電話
電話
秀哉と沙織が出会ったのは、もう十五年以上前のことになる。
そのころ秀哉には妻がいた。沙織もそれを知っていた。だが沙織は、秀哉の家のことを聞いたことがなかった。
二人はときどき一緒に出かけた。
サイクリングをしたり、食事をしたり、釣りに行ったりした。
芦田川の支流でヘラブナを釣った日のことを、秀哉はよく覚えている。
川幅は十メートルもない細い流れだった。片側は低い護岸で、反対側は草の生えた土の岸になっている。その向こうに、本流の堤防が高く見えていた。
水の中には、のっこみ前のヘラが群れているのが見えた。
竿は十尺。
底釣りの両団子だった。
餌につられて、魚がウキの下に集まってくるのが見える。
よく釣れた。
八寸、九寸が続き、ときどき尺に届く魚が混じった。腕がだるくなるほどだった。
沙織は釣りが上手いわけではなかった。長い竿では決まった場所に振り込むことも難しい。それでも楽しそうに竿を出していた。
秀哉は、自分が釣るより、沙織が釣っているのを見る方が好きだった。
岸の向こうを、ヌートリアが一匹歩いていた。
夕方になり、二人は竿をしまった。
近くの鰻屋で食事をした。店を出るころには、もう夜に近い時間だった。
帰り道、草戸稲荷の近くで狐を見た。
道路の端を、影のようにすっと横切った。
沙織が「あっ」と声を上げた。
ほんの一瞬だった。
それでも、確かに狐だった。
沙織はその後、別の人と結婚した。
だから二人の関係はそこで終わるはずだった。
だが終わらなかった。
沙織は毎朝電話をかけてくる。
二十分ほど話す。天気のことや、仕事のこと、ときどき昔の話。
電話の最後に、沙織はいつも言う。
「じゃあ、また明日」
秀哉も同じように答える。
「うん、また明日」
電話を切ったあと、秀哉はしばらく受話器を見ている。
芦田川の水面を思い出す。
ウキの下に集まっていた魚の影。
夕方の川。
鰻屋の匂い。
そして草戸稲荷の狐。
もうずいぶん昔のことだ。
それでも電話は、毎朝かかってくる。




