第47話≪伝承の存在≫
「ねえ、せんせえ。”さぁいぜん”ってなあに?」
小さな少年は自分より二回りも大きい男性の服の裾を引っ張り、尋ねる。
「――ん? あぁ、最善っていうのは、何かを選ぶときの一番いいものだよ」
見上げる少年ににこやかに微笑むと男は優しく、諭した。
空には綺麗な満月。小風に揺れて、木々が鳴いていた。
少年は続けて質問をする。
「じゃあ、せんせえがいっつも言う。『最善ではなく、最悪で動け』ってどういう意味なの?」
「ん? ふふっ、そうだねぇ、それはね―――」
先生と呼ばれる男はそういって、少年の頭に乗った木の葉を軽くつまむが、少年はその手を払いのけた。
「もう! 僕は子供じゃないよ!」
少し驚く先生と呼ばれた男は、それをみて軽く微笑むと、
「ほぅ、そうか。じゃあ、大人のリアンだったら分かるんじゃないかな?」
と、木の葉を風に流して優しく笑いかけた。
頬を膨らませて、「ごまかさないで!」と叫ぶ少年を横目に、顔を見上げると遠くを見つめて続けた。
「……そうだねえ。答えはまた大きくなったら教えてあげる。ただ、これだけは忘れちゃいけないよ。最悪って―――」
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―――布が宙を舞う。
霞んだ視界でも、見覚えがあった。
あの、檻の中でも格別嫌な予感のしていた―――
「ギャアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアッッッ!!!!」
空気を震わす、絶叫が聞こえた。
鳴き声でも咆哮でもない、『絶叫』だ。
「な、なんの――」
周囲を見渡すと皆が皆耳を塞いで、縮こまっていた。檻の隅に体を寄せ合い、震えて俯いている。
それは、まるで恐怖で動けないでいるのかよう。
が、その中の一人が此方を見上げて目を丸くして息をのんだ。その反射する瞳の奥から、異様な怪物の影が映る。
瞬間、気が付けば辺りには影が落ち、急に夜かと錯覚するほど辺りが暗くなった。
背後に何かがいる。
その圧迫感を感じたリアンは、本能で神経を尖らせた。背後から聞こえるただの吐息で一気に冷汗が噴き出し、一気に悪寒が足先から駆け上がる。
即座に背後を振り向こうとした瞬間、誰かの怒号が聞こえた。
「くぉおらァッ! 誰だ、騒いでやがンのはァ!!」
聞き間違えることのないアニキと呼ばれる、奴の声。
姿を見ずとも重厚感のある足音からしても間違いなく奴であることが分かった。
「ったく、ようやくずらかろうってと、き…に……」
威勢よく上げていた声が段々と小さくなる。
最後の言葉はあの、アニキかと疑いたくなるほどか細くなっていた。
「―――ぉ、ぉおおぉおお、おいッ!!! 誰だ、ロットス兄弟勝手に開放しやがったバ」
――瞬間、声が不自然な形で途切れ、短い潰れた悲鳴の後、突然視界半分が赤くなった。
どろっとした不快感が左半身を覆い、鉄の匂いと粘着感のある肉塊で胃の中がむせ返す吐き気で埋め尽くされる。
全身の悪寒が危険信号を発する。殺気、いや違う、敵対視した目じゃない。これは、あの時と同じ、あの感覚――――『餌』を見る視線だ。
自分の体半分ぐらいある手で首を直に絞めつけられるような緊張感が走り、辺りでは絶叫と悲鳴の上がる阿鼻叫喚と化していた。
視界の端で雄たけびを上げながら駆ける足音が宙に浮いて、消えた。どのような形で絶命したのか全く想像がつかないし。見上げることなんて到底できない。
「おいおいおい、誰だロットス兄弟に餌忘れやがった野郎はぁ!」
「ダメだダメだ、アニキがやられちまった! 逃げろ逃げろ―――――ッッ!!」
「た、助け」
至る所で、地獄のような音がする。すり潰され、刻まれ、叩き潰され、血が滴り、湖ができて。視界が世界が、じわじわと赤く染まっていく。
死神が背後に降り立つ。
死ぬかもしれない、とか不明慮な物じゃない。明確に、彼らの次にやられるのは間違いない。
鮮明に見えていた、息を飲み込むことさえ許されない一瞬の絶命を。
圧倒的な戦闘力の差は覆ることはない。布が掛けられていた最中でも感じたあの雰囲気。あの予感は的中していたのだ。開けてはいけない禁忌の箱であったのだ、と。
これは、もう
「出番だァレオ――――ッ!!! やぁっちまええ―――――ッ!!」
突如、座り込んでいた健吾が立ち上がる。
その勢いに思わず気圧されふらつきながら座り込んだリアンは、弱弱しく見上げることしかできない。
…何、を言っているのだろうか。
