私にとってはそういうもの
「なんですか、これは」
え、と間の抜けた無様な声を漏らした来訪者に、部屋に駐在する者たちの白けた視線が集まった。
「な、なに、とは……その、屋敷を飾る美術品の、仕入れリストだが……」
部屋の主の普段通りの無表情に、しかし確かな不機嫌を見出した兄である男はのどを引きつらせた。
懲りないな、と誰もが思う。毎度のやり取りである。だというのに、なぜ先の展開を読もうとしない。父親である領主が早々に見限ったのも無理はない。
不敬もばれなければ問題はなかった。今日も主の家族に向けるに相応しくない罵詈雑言の数々が脳を占めては消えていく。声に出されることのない罵倒のバリエーションは、この屋敷に勤めてから、誰もが増える一方だ。
何せ、語彙の教師に仕えているので。
ビリー、と軽快な音。大きな出窓を背負った小さな姿に部屋の視線が集まった。手にした書類が上の方で真っ二つにされている。面積の小さな片割れに、手馴れた仕草で複雑なサインを記す。
ペンだこの目立つ細い指が、小さくなった紙をひらりと振った。
「許可します。どうぞ」
「な、なぜ破るんだ。ちゃんとおまえが言う通りの形で纏めてきただろう!」
「そうですね。何度も言い含めれば実行できることもあるようで何よりです、兄さま。いつもやってください。言われる前に」
手に取られない紙片を机の端に置いて、残りの紙を大きなバツで汚す。ポイと投げ入れられた箱には、リサイクル用、と適当な字で書かれていた。後にメモ用紙として大活躍する書き損じの集まりである。
それきり兄に興味をなくしたらしい。そもそも興味があったかどうかは怪しいところだが、とにかくいないものとして判断したようだった。山積みにされた書類の一端を引き摺り下ろし、素早く目を走らせてペンを動かす。なお、書類は優先度順に捌かれ、他の人間でも処理できるものは事前に省いてあるにも関わらず、その山は子供の背に匹敵している。
さて、部屋の真ん中でふるふると震える男をいかにして出すべきか。護衛の男たちは顔を見合わせた。襟首引っ掴んで放り出すのはまずいよな、と。執事や侍女もまた同様に首を捻る。
部屋の主が兄に対して退室を促す挙動はなかったが、彼の用事は済んでいる。しかも特に重要ではないものを無理矢理捻じ込んできたのだから、終わったのなら早々に退室するのがマナーだ。
彼がまたまた性懲りもなく地雷を踏む前に追い出すべきではあろうけれど──身分の壁を思い悩む間に、事態はあっさり突き抜けた。
「そちらの分の許可も寄越せ!領主の館を豪華に飾ってこそ、貴族の権威を誇示できるものだ!」
「貴族の権威はともかく、交渉面を考慮してエントランスから応接間にかけて利用される装飾は許可しました」
「一部だけを飾り立ててどうするんだ、屋敷全体に決まっている!」
「どなたが見ても失礼ではないようしつらえてあります」
「金があるならもっと高級品を入れたって良いだろう!」
「お金があるなら治世のために使います」
「飢えている者も少なく、不満も少ない!うちの領民は幸福だと誰もが口を揃えるほど潤っているんだぞ!?治世に回す分を少し抑えて、私たちが贅沢をしたって構──」
「──は?」
きた、と部屋の飾りに徹するべく息を詰める。執事や侍女は微動すら中止し、護衛の者は鋼材を入れたように背筋を伸ばす。
「聞き捨てならない言葉が聞こえましたが……」
「い、いや、その、そのだな!」
その人はとても平凡な顔立ちをしている。凡庸な黒髪黒目、特筆すべきところのないパーツと配置。その上、疲労に塗れた瞳は泥濘のように淀んでいるし、睡眠が足りていなくて肌が荒れていた。豪奢な服は動き辛いし無駄だと、面会時以外は仕立てそこそこの服をひょろりとした小さな身体に纏っている。では内面から滲み出る高貴なオーラに包まれているかと聞けば、誰に問うても否と言うだろう。
目付きが悪いわけでもない、何ら害意を煽る見た目をしているでもない。だというのに、ゆらりと顔を上げ、実用第一の飾り気ない椅子から尻を離した少女に、男は泣きそうに顔を歪めた。
