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追放令嬢アリッサの焼きたて幸せ譚〜拾った銀色狼は、私を一生愛し尽くしたい王国最強の公爵様!?〜

掲載日:2026/08/17

「アリッサ・ホイッティカー! 貴様のような陰気で醜悪な悪女、我がホイッティカー子爵家の籍から除名し、本日をもって国外追放とする!」


薄暗く重々しいホイッティカー邸の謁見の間。


高い天井に、実父の冷酷な声が虚しく響き渡った。

父親のすぐ隣では、異母妹のテリーゼがわざとらしい仕草でハンカチを目元に当て、腕にしがみついている。


「お父様、あまりお姉様を責めないであげてください……。私を階段から突き落としたのも、お気に入りのドレスにインクをぶちまけたのも、きっとお姉様なりの寂しさの裏返しなのですわ……」

「いいやテリーゼ、お前は優しすぎる。この女は、お前が次期公爵嫡男であるライナス様との婚約が内定したのを妬んだのだ。このような悪辣な女を我が家に置いておくわけにはいかん」


父親は、私をまるで路傍の虫ケラでも見るような汚らわしい目で見下ろしていた。


さらに、テリーゼの婚約者となる予定のライナス・グランヴェル公爵令息も、腕を組んで冷ややかに鼻で笑う。


「ふん、攻撃魔法も使えない、身体強化もできない。神殿の洗礼で授かったのが『イースト』などという、見たことも聞いたこともない地味極まりない謎のハズレスキル。そんな無能で、かつ心まで腐りきった女など、グランヴェル公爵家の血を引く我が身にふさわしくない。婚約破棄は当然だ。今すぐ消え失せろ」


浴びせられる罵詈雑言。


普通のお嬢様であれば、絶望に涙を流し、その場に崩れ落ちていたことだろう。


(――やった。やったわ、ついに解放される……!)


しかし、うつむいた私の顔に浮かんでいたのは、今にも吹き出しそうなほどの歓喜の笑みだった。


前世が日本のパン職人だった私にとって、『イースト』は最高の能力チート以外の何物でもない。


(イーストって……これ、どう考えても『イースト菌(酵母)』のことじゃないの! パン職人の私にこれ以上の神スキルがあるわけないでしょうが!)


