしたら仕事から帰ってくるだろう」

「仕事って、どんなの」

 小石を爪先で蹴りつつ、セリカがボソッと訊ねる。

「賄いだ。確か駐屯地――いや、傭兵団だったか」

 その時、土手道の向こうに誰かが現れた。単色のワンピースと頭巾、ひとまとめにした焦げ茶色の髪、といった質素で清潔そうな恰好をした女だ。セリカよりも背が低くて肉付きが良いのも特徴である。

 彼女が近付いて来るのを待ってから立ち上がり、エランは軽く礼をした。被っていたフードも下ろす。

 女はこちらを見上げてあんぐりと顎を落とした。

 記憶の中の乳母よりも痩せていて小皺が増えている気もするが、深い茶色の瞳と目が合うと、昔ながらの安心感を覚えた。

「久しぶりだな、ヤチマ。ハリマヌは元気か」

「なっ!? なにゆえあなたさまがこのような! と、とにかくお入りくださいまし!」

 彼女は悲鳴交じりにまくし立てた。しどろもどろに扉を開けると、こちらに道を開けた。

 全員、なだれ込むようにして中に入る。最後尾のヤチマが閂をかけた。

 それから迷わず、床に額をつけるほどに平身低頭した。

「お久しぶりでございます。ご息災そうで何よりです……!」

「お前もな。頭を上げてくれ」

 震える肩に、そっと手をやる。

「頭を下げるべきは私の方だ。急に押しかけて悪かった」

「いいえ、嬉しゅうございます。よもやまたお会いできるとは……ええ、ご立派になられて。目元なんて、ますますお嬢さまに似ておいでです」

 顔を上げたヤチマは、鼻をすすって泣いていた。

 母に似てきたと言われるのはどこか複雑だが、微笑みを返しておいた。まだ壮年と呼べる女性の手を取り、立ち上がるのを手伝う。

「仕事はどうだ、楽しんでいるか」

「はい、おかげさまで! 皆、底なしの胃袋の持ち主ばかりで作り甲斐があります」

 綻んだ表情が全てを物語っていた。明日にでも寄ってみていいか、とエランが問えば、もちろんです、と彼女は嬉しそうに答える。

「今はひとりで住んでるのか」

「はい。娘は……ハリマヌは先年結婚しまして、別の町に」

「結婚? めでたいな、聞いていれば祝いの品を贈ったのに」

「まあ、初耳ですか。息子には手紙で報せましたけれど」

「タバンヌスはきっと伝え忘れたんだな」

 引きつった笑顔で応じたが、心の中では別のことを思っていた。

 ――あの野郎、気を遣わせまいと黙っていたのか。

 贈り物くらい贈らせてくれればいいのに、身分を気にして遠慮したのか、全く頭の固い乳兄弟である。

(私にとってもハリマヌは家族なんだがな……)

 過ぎたことを考えても仕方ない。次に会ったら蹴りのひとつでも入れて、それで水に流してやろう。

「ところでエランさま、息子はいずこに? そちらの麗しいご婦人は異国の方ですか……?」

 ヤチマが戸惑いを隠せない様子で両手を握り合わせて視線を彷徨わせた。

 注目されていると気付き、姫君は優雅に一礼した。

「セリカ、という。彼女に関してはできれば何も訊かないでもらえると助かる。他の話は座ってからでもいいか」

「ええ、ええ! 気が利かなくて申し訳ございません、すぐにお茶とお食事の用意をいたします!」

「何か手伝えること――」

 言い終われる前に遮られた。

「お客さまですのにお手を煩わせるなどとんでもない! 狭いところですが、どうぞ先におかけになってください」

 とりあえず彼女の促すままに、絨毯の上に直接腰を下ろした。小さな食卓は二人で囲んだら既にいっぱいいっぱいだ。向かいのセリカは姿勢を整えて大人しくしているが、目だけは興味津々に周囲を取り込んでいる。

 それからヤチマは怒涛の如く動き回った。茶器に続いて、食べ物がどんどん並べられてゆく。ありあわせの漬物、職場から持ち帰った余り物、新しく焼いたパン、そして限界までに何かを詰められた三角形の揚げ物。