たかが、齢15の少女に。
「私たちが、贅沢?」
ガアン、と激打の音が響き渡った。大慌てで侍女の一人が救急箱を取りに走る。少女が堅牢な机に打ち付けた、軟い拳の治療のためである。
兄たる男が悲鳴を上げた。すぐさま背を向けて逃げ出そうとする危機察知能力は、通常であれば立派な判断と賞されるだろうが、繰り返した過去を思うと余りにも遅すぎる。
「私、とは誰を指すんでしょう。まさか兄上ですか?貴族であるあなたのことでしょうか?ではもしかすると私たちとはあなたの親族である父上や母上、ありえないことですが私も含まれるのでしょうか」
次いで蹴り飛ばされた椅子が転がる。カーペットを荒らした距離など僅かなものだったが、そもそも重量のあるソレが倒れるだけで結構な衝撃だった。
男は扉を塞ぐ警備兵を退けようと奮闘する。沈痛な面持ちで首を横に振る彼らに罪はない。何せ、雇い主である領主から指令が下っているのだ。少女を優先せよ、と。ただ同情だけは禁じえない。しっとりとした2対の視線に、泳いだ視線が少女を超えて窓を捉える。
逃走は瞬く間に失敗した。窓に向けて突進した男は、擦れ違いざま健康から外れた細い腕に首を迎撃されて潰れる。
「あなた……今、自分で仰いましたよね?飢えている者も少なく、不満も少ない。おかしいですね、そんな現状でどうして貴族が、貴族ごときが贅沢に走れるというのでしょう」
倒れた貧弱な腹を踏み付ける踵の低い靴。全霊を掛けられた体重はどうしようもなく軽いというのに、なぜだか胃が破裂するほどの重圧を感じる。
混沌を孕んだ目がギラリと光った。
「少ない、それすなわち、まだ、まだ飢えた人がおり、不満を持つ方がみえるということです。不満はともかく、飢えたことなど生まれてこの方一度もない私を置いて──我らが至宝たる領民の皆様が!」
彼女が唯一人に誇れるという涼やかな声が絶叫に似た音を刻んだ。同時に、強く振り下ろされた足が男の腹を掠めて床を強く打ち付ける。その強さたるや、決して質が悪いわけではないカーペットの繊維が音を立てるほどだった。
涙を浮かべた兄を見下ろす顔ときたら、いつもの無表情はどこへやら、悪鬼悪霊の類を現出させている。人が変わったかのような有様だが、室内の誰もその豹変に驚いてはいない。ただ人形のように息を殺して経緯をじっと見守るだけだ。
日常茶飯事に驚き続ける面の皮で、貴族に仕えられるものではない。
「馬鹿なんですか!?馬鹿なんですよね!その鳥頭の中に入っているのは小指の爪のように小さい脳だと分かっていましたけれど、分かりました、脳ではなくて爪なんですね!安心しましたあなたのような卑小な者が、よもや私の愛する領民方と同じ生態系に属していなくて!」
ヒステリックに声を上げた少女は一転変わって低く命じる。
「そこへ直りなさい。貴族の心得を一から叩き込んで差し上げましょう」
あとは再び、金切り声──。
アイルデール領主長女、ルーデル・アイルデールを、領民フリークと人は言う。これにはこのルーデル、拳を振り上げて反論させて貰おう。
フリークとはイメージが悪い。それは信仰ではなく狂信である。間違えないでいただきたいが、領民の皆様は狂信などという捻じ曲がった想いを向けて良い方々ではなく、また、信仰などという偶像崇拝と一緒にすべき曖昧な存在ではない。それは余りにも彼らを馬鹿にした言い方だ。領民の方々には、自らを貶めるような言葉を使わないでいただきたいと失礼を承知で何度か願い出たが、結局温かな微笑みで流されてしまっている。
正確に名付けるなら、つまり自分は正しく貴族であろうとしているのだ。そう思っている。実際、満足行くほどに確立できていないのが問題なのだけれど。
「いやあ、十分だと思うよ」
「何が十分なものですか。十分というのは不足なくいただいたものを還元できてこそ口にできるんです」
不甲斐なさが口惜しい。舌打ちに表れた不満に、男は標準装備の得体の知れない笑みを深めた。
