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01 始まりは雨 1

 その日は、朝から冷たい雨が降っていた。 

 もう七月だと言うのに、季節が逆行してしまったかのような冷たい雨。

 火葬場の煙突から上がる黒い煙は、そのけぶるような雨の中、鉛色の空に溶けるように消えて行く――。

 空も、失われた命を悼んでいるかのようだった。

 一人、親戚一同が詰めている待合室を離れ、玄関ポーチの外壁にもたれて、落ちてくる雨をぼんやりと眺めていた神津茜かみつあかねは、肌寒さに震えが走り、思わず自分をギュっと抱きしめた。半袖のブラウスから出た剥き出しの自分素肌は、ヒンヤリと冷たく感じる。

 お母さん……。

 心の中で母に呼びかけて、ふうっと大きな溜息をつく。

 体の弱かった母・明日香が、亡くなったのだ。

 父親は詳しく語らなかったが、もう大分以前から医師に余命宣告を受けていたらしかった。

 教えてくれたら良かったのに……。

 そうすれば、もっと何か出来たかもしれないのに。

 苦い思いが胸を過ぎる。

 最後に言葉を交わした時、母はいつもと変わらない笑顔で自分を見送ってくれた。

「じゃ、また明日、学校帰りに寄るね!」

 茜のいつものセリフに、いつものように笑顔で答えてくれた。

 十七歳になったばかりの茜にとっては、まだまだ母親の存在は必要なものだ。教えて欲しいことは山ほどあるし、聞いて貰いたいことは、もっとたくさんある。

 優しくて、いつも自分の味方だった『お母さん』その母が死んでしまった。

悲しい――はずなのに。

 正直いって、茜には全く実感が湧かなかった。

『茜ちゃん、こういう時は、我慢しないで泣いていいのよ?』

 親戚のおばさんにそう言われたが、無理に我慢している訳ではなく、本当に涙が出てこないのだ。

 こんなものなの?

 それとも、私の感覚がおかしいの?

 自分自身の気持ちが掴めず、茜はさらに大きなため息をひとつ吐き出す。

「茜!」

 不意に名前を呼ばれ、茜はびくりと顔を上げた。

 玄関の方から自分を呼ぶ声。それは、父親のものだ。

 時間が来た――。

 茜は、ゆっくりと玄関の中に視線を巡らせた。

「もうそろそろ時間だ。こっちに来てなさい」

 玄関から手招きをする父、まもるの声には沈痛な響きがこもっている。火葬炉の扉が開くのだ。

「あ、うん。今行くよ、お父さん」

 茜は軽く深呼吸して、気持ちを入れ替えた。

 今は母の葬儀の最中。神津明日香の娘として、やるべきことをやらなくては。

 悩むのは、全てが済んだ後でいい――。

 茜は玄関の奧に姿を消した父の後を追おうと、一歩、足を踏み出した。

 少し注意力が足りなかったかもしれない。雨にじっとり濡れた金属製の側溝は、とても滑りやすくなっていた。

 ズルッ。

 足を踏み出した刹那襲ってきた靴底が滑る感覚に、茜は自分が陥った状況を瞬時に理解して、血の気が一気に引いた。

「うきゃっ!?」

 情けない悲鳴が口から飛び出すが、なんの助けにもならない。

 ぐるりと回る世界。

 ぶるん!

 ポニーテールの明るい色の髪が、勢い良く揺れる。

 最悪!

 よりにもよってこんな日に、「ドジ」の本領を発揮なんて! 

 どうしておしとやかな所が、お母さんに似なかったんだろう!? と要らぬ心配をしながら水たまりに尻餅を付くのを覚悟した瞬間、落下運動がピタリと止まった。

「あ、あれ?」

 お尻が冷たくないぞ?

 ゆっくり視線をあげると、見慣れた顔が自分を見詰めている。

 細身の長身。はっきりした二重の黒い瞳には、安堵の色が見えた。

 通った鼻筋に引き締まった口元。

 およそ同じ血が混じっているとは思えない、整った顔立ちをした喪服姿の青年に、茜は抱きかかえられていた。

 青年の名は、神津敬悟かみつけいご

 茜より四歳年上の父方の従兄だ。

 あと三十センチで着水、と言うところで敬悟がキャッチしてくれたのだ。

「サ、サンキュ。敬にぃ」

 茜は『あはは』と引きつり笑いをしながら、なんとか体制を直して立ち上がった。照れ隠しに、汚れてもいない制服の濃紺のプリーツスカートを、パタパタと払う。

「サンキュ、じゃないだろ。注意力散漫! ドジも大概にしろ。良くそれで弓道大会全国三位になれたな……」

 はぁっと溜息混じりの明らかにあきれた様子の敬悟の答えに、茜は、むうっと眉根を寄せた。

 直情型の茜は、考えていることがそのまま表情に出る。裏表が無くさっぱりした性格なので女子には人気があるが、少々女らしさに欠けるのが要因か、男子には女の子扱いされない。結果、男友達はいても、彼氏いない歴十七年と言う、不名誉な記録を更新中なのだった。それが茜の悩み処でもある。

