後日談 消えないログ、焼かれる未来 ~「俺はただの付き合いだった」が通用しない世界~
「それでは、田中さん。来週の月曜日、内定式でお会いできることを楽しみにしていますよ」
「は、はい! ありがとうございます! 精一杯、頑張ります!」
都内のオフィスビルにある会議室。
中堅商社「赤城商事」の人事部長から告げられた言葉に、俺、田中健太は深々と頭を下げた。
エレベーターに乗り込み、一階のエントランスを出た瞬間、俺は大きくガッツポーズをした。
「よっしゃあああ! 内定ゲットォォォ!」
周りのサラリーマンたちが怪訝な顔で見てくるが、気にならなかった。
俺は勝ったのだ。
就職氷河期と言われるこの時代に、安定した商社への切符を手に入れた。初任給も悪くないし、福利厚生もしっかりしている。
これで俺の人生は安泰だ。
スマホを取り出し、友人のグループLINE……じゃなくて、MINEにメッセージを送る。
『お前ら、今日飲み行こうぜ! 俺のおごりで!』
すぐに『マジか!』『ゴチになりまーす』と返信が来る。
俺は鼻歌交じりに駅へと向かった。
大学四年の夏。
季節はもうすぐ秋になろうとしている。
半年前、俺たちのサークルであんな「大事件」があったなんて、まるで嘘のように世界は平和に回っていた。
そう、あの事件だ。
テニスサークルの副代表だった佐伯巧が、部員の木島蓮をハメて、逆に破滅したあの一件。
正直、あの時は肝が冷えた。
俺も佐伯さんの取り巻きの一人として、木島の悪口をネットに書き込んだり、嘘の目撃証言をしたりしていたからだ。
「木島が浮気してるの見たよ」
「あいつ、裏垢で女の悪口言ってたぜ」
佐伯さんに頼まれて、軽い気持ちで言った嘘。
それが木島を追い詰め、あんな騒ぎになるとは思っていなかった。
でも、結果的に俺は助かった。
佐伯さんは退学になり、実家からも絶縁されるという悲惨な末路を辿ったが、俺たちのような「下っ端」は、大学から厳重注意を受けただけで済んだのだ。
退学にはならなかった。名前も(その時はまだ)大きくは晒されなかった。
俺は運が良かった。
いや、俺が賢かったのだ。佐伯さんのように表立って目立つことなく、あくまで「大勢の中の一人」として振る舞っていたからだ。
「やっぱ、出る杭は打たれるってことだよな。木島も佐伯さんも、目立ちすぎたんだよ」
俺は自分に言い聞かせるように呟いた。
俺のような凡人は、流れに身を任せて、長いものに巻かれていればいい。
そうすれば、こうしてちゃんと就職もできて、幸せな人生が待っているのだから。
* * *
その夜、居酒屋で旧サークルメンバーの佐藤と飲んでいた。
彼もまた、あの一件に関わっていたが、無事にメーカーへの内定を決めていた。
「いやー、マジで良かったよな俺たち。一時はどうなるかと思ったけど」
佐藤がジョッキを傾けながら、ニヤニヤと笑う。
「それな。佐伯さんが全部被ってくれたおかげだよ。あいつ、今頃どうしてんだろうな? 借金まみれって噂だけど」
「自業自得っしょ。調子乗りすぎなんだよ。……てか、木島の方もさ、なんか最近すごいことになってるらしいじゃん」
佐藤がスマホの画面を見せてきた。
そこには、ニュースアプリの記事が表示されていた。
『プログレス・ゲート、新セキュリティシステムを発表。開発リーダーは若き天才・木島蓮氏』
写真の中の木島は、パリッとしたスーツを着こなし、知的なオーラを放っていた。
かつてサークルの隅っこでPCをいじっていた地味な男とは、別人のようだ。
「うわ、出世しすぎだろ。なんかムカつくな」
俺は舌打ちをした。
「ま、俺たちには関係ないけどな。あいつはあいつ、俺たちは俺たちだ」
「そうそう。俺らも勝ち組コース乗ったし、過去のことは水に流してパーッといこうぜ!」
俺たちは乾杯した。
過去の罪悪感など、アルコールで消毒してしまえばいい。
ネットの炎上なんて、人の噂も七十五日。
誰も俺たちのことなんて覚えていない。
そう信じていた。
だが、その甘い考えは、翌日の朝、粉々に打ち砕かれることになった。
二日酔いの頭を抱えて起きた俺は、スマホの通知を見て凍りついた。
Twotterの通知が、異常な数になっている。
普段は「いいね」なんて数件しかつかない俺のアカウントが、燃え上がっていた。
『こいつだろ、佐伯の共犯者A』
『名前は田中健太。××大学経済学部』
『内定先は赤城商事らしいぞ』
『人事部に凸撃しとくわ』
「……は?」
血の気が引いた。
震える指で画面をスクロールする。
そこには、俺が半年前に裏垢で投稿していた、木島への誹謗中傷ツイートのスクショが貼られていた。
『木島マジきめぇw さっさと消えろ』
『浮気捏造とかウケるw 佐伯さん天才すぎ』
アカウント名は変えていたし、鍵もかけていたはずだ。
それなのに、なぜ?