「領民方がいてこその領。揃ってこその国。指図するしか脳がないとか貴族がいなくても国は回るとかまでは言いませんが、なーにを偉そうに上位者候の顔をしているのか。貴族がしているのはあくまで彼らの補助なんですよ」
貴族が作業を統括し指示することで、生産を増やすことはできるだろう。しかし、ノウハウは知れどおよそ経験のない貴族のみで生産を行うことは難しい。反面、手に職を持つ人々は、それだけで何とか生きてはいけるのだ。
生産の補助をしておこぼれをいただくのが貴族であるのに本分を忘れるとは何という図々しさだろう。
できれば領民に限らず、世界中の貴族位を持たぬ方々を補助したいところ、そこまで大きくない手のひらを自覚しているから範囲を領内に絞っている。その分凝縮された愛情は人より少しばかり大きいが、過分であるとは思わない。
「そうだね、それも正しい。しかしねえ、ルル」
「ルーデルです。妙なあだ名を付けないでください、レインズ様」
「うーん、その敬意のない様付け。今日も横這いのテンションが冴えてるね、ルル」
「ルーデルです。ルが多いからって抽出しないでください」
「君、それ何気にコンプレックスだな」
いけ好かない話題を持ち出した男、レインズが何をしに来たのかと言えば、当然だが仕事である。
視線を向けがてら、さっさと渡しに来た書類を寄越せと手を差し出す。引っ手繰って内容を確認した。
本人の捻じくれた気性に似合わない、素直で綺麗な字だった。読みやすいのは字のお陰だけじゃなく、筋道立った中身は「見せる」ことを前提に考えられたものだ。本日午前に怒鳴り付けた誰かとは大違いの出来である。
レインズ・グラウゼン。彼の生家は多くの商人の後援を惜しまない。近隣商業の発展においてグラウゼン家の功績たるや凄まじく、グラウゼン家なくしてアイルデール領の現状はなかったと言っても過言ではないだろう。
レインズはそんな家の優秀な次男である。領内での商売についての改善案、施策。特に不備はなく指摘するところもない。念のため細部までじっくりと目を這わせ、そう間を置かずにサインを記す。
「結構です。進めてください」
「ありがたいね。……こんなに楽な関所なのに、どうして毎日毎日君の説教の経験値が嵩むのやら」
「それが兄のことなら、私がここに座っていることが答えですよ」
楽な関所。聞き慣れない言葉だ。多くの者が生まれたての小鹿のような足取りで、青い顔をして書類を差し出すのが定例だというのに。
無理な注文をしているつもりはない。必要であれば通している。にも関わらず、すんなりサインを下せるのがレインズや父くらいなものというのはいかなることだろう。
思いを巡らせて溜息を吐く。つまり、無能ばかりだということだ。
自分が満遍なく優秀であるというつもりはない。それは余りにも傲慢である。しかし、「そうあるべく」して教育されたのがルーデルであるから、領の統治に関しては人並み以上に優れている自信があった。
言ってみれば、ルーデルは典型的なマニュアル人間だ。領主である父により徹底的に推敲された教科書を叩き込まれたのが己なので、基本を疑う余地はない。
次期領主にして現領主補佐。この上なく誇らしいその身はルーデルにとって酷く重荷でありながら、誰にも渡したくない邁進すべき道だった。理由など当たり前のことだ。他のどんな立場よりも、領主とは領民の方々に尽くすことができる場所である。
ルーデルが決裁を済ませた書類は一覧に纏めて領主の下へ運ばれている。万が一致命的な不備があれば、ルーデルに負けず劣らずの領民第一主義たる父から制裁が飛んでくるだろう。とはいえ注意はできる限り払っている。つまらないミスで未来の誇りを失うなど馬鹿げているし、何より己の不手際で一欠片でも愛すべき人々に迷惑をかけるなどありえない。
そういうわけで、今日も明日も黙々と政務に励む。最近はうら若き乙女のルーデルの方が領主たる父より仕事量が多いと執事などは嘆いているが、不満はない。父より領民方の助けとなっている。そう考えれば大変に喜ばしいことだ。
