3: クラスメイトと変な娘
宝子山はキラキラと無駄に澄んだ目を俺に向けている。
俺が断る事など、全く想像もしてない目だ。
そのような無垢な視線を向けられれば、大抵の人間は否とは言い難いだろう。
「だが、断わる」
何故、俺が妄想女の頼みを聞いてやらないといけない。
しかも、本人は気付いていないが、まだうら若い娘が同級生にエロ本をねだっているのだ。
滑稽すぎる。どちらにとっても得にならない。
どんな罰ゲームだ。
「どうしてですか?」
俺の苛立ちが伝わらないのか、宝子山は目を瞬かせる。
「不思議そうである意味が分からない」
「私のお願いですよ?」
「だから何だ。というより、お前はその本がどんなものか一度調べた方がいい。これが俺がお前に言える唯一の金言だ」
俺の言葉を理解してくれたのか、宝子山は暫し押し黙る。
こちらの顔を静かに見つめた後、口を開いた。
「どうして私が調べるのです?」
声の調子からすると、お前が調べろと言われているようだ。
流石に気のせいだと思いたい。
「貴方が調べて下さい」
「ふざけるな」
お前は何様だ。
「……もしかして、貴方は『快楽天国』という書籍の事をご存知なのですか? どういう本なのです? そこまで分かっていれば、本当はイヤですけど自分でも調べられます。教えて下さい」
「……グー○ル先生にお伺いしろ」
宝子山は不思議そうに首を傾げる。
「そんな先生、この学校に居ましたか?」
どうやらネット用語には疎いらしい。
どう答えたものか俺が考えていると、宝子山は次第に眉をハの字の形に曲げていく。
「こんなに私が低姿勢で頼んでいるのに、手に入れて貰えないどころか、情報を教えても貰えないのですか?」
「いつお前が低姿勢で頼んだ」
宝子山は不服そうに頬を膨らませる。
「分かりました。でしたら、お父様に聞いてみます。お父様は読書家ですから書籍にも詳しい筈ですから。今世の頼りない貴方とは違うんです」
「それだけは止めておけ」
もし本当に知っていたら、間違いなく父親は凍りつくぞ。
***
「頼みがあります」
昼休み、この前の失敗を糧にして、ここ数日は階段の踊り場で昼食を摂っていた。
場所は西棟の一番上で、この間までの東棟とは反対側である。
人が来ないという点では同じだが、こちらは屋上に続く扉が無い。
ベンチも無いので、掃除もロクにされていないような、踊り場に直接座らないといけないのは不便ではある。
ただ静かなのは良い。
読書をするには最適な場所の内の一つだ。
「無視しないで下さい。酷いです」
……が、今その唯一の好条件も消え去った。
視線を上げると、目の前に両手を固く握り締めた宝子山が立っていた。
不満気な表情で、微かに唇を尖らせている。
思わず溜息が出た。
「……また来たのか。というか何故ここが分かった?」
「当然です。私は貴方の来世の妻なんですから」
「その設定はもういい」
「で、お願いがあるんです」
こちらの話は無視か。相変らず苛立つ奴だ。
それにまだエロ本を探してるのか?
いっそ自分がどれほど滑稽なのか教えてやろうか?
