鬼が淵 5
その頃。
何の手立てもない敬悟は、瞑想するように目を閉じて茜の居所を必死で辿っている玄鬼を、ジリジリと胃を焼くような思いでただ見つめていた。
「かくなる上は、仕方がないか……」
ゆっくり目を開いた玄鬼が、ボソリと呟く。
敬悟を見上げる金色の瞳には、『不本意だが』というニュアンスが色濃く現れていた。
「何か、手があるのか?」
「……敬悟、おぬしの力を借りる」
「俺の……力?」
そんな力があるのなら、とっくに茜を助けに行っている。
敬悟は、玄鬼の言葉の意味が掴めずに眉を寄せた。
「ったく、赤鬼も酷な事をしやがる……」
「何を言ってる?」
独り言のような玄鬼の呟きに、敬悟はますます訳が分からなくなる。
「ちっ。この器じゃ、やりにくくて敵わん」
玄鬼はそう言うと、すうっと人間の姿に変化した。
浅黒い肌。
長めの黒髪。
少しつり加減な、大きな黒い瞳を持つ精悍な顔立ち。
いきなり目の前に現れた濃紺の作務衣姿の青年を、敬悟は驚きの眼差しで見詰めた。
「お前……玄鬼なのか?」
「まあな」
鬼志茂の時に茜が言っていた『人間の玄鬼』がこれか。
尚も困惑顔の敬悟を、玄鬼が睨め付ける。
「時間がない。説明は後だ。目を瞑れ、敬悟」
玄鬼の言葉には、『否』と言わせない厳しさがあった。
それだけ状況が悪化している。それを肌で感じた敬悟は、玄鬼の言う通り静かに目を閉じた。
玄鬼が右腕を上げて、敬悟の額に手を添え低く呪文のようなものを唱える。その瞳がまるで埋み火が炎を上げるように、黒から褐色へ、やがて金色へと変化を遂げた。
敬悟の額に触れる玄鬼の指先から、金色の光がまるで水に描かれる波紋のように広がっていく。
「無理に逆らうな。力の流れるまま、受け入れるんだ」
玄鬼の低いささやき声が、まるでエコーを掛けたように頭の中に反響する。
「うっ……」
額が焼けるように熱い。
額から入り、首、胸、鳩尾を巡り全身を駆けめぐる灼熱感。
それは、敬悟の中の眠れる『何か』を静かにだが確実に揺り起こしていく。
熱い!
「う……あっ!」
敬悟は、全身を巡る灼熱感にうめき声を上げて、地面に崩れ落ちた。
「敬悟――」
玄鬼の呼ぶ声に、倒れ込んでいた敬悟がピクリと身じろぎをした。
「己のやるべき事が、分かっているな?」
敬悟は悲鳴を上げる体を地面から引きはがして、片膝を付いた。
肩が、せわしなく上下している。
まるで全力疾走したときのように、息が苦しい。
でも――。
「……分かっている」
敬悟はようやく低い声を絞り出すと、玄鬼に向かって顔を上げ、真っ直ぐその金色の瞳を見据えた。
「……よかろう。では力を貸せ」
敬悟は、ゆっくりと立ち上がり、静かに頷く。
ユラリ――と、
その瞳の奥に、赤い焔が揺らめいた。
玉座の変わりに鬼が出現させたのは、大きな寝台だった。
床や壁と同じ黒光りする、石の寝台。そこに茜は寝かされていた。
それはまるで、生け贄を捧げる為の処刑台のように茜には思えた。
「もう、いい加減に諦めたら? 下手に抗っても苦痛が増すだけだよ? それとも、今までの花嫁候補達と同じ目に遭いたい?」
横たわる茜の枕元に腰掛けた鬼が、ソロリと茜の髪を撫でる。
敬にぃの声で言わないでよ、変態!
クスクスと楽しげに笑う敬悟の皮を被った鬼を、茜は精一杯の敵意を込めて睨み付けた。
でも悲しいかな、手も足も声すらも出ない。
唯一の頼みの綱のペンダントは、何の反応も示さなかった。
このまま、この胸くそ悪い鬼に好きにされてしまうの?