手元に掛かった影にふと客人を思い出して顔を上げた。てっきり退室したものだと思ったが、平常のニヤケ面はどこへやら、レインズが端整な顔にやけに真面目な表情を貼り付けてこちらを射抜いている。
視線が交わる。目に掛かった金茶の髪をかき上げる仕草が気に障って眉を寄せた。
「レインズ様、重要書類をいやらしい目で覗かないように」
「人聞きの悪いことを……いやらしい目を向けるなら、俺は女性に向けるね」
「ああ、すいません。そう見えたんですが、そういえば普通にしててもいやらしいんでしたっけ、あなたの目」
「色気と言って欲しいよ。大体、君にとったら全ての書類が重要だろうに」
「つまり無断で書類を見るなと言ったつもりです」
「俺は君を見てたんだよ、ルル」
「ルーデルです。拝観料は5000ギルになります。なお徴収金は治水予算に回されます」
「ツケておいてくれ。今は手持ちがない」
出て行く気はないらしい。
前述の通り、レインズは重要な客である。無碍にするわけにもいかず用件を言えと目で促す。ちなみにルーデルにとって、とりあえず何かしら反応を返していればOKという水準が一般貴族への「無碍ではない」対応だが。
数百年に一人の口の滑らかさを持つ男──とルーデルは勝手に思っている──が、ほんの数瞬だが口篭ったように見えた。すわ一大事かと姿勢を正し。
「──ルーデル・アイルデール嬢、俺と結婚して欲しい」
何だ、と背骨が支柱を外した。
「……ルル、ちょっと反応が正直すぎやしないかい?」
「ルーデルです。だって、あなたがそんな真面目な顔で口篭るなんて、事業に失敗したかと思うじゃないですか。紛らわしい」
「とても重要なことを言ったつもりだけどね」
心なしか声が苦々しい。不満を露わにするのも珍しく、今日は意外な一面ばかり覗かせるものだと思う。
予想を外した案件とはいえ返事はせねばなるまい。窓の外に視線を投げ、当面の仕事をシャットアウトして思考に耽った。視線を移動する途中、食い入るようにこちらを見る使用人の姿が目に入ったが、ひとまずそれは見なかった振りをした。結婚しようとすまいと、あなたたちの待遇に変わりはないので安心して欲しい。
「もし俺と一緒になってくれるなら」
何か言っていたので、思考の海に脳を浸しながら目を戻す。
「領民の幸せに、一層尽力すると誓おう」
「ルーデルです。了承しました」
考えは、そう間を置かずに纏まった。
あっさりと首を縦に振ったルーデルに、肯定を受け取ったにも関わらず、レインズは渋い顔を返した。皺の寄った眉間はこれまた珍しい。絵にして売ったらきっと貴族のご婦人に好評だろう。
「何ですか、了承してるんじゃないですか」
「わーかんないかなー……」
残念ながらわからない。
「本当に良いのかい?」
「そう言ってます」
はらはらと見守る使用人やら護衛やらの視線を感じながらレインズの態度の意図を探るが、早々に諦めた。察知能力はさほど発達していないのだ。
何かを堪えるように強く瞬きをした彼は、僅かに寂しさを映してこちらを見返した。
「君は領民たちのために思考を裂き過ぎて、ちょっとばかり視野狭窄なのが玉に瑕だ」
踵を返す男を無言で見送った。
逞しい背中が扉の向こうに消えると、客人の見送りにか、はたまた気まずさに耐えかねてか、侍女と護衛を残して使用人が退室する。
「……何だと言うんです」
人の減った室内。再び書類に向き合いながら、ルーデルは小さな溜息を零した。
他の感情の機微に疎いのは自覚する欠点である。ルーデルが領民方の無言の願いを汲み取れないという意味で。
それ以外は正直なところ、どうでも良いと思っていた。今このときもそう思っている。
領民方のことを考えて、何がいけないというのか。自分はそういうふうに育てられたのだ。
年の離れた兄は幼い頃から仕事に不真面目過ぎた。だから次代を憂いた両親はもう一人、子供を作った。
