後日談 砕けたガラスの靴 ~「自慢の娘」が「裏切り者」になって帰ってきた日~
「ただいま」
重たい玄関のドアを開け、努めて明るい声を出す。
だが、返ってくるのは重苦しい沈黙だけだ。
以前なら、妻の恵子が出迎えてくれ、夕飯のいい匂いが漂っていた。
リビングからはバラエティ番組の音が聞こえ、帰省中の娘がいれば、賑やかな笑い声が家中に響いていたはずだ。
だが、今は違う。
廊下の電気は消され、薄暗い。
リビングのドアの向こうからは、忍び泣くような妻の声と、何かに怯えて叫ぶ娘の声が、微かに漏れ聞こえてくるだけだ。
私、一ノ瀬博は、革靴を脱ぎながら深いため息をついた。
これが、今の我が家の日常だ。
地獄、という言葉がこれほどしっくりくる場所もないだろう。
「……あなた、お帰りなさい」
リビングに入ると、妻が憔悴しきった顔で顔を上げた。
以前はふっくらとしていた頬がこけ、目尻のシワが深くなっている。
ダイニングテーブルには、手つかずの夕食がラップをかけられたまま置かれていた。
「由奈は?」
「……さっきまで暴れていたけど、やっと薬が効いて眠ったわ。今は部屋にいる」
「そうか……」
私はネクタイを緩め、ソファにどさりと座り込んだ。
体は鉛のように重い。会社での仕事の疲れではない。
会社にいれば、周囲の同僚たちが腫れ物に触るように接してくる視線に耐えなければならない。
「あの一ノ瀬さんの娘さんがねえ……」
「ネットで晒されてるらしいよ」
「彼氏を裏切って、間男に捨てられたんだって」
給湯室や喫煙所から聞こえてくるヒソヒソ話。
私が近づくと、ピタリと止む会話。
針のむしろとはこのことだ。だが、家に帰っても安らぎはない。
私は缶ビールを開けた。プシュッという音が、静寂の中で場違いに明るく響く。
苦い液体を流し込みながら、私は壁に掛かっている家族写真を見上げた。
三年前、娘の成人式で撮った写真だ。
鮮やかな赤色の振袖を着た由奈が、満面の笑みでピースサインをしている。
その隣には、少し緊張した面持ちの青年が写っている。
木島蓮くんだ。
誠実そうで、礼儀正しい好青年だった。
由奈が彼を連れてきた時、私は心底安心した。「ああ、この子なら娘を大切にしてくれるだろう」と。
理工学部で勉強に励み、将来有望なIT企業への就職も決まっていた彼。
娘も幸せそうだった。「蓮くん、すごく優しいの」と嬉しそうに話していた。
私たちは、二人がいずれ結婚し、孫の顔を見せてくれる未来を疑っていなかった。
それが、どうしてこうなってしまったのか。
* * *
あの日。
会社で部下が慌てた様子で私のデスクに来た時のことを、今でも鮮明に覚えている。
「か、課長……これ、娘さんじゃないですか?」
差し出されたスマホの画面。
そこには、見知らぬ男と腕を組み、派手なブランド物を身につけた由奈の写真があった。
そして、おびただしい数の罵詈雑言。
『彼氏を冤罪で追い込んで浮気とか、人間のクズ』
『この女の実家特定したw ××県の……』
『父親は××メーカー勤務の一ノ瀬博』
血の気が引いた。
すぐに娘に電話をしたが、繋がらない。
妻に連絡すると、妻は泣き乱れていた。「由奈から電話があって、もう死にたいって……」
私は急遽休暇を取り、妻と共に東京へ向かった。
新幹線の中、私たちは一言も話せなかった。ただ、悪い夢であってくれと祈るばかりだった。
娘が住んでいたアパート……いや、蓮くんと同棲していた部屋は、既にもぬけの殻だった。
彼女はそこを追い出され、一時的に避難していたウィークリーマンションにいた。
ドアを開けた瞬間、異臭が鼻をついた。
ゴミが散乱した部屋の隅で、由奈は膝を抱えて震えていた。
髪はボサボサで、肌は荒れ、かつての輝きは見る影もなかった。
「由奈!」
「……お父さん、お母さん……」
娘は私たちを見るなり、子供のように泣きじゃくった。
「ごめんなさい、ごめんなさい……私、知らなかったの。巧くんが騙してたなんて……蓮があんなことになるなんて……」
