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迷子のネムリヒメ  作者: 燕尾
番外編
58/64

◆谷崎圭の場合3◆

 やってしまった。

 一人残された部屋で、我に返り唖然とする。

 俺は記憶喪失の人間相手に何てことを……。


 海外出張に行く前から、つぐみの様子が少しおかしいことに気づいていた。時々、考え込んでいることがあった。

 だが、俺とくだらない話をして笑うことはあったし、食欲が落ちている様子もなかった。だから、一時的なものだろうと軽く考えていた。

 その見立てが甘かったのだと出張帰りの今日、俺は思い知ることになった。さっきまで俺の目の前にいたつぐみは、明らかに荒れていた。


 話は数時間前に遡る。

 出張を終えて帰社した俺は、コーヒーでも買おうと何の気なしに休憩室へ向かった。そこで俺が目にしたものは、うちの課の派遣社員とつぐみの修羅場だった。

 話の内容は全く聞こえなかったが、つぐみがうちの課の派遣社員の近江に責め立てられているように見えた。

 つぐみはただ俯いていた。遠目に見えたつぐみは、全てを放棄したような生気のない顔をしていた。

 近江が何を言っているのかはわからなかったが、今までに目にしたことのないつぐみの様子に、偶然を装って止めに入ろうとした。

 その時だった。

 俯いていたつぐみがゆっくりと天井を仰いだ。天井を見つめて、ゆっくりと息を吐いた。そして顔を下ろすなり、近江をキッと睨みつけた。

 このしぐさには覚えがある。

 あの時と同じだ。

 俺の予想通り、つぐみは彼女に何かを告げた。俺の方まで声は届いてこなかったが、つぐみの冷たくて鋭い表情に近江は震えているようだった。そんな相手に構うこともなく、つぐみは口を開き嘲笑するような表情を浮かべた。それと同時にパシッという空気を裂くような音が聞こえた。

 つぐみは頬を叩かれていた。痛いのはつぐみの方なのに、叩いた相手の方が泣きそうな顔をしていた。

 つぐみは近江を睨みつけ、言葉をぶつけていた。何が起こっているのか必死に耳をそばだてたが、かろうじて聞き取れたのは「自分の不運を他人に乗せるな」というつぐみの捨て台詞だけだった。

 さっさとその場を立ち去るべきだったのに、呆然としてしまったせいでタイミングを逃し、俺は休憩室から飛び出してきたつぐみと鉢合わせてしまった。

 二人の会話の内容を知らない以上、声のかけようがなく俺は何も言わなかった。つぐみはそんな俺にバツが悪そうな顔をして見せた後、すぐに去って行った。

 つぐみと近江の間に何があったかはわからない。だが、俺にはわかっていた。つぐみはわざと叩かれるようなことを言ったのだ、と。

 皆の前で姫島を叱りつけた時もそうだった。あの日も言葉を出す前に天井を見上げ、ふっと息を吐いていた。そうして自分が悪者になった。

 相手を守るために……自分が傷つく道を選ぶ。

 不器用だと思うが、それがつぐみらしさでもある。今回の件も端から見ると、近江がつぐみを傷つけているようにしか見えなかった。そのまま黙っていれば、つぐみは被害者側でいられたはずだ。だけど、つぐみは加害者側になろうとした。何がつぐみをそうさせたのかはわからないが。

 俺の個人的感情ではつぐみは悪くないと思う。だが、俺の立場として事情を知らない以上、どちらに非があるかを判断するわけにはいかない。今の俺にできるのは、何も知らないふりをすることぐらいだ。

 俺は近江に存在を悟られないように、休憩室から踵を返した。数分後、目を赤くした彼女には素知らぬ顔で仕事の指示を出した。


 何があったのかはわからない。だが、わかっているから……つぐみが気にすることもない。そういうつもりで平然とした態度をとっていたが、それがつぐみの張りつめていた糸を切ってしまった。

 何で何も言わないの? から始まり、つぐみは次々と自分を否定するような言葉を吐き出した。

 自分を嫌な人だと言い、暴言、他の男と不倫……つぐみからは程遠い言葉が出てくる。一体、どうしてこうなる……俺がいない間に誰かに余計なことでも吹き込まれたのだろうか。

 つぐみが何を知り、どう苦しんでいるのか。つぐみの言葉からは計り知ることができなかった。


 ──どうして私なんかと結婚したの?