今度は失敗すまいと理想的に育て上げられた。秒単位で区切られたギチギチの教育。洗脳のように施されたそれは、しかし何も間違ったことを教えられているとは思わなかったから齎されるままに受け入れた。
出来上がった作品がルーデルだ。両親はこの結果にとても満足しているようで、兄の動向に目を向けることは一切なくなった。目をかけられなくなった兄は、期待がなくなったことを惜しんでか独断で仕事らしきを見付けようと奮闘しているようだが、見当違いのあれこれは正直邪魔と言わざるを得ない。それでも努力は認める。自発的に動こうとする人間はそれだけである程度の評価になる。だから、できるだけの配慮は自分なりにしているつもりだ。書類の情報が僅かに不足しているくらいなら、次回への注意だけして通すこともある。
今のところ次期領主として向けられる期待には答えている。教えられたことも、必要とされることも、慢心せずに技能を磨いている。あと何をすれば領主として相応しい人間になれるのか、日々思考を巡らせている。
他の感情の機微に疎いのが欠点であると自覚しているから、齎される断片を逃すまいと五感を休ませることはない。父や部下、レインズやその他の貴族、それから領民方。交わす言葉を分析して対策を練るなどしょっちゅうのことである。
つまり──不満があるなら言えば良いのだ。ルーデルは、与えられた言葉を考えもせずに跳ね除ける人間ではない。必要か必要でないかを考慮するだけの余地は何事にも残している。
無意識に篭った力でペンの先が少し歪んだ。何食わぬ顔で手にした新しいペンは、どうも持ち手が馴染まずサインが引っ掛かる。仕方なしに歪んだペン先を交換することにした。苦手な作業だ。上手く外れない。こういう不器用なところもいずれ直したい。
「あの、ルーデル様……」
「はい、何でしょう」
紅茶の香りか、侍女の香りか。鼻を擽る優しさに、いつの間にか寄った眉が定位置に戻った。
湯気の立つカップを手にした年若い侍女が困り顔でルーデルを見下ろしている。差し出された荒れ気味の手は働き者の印である。温かい気持ちで指先を見て、言わんとするところを察して首を振った。
「大丈夫です。自分でできますよ」
「でも、お手が汚れてしまいます」
「自分でできることはしたいのです。お気遣いなく」
日常においてはやけに固い顔面筋を僅かながら緩ませて返す。……緩ませられたと思ったが、彼女の顔付きが若干固くなったところを見るに失敗したのだろうか。
頬を解すべく手を当てたところで、すぐに後悔した。そういえば指先はインクで汚れている。別段それを構うような顔立ちではないが、来客があった場合が厄介だ。重役を預かった領主の娘が悪戯小僧のように汚れを付けているなど、領地の評判を落とす愚行だった。
布巾を捜すべく腰を浮かせる──前に、傍らの侍女が手際良く手ぬぐいを差し出した。素晴らしい気配りである。およそを領地の経営に注ぎ込んでいるため雀の涙ではあるが、個人資産から次回の彼女のボーナスを追加しておこうと思う。
満ち足りた様相で深く座り直したルーデルに、複雑な顔が向けられた。
「ルーデル様は、ご立派だと思います」
「ありがとうございます。ですが、まだまだ精進しなければいけません」
いささか突然だとは思うものの、敬愛する領民に褒められて嬉しくないはずがない。今度こそ確実に綻んだ口元に、だが侍女は苦しそうに眉根を寄せる。
「ですが、背負いすぎてはおられませんか?自分でできることは自分ですると言って何でも抱えておられては、お身体に障ります」
「いえ、そんなことは」
真正面から目の奥を覗く視線の強さに口篭る。本気でそんなことはない。
種々様々なものを背負うのは次期領主として当然のことで、苦痛だと思ったことはなかった。誇らしいだけだ。ひたすらの精進で己を律するのが身体に障るならば、生まれてこの方それを絶やしたことのないルーデルは今頃息絶えているだろう。