私たちは娘を抱きしめることしかできなかった。
怒りたい気持ちはあった。
「なぜ蓮くんを信じなかったんだ」「なぜあんな男についていったんだ」と問い詰めたいことは山ほどあった。
だが、目の前で壊れてしまった娘を前に、言葉が出なかった。
私たちは逃げるようにして、娘を実家に連れ帰った。
それが、終わりの始まりだった。
* * *
「……今日、近所の佐藤さんに会ったの」
妻がポツリと言った。
私はビールの缶を握りしめたまま、無言で先を促した。
「ゴミ出しの時によ。いつもなら立ち話をするのに、今日は目を逸らして、小走りで去っていったわ。……きっと、知れ渡っているのよ。ネットの情報なんて、すぐに広まるもの」
「……気にするな。そのうち収まる」
「収まらないわよ! ネットには一生残るんでしょ!? 『デジタルタトゥー』って言うんでしょ!?」
妻がヒステリックに叫んだ。
私は何も言い返せなかった。
その通りだ。
由奈の名前で検索すれば、今でも大量のまとめサイトや動画が出てくる。
『【胸糞】冤罪で彼氏を捨てた女の末路』
『佐伯巧と一ノ瀬由奈、因果応報の現在』
そこには、由奈が佐伯という男に送った裏切りのメッセージや、佐伯が撮影した情事の動画のスクリーンショットまでもが、永遠に消えない汚点として刻まれている。
近所の噂好きの連中が、それを見ていないはずがない。
「あそこの娘さん、東京で乱れた生活をしてたらしいわよ」
「親の顔が見てみたいわね」
そんな陰口が聞こえてくるようだ。
ガタン、と二階から物音がした。
由奈が起きたのかもしれない。
私は重い腰を上げ、階段を上った。
娘の部屋の前まで行くと、中からブツブツと独り言が聞こえてくる。
「……違う、私は悪くない……巧くんが、蓮が浮気してるって言ったから……みんながそう言ってたから……」
「……蓮、助けてよ……なんで来てくれないの……?」
ドアを少しだけ開けて覗く。
真っ暗な部屋の中で、由奈はスマホの画面を凝視していた。
電源は入っていないはずだ。ネットを見れば精神が崩壊するからと、私たちが取り上げたのだから。
だが、彼女は真っ黒な画面を指でなぞりながら、虚空に向かって話しかけている。
「由奈」
声をかけると、彼女はビクリと肩を震わせ、振り返った。
その目は虚ろで、焦点が合っていない。
「あ、お父さん。……ねえ、蓮から連絡あった? もうすぐ迎えに来てくれるよね? 私、ちゃんと待ってるのに」
胸が締め付けられるような痛みを感じた。
彼女の時間は、あの日で止まっているのだ。
いや、自分の都合のいいように記憶を改変しているのかもしれない。
自分が裏切ったという事実を受け入れられず、「蓮とはまだ付き合っていて、ちょっと喧嘩しているだけ」という妄想の中に逃げ込んでいる。
「……由奈。蓮くんは、もう来ないよ」
私は心を鬼にして言った。
現実を突きつけなければ、彼女は前に進めない。
「え……? なんで? 私、謝ったよ? 巧くんとは別れたし、もう蓮だけだよって……」
「そういう問題じゃないんだ。お前がしたことは、取り返しがつかないことなんだ」
「嫌だ! 嫌だ嫌だ! 蓮に会いたい! 蓮じゃなきゃ嫌だ!」
由奈は叫び出し、枕を投げつけた。
「お父さんが止めてるんでしょ! 蓮に会わせてよ! 私は被害者なの! 騙されてただけなの! なんで私がこんな目に遭わなきゃいけないの!」
被害者。
確かに、彼女は佐伯という男に騙されたのかもしれない。
だが、蓮くんからすれば、彼女は紛れもない加害者だ。
最も辛い時に背を向け、敵の男の腕の中に逃げ込んだ裏切り者だ。
その罪の重さを、彼女はまだ理解できていない。
いや、理解したら心が壊れてしまうから、必死に拒絶しているのだろう。
「落ち着きなさい!」
私は娘の肩を掴んで揺さぶった。
「いい加減にしなさい! お前のせいで、蓮くんがどれだけ傷ついたと思ってるんだ! お前が信じなかったから、彼は一人で戦うしかなかったんだぞ!」