この世界、エテルニア王国の食文化は絶望的だった。


主食として流通しているのは、どれも日持ちだけを重視した、石のように固くて酸っぱい黒パンばかり。


人々はそれを温かいスープでふやかして、顎を痛めながら渋々食べている。

前世のふんわりとした、香ばしく、噛むほどに甘みが広がるあのパンの味を知る私にとって、この国の食事は苦行以外の何物でもなかったのだ。


「分かりました。お父様、テリーゼ、長らくお世話になりました。ライナス様も、どうぞお幸せに」


私は完璧な貴族の作法で一礼すると、あらかじめ用意していた小さな旅用バッグを手に取り、振り返ることもなくホイッティカー邸を後にした。


背後で「最後まで可愛げのない女だ」という父親の怒号が聞こえたが、今の私の足取りは、羽が生えたかのように軽かった。


王都から馬車を乗り継ぎ数日。


私が辿り着いたのは、隣国との国境近くにある、自然豊かな辺境の小さな村だった。

実家から投げつけられたわずかな手切れ金を元手に、村の端にある古びた空き家を借り受ける。


幸運にも、そこには昔の住人が使っていたらしい、立派な石造りの薪窯がそのまま残っていた。


「さあ、私の本当の人生はここからよ!」


さっそく村の農家から仕入れた小麦粉と、井戸から汲み上げた清らかな水を用意する。

ボウルのなかで粉と水を混ぜ合わせ、そこに自身の固有スキル『イースト』を発動させた。


「――膨らめ」


指先からほんのりと温かい黄金色の魔力が放たれ、生地へと吸い込まれていく。

通常、パンの酵母を育てるには温度管理や時間など、緻密な工程が必要だ。


しかし私のスキルは、空気中の優良な天然酵母を一瞬で集め、完璧な比率で生地の中に定着させ、爆発的に活性化させることができた。


みるみるうちに、ボウルの中で固まっていた粉の塊が、空気をたっぷり含んで2倍、3倍へと膨らんでいく。


指で触れると、赤ん坊の頬のように柔らかく、吸い付くような心地よい弾力だ。

それを丁寧に小分けし、丸め、成形していく。


記念すべき最初のメニューに選んだのは、前世でも大人気だった『塩バターロール』だ。

薄く伸ばした生地の真ん中に、贅沢にバターの塊をゴロリと置き、端からくるくると巻いてツノのような形にする。


仕上げに表面へ粗塩をパラパラと振りかけ、しっかりと温めておいた薪窯の奥へと、木べらを使って滑り込ませた。


――数分後。

窯の隙間から、信じられないほど甘く、香ばしい香りが外へと溢れ出した。


小麦が熱されて弾ける匂いと、濃厚なバターが熱で溶け出し、焦げる直前のあの何とも言えない芳醇な薫香。


「よし、焼き上がったわ!」


窯から取り出されたパンは、見事な黄金色の焼き色を帯びていた。


表面はパリッと張っており、中央からは溶け出したバターが底に染み込んで、揚げ焼きのようになってチリチリと音を立てている。

焼き立てを一つ、手で割ってみた。


パキッという小気味いい音とともに、中から真っ白な湯気が立ち上る。


溶けたバターが通り抜けた中心部は空洞になっており、濃厚なコクと小麦の香りが合わさって、強力に食欲をそそる。


口に運ぶ。


表面はサクッと軽快な歯ごたえだが、中は驚くほどモチモチとしていて、しっとりとした水分を保っている。


噛み締めた瞬間、閉じ込められていたバターがジュワリと口いっぱいに広がり、小麦の甘みと粗塩の塩気が完璧なコントラストを描いた。


「美味しい……! これよ、これが本物のパンよ!」


翌日から、私は『アリッサのパン屋』という小さな看板を掲げて店を開いた。


最初は「若い娘が新しく店を始めたらしい」と遠巻きに見ていた村人たちだったが、窯から漂う異次元の香ばしい匂いに耐えかね、一人、また一人と吸い寄せられてくる。


「おい、娘さん、これは本当にパンなのか……!? なんでこんなに柔らかいんだ!?」

「顎が痛くならない! それに、この黄色い油の美味いこと美味いこと!」


村の老人や子供たちは、初めて食べる『柔らかいパン』に涙を流して感動し、私の店は瞬く間に村一番の人気店となった。


さらに私は、ガッツリ食べたい猟師たちのために、サクサクの豚カツに甘辛ソースを絡めて特製生食パンで挟んだ『カツサンド』や、外はカリカリ、中はフワフワのクッキー生地をのせた『メロンパン』を開発し、連日大繁盛となった。