また、何でも抱えてとは言うが、部下の育成に手を抜いているつもりもない。まだ齢15とはいえ万が一自分に何かあったとして、それからの対応では遅いのだ。後身に困らぬ程度、仕事はきちんと割り振っている。
割り振った挙句、自分が仕事に追われているのは、先へ先への対策をひたすら練っているからだ。100年先の領地の平和を、1000年先の幸福の確約を。途方もない話、机上の空論であろうが、少しでも望む結果を齎もたらすために知恵を絞るのは自身の幸せである。
そう確信しているのだが、彼女からすると違うようだった。
「あの……ルーデル様、差し出がましいとは思いますがお伺いしても……」
「はい、何でしょうか」
いかに自分が無理をしているわけではないのかを説こうと頭を働かせつつ瞬きを返す。
「ルーデル様は、レインズ様ご結婚なさることに躊躇いなどはおありですか?」
「いいえ」
意気込んで身を乗り出すこの女性に限らず、侍女たちは皆整った顔立ちをしている。彼女たちの主として、もう少し己の容姿に気を遣うべきだろうか。いやしかし、その時間が勿体ないし。
「レインズ様を愛していらっしゃいますか?」
「いいえ」
唐突に始まった考えるまでもない質問に重ねて首を振った。二度目の否定に秀麗なかんばせが歪む。
「ではなぜ!?」
「貴族の結婚とはそういうものですから。利があれば成る。不利が生まれるなら成立しません」
重厚な造りの机が揺れた。茶器が悲鳴を上げたので、とりわけ重要そうな書類を取り上げる。手にしてから、そもそも茶器を持ち上げた方が被害は少なそうだなと気付いたので交換をした。
「私たちは、ルーデル様には本当に感謝をしているんです。お慕いしております。だから、幸せになっていただきたい!」
「領民方が幸せなら、私は幸せです」
「そうではなくて……!」
普段の彼女なら、ルーデルが両手に抱える茶器を見て、慌ててワゴンに移しただろう。
けれど今の彼女は、そんな気も回らないほどに取り乱しているようだった。身分ゆえに激昂にはならず、燻る憤りゆえに諦念にも届かないもどかしさ。
その理由がいまいち掴めなくてルーデルは言葉を繋げない。彼女をより落ち込ませるのが──落胆を受けるのが怖くて。
「そうでは、なくて……」
肩を落とした侍女を見詰めながら何度も開いた口は、同じだけの数を徒労のままに閉じる。
重い沈黙に満ちた室内は皮肉にも何が悪いのかを考えるには適していたものの、残念ながらルーデルの潜考に光明が差すことはなかった。
「──というわけで、早急に答え合わせを要求します」
「ギブアップが早くはないかい?」
「一刻も早く彼女の嘆きの理由を解明する必要があります。そこに答えを持ち合わせた人間がいるのに保留するなど重罪。ついでに時間と労力も無駄というものです」
「これは今後のためにも熟考して欲しいところだったけどね」
「昨晩単身馬を駆って押しかけなかっただけの譲歩はしましたよ。ほら、さっさとお願いします」
仕事外で呼び出したからには執務室で応対するというのも失礼な話だ。素っ気ない仕事場より随分華やかな空間は、目前のソファに腰掛ける男に特別似合っていた。主な使用者たるルーデルの方がむしろ迫害されている。
改めて見る男の容姿はあらゆる角度から見て麗しく、なるほど商家を束ねる家の息子に相応しい。すなわち高級品である。そりゃあ丁寧に作られた調度品と気が合おうというものだ。いっそこの男を家具の一種として部屋に配置しておけば、客の機嫌を取れて良いかもしれない。
答え合わせを待つルーデルに、嫌みたらしいほどの重い溜息をこぼしてレインズは肩を落とした。
かと思えば、秀麗な眉目を一層バランス良く固めてルーデルに披露する。
「君は統治に結婚というカードを切るほど困ってるのか?」
「困ってはませんけれど、どうせその内使わなければいけないカードだとは思ってます」
「言い方を変えよう」
眉間を揉む指先は、かの侍女以上に荒れていた。ペンを持ち、ときに剣を握る手だ。荒れもするだろう。
「ルルが身売りするほど困窮した領地ではないだろう」
「ルーデルです」