私の怒鳴り声に、由奈は呆然とし、そして糸が切れたように泣き崩れた。
「……うあああああ……ごめんなさい……ごめんなさい……」
私は娘を抱きしめた。
痩せ細った体。
かつては希望に満ち溢れていたこの子が、どうしてこんな怪物のような姿になってしまったのか。
私の育て方が間違っていたのか。
「みんなと仲良くしなさい」「空気を読みなさい」と教えすぎたせいで、自分の意思を持てず、同調圧力に流される弱い人間に育ってしまったのか。
* * *
翌日。
私は意を決して、ある場所に電話をかけた。
木島蓮くんの、かつての携帯番号だ。
繋がらないことは分かっていた。彼はとっくに番号を変えているだろう。
「おかけになった電話番号は……」
無機質なアナウンスを聞きながら、私はどこかでホッとしている自分に気づき、自己嫌悪に陥った。
もし繋がっていたら、私は彼に何を言うつもりだったのか。
「娘を許してやってくれ」?
「一度だけでいいから会ってやってくれ」?
そんな虫のいい話があるわけがない。
私はただ、親としての責任を果たしたというアリバイが欲しかっただけなのかもしれない。
夕方、テレビをつけていると、ニュース番組である特集が流れた。
『世界が注目する若きセキュリティエンジニアたち』
何気なく見ていた私の目が釘付けになった。
画面の中に、凛々しいスーツ姿の青年が映っていたからだ。
木島蓮くんだ。
彼は、大手IT企業「プログレス・ゲート」のチームリーダーとしてインタビューに答えていた。
『――現代社会において、情報の信頼性は命です。悪意あるデマや改ざんから人々を守る、それが僕たちの使命だと思っています』
彼の表情は自信に満ちており、昔私が知っていた素朴な青年とは違う、頼もしい大人の男の顔をしていた。
そして、その隣には、眼鏡をかけた知的な女性が並んでいた。
彼女もまた、彼と同じチームのエンジニアらしく、二人は時折顔を見合わせて信頼し合っている様子を見せていた。
「……立派になったな」
自然と呟いていた。
彼が成功したことは嬉しい。本当に嬉しい。
だが同時に、言いようのない喪失感が胸を襲った。
もし、由奈があんな過ちを犯さなければ。
今頃、あの画面の隣……いや、彼を支えるパートナーとして、由奈がいたかもしれないのだ。
「お父さん、蓮がテレビに出るんだって!」とはしゃぐ娘の声が聞こえたかもしれないのだ。
「……あら、これ……」
買い物から帰ってきた妻が、テレビを見て立ち尽くした。
彼女の手からスーパーの袋が滑り落ちる。
画面の中の輝かしい蓮くんと、二階の暗い部屋でうずくまっている娘。
その残酷すぎる対比に、妻は顔を覆って泣き出した。
「私たち、本当に馬鹿だったわね……あんなにいい子を……」
「ああ……逃した魚は大きかった、なんて言葉じゃ済まされないな」
その時、二階からドタドタという足音が聞こえた。
由奈だ。
彼女はリビングに駆け込んでくると、テレビの画面に食い入るように見入った。
「蓮……? 蓮だよね?」
彼女の手が震え、画面に触れようとする。
「すごい……やっぱり蓮はすごいよ……かっこいい……」
彼女の顔に、一瞬だけ生気が戻ったように見えた。
「ねえお父さん! 私、やっぱり東京に行く! 蓮に会いに行く! 謝ればきっと分かってくれるよ! だって私たちが付き合ってた二年間の思い出は消えないもん! 蓮だって待ってるはずだよ!」
彼女の目は異様に輝いていた。
それは希望の光ではなく、狂気の光だった。
彼女には見えていないのだ。蓮くんの隣にいる、あの聡明な女性の姿が。
そして、蓮くんが語る「信頼」という言葉の中に、もう由奈の居場所が一片も残されていないことが。
「やめなさい、由奈」
私は娘の腕を掴んだ。
「お前が行っても、彼は会ってくれない。いや、会ってはいけないんだ。彼にはもう、新しい人生があるんだ」
「離してよ! お父さんに何が分かるのよ! 私と蓮は運命で繋がってるの!」
由奈が暴れる。
その拍子に、テーブルの上のコップが床に落ちて割れた。
ガシャーン!