店を開いて一ヶ月が経った、ある雨の日の夕方。

閉店作業をしていた私は、店の裏口の軒下に何かが倒れ込んでいるのに気づいた。


「あら……? まあ、大変!」


そこにいたのは、成犬の倍はあろうかという、見事な銀色の毛並みを持った大きな魔界狼だった。


しかし美しい毛並みは泥と血で汚れ、背中には深い切り傷を負っている。

魔界狼は私の気配を察すると、鋭い琥珀色の瞳を開き、低く唸り声を上げた。


「グルルル……ッ」

「大丈夫よ、怖がらせないわ。怪我をしているのね、今手当てをしてあげる」


前世からの動物好きな性格もあり、恐れることなく魔界狼に近づいた。

傷口を綺麗に洗い、薬草を塗って包帯を巻いてあげる。魔界狼は最初は警戒していたものの、迷いのない手つきに次第に力を抜いていった。


「お腹、空いていない? ちょうど焼き立ての試作品があるの」


私が差し出したのは、まだ温かい『ミルクフランス』だ。


少し固めに焼き上げたソフトフランスパンに縦の切れ込みを入れ、そこに練乳とバターを練り込んだ特製ミルククリームをたっぷり挟んだ一品。


魔界狼はクンクンと鼻を鳴らし、ガブリと一口噛みついた。


その瞬間、魔界狼の琥珀色の目が「カッ」と見開かれた。

香ばしい小麦の生地を噛みちぎった瞬間、中からとろりと溢れ出す濃厚なミルククリーム。


練乳のコクのある甘みとバターの塩気が、口の中で爆発的なハーモニーを奏でる。

魔界狼は「ハフハフ」と息を荒くしながら、あっという間にミルクフランスを平らげてしまった。


「ふふ、気に入ったみたいね。あなたの背中の傷の形、クープにそっくり。今日からあなたの名前は『クープ』よ」


私がそう言って大きな頭を撫でると、クープは嬉しそうに「クゥン」と鳴き、私の膝にずっしりと頭を乗せて甘えてきた。


それからというもの、クープは毎日のように裏口へやってくるようになった。


特にミルクフランスを食べるときは至福の表情で目を細め、食後は必ず私の手や頬を熱心にペロペロと舐め回した。


「もう、クープったら甘えん坊さんね」


大きな舌が肌をなぞるたび、私はくすぐったそうに笑った。


クープは喉を鳴らし、もっと撫でろと言わんばかりに濡れた鼻先を私の首筋に押し付けてくる。


その温もりとどこか独占欲を感じさせる仕草に、私はただの動物相手とは思えないほど胸を高鳴らせるのだった。


だが、そんな甘い日々は突然途切れた。

ある日を境に、クープがパタリと姿を現さなくなったのだ。


一日、二日、そして一週間。


どんなに待っても裏口の扉が叩かれることはなく、私の胸にはぽっかりと大きな穴が空いたような寂しさが広がっていった。


クープが姿を消して十日が経った、ある良く晴れた昼下がりのことだった。


突如、静かだった辺境の村に地響きのような足音が響き渡った。


まばゆい黄金の甲冑を身にまとった騎士団の一隊と、大粒の魔石で飾られた純白の豪華な馬車が、まっすぐ私のパン屋の前で停車する。


御者が扉を開けると、そこから降りてきたのは見覚えのある人物たちだった。


「ひどい田舎臭い村だな。おい、本当にこんな場所に『特級呪詛』を解く鍵があるというのか?」


豪華な刺繍の外套を羽織った青年――ライナス・グランヴェル。


そして、その腕にしがみつくテリーゼと、揉み手をしながら現れた実父のホイッティカー子爵だった。


ライナスは店の前に立つ私に目を留めると、醜悪な笑みを浮かべた。


「おや、お前は……ホイッティカー家を追放された無能のアリッサではないか! 見ろよテリーゼ、こんな小汚い村で下民相手に泥臭いパン屋をやっているぞ!」

「まあ! 本当ですわお姉様。ホイッティカー家の令嬢だった方が、何て落ちぶれた姿かしら」


扇子で口元を隠して笑うテリーゼに続き、父親も冷たい視線を向けてくる。


「私、どこまで我が家の恥を晒せば気が済むのだ。下民の食い物を作るなど正気の沙汰ではない」


私は冷めた目で見つめ、静かに問いかけた。


「お久しぶりです、皆様。一体何の御用でしょうか」

「ふん、我々がここへ来たのは、お前のような下民に用があるからではない!」


ライナスは傲慢に胸を張った。


「この地にお隠れになっているという、我がグランヴェル公爵家の現当主であり王国最強の魔術師、『レディオス・グランヴェル公爵閣下』をお迎えに上がったのだ!」


レディオス・グランヴェル公爵。


ライナスの叔父にあたる人物で、圧倒的な魔力で国の防衛を一手に担う超大物だ。


しかし数ヶ月前、敵の放った『特級の獣化呪詛』を受け、行方不明になっていたという。


「レディオス叔父上は呪いによって銀色の魔界狼の姿に変えられ、この付近に潜伏している。そして、その呪いを一時的に解く魔力を持った『未知の料理』を出す店がこの村にあると神託が出たのだ。おい無能、銀色の大きな魔界狼を見かけなかったか! 知っているなら吐け!」


彼らは、レディオス公爵を救う大功を挙げ、権力を不動のものにするためにやってきたのだ。


話を聞きながら、私はある一つの巨大な事実に思い当たり、目を見開いた。


(銀色の大きな魔界狼……? 特級の呪詛……? まさか、クープが……!?)


「おい、聞いてるのか無能! 答えろ!」


ライナスがしびれを切らし、私の肩を乱暴に掴もうと手を伸ばした――その時だった。


「――その汚い手を、彼女から離してもらおうか」


地を半ば這うような、冷徹極まりない声が響き渡った。


周囲の大気を一瞬で凍りつかせるほどの圧迫感。並の人間なら跪いてしまうほどの濃密な魔力だ。


ライナスは悲鳴を上げて手を引っ込め、ガタガタと震えた。


馬車の影からゆっくりと歩み出てきたのは、流れるような銀髪と知性的な琥珀色の瞳を持つ、凄まじい美形のアリストクラトだった。


胸元には巨大なグランヴェル公爵家当主の紋章が輝いている。


「れ、レディオス……叔父上……!?」


ライナスが裏返った声で叫び、父親もテリーゼもその場にへたり込んだ。


「お、お戻りになられていたのですね! 我々がお迎えに――」

「だまれ」


レディオスは這い寄ろうとするライナスを一瞥すらせず、まっすぐ私のもとへと歩み寄った。

そして氷のようだった美貌を、見たこともないほど優しく緩ませた。


「……やっと見つけた。私のお命の恩人。いや、私の最愛のシェフ」

「え……嘘、その声……。え、クープ……?」


私が呆然と呟くと、レディオスは嬉しそうに目を細め、私の前に跪いた。

そして粉塗れの小さな手を取り、愛おしそうに甲へ唇を寄せた。


「ああ、そうだ。呪いによって魔界狼の姿で彷徨っていた私を救ってくれたのは君だよ、私。君が毎日食べさせてくれたあのパン……あれには、君の固有スキル『イースト』による、あらゆる穢れや呪いを分解し、魔力を増幅・発酵させる世界最高位の聖属性魔法が宿っていたんだ」