手までもが美しい男の言葉に、ルーデルは首を傾げる。
身売り、とはまた穿った言い方をするものだ。確かに結婚という制度にそうした一面があることは否めない。身分、財力、肉体。差し出せるものを差し出し、両家でwin-winの結果を手中にする。それが政略である。
しかしレインズがこうもあからさまな言い様をするとは思わなかった。彼はそうした汚い部分をオブラートで包み、余計な棘は避けるか折って、体裁を整えて均す類の人間だったはずだ。
こちらの困惑を察知した彼は、寂しそうに微笑んだ。
「君一人でだって領民を幸せにすることはできるさ。嫌いな人間と結婚などしなくてもね」
「……嫌いな人間?」
おかしなことを聞いた。なおも首を傾げると、自嘲めいた眉の角度がふと切り替わる。こちらこそおかしなことを耳にしたとばかりに、珍しくも顰められた顔で見返された。
「嫌いだろう、ルル。俺のことが」
「いいえ?」
目を丸くするレインズに、ルーデルです、と訂正だけはしっかりと重ねる。
彼は動揺を露わにすることのない狸型の精神をしていると思っていたが、こちらも認識を変える必要がありそうだった。ソファが傷みそうなので、血管が浮き出るほどに力の籠もった手を移動するか解除するかして欲しい。
「面倒な人だとは思いますが、特に嫌いだと思ったことはありませんね」
ぽっかりと開いた口。肖像画にでもおこしたら高く売れるだろうか。それとも領民方の娯楽になるかもしれない。美青年の間抜け面、というタイトルをどうこねくり回したらグラウゼン家から回収要望を出されずに済むだろう。
思惑を読み取ったのか、大きな手のひらが口元を覆い隠した。いや──数秒視線をさまよわせる耳朶は赤い。
何か、自分は彼が照れるようなことを言っただろうか。顔が赤いということは、別に手はマスク代わりではないようである。
「結婚の話を持ちかけたときに、あからさまに嫌そうな顔をしたじゃないか」
「常時回転して回転して捻れたあなたが何を企んでいるのかと思った記憶はあります」
感情の機微には疎い自覚のあるルーデルにでもわかるほどの安堵と、やはり乙女と見紛う恥じらい。
こうも顕著な反応を食らうと、どうも。
「……私が言うのも何ですが、嫌いじゃないと言われた程度で照れるってちょっと可哀相ですよね、あなた」
「ほっといてくれないかな。……仕方ないだろ、ずっと、嫌われてるんだとばかり……いや、でもね、好きじゃあないだろ?」
「いえ、どちらかと言えば好意を持ってます」
頭を抱えてソファに倒れ込んだ。精一杯噛み殺したような小さな呻きが耳に届く。
大きな図体が悶えているのは網膜には優しくないが──ちょっと面白い。それがあのスカした面で飄々と世を跨ぐ男だと思えばなおのこと。
なるほど、とここにきて納得した。侍女が憂えていたのはつまり、レインズと同じ誤解をしていたのだ。
何をどう優しい眼差しで見ても、確かにルーデルはレインズに好意的とは思えない対応しかしていなかっただろう。この上なくぞんざいな扱いをしていた。さもありなん。ルーデルがそれで良いと判断した結果なのだから。
「愛しているかと言えば否定しますけど、領民方第一主義の私とはいえ、好ましい相手でなければ即答まではしませんよ」
「レインズ」という人となりを理解しようと思わなければ、ルーデルは恐らく彼を笑顔で迎えていただろう。平生がおよそ無表情な割に完全お客様対応の笑顔を貼り付けるのは得意だ。華やかさは足りないものの、笑顔で迎えて、できる限り柔らかな声で機嫌を取っていたはずである。
レインズは、グラウゼン家は、アイルデール領の大切な金蔓なのだから。
「雑な対応が誤解させたのならすいませんでした。上っ面で当たらずとも、あなたとなら良い関係が築けるだろうと思ったもので、つい身内対応に。……残念ですが、今後は弾む軽口は控えるよう尽力しましょう」
「い、いや、良いんだ!そのままでッ!」
「そうですか?良かったです。……ちょっと、人の家のソファで、絞った雑巾みたいなポーズ取らないで貰えますか」
