人魚姫の誕生
人の住みしミズガルズのとある姫が婚姻のために乗船した。天を見上げれば、神の世界とを結ぶ虹の橋ビフレストが神々しく姫の婚姻を祝福するかのように輝いている。
さて、乗船した姫君であるが、船乗りたちはエーギルのあぎとが起きないか心配していた。エーギルとは海の神のことで、船を壊すほどの暴風雨すなわちあぎとと称するものを起こして魂をエーギルの御殿へといざなうのだ。
エーギルを抑える守り神たるニョルズは、妻との折り合いが悪く傷心により神の国へ療養に行ったばかりでその不安でもちきりだった。
されど、姫は船乗りたちの不安などをよそに、まだ見ぬ婚姻相手たる王子に渡すための黄金の首飾りを手にして、その姿を心に湧きたてた。
帆が張られ、いよいよ大海に出でても、姫は空は一点の曇りもない青空に齢が自らと同じ十五でたくましき体に黒く大きな瞳を持つ王子の姿を描き続けた。侍女たちは、船乗りたちのうわさに動揺しているがそれでも姫は意に介さずにいた。
夜も更けたころ、突如雲行きが怪しくなり船乗りたちが嵐が来る前に準備をするために帆を巻き上げようとしたときだった。暗雲からいと稲妻がたちどころに落ち始めたのだ。穏やかだった波が、鮫のように凶暴な高波となって船にあたりうねりを上げる。
船乗りたちは、大声で船を動かそうとするがエーギルの力のもとでは人の力は無力であった。荒波が船に流れ込み、甲板にいた船乗りたちを連れ去りエーギルの元へといざなわれた。
たちどころに、船板がめきめきと音を立て、マストが折れて甲板に落ちていく。次の時には船は真っ二つになった。
哀れ船乗りや乗り合わせていた人びとは続々と海に落ちてゆく。されど、差し伸べるのは手ではなく、エーギルの妻の網であった。
妻は、夫エーギルの手伝いのため海に落ちていた者たちを網で次々に海中に攫ってゆく。屍となった人々は、そのままエーギルの御殿へといざなわれる運命にあったのだ。
さて、同じく海に漂っていた姫君も例外なく妻の網にかかろうとしていた。姫はもうろうとする意識の中で姿なき王子に祈りを捧げた。そして、網にかかりしょっぱい海水が口に入った時であった。
突如として嵐の雲が割れ、たちどころに星瞬く空が現れたのだ。妻の網に一本のオールが突き刺さると、ニョルズの姿が二人の前に現れた。
「海を荒らすのは己らか。これ以上海を荒らさんとするならば、二度とできぬようにその妻の網引き裂かんとすぞ」
だが、エーギルは臆さずニョルズに言い返す。
「海は、我ら神と同じく怒りもする。我は、その代行をしたまでよ。もし、常に怒りを出さねば海はより大きな怒りとなりてミズガルズを襲うであろう」
「されど、ここしばらくは怒りと称する嵐が多い。被害被る者も多い故、嵐起こすときは我が灯りをともして人々に伝える。それでも、屍が出ようとものならば人がその死を恐れないように鎮魂歌を送りたまえ」
以後、ニョルズはエーギルのあぎとが来る前に人々に港に灯りを照らして知らせ伝えた。
さて、ニョルズによって網から引き離された姫君であるが、すでに虫の息でもはや屍の一歩手前であった。すると妻は、姫君の手の中に黄金の首飾りを持っていることに気付き、姫君を夫の元へといざわなず自身の御殿へと連れて行った。
妻の御殿には、高名な魔女がそばにおり、魔術師が姫君の躯に薬を飲ませて透明な殻のような玉の中に入れたのだ。
「さてさて、ニョルズに助けられ、殊勝にも黄金を手にしていたのだ。我が娘となりゆくがよいだろう」
玉に入った姫君は見る見るうちに姿が幼くなり、脚も魚の尾ひれの姿に変わっていった。こうして姫君はエーギルの末の娘として生まれ変わったのだ。
さて、生まれ変わった姫君であるが人の記憶を失い海での生活を謳歌していた時だった。父たるエーギルが年を取り、跡継ぎたる姉たちが海の怒りを代行するために十五の歳に海に上がり嵐を起こすのだ。その際、鎮魂歌として美しい歌声で船乗りたちに聞かせて、海の底が美しいことを歌い、沈むこと怖がることをさせなくするのだ。
その時、船の積み荷も落ちてきて御殿に持ち帰るのだが、末の娘である元姫は一つの像に目を引いた。人の姿をかたどった像で見た目麗しい男性であるが彼女の心の奥底で何かが動かされるものがあり他の物には目もくれずそれだけを自身の部屋に飾ったのだ。
「ああ、なんでしょう。他の珍妙なものには今まで興味はあったのですが、もうこの像にしか目がいきません。どうしてでしょう」
彼女は、己でもわからぬ感情を抱いたままついに十五の時を迎える。
彼女が海の上に上がり、一隻の大きな船が見えました。船の回りを一周ぐるりと回ってさあ歌おうとしたときでした。齢は彼女より一つ上の美しく大きな黒い目をした王子の姿が見えた。
姫は、歌うことを忘れるほど王子様を見つめ続けた。それはまるで、ついぞ待ち望んだものが来たかのように王子の姿を追い続けた。
すると、波が高くなり大きな黒雲が湧きだした。姫は思い出し方のように驚嘆する。
「ああ、そうだ歌を、歌を歌わなくては。でもなぜでしょうか。ここで歌ったらあの人にもう二度と会えなくなるような気がします」
エーギルのあぎとが王子の乗る船に降りかかると、あっという間に船は真っ二つになった。
船から落ちた王子が深い海に沈み、姫は手に届かなかった王子と一緒になれると嬉しくなりその体に抱き着いたとき王子から肉体の体温が姫に伝わった。
「ああ、なぜでしょう。この懐かしいような温もりは。このまま抱きしめ続けたい」
すると、だんだんと海の底に沈むごとに王子の体の体温が冷え切っていくのを感じ取り、思い出した。このままでは王子は死に、屍となって父エーギルの御殿へとゆき合えなくなるのだと。
それでは、王子は姫の物にならない。この温もりを失いたくないという一心で姫は王子を死なせないように海上へ運んだ。
嵐も止み、王子を温かな太陽が当たる浜辺へ運ぶと、姫は温もりを取り戻しつつある王子に頬ずりをして去った。
後日、海の漁師たちの話から、王子が海で溺れかけたところを女性に助けられ、その人に逢いたいという噂を姫は耳にし、姫はあの美しく黒い目が大きい王子が自分に逢いたがっていると嬉しくなった。それは、探していたパズルのピースが見つかったかのような喜びようであった。
だが、哀れかな海の神の娘として生まれ変わった姫は、人よりも三百年という長命となり寿命の違いや生活する場の違いで決して王子と一緒になれぬである運命にある。
されど、姫はそれでも諦めなかったのだ。人の時叶えられず記憶の奥深くに眠っていたものが、あの王子と出会った時に燃え上がったのだ。人魚となった姫は、叶わぬ恋を燃え上がらせて、母の側近である魔女に頼み再び王子に逢いに行くのであった。
薬によってかつて失った足を再び手にして、激痛を伴いながらも大地を踏みしめ、王子への恋を実らせようとゆくのであった。その胸に黄金の首飾りを身に着けて。