今の現状、なんなら先ほどより状況は悪化している。誰がどう見ても最悪だ――――そう、”最悪”
ハッと記憶の電流が駆け巡った瞬間、背後から差し込んでいた陰りが急に明るくなり、視界が開けた。と、同時に破裂音と、土ぼこりを巻き上げる風が舞い、顔を覆うまえに視界が黄ばみ小石が頬を小突く。
正面には顔を覆いながら満面の笑みでこぶしを握る健吾の姿。他の奴隷たちも、先ほどの暗く沈んだ瞳に光が差す。
『――最悪って、君にとってかもしれないからね』
かつての、言葉が蘇る。
振り返りざまに映るのは、差し込む太陽の中大きく穿つ漆黒の翼。
闇より深く、光をものともしないその黒は、光だけでなく、視線すらも取り込んでしまう。
その姿は、まさに伝承の通りであった。
偽物ではない。
いや、コレが偽物だとしたらどれを本物だと言えばいいというのだ。
この一目見た感動を、嘘という一言で片づけていい代物ではない。
それは、檻の中にいたものも同様であり、あるものは平伏を、あるものは涙を、あるものは祈祷を。
檻の中で行われる様々な喝采は、伝説を目にしたゆえの興奮か、窮地に舞い降りる救世主への感謝か。はたまたその両方か。
一言で表すならばそれは、『崇拝』だった。
「貴方は、一体……」
立ち上げる健吾に、リアンはその言葉しか放てない。
初めてみたときに信じきれなかったのは、彼がドラゴンと共に居れる人物とは思えなかったから。
「さあ、頼んだぞ。思うような舞台を作ってやったんだ。コレで負けるなんて許さんからな…」
「……えっ? か、勝てると思ってこの状況作ったんじゃ、ないんですか…?!」
リアンは、驚いて振り返ると同時に、激痛の走った先ほど殴られた後頭部を抑える。
体が、限界すぎる。座っている今だけでも、気を持たせておくだけで精いっぱいだ。
「ははっ、実はレオとはあまり長い付き合いじゃないもんで…さっきも全く興味をしめしてくれなかったんで、盗賊が布を被せて大事にするぐらいの奴なら相当なもんだろう…と。後はそれでレオのやる気を引き出せるかどうかで、正直賭けでした」
「賭けって、そんな。もしあのドラゴンが動かなければ、最悪の結果に……」
”最悪”の結果。
それは、誰にとって? ー――僕にとっては、か?
誰も助けられず、誰も檻から出れず、誰も生きて帰れない。考えうる一番の最悪の結果だ。
―――だが、もしあの化け物を倒し。全員が生還して帰れたら、一番の正解であり、最高の結果であり僕のたどり着けなかった答えである。
僕が、本当に求めていた―――
「だって、皆助けるにはこれしかないと思ったんですよ」
―――最善だ。
「ギャッ、ギャッ、ギャ、ギャギャアアアアアアアアアアアアアッッ!!」
化け物がめり込んだ岩壁から足をじたばたさせている。
どうやら、先ほどの攻撃ではるか先の岩壁まで飛んでいたようだ。だが、遥か先、親指サイズぐらいにしか見えない距離にいながら絶叫の聞こえる声量に身の毛もよだつ思いしかなかった。
ようやく、抜け出せたであろう瞬間。体を壁から起こして、こちらのドラゴンを認識すると嬉しそうな鳴き声を上げながらじたばたと跳ね上がって、全身を縦横無尽に振り回して走り出した。
見た目は、狼と鳥類を掛け合わせているようで、眼球が飛び出している。
不気味と言えば、不気味だが何より不快なのは見た目より走り方が前足が羽と手を掛け合わせた形をしていて四つん這いで右往左往しながら走っている所だった。
そして、何より早い。
身体能力の良いと言われる獣人の目を持っても、ギリギリ造形を追えるレベル。
健吾は全くどんなものか分からず灰色の塊が揺れながら横切っていくのしか確認できなかった。
つまり、その場の半分以下は全容が分かっていない中。空を切る音と共に目にも止まらぬ勢いで振りぬかれる横振りの一撃が空気を裂く。
が、それを軽々と避けて見せるレオはその後に行われた前足の乱舞も見事に躱し切って見せる。
瞬きのできないリアン。全く見えていない健吾。
その戦いは熾烈を極め、息をのむ数秒が行われる―――と、思われたが幕引きはあっさりとしたものだった。
たった一撃。
乱舞の最中振り下ろしたレオの拳が、全ての攻撃をはじきながら到着し、衝突と同時に原型を置き去りにして、森の奥へと消し飛んだ。
後に残ったのは、怪物が繰り出した斬撃の衝撃波と、レオの一撃による破裂音。
そのどちらも認識できなかったものは、遠くにできた壁の亀裂を認識した瞬間に遅れてきた破裂音に驚くぐらいしかできなかった。