 最後のそれは、わざわざエランの目前に置かれた。子供の頃からの変わらぬ好物だ、ヤチマもしっかりと憶えていたようだ。

 食前の祈りと感謝の挨拶を述べると、真っ先にひとつを手に取った。

「懐かしいな。お前のサンボサは絶品だった」

「まあ、ありがとうございます」

「……さむぼさ、ってこれ」

 未知の物を警戒するように、セリカが目を細めている。

「そうだ。カリカリに揚げられた皮を噛み切った瞬間に旨みが爆発する。中身は肉か野菜か、とにかく香草や香辛料が具材と完全に調和して美味い」

 ちなみにエランが最初に手に取った一個は、中身が野菜のみで構成されていた。素材の旨味に便りがちな肉のサンボサに比べると調味料のクセが強めで、実はこっちの方が好みだったりする。

 だが包みを使った料理は総じて内側がとんでもなく熱い。急ぎすぎたために舌に軽くやけどを負ってしまったが、後悔は一切無い。

 むしろ、この痛みを伴って尚更に美味しく感じるのだ。

「まあ、まあ。エランさまったらそんなにお褒めにならなくてもまだたくさんありますからね」

「……っ」

 ほどなくしてセリカも身悶えるのを我慢しているような様子になった。同じくやけどをしたのだろう。

「おめでとう。誰しもが通るべき洗礼だ」

 姫君は涙目で睨んできたが、言い返すことができない。一時のことだとしても、妙に楽しい気分になった。

 そうして空腹をほどよく満たした頃。

 エランはぽつぽつと事情を語り始める。セリカとの関係は、協力者とだけ言ってぼかした。

 タバンヌスが時間を稼ぐ為に宮殿に残ってくれた話に至ると、口は勝手に重くなった。何度もため息を挟んで、話した。

「大丈夫です! 簡単にくたばるような息子じゃありません。わたしはそんな、ヤワな子に育てませんでしたから」

「……そうだな。私もそう思う」

 子の無事を信じる母親の強がりは痛々しく――尊いと感じた。


_______


「お風呂、でございますか。残念ながらこの家には風呂場も庭もありません。お湯を浴びたいのでしたら近くに大衆浴場があります」

 食後のコーヒーを堪能していたら、ふいにセリカがヤチマに「身体を洗いたいので風呂を借りたい」と声をかけたのである。

「庭……? 大衆、浴場……?」

 提示された単語の意味合いが理解できないのか、セリカは不思議そうに首を傾げている。宮殿育ちの公女はきっと、庭先で桶から水を浴びたことも無ければ、見知らぬ人間と並んで裸になったことも無いはずだ。

「すまない、ヤチマ。できれば他の方法で頼む」

「大衆浴場でなければそうですねえ。少し歩きますけど、川を上れば行水が出来るとっておきの場所がございます。静かですよ」

 川での行水。寒いだろうけれどもプライバシーは守られる。セリカも納得したようで、頷いている。

「町の結界がありますから魔物の心配はないでしょうけど……治安は気がかりですね。夜におひとりで行かせられません」

「ヤチマさん疲れてるでしょ、休んでていいのよ。防犯にはエランを連れて行くから大丈夫」

「お前、それは、何を」

 ――血縁関係の無い男女が連れ立って水浴びへ向かう?

 なんて非常識な提案をするのかと唖然とした。ゼテミアンではそういうものなのだろうか。否、かの国にそんな風習は無いはずだ。

 ――我が領の部族民並の奔放さじゃないか。

「ちょっと離れたところで見張ってくれればいいんだけど」

 こちらの狼狽をよそに、彼女はのんきそうだ。

 離れた位置からの見張り――文面だけなら当初に連想したほどの破廉恥さは無い。部屋の隅で「エランさまを番犬代わりに!?」とヤチマが顔面を蒼白にしているが、それはともかくして。