鋭い音が響き渡り、破片が飛び散る。
まるで、私たちの家族の姿そのものだ。
一度砕け散ったガラスは、どんなに丁寧に集めても、もう元の形には戻らない。
「いい加減にしなさい!!」
私が怒鳴ると、由奈は動きを止め、ハッとしたように割れたコップを見つめた。
そして、自分の足元に散らばる破片を見て、糸が切れたように崩れ落ちた。
「……ああ……ああっ……」
彼女は破片を拾おうとして、指先を切った。
赤い血が滲む。
「痛い……痛いよぉ……蓮、助けて……」
彼女は血のついた指を口に含み、幼児のように泣きじゃくった。
妻が慌てて駆け寄り、娘を抱きしめる。
「ごめんね、由奈……痛いね、可哀想に……」
二人の泣き声が響くリビング。
テレビの中では、蓮くんがアナウンサーに「今後の目標は?」と聞かれ、爽やかに答えていた。
『過去のバグにとらわれず、常に未来へアップデートしていくことです』
過去のバグ。
それは、間違いなく由奈のことだろう。
彼はもう、バグを修正し、システムを正常化して、遥か先へと進んでいってしまった。
取り残されたのは、バグとして排除された娘と、それを抱えて生きていかなければならない私たちだけだ。
* * *
それから数ヶ月が経った。
由奈はまだ、実家の部屋から出られないままだ。
少しずつ落ち着きは取り戻し、暴れることはなくなったが、一日中窓の外をぼんやりと眺めて過ごしている。
「いつか蓮が迎えに来てくれる」という妄想は消えたようだが、その代わりに「自分は汚れている」という強迫観念に囚われ、一日に何度もシャワーを浴びるようになった。
私は定年まであと数年、会社にしがみついている。
出世コースからは完全に外れたし、周囲の視線も相変わらず冷たい。
それでも働かなければならない。
精神を病んだ娘を抱え、妻と二人で支えていくためには、金が必要だ。
かつて夢見ていた「娘が結婚して、孫と遊ぶ優雅な老後」は、永遠に失われた。
これからは、贖罪のような日々が続くだけだ。
夜、私は縁側で一人、酒を飲んでいた。
庭の桜の木は、今年も綺麗な花を咲かせたが、誰も愛でる者はいない。
ふと、娘の部屋を見上げる。
カーテンの隙間から、漏れる明かり。
もし、あの日。
娘が「みんなが言っているから」という空気に流されず、自分の目で彼を見つめていれば。
もし、私たちがもっと娘に「自分で考える強さ」を教えていれば。
いくつもの「もし」が頭をよぎり、夜風に溶けていく。
「……信じることの重さ、か」
蓮くんが最後に娘に言ったという言葉を思い出す。
信じることは難しい。
特に、周りの全員が敵になり、証拠らしきものが突きつけられた状況では。
だが、それでも信じ抜くことが「愛」だったのだ。
娘はその試練に耐えられず、ガラスの靴を自ら割り、王子様の手を振り払ってしまった。
だから、魔法は解けた。
いや、魔法など最初からなかったのだ。
あるのは、冷徹なまでの因果と、積み重ねたログ(事実)だけ。
私は残りの酒を飲み干した。
苦い。
だが、この苦さを噛み締めて生きていくのが、親としての私の責任なのだろう。
娘がいつか、自分の足で立ち上がり、割れたガラスの上を血を流しながらでも歩き出せる日が来るまで。
私はこの壊れた家を守り続けるしかないのだ。
夜空には、皮肉なほど美しい満月が輝いていた。
その光は、成功者となった彼をも、地獄に落ちた娘をも、等しく照らしている。
ただ、その光の下で歩む道は、もう二度と交わることはない。




