玄鬼抄 6
鬼の一族を統べる最強の鬼『赤鬼』
赤鬼を補佐していた『蒼鬼』は、赤鬼と袂を分かち、既にこの世にはない。
次に『玄鬼』と『白鬼』の兄妹。
その下に、多くの鬼の一門が連なる。
事実上玄鬼は、一族の中では第二の実力を持っている。それでも、赤鬼の力には遠く及ばないのだ。
「ちくしょ……明日香を……連れて行かれた」
「黙っていて」
呻くように呟く玄鬼に白鬼が言う。その声は、もうささやきに近い。
傷の表面は塞がったが、失った血液の再生が追いつかない。力が足りない。こんな経験は初めてだった。
白鬼の限界点が近付いていた。
「ごめんなさ……もう……」
ささやくと、白鬼はその場に崩れ落ちた。
茜の意識も、それとともに遠くなる。
「白鬼!」
玄鬼と衛の呼ぶ声が聞こえる。
「行って。明日香の元へ……彼女を助けて」
苦しい息の下で、やっとのことでそれだけを言葉に変える。
「その必要はない」
低く響く声に、一同がびくりと身をすくめた。
白昼夢。
正に、それは白昼夢を見ているようだった。
二メートルはあろうかという巨体に、赤黒い肌。
盛り上がった山の様な筋肉の頂上に、四角い岩の様な頭が乗っている。
そこあるのは、獲物を捕らえたら決して放さない、肉食獣を彷彿とさせる鋭く尖った犬歯。
まるで血の色を思わせる真っ赤に燃える双眸。
頭上に生えている『角』
薄暗い洞窟の中からゆっくりと姿を現したのは、赤鬼。
間違いなく、茜を襲ったあの赤鬼だった。
その腕には、ぐったりと意識の無い明日香を抱いていた。
「明日香!」
衛と玄鬼が同時に声を上げる。
だが、明日香は何の反応も示さない。
「すでに儀式は完了した。何も案ずることはない。時間が経てばじきに目覚める」
ぎろり。
赤鬼の鋭い眼光が、衛を真っ直ぐ射抜く。
「そやつが明日香をたぶらかした元凶か」
「明日香に何をした?」
異形の赤鬼の姿を前にしても臆することなく、衛は真っ直ぐその目を見据えた。
「何を、とな?」
赤鬼は愉快そうに声を上げた。
「明日香に何をしたと聞いている」
「人間には、関係のないことだ。それに――」
『すぐに死ぬ人間にもな』
その言葉を耳にした瞬間、衛は自分の全身の骨がきしむ音を聞いた。
気付いたときには、元いた場所から十メートル以上も離れた場所に倒れ込んでいた。
何が起こったのかも分からなかった。
「っ……」
うめき声も上げられない。
死と言う名の従者を連れて、ゆっくりと、赤鬼の重い足音が近づいてくる。
衛は、明日香の話から、彼女の一族が特殊な遺伝的要素を有していることを知っていたが、まさかこれ程とは思っていなかった。
例えどんなに特殊であっても、相手は『人間』
話し合えば理解できる筈。
だがこれは、そう言うレベルの問題じゃない。
『話の通じる相手じゃない』
こんなことならもう少し早く、無理にでも君を連れてここから逃げ出していれば良かった。
――すまない、明日香……。
「や……めて。だめよ、赤鬼。彼を手に掛けてはだめ」
衛が、己の死を覚悟したとき、赤鬼の腕の中の明日香が目を覚ました。
「私は、何処にも行かない。ずっとここにいるから、お願い。彼を帰してあげて」
腕の中の華奢な少女に、赤鬼は訝しげな視線を向ける。
「何故だ? 解せぬな。何故、あんな人間にそこまで執着する?」
「……あなたには、分かるはずよ、赤鬼。一度でも人間を愛したことがある、あなたなら」
「分からぬな」
赤鬼は、明日香を地面に横たえると、そのまま衛の元へ足を向けた。
その行動が何を意味するのか、その場にいた誰もが理解していた。
「それぐらいにしたらどうだ、赤鬼。暴走が過ぎやしないか?」
赤鬼と衛の間に玄鬼が立ちはだかるが、その顔色はまだ彼本来のものではない。
赤鬼が、ぎろりと玄鬼を睨め付ける。
「懲りていないのか? 我が配下の者とて、逆らえば容赦はせぬぞ」
「はっ! そんなの、先刻承知。いったい何年あんたの手下をやっていると思うんだ?」
「では、そこを退け」
「嫌だね」
「玄鬼、これは命令ぞ。そこを退け!」
恫喝に近い赤鬼の怒声に、玄鬼は口の端を上げた。
そこに大きい犬歯が覗く。黒い瞳に、ユラリと金色の炎が灯った。
一連の出来事を、どうすることも出来ずに、横たわる白鬼の中で見ていた茜は、玄鬼の犬歯が『ずん』と大きさを増したように感じた。
玄鬼の眼に、鋭い光が宿る。
その輪郭がぶれて行く。
みしり、みしり――。
ぼきぼきぼき――ごきり。
骨が歪む音が不気味に響き渡る。
筋肉が膨れ上がり、隆起する。
そして、めりめりと音をたてて、その頭上に一本の角が生えた。
そこに現れたのは、金色の瞳を持った山のように巨大な黒い鬼。
――そ……んな。
茜は我が目を疑った。
見知った者が、異形の者に変化を遂げる恐怖。
それよりも、驚きの方が勝った。
目の前で、赤鬼と対峙している黒い大きな鬼。
それは、『鬼押神社』で茜たちを襲った、あの大鬼だったのだ。
鬼押神社で、結界の中には入れないと言った玄鬼。
それは、中に居たのが、玄鬼自身だったから?
でも、なぜ?
なぜ、そんなことをする必要があるの?
呆然とする茜をよそに、事態は刻々と進んでいた。それも、破滅的に悪い方に――。
鬼押神社のことは別として、ここの玄鬼は、衛と明日香の為に戦っている。それは間違いない。
だが、大きさはともかく、力では赤鬼の方が遙かに強い。茜の目にもその力の差は歴然としていた。
このまま行けば、玄鬼は倒され、父は命を奪われるだろう。
もしもここで父が死んでしまったら、自分は生まれない。未来が変わってしまう。
でも、茜には何の術もない。ただ、白鬼の中で、全てを傍観しているだけだ。
あまりの不甲斐なさに、茜は自分が情けなくなった。
その時、白鬼がフラリと立ち上がった。
そのまま、おぼつかない足取りで地面に横たわる明日香の元へと向かう。
「白鬼……」
力無い笑みを浮かべる明日香に、傍らに座り込んだ白鬼も、微かに口の端を上げる。
でもそれは笑顔にはほど遠い。
「明日香、今から私の持てる力を全部あげる。だから……」
白鬼は苦しそうに、喘いだ。
ただ歩いてきただけなのに、全身で息をしている。
明日香は、そこに死の影を見て取って、顔を歪めた。
「白鬼、だめ……よ」
「彼とここから逃げて……」
最後の力を振り絞り、白鬼は明日香の胸に手をかざした。
腹の中心から全身を巡るエネルギーを全て手の平に集約する。
それは、青い光となって明日香の胸の上で小さな石に姿を変えた。
青い閃光が、明日香の全身を包む。
その刹那、明日香は白鬼の中に在るもう一つの人格を感じ取った。
茜もまた、薄れゆく意識の下で母の優しい波動を感じたが、それもすぐに闇に閉ざされてしまった。
白鬼の命の炎が、ついに尽きたのだ。