 他に良案が浮かばないのも確かだ。

「わかった。行こう」

 前髪をかき上げて投げやりに承諾した。


 目的地に至るまでに徒歩二十分、三歩の距離を保ったまま共に一言も発さなかった。

 夜の川辺には野良犬と浮浪児の気配が疎らにあった。それらは、ヤチマに教えられた穴場に着いた頃にはすっかりいなくなっていた。

 先日よりも満ちた月がの涼しげな光が、川面に映って揺れる。

「じゃあ入るけど。ちゃんと見張っててよ。……覗いたりしないわよね」

 暗がりでヘーゼル色が濃くなっている双眸が、不審げにこちらを見る。目線の高さが近いからか、こうして見つめ合うと心の奥まで覗き合えるような気分になった。

 あくまでそれは錯覚に過ぎない。婚約者であるはずの女の心中は、依然としてまるで見えないのだった。

「信用が無いな。良識や自制心くらい、ある」

「せ、制しなきゃならないようなナニカがあるんですか」

 今度は不安げに瞳孔が伸縮した。

「いいから早く行け」

 セリカが抱えている手巾と着替えの束をひったくって、背を向けた。ここに来て無防備な面を見せられたら、要らぬ感情が巻き起こるだけだ。

 数秒後、微かな足音がした。それは遠ざかり、止まって、果てには衣擦れの音に入れ替わる。

 それなりに離れているというのに耳は正直だ。どんな小さな音も漏らさずに拾おうとしている。

 とりあえず座った。

 他者の気配に用心しているつもりで、感覚を研ぎ澄ます。

 濡れた土と草の匂い、冷えた風。蛙と虫の鳴き声。月明りに薄っすら浮かぶ草花の輪郭。周りに注意しようと頑張れば頑張るほど、頭の中は別のイメージに蝕まれた。

 ぴちゃり、と控えめな水音が耳朶に届く――

 ――払えない。

 あの柔らかい足が冷たい水の下に潜ったのか。旅をしていた間ずっと編んで結い上げられていた長い髪は、解かれたのだろうか。

 髪と言えば、滑らかなうなじや肩を思い浮かべた。女性らしく華奢だが頼りないほどでもない、名状しがたい曲線美を。触れてみたいと思ったのは一度や二度ではない。

 何と言っても、普段は隠れている肌部分を想像してしまうのである。

 水音は未だに不定期に聴こえてきた。日常的な音なはずが、これほどに劣情を煽るものだったとは――

 さすがに息が詰まり、眩暈がする。

 懐から鉄笛を取り出しかけて、考え直した。雑念だらけで奏でてみても気が紛れるどころかひどい騒音を作ってしまう。

 時間が過ぎるのが異常に遅い。

 早く戻ってきてくれと願いつつも、戻って来られたらそれはそれで厄介だ。何せ手巾はこちらの手にある。つまり彼女は、一糸纏わぬ姿で歩み寄ってくるのである。

(こんな精神状態で、曲者が現れたとしても果たしてまともに対応できるのか)

 ――落ち着かねば。

 愛用のペシュカブズをおもむろに鞘から抜いて、掌でも切ろうかと真面目に検討した。

 検討している間に大きな水音がした。思わず息を潜める。

 足音が徐々に近付いた。そしてすぐ後ろで止まった。肩越しに白い腕が伸びて、手巾と衣服の束をさらっていく。

(薔薇の香り……香油なんて持ってたか?)

 石鹸を持っていたようにも見えなかったが、懐に収めていたのかもしれない。

 背後から、カタカタと硬いものがぶつかり合う音――おそらく寒さに歯を鳴らしているのだろう――が聴こえた。声をかけていいのか逡巡した。衣擦れがするので、まだ着替え終わっていないのだろう。