ただどうやら父親にはまだ尋ねてないらしい。
それだけは賢明だ。
「『快楽天国』は自分で手に入れろ。俺を頼るな」
そう吐き捨てて、読みかけの小説に視線を落とす。
「は? 何を言ってるのですか?」
どこか小馬鹿にしたような声の調子に、俺は再び視線を上げた。
口調通り。憎らしい表情で俺を見下していた。
「そんな昔の話を取り上げないで下さい。今日はそんなお願いじゃありません。全く……何を言っているのでしょうか」
お前が何を言ってるんだ。
というか何で上から目線だ。
そもそも、コイツに見下ろされるのも腹立たしい。
俺は急いで身を起こそうとした。
必然的に地面に手を付く事になり、そちらの腕を突然引っ張られては、バランスを崩して転倒してしまうのは当然のことだろう。
「ぐっ……」
受身を取れず脇を強かに地面に打ちつけた為、痛みで声も出せない。
しかし、宝子山は苦しむ俺を意に介さない。
寧ろ追い討ちをかけるように俺の腕に縋りつくと、勝手に話を続ける。
「私に料理を教えてください」
くっ、何を、言って、いるんだ、この女は。
罵ってやりたかったが、荒い呼吸を繰り返すしかない俺に、そこまでを望むのは酷というものだ。
拒否の声が無い為か、妄想女は更に話し続ける。
話は半分も聞いてないが、実際に料理を教える場所などを話しているようだ。
ようやく痛みが治まった。
俺は黙したままその場に立ち上がった。
「あ、肝心な事を忘れていました。うっかりです。私は何の料理を教えて頂けるのですか?」
「……そうだな。お前には妄想と現実の違いについてだけは、きっちりと教えてやりたい」
「いえ、私が教えて欲しいのは料理についてです」
嫌味に対し、真面目に返されるほど無様なものはない。
更に苛立ちが高まっていく。
「そんな事は母親に習え!」
至極当然の俺の返答に、
「母は料理などしません」
宝子山は断言する。
「くっ、なら家ではどうしてるんだ!? まさか毎日外食という訳ではあるまい!?」
「お父様もお母様も忙しいので、外食なんて滅多にしませんよ。いつもは山本さんが用意してくれてます」
ブルジョアめ。
それとお前の知人の名前を挙げられても、俺が分かるか。
誰だ、山本さんとは。
「……お手伝いの人か?」
宝子山は裕福な家庭のお嬢様だ。
一人位そういう人が居ても、何らおかしくは無い。
「違います。当家お抱えの料理人の方です」
「…………」
想像を超えていた。
自分の器が小さく感じられ、正直少し悔しい。
宝子山の家はもしかしたら、俺が想像していたのよりずっと裕福なのかもしれない。
だとしたら、両親にとっては悲劇である。
そんな恵まれた家庭で育てた娘は、残念ながら頭のネジが数本オカシイのだから。
少なくとも、来世だどうのこうの妄想するような娘に成長させたかった訳ではないだろう。
まだ見ぬ、そして恐らく今後も出会わないであろう宝子山の両親の事を考えると、不憫さで俺は少し冷静になった。
「であれば、その山本さんに習えば良いだろう」
「山本さんはお仕事をしているんです。私の個人的なお願いで、それを邪魔する訳にはいきません」
くっ、急に常識的な回答を……。
俺を邪魔するのはいいのか!?
そっちにも常識を使え!
腹立たしいが、今はとりあえずいい。
「なら、友人に習うんだな。お前にも友人の一人は居るだろう? ……常人を装ったままなら」
「私が知りたいのは、男の方の作る料理です。生憎男性の友人は居ませんから」
「教えといてやるが、俺たちの年代の男の料理など、お嬢様が食べるには値しないものだぞ」
インスタントラーメン、お好み焼き、たこ焼き、目玉焼き……玉子焼きは微妙だ。
と、精々その程度である。
無論、あくまで自分基準だが。
俺の説明を聞いて、宝子山はゆっくりと首を縦に振る。
慈母の様な微笑を浮かべながら言った。
「そうです。私はその取るに足らない料理が覚えたいのです。男性の作る、小汚くて、大味で、何が美味しいのか判らないような料理を」
「…………分かっているなら、そんなものを習おうとするな」
敢えて断言されると、男代表として否定したい気持ちも湧く。
「良いのです。私はそんな粗末なものを習いたいのですから」
「…………く」
上等なものは作れない事には違いないので、キッパリと言い返すことが出来ない。
その曇りの無い笑顔が逆に腹立たしい。
「何をそんなに渋っておられるのですか? ……まさかとは思いますが、料理が出来ない、という訳ではないのでしょう?」
「…………」
先に挙げたような料理を、胸を張って『料理』と呼んでよいのか、少し迷う。
その沈黙を肯定と捉えたのか、宝子山は目を大きく見開いた。
唖然とした表情で、嫌々をする。
「来世の貴方であれば、普通の男性と同じ程度には料理がお出来になったのに……」
情けないです、などと呟いている。
悔しい…………って、待て!