 ──私の望んでいた未来じゃない。

 ──何もかも嫌。


 つぐみの言葉を俺の胸を刺していく。だが、それ以上に痛かったのはつぐみの姿だ。言葉を発する度に、つぐみが血を流しているように見えた。それを少しでも止めたくて、落ち着けと宥めたがつぐみは止めなかった。

 どうしてやればいい? 

 迷っているうちにつぐみの口からあの言葉が出てきた。


 ──いっそのこと死んじゃえばっ


 よかったのに……つぐみはそう言おうとした。

 その言葉が俺の理性を奪った。

 言わせるものか。

 死ねばよかったなど……つぐみが意識不明だと聞かされた時、俺がどんな思いをしたか。それに……どんな思いと覚悟でつぐみが一人で車に跳ねられたのか。それを思うと冷静でいられなかった。


 ──止めろ! これ以上言うな


 自分でも驚くくらい声を荒げていた。聞いたことのない俺の口調につぐみは怯んだ。その表情には絶望の色が滲んで見えた。

 そんな表情をしているつぐみを見ているのが、とても悲しくて切なかった。

 同じ場所にいるのに、つぐみだけが深い闇の中にいるようだった。

 つぐみを囲んでいる空気は、刃のように鋭く氷のように冷たくて……それがつぐみを傷つけ、つぐみの中から熱を奪っているように思えた。

 俺は冷え切ったつぐみを少しでも温めたくて……気がつけばつぐみの唇に自分の唇を重ねていた。まるで自分の熱を与えるように……。

 何をやっているんだ──とすぐに我に返ったが、今まで抑えていた分の反動でつぐみを離すことができなかった。つぐみは俺から逃げようと必死に身じろぎしていたが、俺の腕はそれを阻み続けた。そうしているうちに、戸惑っていたつぐみも俺の唇を徐々に受け入れるようになっていた。

 何度か唇を重ねた後、漸く俺はつぐみを捕らえていた腕の力を緩めることができた。その途端、つぐみは全身の力が抜けてしまったのか、床に沈み込んでしまった。

 そこで俺は自分がしでかしたことを再認識した。戸惑う前にすべきことがあると、感情を必死に抑えてつぐみの様子を窺った。

 つぐみは困惑した表情を浮かべていた。


 ごめん、脅かせた──そう声をかけても、つぐみは言葉を失ったように黙っていた。深く息を吐き、無反応のつぐみに諭すように声をかけた。


 ──あれはつぐみの本心じゃないから、言ったら後で後悔するから、もう言わないで欲しい。


 つぐみは納得していないという顔と声で、それは谷崎つぐみがだろうと返してきた。

 その言葉で、つぐみが自分の知らない谷崎つぐみの存在に苦しんでいるのだとわかった。

 俺からすれば、目の前にいる柏原つぐみも谷崎つぐみも同じなのに。


 ──いや、それは柏原つぐみだろうが、谷崎つぐみだろうが変わらない。

 ──そんなの……わかんないじゃないですか?


 わかるよと言っても、つぐみは信じられないという顔を崩さなかった。本当はもっと自然に告げたかったけど、俺の気持ちを伝えないとつぐみの深いところには届かない。


 ──愛しているから。


 俺の覚悟が届いたのか、つぐみの頬が赤く染まった。だけど、まだ谷崎つぐみに拘っている。


 ──それは、谷崎つぐみさんを……つまり、あなたの奥さんをってことですよね。

 ──違う。今の君も、だ。


 即座に否定したら、つぐみの瞳が動いた。そして、記憶が戻らないままでも? と問いかけてきたので、もちろんと答えた。

 ここまで言ったのだから、俺の気持ちは伝わっただろう。後はつぐみがどう思うかだ。

 つぐみは黙ったままだった。

 さっきまでの絶望しきった表情は影を潜めたようだが、今度は考え込んでいるように見えた。

 どのくらい無言でいたのか。ついにつぐみが口を開いた。


 ──本当に……今の私のままでもいいんですか?