 待つしかなかった。セリカの育ちを思えば、不慣れな衣装をひとりで身に付けるのに時間がかかっていても仕方がない。

「六日」

 しばらくして、静寂が破られた。

「六日?」

 微動だにせずに訊き返す。

「あんたと出会ってから六日経ったわ。三日目に公都から逃げ出して、移動に丸二日かかって」

「もっと長いように感じていたが、短いな」

「明日から、どうするの」

 心なしかその問いには、責め立てるような響きが含まれている。ここ数日の不機嫌の原因はこの辺りにあるのかもしれないとエランはふと思った。

 先のことにまつわる不安をどうすれば払拭してやれるのか。嘘偽りなく話す以外に、思い付かない。

「遅れて悪かった。安心してくれ、お前は必ず無事に送り返す。傭兵を雇って」

「あんたは、どうするのよ」

 何故かセリカが苛立たしげに言葉を被せて来た。

「必要なものが幾つかある。手配でき次第、ムゥダ=ヴァハナに戻るつも」

「戻るの!?」

 再び、被せられた。

「放っておけない。亡命は最初から選択肢に無かった」

「危険でしょ。また誰かが消そうとするんじゃないの」

「逃れえぬ死に向かっていても、たとえ無駄な足掻きだとしても、行くしかない」

 エランは知らず握り拳を作っていた。命をかける覚悟は、既に決めている――

「どうしてそう考えが捨て身なの! もっと自分を大事にしてよ! 国の為なら自分ひとりの命なんて安い対価だとか思ってる? どんだけ生きる意欲が無いの!?」

 突然浴びせられた怒号に、首筋が強張った。現状を忘れて振り返る。

 着替えも半ばの薄着姿だが、幸い、首から下がちゃんと隠れていた。

「また誰も知らない場所で独り、血を吐くことになってもいいの!?」

「――――」

 絶句した。濡らしたままの長い髪を振り乱しながら、セリカは泣いていた。

「そりゃあたしじゃ何の役に立てないかもだけど、一緒に行っても足手まといだろうけど! だったら、行かないでよ! 馬鹿! 無謀!」

「……私は怒られているのか、心配されているのか……?」

「心配だから怒ってるのよ!」

 セリカはその場にしゃがみ込んで、組んだ腕に顔をうずめる。

 弾みで水滴が顔にかかった。頬を打った冷たさに、目が覚める想いだった。

(国の為なら自分ひとりの命は安い対価、そう感じていたのは否定できないな)

 くぐもった罵声が更に畳みかける。

「エランのばか! だいきらい!」

「だっ――大嫌い、か……」

 驚愕して、オウム返しになった。

 言葉が突き刺さるとはこういう現象だったのか。存在を否定するほどの暴言をアストファン辺りによく吐かれた人生だったが、あれはどうでもいい相手の吐くどうでもいい戯言として容易に受け流せたものだ。

 どうでもよくない人間からの苦言の、なんと痛いことか。悪くない感情を抱かれていると自惚れていた己を恥じた。

 吐き気がしてきた。謝ろうとして口を開くが、声が出ない。

 沈黙がやたらと重い。

 やがて、小さく「ごめん」と呟く声があった。

「……うそ。ほんとは、大好きだもん」

 継がれた言葉に、またもやエランは驚愕して絶句するしかなかった。

「こういうのが――世に言う、恋愛感情なのかはわかんないけど……あんたが楽しそうにしてると、見てるこっちもなんか和むのよ。変に理屈っぽいとことか、だるそうな話し方とか、子供に怖がられるのにリスには懐かれるとことか……面白い。もっと見ていたい。近くに、居たい。独りで死んじゃうのかと想像すると、どうしようもなく、つらい……」

 嗚咽交じりに明かされる想いが、静かに染み入る。

「でも『連れてって』なんて言えるわけない。縁談がなければ出会わないような、か細い縁よ。国同士の事情を取っ払ったら……個人としてのあたしには、リスクを負ってでも一緒に居るほどの価値が――」

 セリカはしゃくり上げながら顔を上げた。目が、合った。

「ねえ。エランはこのまま帰って、二度と会えなくなっても、平気? あたしは……平気じゃない、気がする」

 ――処理能力が追い付かない。

 嫌いなのか好きなのか、どっちだ。今しがた聞いた新情報の数々に対する感想が思考回路をぐるぐる回る。その中に罪悪感があった。誰かにこれほど辛い想いをさせていながら気付かずにいた自分を、殴りたい。

「エラン?」

 髪と同じ赤紫色の長い睫毛に縁取られた瞼が、瞬く。涙の滴が月明りに煌いて綺麗だ。

「あ。もしかして、この前みたいに思考停止した?」

 次いで、表情が打って変わって輝き出す。泣き止んで欲しいと切に願っていたから僥倖だ。しかしこの至近距離で好奇心に満ちた瞳を向けられるのは居心地が悪い。座ったままで後退った。