まとめサイトのリンクが貼られている。
タイトルは『【特定完了】木島蓮冤罪事件、逃げ切ったと思っている共犯者たちの現在』。
そこには、俺の実名、大学、顔写真、そして昨日内定をもらったばかりの「赤城商事」の名前までが、完璧な精度で羅列されていた。
昨日の居酒屋での会話も、誰かに聞かれていたのか?
いや、佐藤が酔っ払ってインスタ(アウスタ)のストーリーに上げた写真だ。
「内定祝い! 勝ち組!」というコメントと共に、俺の顔と、テーブルに置かれた内定通知書の封筒が見切れていたのだ。
「馬鹿野郎……!!」
俺は叫んだ。
脇が甘すぎた。
ネットの「特定班」と呼ばれる連中は、執念深い。
彼らは半年間、俺たちがボロを出すのをじっと待っていたのだ。
そして、人生で一番幸せな瞬間、内定が決まったこのタイミングを狙って、地獄へ突き落とすスイッチを押したのだ。
プルルルルル!
スマホが鳴る。
画面に表示された文字を見て、心臓が止まりそうになった。
『赤城商事 人事部』
出たくない。
出たくないが、出なければもっと事態が悪化する。
俺は震える手で通話ボタンを押した。
「は、はい……田中です……」
『赤城商事人事部の山下です。田中君、今すぐ本社に来られるかな? ネットで君に関する良からぬ噂が出回っていてね。説明してもらいたいんだ』
声は冷徹で、昨日の温かみなど微塵もなかった。
俺はパジャマのまま、その場に崩れ落ちた。
* * *
一時間後。
俺は赤城商事の応接室にいた。
昨日、笑顔で握手をしてくれた人事部長と、法務部の人間だという強面の男が座っている。
テーブルの上には、俺のツイートのプリントアウトと、まとめサイトのコピーが置かれていた。
「田中君。これは、君のアカウントで間違いないかね?」
人事部長が淡々と尋ねる。
俺は脂汗を流しながら、必死に言い訳を探した。
「あ、あの、それは……乗っ取られたというか……」
「嘘はつかない方がいい。デジタルフォレンジック調査をすればすぐに分かることだ。それに、このインスタの写真。君だよね?」
「……はい」
逃げ場はなかった。
俺は小さく頷くしかなかった。
「君ねえ、採用面接の時、『協調性がある』とか『誠実さが売りです』とか言ってたよね?」
部長が呆れたようにため息をつく。
「同級生を集団でいじめて、嘘の証言で陥れるのが、君の言う『協調性』なのかね?」
「ち、違います! あれは佐伯副代表に命令されて、断れなくて……僕も被害者みたいなもので……」
俺は必死にすがった。
自分が主犯じゃないことを強調すれば、情状酌量の余地があると思った。
だが、法務部の男が冷たく言い放った。
「『命令されたからやった』。それが一番まずいんだよ」
「え……?」
「企業というのはね、コンプライアンス遵守が絶対なんだ。上司の命令であっても、それが不正ならNOと言える人間が必要なんだよ。君のように、思考停止して不正に加担し、それを『断れなかった』と言い訳する人間は、会社にとって最大のリスク要因なんだ」
リスク要因。
その言葉が、俺の胸に突き刺さる。
「それに、これだけの騒ぎになっている。君を採用すれば、我が社にも『いじめ加担者を雇う企業』というレッテルが貼られる。取引先からの信用問題に関わるんだよ」
部長が内定通知書をテーブルに戻した。
「残念だが、内定は取り消させてもらう」
「そ、そんな……! 待ってください! 反省してます! もう二度としませんから!」
「反省? 昨日、『勝ち組』って騒いでたのが?」
部長の目は笑っていなかった。
俺は言葉を失った。
全て見透かされていた。
「帰りたまえ。二度と敷居を跨がないように」
俺は逃げるように会社を出た。
ビルの外に出ると、強烈な日差しが眩暈を誘った。
昨日は輝いて見えたオフィス街が、今は俺を拒絶する巨大な壁のように見えた。
内定取り消し。
この時期に。
これからどうすればいい?
他の企業の選考はもう終わっている。
俺は「無い内定」のまま、卒業を迎えることになるのか?