「えっ……!? 私のスキルって、そんな大層なものだったの!?」


ただのパン酵母のスキルだと思っていたが、異世界基準では神の奇跡に等しいチート能力だったらしい。


「君のパンを食べるたびに呪いが浄化され、十日前、最後のミルクフランスを食べた瞬間に完全に解けたんだ。すぐに人間の姿で現れるわけにもいかず、公爵家当主としての戦後処理や君を迎え入れる準備に時間がかかってしまってね……一週間も君に会えず、君のパンを食べられなくて、私は飢え死にするかと思ったよ」


レディオスはまるで甘える大型犬のような瞳で私を見つめた。

その姿は、間違いなくあの裏口でミルクフランスを待っていた『クープ』そのものだった。


信じられない光景を前に、ライナス、テリーゼ、ホイッティカー子爵の三人は魂が抜けた顔で固まっていた。


「お、叔父上……? その女はホイッティカー家を追放された悪女です! 奇跡の料理を作っていたのはそんな女ではなく――」

「黙れ、愚か者が」


レディオスが冷たく言い放った瞬間、ライナスは目に見えない圧力に叩きつけられたように地面へ突っ伏した。


「私の耳にはすべて届いているぞ。ライナス、そしてホイッティカー子爵。お前たちがこの素晴らしい聖女たる私をありもしない罪で陥れ、婚約破棄した上で追放したという事実をな」

「な、王宮の調査がもう……!?」


レディオスは冷徹な眼光で彼らを見下ろし、羊皮紙の書類を叩きつけた。


「テリーゼ・ホイッティカー。お前が自作自演で階段から落ち、ドレスにインクをかけ、私に罪を擦り付けた証言は雇った下男たちからすべて得ている。ホイッティカー子爵、お前は賄賂を受け取るために前妻の娘を追い出そうと嘘に加担したな?」

「ひ、ひぃぃ……っ!」

「そしてライナス。お前は私の『イースト』というスキルを無能と罵った。だがそのスキルこそが私の命を救い、国の危機を救ったのだ。本質を見抜く目も持たず、身内を虐げるお前にグランヴェル公爵家を名乗る資格はない」


レディオスは無情に宣告を下した。


「ライナス・グランヴェル、お前を次期公爵嫡男の座から廃嫡とする。家籍から除名し、平民へと落とす。二度と公爵家を名乗るな」

「そんな……! ああ、あああ……っ!」


絶望に打ちひしがれるライナスを余所に、レディオスは実父と妹にも視線を向けた。


「ホイッティカー子爵、並びにテリーゼ。貴殿らには冤罪の罪、および公爵家への不敬罪を適用する。本日をもってホイッティカー子爵家は取り潰し、爵位は剥奪。全財産没収のうえ、終身刑として辺境の魔鉱山での強制労働を命じる」

「嫌ですわ! 助けてお姉様!」

「私を助けなさい、私は父親だぞ!」


見苦しく叫ぶ二人だったが、近衛兵たちによって容赦なく拘束され、罪人護送用の馬車へと引きずられていった。


彼らがこれから送る人生は、暗く冷たい鉱山の中だ。


そこで毎日支給される食事は――奇しくも、彼らが私に押し付けようとした、あの「石のように固くて酸っぱくて不味い、一切れの黒パン」だけである。


彼らは一生その黒パンを齧りながら、手放したものの価値を知り、後悔し続けるのだ。


騒がしい連中が連れ去られたあと、レディオスは再び私に向き直ると、大きな手で私の頬を包み込んだ。


「さて、私。……改めて、君に乞いたい」


琥珀色の瞳に、真摯で深い愛の炎が灯る。


「私の公爵邸に来て、毎朝私のためにあの美味しいパンを焼いてくれないか? ……いや、私の一生の伴侶として、隣で幸せな公爵夫人になってほしい。最高級の小麦粉も、極上バターも、世界中の食材を何だって用意しよう。君の好きなだけパンを焼いてくれて構わない」