「お前は相変わらず、忙しないな」

 やっと喋られたかと思えば。我ながら、間抜けな第一声だ。咳払いをして、やり直す。

「恋愛感情というものへの不勉強さなら、私も同じだ。だが二度と会えなくなって平気かと問われると……つまらなくなりそうな、予感はする」

 それがありのままの心だった。

 惰性で公子人生を送って来たエランディーク・ユオンにとって、初めて見かけた時からこの女性は――「彩り」だ。地下牢の闇すら照らせるような、光。

 表情豊かで、素直で。初めて知る力強い美しさである。

 縁談が無くなったら手放せるのかと、改めて一考する。例えば、別の男と笑い合っている姿を想像する。

 ――嫌な図だ。

 だからと言って我侭で彼女を己の傍に縛り付けて、結果的に怪我をさせたり死なせたりしたら、永遠に自分を許せないだろう。そのような結末への恐れの方が、圧倒的に強い。

 覚悟を改めるまでの時間が必要だ。

「少し、考えさせてくれ。せめて明日まで」

「……ん。いいわ」

 セリカは要求にあっさり頷いた。すると髪のひと房が、肩からはらりと流れ落ちた。

 瞬間、常よりも布の開けた胸元に眼差しが吸い寄せられたのは不可抗力と言えよう。すべらかそうな肌の白さから、赤い髪が行き着く溝から、目が離せなかった。

 目が離せないのなら身体ごと向きを変えるしかない。エランは必要以上に素早く立ち上がり、踵を返した。

「あんたも浴びてくでしょ? さっきヤチマさんに着替え貸してもらってたわよね」

 引き留められた。ので、首を巡らせて答える。

「チュニックだけだ。お前とハリマヌの体格は近いが、私とタバンヌスでは差がありすぎる」

 ヤチマが保管していたのか、あの家には十代前半の頃のあの男の衣類がほんの数着あった。それでも現在のエランには大きいくらいである。

 苦笑交じりにセリカは自身の着替えを終えて上着を羽織った。髪を乾かしながら、脱ぎ捨ててあった服を回収している。

「荷物見ててあげるから入ってくれば」

 そう呟いて逸らされた頬は仄かに赤い。何故か、は考えない方が良いだろう。

 冷水に全身を浸からせる――それは複数の理由でいかにもありがたい案だった。

 エランはペシュカブズを鞘に収め、危険そうならこれを投げて来るようにと言ってセリカに手渡した。既に抜き身だった点に気付き、不穏な気配でもしたのかと彼女が訊ねる。その問いを、エランは「訊くな」と強引に振り払った。

 それからゆっくりと岸へ歩を進める。水辺の縁に立つと、何ら疑問を抱かず脱衣し始めた。

「ちょっとォ!? 脱ぐなら脱ぐって一言断ってよ! あっち向いてるから!」

 必死な抗弁に、我に返る。この時点ではもう上半身が惜しげなく夜風に晒されている。

「あ、ああ。悪い」

 考え事をしていて気が付かなかった。制止の声をかけるにしても、もっと早くなければ無意味だろうに、と思っても口には出さない。

「……傷痕、結構あちこちにもあるのね」

「胴のは大体どれも『度胸試し』の痕だ」

「度胸試しぃ? 男ってそういうの好きよね」

「体を張って得られる信用もあるということだ。いつか機会があれば――」

 言いかけて、止めた。セリカをルシャンフ領に連れて帰る未来があるのか判然としないのに、いつか機会があれば部族民に諸々の逸話を聞くといい、なんて言えるわけがなかった。

 実はとんでもない岐路に来ているのではないか。そう考えるとゾッとした。

 無心になる。エランは口を噤んで水浴びに専念した。

(水がこんなに冷たくてセリカは大丈夫だったろうか)