* * *
地獄はそれだけでは終わらなかった。
帰り道、彼女の美咲からMINEが来た。
『別れよう』
たった一言。
慌てて電話するが、着信拒否されている。
彼女のインスタを見ると、俺との写真が全て削除されていた。
彼女の友人からDMが来た。
『美咲に変な巻き添え食らわせないでくれる? 犯罪者の彼氏とか恥ずかしすぎるから』
俺のことは、彼女の周りにも既に知れ渡っていたのだ。
「犯罪者」。
俺は逮捕されたわけじゃない。
ただ、サークルのノリで悪口を言っただけなのに。
なんでここまでされなきゃいけないんだ。
実家の母からも電話があった。
泣いていた。
『あんた、何したの? 近所の人から変なこと言われたわよ。ネットにあんたの名前が出てるって……』
『父さんが激怒してる。もう帰ってくるなって……』
居場所が、次々と消えていく。
会社、恋人、実家。
俺を構成していた世界が、音を立てて崩れ去っていく。
スマホを見るのが怖い。
通知が来るたびにビクッとする。
また新しい罵倒か? 住所が晒されたのか?
俺はスマホの電源を切り、ふらふらと街を彷徨った。
駅前の大型ビジョン。
そこには、またあのニュースが流れていた。
『プログレス・ゲート、木島蓮氏への独占インタビュー』
画面の中の木島は、インタビュアーの質問に答えていた。
『過去の困難をどう乗り越えましたか?』
『真実を信じてくれる仲間がいたからです。そして、どんなに小さなログでも、嘘をつかないと知っていたからです』
ログは嘘をつかない。
その言葉が、俺の首を絞める。
俺が軽い気持ちで投稿した悪口。
佐伯さんに媚びるために送った「やっちゃいましょうw」というメッセージ。
それら全てのログが、消えることなく保存され、時限爆弾となって今、爆発したのだ。
木島は眩しかった。
俺が見下していたはずの「陰キャ」は、いつの間にか手の届かない高みへと登っていた。
一方、俺はどうだ?
「勝ち組」だと浮かれていた数時間前が、遠い昔のようだ。
今の俺は、社会から弾き出された異物。
何者でもない、ただの「転落したモブ」だ。
ふと、ショーウィンドウに映った自分の顔を見た。
死人のような顔色。
安っぽいリクルートスーツが、ひどく惨めに見える。
俺は佐伯さんを笑っていた。
「あいつは馬鹿だ」と。
だが、俺も同じだった。
いや、佐伯さんの影に隠れてコソコソと石を投げ、形勢が悪くなれば被害者面をして逃げようとした俺の方が、もっと卑怯で救いようがないのかもしれない。
「……ざまあみろ、か」
俺は自嘲気味に呟いた。
木島が言ったわけではない。
世界そのものが、俺に向かってそう言っている気がした。
因果応報。
その言葉の重さを、俺は一生背負って生きていくことになる。
* * *
半年後。
俺は、郊外にある物流倉庫で働いていた。
深夜のアルバイトだ。
内定取り消しの後、まともな企業にはどこも相手にされなかった。
名前を検索すれば、すぐにあのまとめサイトが出てくるのだから当然だ。
「田中健太」という名前は、ネット上では「いじめ加担者」「卑怯者」の代名詞になっていた。
重い段ボールを運びながら、俺は考える。
もし、あの日。
佐伯さんに「木島をハメようぜ」と言われた時、「それはやめましょう」と言えていたら。
いや、せめて黙ってその場を離れていれば。
俺の人生は違っていただろうか。
「おい田中! 手ェ止まってんぞ! 早くしろ!」
「は、はい! すみません!」
現場監督の怒号に、俺は慌てて体を動かす。
時給1200円。
腰は痛いし、将来の展望もない。
休憩時間、休憩室の隅でスマホを開く。
新しいアカウントで、ひっそりとネットを見ている。
もう書き込みはしない。見るだけだ。
トレンドに『プログレス・ゲート上場』の文字がある。
木島は、さらに遠くへ行ってしまった。
記事によると、彼は最近結婚したらしい。
相手は同じ大学の同級生で、共に戦ったパートナーだとか。
幸せそうな二人の写真。
俺は画面を閉じた。
羨む資格すらない。
俺にあるのは、深夜の倉庫の冷たい空気と、終わりのない後悔だけだ。
「……休憩終わりか」
俺は立ち上がった。
足が重い。
だが、歩くしかない。
これが、俺が自分で選んだ(あるいは、流されて選んでしまった)人生の続きなのだから。
倉庫の外に出ると、夜明け前の空が白み始めていた。
だが、俺の人生に夜明けが来ることは、もう二度とないのかもしれない。
デジタルタトゥーは、皮膚の下まで深く刻み込まれ、俺が死ぬまで、いや死んだ後も、俺が「愚か者」であったことを証明し続けるのだから。