 ──ああ。


 その言葉に微かな希望が見えたと思ったが、そこで俺を待っていたのはつぐみの予想外の言動だった。


 ──だったら、証拠見せてよ。


 そう言われ、あっという間に唇を奪われた。

 理性を保てたのは一瞬だけだった。つぐみが望むのなら応えるまでだと、つぐみのシャツの中に腕を忍ばせた。久々につぐみの肌に直に触れた途端、もの凄い力で突き放された。


 ──ごめんなさい……今日は実家に戻ります。そこで頭冷やしてきます

 そう言い残し、瞬く間につぐみは去って行った。

 一人になって、俺は漸く理性を取り戻した。

 そこで俺を襲ってきたのは、猛烈な自己嫌悪だった。南につぐみを暫く実家においてやって欲しいと連絡するのがやっとだった。

 何がつぐみをあそこまで追いつめたのか。

 考えても明確な答えは出せなかった。

 だが、今を大切にして欲しいという俺の考えが、知らず知らずのうちにつぐみを追いつめてしまったように思えてならない。

 過去より今を追いかけさせた俺の考えは間違っていないと思うが、それがつぐみの過去を蔑ろにしていたのでは……という後悔が頭の中を過ぎった。

 こうなってしまった以上、俺も頭を冷やすべきだ。

 お互いの頭が冷えたら、今後のことを考えよう。


 あれからどれだけの日々が過ぎたのだろう。

 気がつけば七月になっていた。

 つぐみを実家に託してからというもの、俺はひたすら仕事に没頭していた。嫁さんに実家に帰られたという悲惨なプライベートの状況に反し、仕事は絶好調だった。出張や会議のスケジュールが次々と入り、スケジュール画面から空白が消えて行くが、俺は嬉々としてそれをこなしていた。

 忙しいという字は心を亡くすと書くが、まさにそれを実践するような日々。それが人間にとって望ましいことじゃないのは、重々承知していたが、少しでも自分の中に余裕ができると、つぐみのことを思ってしまうので、自分の中から空白を塗りつぶすように何かを詰め込んでいた。 

 怖かった。

 つぐみのことを考えるのが。

 わかっていた。

 俺がつぐみのためにしてやれることは、もう一つしか残されていないと。

 それはつぐみを柏原つぐみに戻してやること。つまりは離婚。

 谷崎つぐみという存在や俺がつぐみを苦しめているのなら、そこから自由にしてやるしかない。

 ただ、俺はすんなりとそれを受け入れる程、人間ができているわけじゃない。

 ──別れたくない。

 ──つぐみは俺のものだ。

 頭の中で暴れ出す自分のエゴ達を「愛しているから別れるんだ」と必死で宥めた。後はつぐみに切り出せばいいのだが、それをできずにいる。俺の中に残っている未練が引き金を引くのを邪魔していた。

 そうやってぐだぐだしている間に、俺は一つ歳を取ってしまった。

 今日は俺の誕生日。

 仕事に没頭していれば、自分の誕生日なんか気づかずに通り過ごすはずなのだが、自分の誕生日には必ず有給を取得するという会社の規定のせいでそうもいかなかった。

 誕生日を忘れたことにしてしれっと出社しようと目論んだが、管理職のお前が出ると部下達が有給を取得しづらくなるから必ず休むようと釘を刺されてしまった。

 だからきちんと休みを取り、近所で大人気のランチ店で昼食を取り、自宅で大人しく過ごしている。

 嬉しくも何ともない一日。さっさと過ぎ去ってしまえばいい。

 本当だったら、つぐみも休みを取るはずだった。


「結婚して初めての誕生日だから絶対に休むって、あんなに張り切っていたのにな」


 あんな事故さえ起きなかったら……。

 今日はどんな日だったのだろう。少なくても今より幸せな気分で過ごしていたはずだ。考えても無駄だとわかっているが、そんなことばかりが頭の中を過ぎってしまう。

 

「仕事でもするか」


 一人空しく呟き、仕事用のノートPCを開く。今日までの仕事は殆ど片づけてしまったが、次回の管理職会議の資料作成や、大路の出張報告書のチェックなどやるべきことはある。

