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03 旅立ち 1

「茜。おい、茜!」

 誰かが、自分の体を揺さぶっている。

 朦朧もうろうとした意識の下、茜は「この声、だれだっけ?」と、ボンヤリ考えていた。

「おい! 茜! いい加減に起きろ!」

「あっ!?」

 この声! 

 突然、意識がはっきりして、茜は飛び起きた。

 瞬間、『ごちん』と鈍い音が響いて、『おでこ』に激痛が走り抜ける。 目から、火花が散った様な気がした。

「痛った〜い!!」

 思わず声を上げ、両手で額を抑えながら目を開けると、同じく額を押さえて無言で睨んでいる敬悟の顔があった。

「あ、あれ?」

 敬にぃがいる。

 茜は眉根を寄せて額を撫でている敬悟の顔を、呆然と見詰めた。

「お前なぁっ……。だから、注意力散漫だって言うんだ。もう昼過ぎだぞ。いくら忌引き休暇中だからって、いい加減に起きろよ」

 おでこをさすりながら茜の服装に気付いた敬悟が、眉根をギュっと寄せた。

「何だお前、制服のまま寝たのか?」

 え?

 敬悟の問いに茜は、頭が混乱する。

 ぎこちない動作で周りを見渡すと、そこはいつもと変わらない自分の部屋だった。

 お気に入りのパイン材の机とチェストとベットの三点セットは、去年の誕生日に父にねだって買って貰ったものだ。

 好きな淡いオレンジのトーンの室内。 その壁際の自分のベットの上で、茜は制服のまま座っていた。

「ええっ!?」

「ん?」

 何かに気付いたように、敬悟が茜をじっと見詰めた。 正確に言えば、茜の着ている制服を見たのだ。

「何だか制服がホコリっぽいな。昨日こけたとき、泥はねしたのかな」

「え?」

 違う。

 違うよ敬にぃ!

 ピントがずれてるよ!

 何をどう言って良いのか分からず、茜は金魚のように口をぱくぱくと開け閉めした。

「クリーニング出さないとダメだな」

 いつもと変わらない敬悟の態度に、茜はますます頭が混乱してしまう。 制服のシワやクリーニングの心配よりも、もっと重大事件があったはずだ。

 混乱の極地で言葉が出ない茜の様子を『反省』と取ったのか、敬悟は『しょうがないなぁ』と言うように軽く溜息を付いて、茜の頭をポンと一叩きした。

「いいから、さっさと着替えて降りて来いよ。朝食……、もう昼食か。出来てるから」

そう言って部屋を出て行こうとする。

 ちょ、ちょっと待って!

 慌てふためいた茜はベットの上から飛び降りて、敬悟の腕をむんずと掴んだ。

「な、なんだ、どうした!?」

 いきなり進行方向と違うベクトルが体にかかり、バランスを崩してよろけた敬悟は、目を丸くしている。

「敬にぃ! 昨日、鬼、見たよね!?」

 やっと口を飛び出した茜の声は、ワントーン跳ね上がって裏返った。

「鬼ぃ!?」

 茜のセリフに驚いて、敬悟がさらに目を丸くした。 ぱちぱちと三回ゆっくり瞬きすると、茜の顔をマジマジと見下ろす。

「何だそれ。……夢でも見たのか?」

 真顔で聞き返されて、茜はますます訳が分からず混乱してしまう。

「だって夕べ敬にぃ、私に『風呂入って寝ろよ』って言いに来て、『鬼』 見たでしょ!?」

 同意を求める茜の顔を、敬悟はただ『きょとん』と見返していた。 その表情に嘘は見えない。

 正直、『あれ』は茜自身も未だに信じられない。 何せ、『赤鬼』が自分の部屋に出現して、その鬼に襲われたのだ。

 おとぎ話じゃあるまいし『鬼が出た』と聞いて素直に驚く人間は、幼児か余程のおめでたい思考回路の持ち主だろう。 茜だって、他人がそんなことを言い出しても信じない筈だ。

「それで、ペンダントが青く光って……」

 敬悟の、真面目に『?』な反応に、だんだん自信がなくなって来て口ごもってしまう。

 ――夢だったの?

 あれが全部?

 鬼に襲われる夢を見て、又その中で違う夢を見たの? 

 夢と言うには、あまりにリアルなあの鬼の息遣い。 生臭い匂い。 その一つ一つを、まだ鮮明に思い出せる。

 それに――。

 茜は、あの母の顔をした『鬼女』を思い出して、ぶるっと身震いをした。

 身近な人間が、異形のものに変わる恐怖。

 細胞の一つ一つが粟立つようなあんな感覚は、生まれて初めて体験するものだった。

 茜にとっては、見るからに『鬼』と言う最初の赤鬼よりも、あの『鬼女』の方がよほど怖かったのだ。

「じゃぁ、早く降りて来いよ」

 そう言って部屋を出て行こうとする敬悟に、茜は慌ててくっ付いて行く。

「何だ? 着替えは?」

「う、うん……。後にする」

 ちらっと、昨日赤鬼が立っていた窓際に目をやる。

 いつものように、オレンジのチェック柄のカーテンが静かに窓を覆い隠している。 そこには鬼のいた痕跡は何も見い出せない。

 でも、例え夢だとしても今は、この部屋に一人でいたくはなかった。

「あれ? お父さんは? 書斎にいるの?」

 一階のダイニング・キッチンに足を踏み入れた茜が、驚いて声を上げた。

 食卓にいると思った父の姿が見えない。 父の衛も、今週いっぱいは忌引き休暇で家にいるはずなのだ。今日が木曜だから、あと四日間は休みの予定だった。

「ああ、何か大学の方で急用とかで出掛けたよ。少し遅くなるから、夕飯先に食べてろってさ」

 嫌な予感に、茜は恐る恐る敬悟に質問を投げた。

「け、敬にぃは、まさか出掛けたりしないよね!?」

 思わず、語尾がワントーン跳ね上がる。

 今は、絶対一人になりたくなかった。 大体身内の、それも妻の葬儀の次の日に、行かなきゃならない仕事が有ることが茜には理解できない。 

「あ、悪ぃ。俺もちょっと出掛ける。夕方には戻れるから、留守番よろしくな」

「ええっ!? じゃあ、夕方まで私一人なの!?」

 すがるような茜の視線は、敬悟に『悪いな、大事な用なんだ』と笑顔と共に一蹴されてしまった。

 最悪だ。

 ただでさえ、一人でいられない性分なのに、昨日の今日で、一人になるのはごめん被りたかった。

 どうしよう。

 茜は、何かよい方法がないか、暗澹あんたんたる気持ちで考えを巡らせた。

「……じゃあ、私、学校に行く」

 ――母の葬儀の次の日に、登校する娘も非常識かもしれない。

 でもたぶん、一人で家にいるよりは、何倍もマシだ。

 茜はそう思った。

「……そうか。そうだな」

 茜の答えに少し驚いた様子の敬悟だったが、一人が嫌いな茜の性分は良く知っているので、特に異を唱えることもなかった。

「じゃあ、食べ終わったら車で送って行くよ。どうせ通り道だからな」

 そう言って柔らかい笑みを浮かべ、茜の頭を労るように『ポン』と叩いた。

 茜の本音を言えば、本当は敬悟にくっついて行きたい所だった。

 だが、いくらなんでも高校生のコブ付きでは、敬悟が嫌な思いをするだろう。

「うん。ありがとう敬にぃ」

 茜は力のない笑いを敬悟に返した。



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