「弓道は瞬間勝負だから、ドジは関係ありません! お生憎様!」

 助けてもらった恩も忘れて『んべっ』と舌をだすと茜は、今度は慎重に父の元に向かった。

 ぷんすかと先を歩く茜に『やれやれ』と溜息混じりの視線を向けている喪服に身を包んだ長身の青年――。神津敬悟かみつけいごは、二十一歳の大学四年生。茜にとっては、四つ年上の父方の従兄――父の妹の子供で、幼い頃から一緒に育った兄のような存在だ。

 敬悟が五歳の時、ただひとりの家族だった母親が交通事故で他界したため、伯父である茜の父に引き取られたのだ。

 当時茜は一歳。文字通り『オムツも取れていない赤ん坊』である。五歳の敬悟少年は、突然出来た妹をそれは可愛がり、当時から茜の母・明日香が病弱だったため、それこそ『オムツも替えてくれた』のだ。

 それを折に触れ言われるので、一応十七歳。年頃の娘として茜は面白くない。

「まったく、デリカシーがないんだからっ! だから彼女が出来ないのよ!」とは、『オムツ』の話を持ち出されると、茜が必ず言う決めゼリフである。

 ただ、敬悟の存在は茜にとって、無くてはならないものだった。

 病弱で、入院していることが多かった母。大学の教授で、考古学の博士でもある父。父のまもるは珍しい遺跡を発掘しそれに対する論文が認められ、比較的若くして教授になった。そのため、発掘や講演などで多忙になり家に居ることが少なかったのだ。必然的に、茜と敬悟が二人で過ごすことが多かった。

 もちろん、ベビーシッターなり家政婦なりの世話をしてくれる大人はいたが、もしこれが彼がいなくて一人きりだったら、さぞ寂しい子供時代を過ごすことになっただろう。

 そんなことは良く分かっている。

「ったく、敬にぃは、ひとこと多いんだから!」

 ――おかげで、まともに『ありがとう』って言えなくなっちゃったじゃない。

 敬悟に対して、今ひとつ素直になれない自分の感情を持てあましながら、茜は心の中でそう愚痴ると、父の元へと足を速めた。



 茜が着いたとき、火葬炉があるフロアでは、黒いスーツに身を包んだ火葬場の職員が淡々と作業をしていた。それを見詰める親族の表情は、どれも一様に暗く沈んでいる。

 茜は、人波の中心に佇む父の隣に静かに寄り添った。そのすぐ後に敬悟が続く。

 最愛の妻に先立たれた、衛。

 大好きだった母を無くした、茜。

 優しかった叔母が居なくなった、敬悟。

 それぞれの胸にそれぞれの思いを抱いて、みなその瞬間を身じろぎもせずに待っていた。

 ガチャン。

 沈黙を破り、重い音を響かせて火葬炉の扉が開かれる。

 ムゥっと立ち上がる熱気が頬を叩いた。

 独特の、何とも言えない臭気が辺り一面に広がる。

 茜は息をするのも忘れて、出てきた台車の上を見詰めていた。

 白い骨になった母。

 人間は骨になると、こんなにも小さくなってしまうものなのか。

 細い、あまりにも小さな骨。

 銀色の専用のとり皿に移された骨を、従業員に指示されるまま、二人づつ大きい骨から箸で掴み骨壷の中に収めていく。

 まず喪主の夫である衛と、娘の茜の手で。

 カラン、カラン。

 静かな室内に、骨壺に骨を入れていくその悲しい音だけが鳴り響いた。

 お母さん……。

 茜はこの瞬間、自分は絶対泣くだろうと思っていた。

 でも、やはりなぜか涙は出なかった。

 なぜ、自分は泣けないのだろう? 

 学校で母の死を知らされた時も、病院で母の亡骸と対面したときも、そして今も……。


「この石は ”守りの石” なのよ。あなたを守ってくれているの。だから、外さないでいましょうね――」 

 遠い幼い日、聞いた母の言葉が胸に甦る。


 茜は胸のペンダントを、ぎゅっと握りしめた。




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