 ひたすらPCの画面と向き合っていたら、不意にインターホンが鳴った。それは宅急便だった。

 作成中の資料を保存し、荷物を受け取る準備をする。

 何だ? 覚えのない宅急便に首を傾げたが、受け取らないことにはわからないので、配達員が玄関に来るのを待った。

 配達員から渡されたのは小さな段ボールだった。誰からだと送り状に目をやった瞬間、心臓が大きく跳ねた。

 送り状には見覚えのある文字で谷崎つぐみと書いてあった。

 急いで段ボールを開封すると、そこには小さな小箱が収められていた。小箱から出てきたのは、黒い革製の財布だった。

 財布を手にとって観察してみる。

 それは俺好みの質感とデザインであるだけでなく、俺が求めていた機能も兼ね備えている。まさに俺が求めていた理想の財布だ。

 どこで見つけたんだと疑問に思い、小箱の中に入っていた製品の取り扱い注意書に記載されていた店名を調べた。

 そこはオーダーメイドの革製品を扱う店だった。人気がある店のようで、注文から納品まで半年くらいかかるとホームページに記載されている。


「ということは……事故に遭う前に頼んでいたのか。でも、どうしてオーダーメイドの財布?」


 不思議に思いつつ、財布を小箱に戻そうとした。


 ──これもダメなの?


「……っ」


 頭の中にふっと聴こえてきたつぐみの声で答えがわかった。

 今の財布も使えるが、そろそろ新しい財布を欲しいと思っていた。だから、二人でデパートやショッピングセンターに行くと、俺は必ずと言っていい程、財布売場に立ち寄っていた。だけど、「形がダメ」だの「大きさがちょっと」だの「デザインが好きじゃない」だのダメ出しばかりしていた。

 つぐみはそんな俺を見て「注文の多い圭さん」と苦笑していた。

 それなのに俺が言ったことをきちんと覚えてくれていて、オーダメイドの店を探して注文してくれていた。しかも、ずっと前から。その事実だけで胸が一杯になり、涙腺が決壊しそうだと言うのに、同封されているカードが俺にとどめを刺した。


 圭さん

 お誕生日おめでとう。

 こうして圭さんにおめでとうって言えるのが、とてもとても嬉しい。

 結婚して初めての誕生日プレゼントは注文の多い圭さんに挑戦。

 気に入ってくれるといいなあ。でも、無理強いはしないよ。

 至らない奥さんでごめんなさい。

 でも、そんな私をいつも温かく見守ってくれてありがとう。

 そんな圭さんの優しさが私の原動力です。

 私と出会ってくれて本当にありがとう。

 これからもよろしくね。

 大好きだよ。

 つぐみ


「……反則だ」


 こんなに嬉しくて、可愛くて、愛しいプレゼント。

 今まで必死に堪えてきたのに……涙が頬を伝っていく。


「やっぱり……無理だ」


 俺はつぐみを手放すことなんてできない。


「今まで何やってたんだ?」


 つぐみに伝えていないことだらけだ。

 俺が君に会えてどれだけ幸せだったか。

 不器用だけど、どんなことにも正面から向き合う君にどれほど救われたか。

 本当は弱いのに……強くありたいと願う君がどれだけ誇らしかったか。

 自分の弱さから目を逸らさず、一人で傷つく君がいじらしくて、歯がゆくて……そんな君を守りたいと思っていること。

 記憶喪失という状況の中でも、自分のできることを探して俺を支えてくれたことがどれだけ嬉しかったか。

 記憶があってもなくても、君の真っ直ぐさは変わらなくて……そんな君が愛おしくてしょうがないこと。

 全然、伝えていない。

 まだだ。

 つぐみを過去形になんかするものか。


「会いたい」


 つぐみは俺の誕生日は今日だとは知らない。

 気を使わせるのが嫌だったから、敢えて伏せていた。

 でも、それはつぐみのためだったのか?

 カッコつけていたけど、本当は気づいて欲しかったんじゃないのか?

 ……いい。

 今はそんなこと、どうだっていい。

 大事なのは今の俺の気持ちだ。

 今日くらい我が儘になってやる。

 とりあえず、会社に行って仕事帰りのつぐみを飯に誘ってみよう。

 つぐみは困惑するかもしれないが、誕生日だと言ったら飯くらいは付き合ってくれるだろう。

 まずはそこから始めてやる。

 涙で濡れた顔を洗って車のキーと財布を掴み、会社を目指すべく玄関に向かった。

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