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82、アイデンティティーに決別宣言(ノリコSide)

銀座で見た時はフラッシュバックが激しかったけれど、あれで色々記憶が蘇ったせいか、こうやって本人が目の前に現れても、大してショックは感じなかった。

まぁ、嫌悪感は鳥肌が立つくらい凄いけれど。


突き飛ばされて尻もちをついた戸田さんが慌てて立ち上がり、おいっ何なんだよあんた!と声を荒げたけれど、そんなことはお構いなしにその男はズカズカと部屋に入ってきた。


「どちら様ですか?」


あえてそう聞くと男はニヤリと嗤い。


「俺の顔忘れたのかよ、冷めてぇなぁ・・・俺は昨日テレビで、その肩の火傷の痕見て直ぐ典物てんぶつノリコってわかったのになぁ。生まれた時から器量が悪くて、年頃になっても大して稼げねぇだろうって親父も兄貴もブチギレてたけどよ、まさか歌で稼げるなんて思わなかったぜ。それに化粧で、ブスもごまかせてるし。歌が売れて有名になったからよ、それでウリやればいい金になるよな。俺もいい目印つけたぜ。」


と、私の左上腕部横一列に綺麗に3つ並んで煙草を押し付けられた痕の辺りを、顎でしゃくって見せた。

やっぱり、昨日ノースリーブなんて着るんじゃなかったと、今更ながら後悔した。

だけど、時すでに遅しで。

今は、エミ姉も、ミッチーもいない・・・私を守るのは私自身だと、心に言い聞かせて男を正面から見据えた。


「売春は違法ですよ。それにこの状況は、不法侵入。さっき部屋の入り口で男の人を突き飛ばしたから、傷害。私が子供のころに殴ったり、煙草の火を体に押し付けたりしたのは幼児虐待。警察呼びましょうか?」


犯人に犯罪の事実を突きつける刑事のように、私は男にそう言った。

刑事ドラマが好きでよかったと、今更ながら思う。

だけど、現実はドラマのように都合よくはいかなくて。

私の言葉にカッとした男が、このガキがぁっと私の腕をねじり上げた。

痛かったけれど、前に浜田ジョーにされた時ほどではなかったから。

何となく、浜田ジョーやヤスシほど強くないのだろうと、冷静に判断もできた。


男の恫喝にも動じずに声ひとつ上げないでただにらみつける私に、男が一瞬怯んだ。

そのすきをついて、股間を蹴り上げようとした時。


「お、おいっ、リノちゃんから手を離せっ!」


緑川さんが、飛び出てきた。

だけど、声は裏返り、男に対峙するその姿勢は不慣れな感じそのもので。

喧嘩や暴力に慣れていない人だということが、見て取れた。

それでも、私を助けようと腰が引けながらも向かってくる緑川さんをありがたく思ったけれど。

ハッと我に返り、緑川さんが怪我でもしたらマズいと、慌てて男の股間めがけて膝を上げたけれど。

厚手のロングパーカーワンピを着ていたので上手く足が上がらず、イマイチダメージが与えられなかった。

だけど、私の腕を離すくらいの衝撃はあったようで。

私はサッと、男から距離をとった。

男はそんな私を見て舌打ちをすると、近くに置いてあった花瓶やアロマポットを緑川さんに投げつけた。

喧嘩慣れしていないと思っていた緑川さんだけど、まるでドッチボールの球をよけるように上手くそれらを避け、その上私にこの男は誰だと聞いてきた。

こうなった以上、少しは事情を話さなければと思い。


「実の父親の弟・・・っていっても、5歳で叔母さんの家に引き取られたから、会うのはそれ以来だけど。」


言葉を選んでそう伝えると、緑川さんは今までの男との会話で事情を察したようだ。


「つまりは、リノちゃんにとって、害にしかならない人間ってことだね。」


緑川さんはそう言うと私の前に立ちふさがり、近くに置いてあったギターが入っているギターケースを手にし、応戦の体勢をとった。

いやいやいや、ミュージシャンにとって楽器って命位大切なもんじゃないの!?