悪戯っぽく微笑むその表情は、やはり私の大好きなクープそのものだった。


「はい、レディオス様。喜んであなたのお嫁さんになります。その代わり、毎朝ちゃんと残さず食べてくださいね?」

「ああ、約束する。君の作ったものなら、それこそ一生、耳のひとかけらまで愛し尽くそう」


私を力強く抱きしめるレディオス。

村人たちの温かい拍手と祝福の声に包まれながら、私の新しい人生の幕が上がった。

それから数日後。

私はレディオスと共に、王都にある広大なグランヴェル公爵邸へと移り住んでいた。


「私、おはよう。今日も君は世界一可愛いね」


朝、目を覚ますと、すでに着替えを終えたレディオスがベッド脇に座り、愛おしそうに見つめていた。


人間の姿になっても距離感は魔界狼の時のままで、むしろ格段に情熱的だ。


「ギ、レディオス様、顔が近いです……っ」

「朝の挨拶がまだだよ?」


額、鼻先、そして唇に優しく何度もキスを落とされる。

顔を真っ赤にする私を見て、彼は満足そうに目を細めた。


「さあ、今日も一緒にパンを作ろう」


向かったのは王宮をも凌ぐ最新の調理場。

今日作るテーマは、前世でも大ブームを巻き起こした『贅沢生食パン』だ。


レディオスが用意してくれた極上の白小麦粉、聖乳牛の生クリーム、発酵バター。


「レディオス様、粉をこねるのを手伝っていただけますか?」

「喜んで。君の命令なら何でも聞くよ、我が愛しの奥様」


腕まくりをしたレディオスが、逞しい腕で生地を正確かつ力強くこねていく。


「これくらいでどうかな?」

「完璧です! ありがとうございます」


微笑む私に、レディオスは後ろから抱きつき、首筋に顔を埋めてきた。


「ギ、レディオス様!? 厨房ですよ!?」

「頑張ったご褒美に君の香りを補給させておくれ……。小麦の甘い香りと君の匂いが混ざり合って、本当にたまらない。このまま君を食べてしまいたいな」

「も、もう! スキルを使いますから離れてください!」


心臓をバクバクさせながら生地に『イースト』の魔力を込めると、黄金の光が包み込み、完璧な発酵が完了した。


型に入れ、魔導オーブンでじっくり焼き上げる。

――三十分後。


調理場全体が幸福な香りに包まれ、見事な黄金色の生食パンが焼き上がった。


「贅沢生食パンはね、こうして手で豪快に割って食べるのが一番美味しいんです」


両手で真ん中から割ると――ふわぁっと柔らかな音を立て、シルクのように艶やかな白い生地が現れた。立ち上る湯気だけで脳がとろけそうなほどだ。


「さあ、召し上がれ」


ちぎった中心部分を差し出すと、レディオスは私の手ごとパクリと口に含んだ。その際、わざと指先をペロリとなぞってくる。


「!?」

「……っ! 耳まで信じられないほど柔らかい。口に入れた瞬間フワリと溶けて、生クリームの甘みとバターのコクが押し寄せてくる。本当に、君のパンは世界一だ」


レディオスは瞳を輝かせ、今度はちぎったパンに自家製ジャムをのせ、私の口元へと運んだ。


「はい、アリッサ。あーんして」

「ん、おいしい」


それからのグランヴェル公爵邸は、王都中の貴族たちの羨望の的となった。


毎朝のように甘く香ばしい香りが漂い、私の焼くパンは王宮の夜会でも絶賛され、国王をはじめとする王族たちをも完全に虜にした。


かつて私を無能と蔑んだ元実家やライナスが、暗い鉱山で固い黒パンを齧りながら絶望していることなど、今の二人の耳には一切届かない。


「美味しいね、アリッサ」

「はい、レディオス様」


テラスでたっぷりのシロップをかけたフレンチトーストを味わいながら、レディオスは私の口元についたシロップを指で拭い、自分の口に含んで妖艶に微笑んだ。


「とても甘い。でも、君の方がずっと甘くて可愛いよ」

「も、もう! すぐそういうことを言うんですから!」


真っ赤になって怒る私を、レディオスは愛おしそうに腕の中へすっぽりと収める。


ハズレスキルと蔑まれた少女は、パンの香りで世界を救い、冷徹だったはずの公爵様を胃袋ごと完全につかまえて。


これからも一生、世界で一番甘くて幸せな溺愛の日々へと焼き上げられ続けるのだった。

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