 川底の石は藻のぬめりに覆われていて、柔らかい。この域は流れが緩やかだ。座り込めば胸まで浸かることができた。

 冷たさに心臓が慣れた頃に、サッと頭まで潜った。寒くて仕方がないが、刺激で頭が冴える。汚れが洗い流されていく手応えに、人としての尊厳を取り戻せたような感覚がする。

 長い息を吐いた。

 ねえ、と背後から声がかかる。

「訊いてもいい? エランは何で、何の、標的にされてるの」

「…………」

 核心を突く疑問に、俄かに答えることができない。

 ――これも分岐だ。

 知識と認識は、よほどの手段を使わない限り、簡単に無かったことにはできない。

 教えていいのだろうか。話して自分が楽になりたいだけではないのか。重荷を分かち合って、後悔を生むだけではないのか。

 振り返り、一見ほっそりとした後ろ姿を眺める。

 実際は弓を引けるからにはそれなりに力強いのだろう。身体的な観点だけではなく、箱入り公女の内には、誰にも踏み消せないような炎を感じた。

 覚悟の有無を問うのはもはや失礼か。

 何も背負わぬつもりであったなら、そもそもセリカは今頃まだ宮殿で愛想を振りまいていたことだろう。

 その様子を脳裏に思い描くと、自然と唇が笑みの形を作っていた。

 どうせくだらぬ一生を作り笑いを浮かべて過ごさねばならないのなら。

 隣に、この娘が居てくれればいい――


_______


 手元の武具は鞘から柄、果ては刀身までにも細かい装飾が施されていて、冷徹な美しさを讃えていた。返事を待つ間、セリカはそれを隅々まで鑑賞して暇を潰した。

(なかなか答えてくれないのは、やっぱりまずいことを訊いたからかしら)

 掌が冷や汗で湿った。今夜は緊張しっぱなしである。

 数秒後、大きな水音で、青年が岸に上がったのを知る。気配が近付いて来た。

「現大公――父上は為政者としての腕は悪くないが、優柔不断なところが昔からあった」

 そうして彼は淡々と語り出した。

「末子相続と言っても線引きは必要だ。ハティルが誕生してから六年、大公世子として即位式が行われ、世に披露されるはずだった前日に……予定よりも二週間早く、アダレムが産まれた」

 視界の端に動きがあった。畳んで重ねられていた服――借り物のチュニック以外は使い回しだ――が減っていく。

「迷うべきではなかった。あのままハティルを世子にするべきだった。だが父上は新たな『末子』の成長をしばらく見守りたいと言い出した」

 しばしの間があった。衣擦れの音が、間を埋める。

「こう言っては聞こえが悪いが、父上は自分に似た子供を贔屓する傾向にある。アスト兄上よりはベネ兄上、ハティルよりはアダレムだ。年を重ねるほどに、アダレムが後継者に選ばれるであろうことが明らかになった」

「末子相続の伝統にも則っているしね」

「それもある。ただ、比較対象がいけなかった――三歳で字の読み書きを身に付けたハティルに比べると、アダレムは未だ遊び盛りの普通の子供だ。現時点でどっちが大公により相応しいのか向いているのか、論じても無駄だとは思うが」

「……公宮内で対立が生じるだけの材料があったってわけ」

「誰がどの公子を担ぎ上げたいかに、利己的な理由も混じっているだろう」

 なんてことのない、よくある話だった。あらましを聞いただけでもセリカは嫌気がさしていたが、まだ肝心な部分が語られていないことに気付く。

 これらの問題がエランとどう関係しているのか、である。

「正式に世子が立てられれば大抵の人間は反意を表せなくなるが、知っての通りの状況だ。そこで、大公世子が空席のまま大公が逝去した場合……成人している公子の内、最も継承順位が高い者が即位することになる」