焦る私だったけれど、緑川さんは飛んできた小ぶりの額縁入りの絵をギターケースで叩き落した。

凄い音がした。

どうしよう・・・と、思っていたら、今度は戸田さんがやめろっ!と叫んで飛び出てきたから、男が思わず手にしていたものを、緑川さんじゃなく戸田さんに投げつけた。

戸田さんもいきなり物が飛んでくるとは思わなくて、咄嗟に避けたけれど俊敏ではない戸田さんは避けきれなくて、それが臀部あたりに直撃した。


「っっくぅぅっっ!!」


かなりの衝撃だったようで、戸田さんが顔を歪め変な声を上げた。

えっ?と思い、ゴトリと音を立てて床に落ちたものを見ると。

石の装飾がされた、豪華だけど当たったらかなりの破壊力がありそうな、置時計だった。

戸田さんには悪いけれど、心の中でそれが緑川さんに当たらなくてよかったと、私はホッと胸をなでおろした。

その瞬間、部屋の入り口のドアが勢いよく開いた。


「ノリコッ!大丈夫かっ!?」


ロン毛黒のサングラス姿のミッチーが私に駆け寄った。

ドアはオートロックのはずなのに、何で開いたのだろうと不思議に思ったけれど。

床に置かれていたハンドバッグを拾う裕子さんの姿を見て、ドアが完全に閉まらないようにして誰か助けを呼びに行こうとしてくれたのだと悟った。

多分、そこへミッチーが戻ってきたのだろう。


「ミッチー、その人私がこの間銀座で見た父親の弟!」


私が咄嗟にそう叫ぶと、ミッチーの体から一瞬黒い怒りのような気が上がったように見えた。

いや、実際には何も見えなかったはずなんだけれど、空気とか圧のような気配がしたのだ。

そして、ミッチーは、ロンゲ鬘とサングラスをかなぐり捨て。


「戸田、部屋から十夜呼んでこい!この階の822号室。真矢もそこにいるから、一緒にこの部屋に来いって言え。あと、広瀬も呼んで。早くしろっ!」


いつもの柔らかい口調ではなく、ぞっとするような冷たい声で捲し立てるように言うと、戸田さんを急かした。

ミッチーのその様子に戸田さんは圧倒されたように、部屋から転がるように飛び出て行った。

そしてすぐに男に向き直ったミッチーは、呼吸を置かず。


ガギッ———


回し蹴りを男の首に入れ、一瞬で気絶させた。

その躊躇ない攻撃に、どれだけの場数を踏んできたんだろうと、少し呆れた。


「・・・ミッチー、死んでないよね?」


「うん、まだ聞かなきゃいけないことあるから、多少手加減した・・・それより、緑川君、ごめんね。変なことに巻き込んじゃって。それに・・・そのギターケースの傷、ノリコを庇ってくれたんだ?ありがとう。おかげでノリコ、ケガしてないよね?」


そう言いながらミッチーが私を抱き寄せ、ホッと息を吐いた。


「うん。大丈夫・・・でも、エミ姉と叔母ちゃんが帰った後でよかった。」


「そうだね、まぁ後でちゃんと話をしないといけないけど。とりあえず、ノリコ、後は俺の方で片づけるから。とにかくノリコと緑川君は、あと2回のショーに集中して・・・ああ、十夜達が来たな。」