「そのままで、良いんだけどね、もうちょっと……まあ良いか」
絞った雑巾は綺麗になって起き上がった。
気を殺がれた顔で天井を仰いで、やがてゆっくりとこちらを向く。
「ええと」
前振りもなしに立ち上がったかと思えば割合すぐに膝を折った。テーブルを邪魔くさそうに退けながら、ルーデルの足下に跪く。
自分は高価な商品を扱うような手付きで指先をすくわれるべき人間ではない。だが、伝わる温もりを弾く気にはなれなかった。
吐息が割れた爪先を暖める。仕事の邪魔になるので手袋をする習慣はない。
確固たる理由はないが、明日からは汚れても良い簡素な手袋を身に着けようとぼんやり思った。
「ルル──ルーデル・アイルデール殿、君の愚直なまでのひたむきさが好きだ。俺と結婚をしてくれるか?」
「褒められてるようには感じませんが……先日答えたじゃありませんか。わかりました、と」
そっと落とされた唇のむず痒さに耐えながら、そもそも、とルーデルは言を接いだ。
「結婚は使わなければいけないカードですけど、婚家の財産を足しにすることはあれ、あてにするような情けない統治をするつもりはないですよ。あまり見くびらないように」
「ああ、そうだったな、領民フリークのお姫様」
「誰がフリークですか!訂正を要求します!」
「分かってるよ。彼らが大好きで溜まらないだけってね」
分かっているなら言うなというのだ。
心底嬉しそうに笑って隣に座る男を置いて立ち上がる。仕事の時間だ。仕事の時間じゃないときの方が珍しいが、ルーデルが仕事の時間だと思えばいつだって仕事の時間なのだ。
指輪を用意しておくよというレインズが、ソファの背もたれに顎を置いて追い縋った。
「いつかその愛情をこっちにも振って貰えるかな。幸せにするよ、ルル」
ぶ厚い扉を開けると、執事や侍女が転がり込む。集団で聞き耳を立てていたのだろう。不作法極まりない有様にもレインズは気を悪くすることはなかった。
慌てて立ち上がろうとする彼らに手を貸しながら、丁度良いと思い出す。
「……ひとつ、訂正します」
拾った手の持ち主は、ルーデルの身を案じてくれた侍女だった。この扉を挟んでいては、会話などほとんど聞こえていなかったはずだ。泣きそうな顔をした彼女に、意図して笑みを送った。
「好ましい相手でなければ即答しないと言いましたが、恐らくあなたでなければ先延ばしにしましたよ、レインズ様」
一拍の沈黙。歓声に押されながら閉まる扉の隙間から聞こえた声は──どちらかと言えば悔しそうだった。
「……できれば二人っきりのときに聞きたかったけど、思えば君の好ましいってね……」
そうしてこちらの意図を組むから好ましいと感じるのである。
優先順位は当然、侍女の誤解を解く方。レインズに聞こえるタイミングで言ったのは、ただのサービスだ。
「まあ、努力目標が分かりやすいにこしたことはないでしょう」
「何のお話ですか?」
そっと尋ねる侍女への返答に、使用人の皆が聞き耳を立てていた。愛する彼らは大なり小なりルーデルを気に掛けてくれているらしい。
にっこりと笑って、ルーデルは惜しみない愛を振り撒く。
「レインズ様があなた方を幸せにしてくださるそうですので、楽しみにしていてくださいね」
ルーデルの幸せは領民の幸福で、ルーデルにとって貴族への「好ましさ」は領民への貢献具合で決まる。その基準で言えば、レインズは父を除けばトップクラスの好感度を誇っている。
問題はない。何も。レインズを好ましいと思うから結婚を決めたのだから、侍女が憂う理由はなく、レインズが憤る必要もない。
──もし、その枠組みに収まるのが嫌ならば。
(……長年かけて恋愛についてでも刷り込めば、いいんじゃないですか)
父が15年かけてルーデルを作り上げたように。
「人口増やすのに役立つかもしれませんし」
「ルーデル様、何か仰いましたか?」
「いえ、ちょっと今後の領政で良い案がですね」
好きなことしてくれる人を好きになるのが基本です。