よく考えれば、何故俺がそんな気持ちにならないといけない。
俺が料理が出来ようが出来まいが、お前にそんな卑下される謂れは無い。
いかん。完全にペースを乱されている。
いつもの自分を取り戻さなくては。
コイツの言葉に反応しては駄目だ。
「来世の貴方であれば、黒舌平目のムニエルくらいは簡単に作ってくれたのに……」
「言いたい事は山ほどあるが、少なくとも世の中の大多数の男は、黒舌平目のムニエルなどは作れない」
……反応してしまった。
その後、宝子山の話は脱線し、来世の俺が作ってくれたらしい料理を挙げ始めた。
目を瞑り、来世を思い返すように? 話を続ける。
当然、付き合う義理は無いので、十品目を数えた所で俺はその場を立ち去った。
宝子山が教室に戻ってきたのは、それから二十分も後だった。
***
「お願いがあります」
言い方を変えれは俺がすんなり頷くとでも思ったか。
しかし、そんなことの前に確認したい事がある。
「何故、ここが分かった?」
「当然です。来世の妻ですから」
「……妻とはそんな異能じみた存在ではない」
筈だ。
屋上、西棟の最上階の踊り場と、俺のよく行く昼休憩の居場所は既にコイツに把握されてしまっている。
もしかしたら、予め俺の行きつけの場所を調査していたのかもしれないと思った俺は、ここ数日は毎日昼の場所を変えていた。
今日のこの場所などは、俺も来るのは久しぶりだ。
しかし、そんなレア度の高いスポットでさえも、コイツには筒抜けだったようだ。
恐らく友人達ですら知らないこの場所を、何故コイツは知りえたのか。
まさか、付けられている?
「お願いがあるのです」
俺の不安を警戒など全く気にする素振りもなく、宝子山は俺の隣に腰を下ろした。
もちろん、座っている俺と目線の高さを合わせる為などと、殊勝な態度ではないに違いない。
その考えを証明するかのように、宝子山は徐に自分の履いていた靴下を脱ぎ捨てた。
白い脚が夏の青空の下、露になる。
そして、その両脚を、躊躇う事無く水中に突っ込む。
途端に弾けるような笑顔を浮かべた。
「ああ、心地良いです」
年頃の娘が、はしたない。
良い所のお嬢様の振る舞いとは言えない。
そう思ってはいたが、俺は何も言わなかった。
「流石に良い場所を見つけますね。夏ならではです」
「……ふん」
俺たちが居るのは、夏季限定しか訪れようとは思わない場所。
所謂、プールだった。
人が居ない為か、水面はなだらかで、夏の日差しを真っ向から反射している。
その淵に腰掛けて、水中に足を突っ込んで、納涼気分を味わっているのだった。
これが中々に心地よい。
屋外の為当然暑いが、足からの冷たさでそれも相殺される。
小説が濡れてしまう危険は常に伴うが、まぁそれは気をつけていれば問題ない。
正直、穴場を発見したと喜んでいた。
もちろん、妄想女が現れる前までの話だ。
「そんなことより、お願いがあるのです」
「料理なら他の人間に習え」
「いつの話をしているのです? 今日はそのお願いじゃありません」
要求がコロコロ変わる奴だ。
まぁどんな要求であろうと、俺が首を縦に振ることはない。
いい加減学習しても良さそうなものだ。
「なら、やはり『快楽天国』が欲しくなったのか?」
「違います」
「だったら、最初に言っていた婚約者がどうのこうの言う話か? 確か解決したのではなかったのか?」
「そうです。あれはお父様に『お父様以上の男性でない限り、お会いしたくありません』と申し上げた所、お父様がすんなりと諦めてくれました。お父様は何だかんだ言っても、私の事を溺愛してくれてますから」
「……なるほど」
「チョロイです」
「…………」
今、はっきりと分かった。
コイツは電波だけでなく、腹黒さも兼ね備えている。
挙句に、人の話を聞かない。
それらから導き出される答えは、非常に性質が悪い、ということ。