そう言うと、私を抱きしめていた腕を解き、緑川さんの横をすり抜けた。

緑川さんは、さっきの男の悪行よりも今のミッチーの瞬殺技を見て固まってしまっていたから、微動だにせず。

そして、ミッチーはやってきた春川さんと真矢さんによくわからない指示を出し始めた。

春川さんも真矢さんも、ミッチーの顔つきがいつもと違うので、返事や動きがやたらときびきびしだした。

多分これって、ミッチーが『タランチュラ』って呼ばれていた時の姿なんだろうと、何となく思った。





「やっぱり、俺・・・リノちゃんところの事務所に入りたいな。」


あれから広瀬さんがやってきて、ミッチーが春川さんと真矢さんとで気絶した男を連れて別室に連れて行ってしまい、また緑川さんと部屋で2人っきりになってしまった。

落ち着こうとお茶を入れなおしたところで、ポツリと緑川さんがそう言った。


裕子さんと戸田さんは、とりあえず夕方の部が終わってから再度部屋へ来てもらうようにした。


「こんなトラブル抱えている私だし、どうみてもミッチーばかりか、春川さんや真矢さんまでバイオレンス系に慣れてる人たちだってわかったのにですか?」


さっきの一連の出来事で、うちの事務所に入りたいっていう気持ちはなくなっただろうと思っていた私は、緑川さんの言葉に正直驚いた。

だけど、緑川さんはそんな私を不思議そうな顔で見て。


「いや、別に今回のトラブルってこっちが悪いわけじゃないじゃない。生まれ落ちた場所は自分で望んだものじゃないし。それより、西先生って、本当にリノちゃんが大事なんだな。さっきのお姉さんやお母さんを見ていても思ったけど、いい家族だね。マネージャーさんも春川さんも、西先生に絶対の信頼があるみたいだし。みんな、しっかり絆があって、本当にいい事務所だよね。」


と、しみじみとした様子でそう言った。





あの後、どうにか2回のディナーショーを無事終えた。

いや、無事だったわけじゃなくて、緑川さんのギターが2回目のショーでいきなりヒールという本体と柄の間のところからバキッと折れて、場内が騒然となった。

多分原因はさっきの・・・ケースの上からとはいえ、額縁があたり衝撃を受けたからだろう。

申し訳ない気持ちになったが、緑川さんが折れたギターを見てゲラゲラ笑い出したので、場内も笑いに包まれた。

仕方がないので、最初から歌いなおそうということになり、楽器がないので力いっぱいアカペラで歌ったらお客さんが大喜びで、結果大成功だったけれど。


ショーを終え、大急ぎで衣装のまま広瀬さんの部屋に行こうと、私たちの部屋を通過しようとしたら。


「俺も、一緒に行っていい?何か、気になって。もちろん他言しないから。」


と、緑川さんが言い出した。

まぁ、色々あったし、なによりもミッチーの素顔も見られてしまったので今更かと思い、私は頷くと2人でそのまま向かった。




『PRIVATE』と書かれた広瀬さんの部屋は、私たちに割り当てられた部屋の同じ階の突き当りにあって、少し離れているけれど誰にも会わずに、ドアの前まで来ることができた。

ホッとして、ノックをしようと思ったら。


「なんで、ガキのノリコを殴った。あんな酷い火傷やケガまで負わせて。」


ヤスシの怒った声が、聞こえてきた。

まさか、銀座で仕事中のヤスシまで呼んでいるなんてと驚いていたら。


「別に、深い意味はねぇよ。ただ、しいていうなら。俺も兄貴も殴られながら育ったからよ。順番だよ、順番。それに、女は年頃になりゃ金稼げるけどよ、ノリコは別嬪じゃねぇし、ムカついて。あと、何となく?八つ当たり的にふざけてたら、けっこうおもしろくて・・・そんな感じじゃね?」


ずっと、どうしてこんな酷いことをするのだろうと考え続け悩んでいた理由が、最低の言葉で私の耳に届いた。

その瞬間、体中の血が逆流したような衝撃に耐えられなくなって、ドンドンッとドアをたたいた。


すると、すぐにドアが開けられ。

戸田さんの圧迫感のある顔が見えたけれど。


「ノ、ノリコちゃんっ!?」


慌てる戸田さんを押しのけ私は部屋に入ると、1人掛けのソファーに縛られたまま座る男の前に立った。

そして、息を吸い込んで。


「殴られて育ったから、下にもそうするって、馬鹿じゃないのっ!!そんなことしたら、いつまでたっても、誰も幸せになんかなれないじゃない!私は、殴られていっぱい煙草で火傷の痕つくられたけどっ、私の子供にはそんなことしない!愛されなかった分、人の倍、自分の子供を愛して、可愛がって、幸せにして、私も幸せになるんだからっ!」


自分のアイデンティティーに対して、私はそうやって決別の宣言をした。




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