 一通り衣服を着終わったらしいエランが、正面に回ってきた。

 セリカは無表情な青年をぼんやりと見上げて考え込む。

 成人している公子は上からベネフォーリ、アストファン、ウドゥアル、そして。

『ヌンディーク公国第五公子、エランディーク・ユオンです。公位継承権は、三位となります』

 あの夜の自己紹介でエランはそう言っていた。つまり――

「…………あんたじゃないの」

「そうだ。アダレム、ハティルに続いて、私は継承順位が高い。忌々しいことにな」

 彼は心底嫌そうに顔を歪めてみせた。

「で、でも、あんたを消しても繰り上がりでウドゥアル公子が即位するだけじゃないの?」

「そうでもない。死が確認されていない『失踪』であれば、大公は空席のまま、その間に政が回るように複数人で代理が立てられる。期限は三年だ」

「三年経ったら死亡宣告されて、結局ウドゥアル公子が即位するんじゃ」

 頭を捻っているセリカの前でエランがしゃがんだ。じっと見つめる青灰色の瞳に、心臓が勝手に高く鳴る。

「ハティルは、十二歳だ」

「……!」

 合点がいった。この大陸では一般的に女児は十四歳、男児は十五歳からが成人である。

 三年後にハティルが「成人している公子」の筆頭となれば、事情は大きく変わってしまう。

「何もせずに機を待ちながら、ほとんど諦めていたはずだった。それが幸か不幸か条件が揃ってしまった。こうなっては、病床の父が息絶えるのを待つまでもない」

「暗殺を仕掛けるかもしれないってこと……!? えーと、待って、ハティル公子を利用したいのは第二公子? の、一派……?」

 セリカは無意識に腰を上げ、その場をうろうろした。

「どうだか。ハティルはたばかられるような奴じゃない。首謀者側だろう」

「でもあの朝あんたの居場所を訊いた時、本当に何も知らないみたいだったわ」

「私を牢に投げ込んだのは間違いなくアスト兄上だ。共謀していても、いつ行動に移すかを細かく打ち合わせてなかったと考えられる」

 セリカはふいに立ち止まった。

「……標的にされてるっていうのに、冷静ね」

「公家の世界はそういう奴らばかりだとわかっていた。別に、嘆くほどでもない」

 それが現実だとしても、セリカは彼の代わりに一抹の寂しさを覚えた。改めて今代こんだいのゼテミアン大公家がいかに平和であったのかを思わせられる。

「きょうだいを嫌うのに深い理由なんていらない。自分の方が優秀なのに選ばれないことに納得できないのも、自然な流れだ。ただ……」

 エランは初めてそこで言葉を濁らせた。

「あいつが本心からこの国を愛し、国の行く末を想っているのも知っている。誤る前に止めてやりたい。血族殺しの罪を犯した君主は、いずれ歪んでしまう――というのは私の見解に過ぎないが」

「言いたいことは、わかるわ」

「それにアスト兄上が関わっている以上、流れる血はきっと私と父上に留まらない。刹那的というべきか、後先を考えないで欲望や衝動だけで妙な方向に踏み出す人だ。だからこそ扱いやすいとハティルも考えたかもしれないが」

「一年は都に帰ってないのに、よくそこまで気付けるわね」

「きな臭さに敏感なのは保身の為だ。根が実直・善良なベネ兄上と違って、私は誰も信用しない。人は皆まずは敵だと思うことにしてる」

「それが賢明かもね」

 けれど誰も信用しないと明言している割には、こうして出会って数日の人間に頭の中身を語ってくれている。心の距離が縮んだ証のようで、セリカはこっそり嬉しくなった。

「回り出した歯車を止められるかはわからない。やれるだけのことをやってみる」

「うん」

「幾つかの条件を四、五ほど満たせれば、流れは止まるはずだ」

 エランは一拍挟んで、再び口を開いた。

「どれかは、お前に手伝ってもらうことになるだろう。頼めるか」

「……やってやろうじゃないのよ」

 何をやらされるのかまだわからないのも要因だが、セリカは相変わらず「任せて」と言い切れない。

(自信も何もあったもんじゃないけど……)