つまり、絶対に係わり合いにならない方が良い相手ということだ。
「って、そんな事はどうでもいいのです」
解決したら、人生を左右する問題も『そんなこと』呼ばわりか。
「私が今日お願いしたいことは、これまでのような小さな頼みとは違うのです」
何やら熱を込めた口調で話している。
もう一度言うが、いい加減学習して欲しい。
俺が付き合う義理は皆無だという事を。
加えて、俺がお前の頼みを聞く事など、天変地異が起こらない限りはありえない。
俺は素早く水中から足を抜いて、身支度を整える。
足をロクに拭く暇もなかったので、改めて履いた靴下が水に濡れて気持ちが悪い。
だが、仕方がない。
「是非、貴方に協力して頂きたいのです」
「なるほど。断わる」
そう言い放つと、宝子山の反応を待たずに、俺は駆け足でプールを立ち去った。
スピーディに行動したのが良かったのか、背後から呼び止める声は聞えてこなかった。
***
やはり思った通り。
宝子山は自分の裏の顔を、公にするつもりはないらしい。
妄想女ではあるが、完全な馬鹿ではない。
その顔を周囲に見せることでの影響は、自分でも理解しているのだろう。
教室に居る時は、全く俺に話しかけてこようとはしなかった。
こちらを見ることもない。
その表裏の使い分けの徹底さだけは、さしもの俺も感心せざるを得ない。
そんな事を考えながら、午後一の授業後の休み時間にぼんやりしていると、ポンと肩を叩かれた。
どうせ長島だろうと思い無視していると、その人物は俺の席の前に回りこんできた。
「よう。借りてた本返しに来たぜ」
「何だ、渡辺か」
そこに立っていたのは、俺の一年時のクラスメイトの渡辺だった。
ちなみに、何となく後ろを見ると、長島はアホ面で爆睡していた。
……ふむ。きっとバイトやら何やらで疲れているのだろう。
次の授業は居眠りには厳しい教師だが、そっとしておいてやろう。
恐らく程なく見つかり、重罰が科せられる事になるだろうが。
俺のせめてもの優しさだ。
渡辺は手に持っていた小説を、俺の机の上に置いた。
「感想は?」
本を貸した相手には、返ってきた時に感想を訊く。
これは読書好きならば、誰しもが行う決まり事項であろう。
俺も例に漏れず、訊く事にしている。
自分と異なる見解に触れる事は、思考の幅を広げる事に繋がると思っているからだ。
俺の問いかけに対し、渡辺は決まりが悪そうに笑う。
「特にない。てゆーか、俺は全く読んでないし」
薄々は分かったが、念の為に確認する。
「……では何の為に借りた?」
「もちろん。女の子に俺の知的な面を魅せる為さ」
渡辺は一点の曇りの無い、清々しいまでの笑顔を浮かべる。
この渡辺という男。
今の言動から推察されるように、自他共に認める女好きである。
ムッツリではなく、行動的な方の。
容姿もそれなりに整っている事に加え、気さくに話しかける所が親しみを生むのか、女子生徒の間ではそこそこ人気があるようだ。
よく女子生徒達とじゃれ合っている姿を見かける。
ただ、ずっと女子と一緒にいると、無性に疲れる時があるらしい。
そんな時は、俺や他数名の友人達とつるんでいる。
軽薄な奴だが、付き合ってみるとそれなりにイイ奴ではある。
とはいえ、それを知るのは身内の人間だけだ。
それ以外の男からは『チャラ男』呼ばわりされ、正直嫌われている。
モテナイ男達の僻みだろう。
しかし、本人はその事を全く気にしていないらしい。
「男に好かれて喜ぶ趣味はないし」
とは、渡辺の談だ。
その点については、同意せざるを得ない。
「まぁ……別に良いがな」
本を読むのではなく、飾りとして装備する発想は俺には無い。
そういう意味では、俺の見識を深めてくれたとも言える。
「じゃあ、また何かあったら宜しくな」
「ああ……いや、待て」
立ち去ろうとした渡辺を、寸でのところで呼び止める。
「何?」
立ち止まり、半身で振り返る渡辺。