冗談じゃない!
キスもまだしたこと無いのに、そんなのごめん被るわっ!
「へぇ、キスもしたこと無いなんて、今時の娘には珍しいね」
ううっ。
こうなったら、いくらでも言ってやる。
変態、変態、変態ーーっ!!
「何をやってるんだ、茜?」
えっ!?
「な!?」
鬼が、信じられないものを見たように、声を上げた。
今まで顔に張り付いていた余裕の笑みが一瞬にして消えて、後には驚愕の表情だけが残っている。
「敬にぃ!」
鬼の呪縛が解けた茜は、寝台から跳ね降りて声の主、敬悟の元へ駆け寄った。
「まったく。その後先考えない無鉄砲な所、いい加減直せよ」
少し、あきれたような敬悟のセリフに、茜はこくこく頷いた。
「どうやって、結界を破った?」
鬼が、呆然と呟く。
「茜は、返して貰う。お前には用は無い。何処へでも失せろ」
にべもない敬悟のセリフに、鬼がすうっとその変化を解いて元の少年の姿に戻る。
「どうやって、僕の結界を解いたんだ!?」
「結界? そんなものあったのか? 俺は、普通に入り口から入ってきたが?」
「なにっ!?」
すっと、敬悟が右手を挙げた。
パチン。
何かが弾けるような音が響いた瞬間、広かった鬼の空間が狭いアパートの一室に変わった。
人の住んでいない、がらんとした八畳二間の少し埃っぽいアパートの一室には、人間の姿をした玄鬼が待ちかまえていた。
「間に合ったようだな、茜」
玄鬼が、会心の笑みを浮かべる。
「玄鬼!」
茜は、敬悟と共に、玄鬼の元へ駆け寄った。
「我ら二人を相手に戦ってみるか? 若僧」
玄鬼が、余裕の笑みを浮かべて言う。
だが、眼が笑っていない。金色の瞳が放つ鋭い眼光が、情け容赦なく敵を射抜く。その全身から立ち上るエネルギーが、まるで金色の蜃気楼のように揺らめいている。
若僧呼ばわりされた少年の姿をした鬼は、憎々しげに白い牙をむいた。
だが、明らかにその劣勢を悟っているように、ゆっくり後ずさっていく。
そしてそのまま、空気に溶けるように姿を消した。
途端に、戻ってくる日常。
行き交う車のエンジン音。
通行人の気配。
様々な生活のノイズが、日常が戻ってきた事を教えてくれた。
「まったく、ヒヤヒヤさせてくれる」
玄鬼が、呆れたように呟いた。
「あれは、茜が無鉄砲に石を使おうとしたのが原因だぞ。お陰で、俺の力も跳ね除けられてしまった」
「ごめんなさい……」
敬悟と玄鬼。
二人に同じ事でしかられた茜は、さすがに反省した。
「でも、敬にぃ、凄かったね! あれどうやったの、『パチッ』ってやつ」
「あれは……」
車へ戻る道すがら、無邪気に喜んでいる茜に反して敬悟の口は重かった。
正直、なんと説明して良いのか分からないのだ。
「あれ……は」
そこまで言って、敬悟はフラリと力無く崩れ落ちた。
地面に転がる寸前、玄鬼に抱き留められる。
「敬にぃ!?」
慌てた茜は、飛びつくように敬悟の顔を覗き込んだ。
顔面蒼白。
青白い顔には、生気がない。
「どうしたの、敬にぃ!? 玄鬼、敬にぃ、どうしちゃったの!?」
「心配ない。急激にエネルギーを消費したための言わば『過労』だ。ゆっくり休ませてやれば大事ない」
敬にぃ……。
ごめんね。
私のせいで、ごめんね。
今度こそ茜は、真剣に猛反省していた。
「みんな、何処に行っちゃったんだよ……。まさか、車を置いて、次の場所へ行っちまったとか……ないよな?」
その頃。
炎天下のコンビニの駐車場では、誰も乗っていない車を前に、途方に暮れる橘信司の姿があった――。