 不安を抱えたまま走り抜けることはできる。そういう意思表示として、拳を握って見せた。

 その拳に一度視線を落としてからエランは、微かに笑って顔を上げた。

「お前は、いい女だな」

 ――急に何を言うのかと思えば。真っすぐな目で褒められては、こそばゆい。

 セリカはチラチラと目線を合わせたり外したりしながら答える。

「ありがと。あんたも、いい男だと思うわよ」

「そうか。なら、似合いだ」

「…………そうね」

 極めつけに青年は、爽やかな笑顔を浮かべているではないか。気恥ずかしさから逃れたくて思わず同意を言葉にしたが、それはそれで恥ずかしい。

 髪を指で梳きながら、話題を変えるとっかかりを探した。目に入ったのは、丈の長すぎるチュニックだった。

「それ、邪魔そうね」

「タバンヌスが数年前に着ていたものでも大分布が余るな」

「結んであげようか」

 ちょうどセリカの手元に髪紐があった。自身の髪はまだ乾かしていたいので、結わないつもりだ。

 その紐は人の腰を一周できるくらいに長い。じゃあ頼む、と言ってエランは緩慢に両腕を持ち上げた。

 彼の背中側に立って、紐を緩く巻いた。それを境目に、腹や腰周りから裾を引き上げて折り返す。

 小刻みな振動が指先に伝わった。そうか脇腹も弱点か、とセリカはほくそ笑む。

「さっきの話だが」

 息を整えたらしいエランが、沈黙を破った。

「え?」

「足手まといだとか、個人では価値が無いとか」

「あ……まあ、うん」

「とんだ思い違いだな。お前は誰にも物怖じしなくて、勇敢だ。聡明で情に厚い。更に挙げるなら……いつもいい匂いがするし、柔らかいし、抱いて眠ったら気持ち良さそう――」

「なっ! に、を真顔で抜かすのか、この男は! ていうか最後のは別にあたしじゃなくても、他にも当てはまる人がいるでしょ!?」

 勢いに任せて紐をぐっと締めた。ぐえっ、と呻き声が上がった。

 ――柔らかいってナニ!?

 人の感触を、いつの間にか確かめていたというのか。負ぶってもらった時など、心当たりが無いわけでもないが。

「ひとつずつの性質は、他の誰かからも見つけられるだろう。だが全部揃っていて、尚且つここまで私を気にかけてくれる娘は、なかなかいない」

 そう言われてしまうと否定できない。セリカは結び目を作る手をつい止めてしまう。

 それに、と続けてエランが振り返る。青い耳飾りの涼やかな硬さが鼻先をかすった。

「大好きと言ってくれるのも……私の為に大の男を締め落としてくれる女も、大陸中を探してもきっとセリカだけだ」

「し、締め落とすって、あの時!? 意識あったの」

「途切れ途切れにだ。何の記憶かは、後から思い出した」

 あの必死な命のやり取りを目撃されていたのかと思うと複雑な気持ちになるが、今のセリカには、それ以上に気になる事項があった。

「顔、近いんですけど」

 怯むまいと気を張りながらも、訴える声は僅かに震えた。

「近付けているからな」

 率直すぎる答えだった。反論したいのにこれではしようがない。

 青年の輪郭が月明りを遮っているため、視界が暗い。それでも、表情の動きを感じ取れるくらいには、近い。

「お前が自分で自分の魅力を見出せなくても、私にははっきり見えている。だから安心しろ」

 素直に「はい」と応じられないのは、照れ臭さゆえか。単に動けないだけなのか。

 その笑みは、見る者を魅了する類のものだった。そういう意図の下に、あるものだ。

 見事に術中にはまっている気がして悔しいが、同時に酔わされているような心地良さがある。頭の奥が甘く痺れる。

「紐、結び終わったか?」

 色気の欠片も無い台詞も、こう至近距離で発せられては吐息がかかってしまう。湿った熱が皮膚を撫でる。唇、を。

 どうにかセリカは平常心を取り戻して指を動かす。

 手を放すと、エランは数歩離れてからタガが外れたように笑い出した。それは脇腹のくすぐったさを堪えていた反動か、こちらの反応を面白がってのことか――後者のような気がしてならない。

「やっぱり紐返して。あんたも締め落とされたいみたいね」

 ずい、と掌を差し出す。

「怒るな。約束は守っただろう」

「約束って、『許可なく触るな』ってやつ? そんなもん、吐息が触れたからアウトよ!」

「そう言うなって」

 また笑い出している。なんとなく腹立たしい。二、三発叩いてやろうと思って追いかけたら、向こうもなんとなく逃げ出す。

 こうして追いかけっこをしながら帰路を辿った。

(いい年した男女がこんな時間に何をやってるんだか)

 呆れ半分、楽しさ半分。

(さも当然のように遊び相手になってくれてるなぁ)

 ふと、遠乗りの約束を思い返す。共に過ごせるはずの未来を――

 ――考えさせてくれ、と彼は答えた。

 明日になって、たとえどのような結論が言い渡されたとしても。

 出会う以前にはもう戻れないのだと、セリカは静かに悟っていた。

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