渡辺は女好きだけあって、女子生徒に関する知識はかなりのものだ。
もしかしたら、宝子山について何か知っているかもしれない。
横目で宝子山に注意を向ける。
星は周囲の友人達と何かを談笑していた。
俺はそれを確認して、渡辺を教室の外まで誘導した。
廊下の窓際に近寄ると、
「ちょっと訊きたいのだが、お前……宝子山未来の事を知っているか?」
周囲に聞えないよう、声を抑えて尋ねた。
渡辺は大きく目を見開いて固まった後、一度教室の方を見て、こちらに向き直った。
「まさか、矢向に女性について訊かれるとはね……」
何か物珍しいものを見るような目で見つめてくる。
渡辺が何を考えているのかは大凡察しはつく。
俺にとって、不愉快極まりない想像をしているのだろう。
断固否定したい気持ちもあったが、今はそれより質問を優先した。
「いいから、何か知っていたら教えろ」
「ん……といっても、俺もそれほど詳しい訳じゃないよ? そんなに興味を引かれる子でもないし。話したこともないよ、多分。クラスメイトのお前も知ってるオフシャル情報ばかりだと思うけどいいのか?」
「ああ、それでいい。ただ時間もない。要約して、手短に頼む」
「無茶言うなぁ」
そう嘆息して、渡辺は話し始めた。
本人も言っていた通り、話の内容は殆ど俺も知っている情報だった。
無理もない。
宝子山という存在を話す時に、必ず挙がるのは裕福な家庭のお嬢様だということだ。
ただ逆に言えば、その情報が印象強い為、それ以外の情報については目が当たらないのだ。
大凡大半の男子生徒が同じであろう。
「それと、お嬢様だからかだろうな。ちょっと一般人の常識に疎い所があって、少し変な子みたいに見えるらしい。でも敬遠されているとかはなくて、女の子達の間では、逆に面白がられてるみたいだけどね」
「そうか……」
来世について、真顔で語る奴が『少し』か。
「……これくらいかな。俺が知ってるのは」
「……ふむ」
「っと、そろそろ時間だから行くわ」
「ああ、悪かったな」
「んじゃ」
手をピッと上げると、渡辺は足早に去っていった。
……なるほど。
渡辺ですら裏の顔を把握していないとは、宝子山の猫被りは本物のようだ。
収穫があったとすれば、その事を再認識できた事か。
***
次の日。
宝子山は学校を休んだ。
朝伝えられた教師の情報では、風邪だと言うことだ。
妄想女も精神の有り方が異常なだけで、他はただの人間だ。
当然である。
その事を改めて認識すると、奴への警戒心は少し緩んだ。
そして、その翌日。
いつものように登校する。
俺の辞書に遅刻などというものはない。
早すぎず、遅すぎず。
そんな時間帯を狙って登校しているので、教室に着くと、大抵半数のクラスメイトの姿が既にある。
教室の扉を開けると、今日も半数の生徒の姿があった。
友人同士で談笑したり、真面目な奴は予習したりと、各自が思い思いの事をやっているのが常である。
しかし、今日はいつもとは明らかに様子が違っていた。
教室に居る誰しもから、どこかそわそわしているような、何かを興味深げに伺っているような様子が感じられる。
共通しているのは視線。
殆ど全員の視線が、ある一点に向けて送られていた。
俺は自分の席に向かいながら、その先に目を向けて――――
「な……」
思わず持っていた鞄を取り落としてしまった。
幾十にも重なった視線の先には、ある女子生徒の姿があった。
その女子生徒は皆の視線を内心どう感じているのか分からないが、少なくとも今は特に動じた様子は無い。
席に腰を下ろして、机の上にある教科書を眺めていた。
俺の位置からは、その後ろ姿が見えるだけである。
艶のあったストレートの黒髪を。
髪の毛の先まで麦色に染め上げた、女子生徒の後ろ姿が。
駄目だ。
奴が何を考えているのか、まるで理解できない。
その生徒の名は、宝子山未来。
言わずと知れた、電波女である。