第六話 システム・リブート
季節は巡り、キャンパスの桜並木が淡いピンク色に染まり始めていた。
あの日、凍てつくような寒さの中で行われた断罪劇から、一ヶ月あまりが経過していた。
俺、木島蓮は、理工学部の研究室で荷造りをしていた。
ダンボールに詰め込まれていく専門書や資料の山。それらは、俺がこの四年間で積み上げてきた知識の結晶であり、苦い思い出と共に歩んできた証でもあった。
「手伝おうか、木島くん」
背後から声をかけられ、振り返ると、星野舞が立っていた。
彼女もまた、自分の荷物を整理し終えたところらしく、手には小さな観葉植物の鉢を持っていた。
「ありがとう。でも、もう大体終わったよ。星野さんこそ、その鉢植え、持っていくの?」
「うん。サボテン。研究室の隅でずっと私のコードを見守っててくれたからね。新しいオフィスにも連れて行くつもり」
舞は愛おしそうにサボテンの棘を指先でつついた。
俺たちは共に大学を卒業し、四月からは同じ職場、プログレス・ゲートで働くことになる。
あの騒動の後、俺の内定保留は正式に解除されただけでなく、舞もその類稀なる技術力を買われ、特別枠での採用が決まったのだ。
俺たちが協力して作成した佐伯巧に関する調査レポートと、それを裏付ける技術的な解析データが、人事部だけでなく技術部門のトップの目にも留まったらしい。
『毒をもって毒を制す、ではないですが、悪意あるハッカーに対抗できるのは、それ以上の技術と倫理観を持つエンジニアだけです』
最終面接で技術部長にそう言われた時、俺は隣に座る舞と顔を見合わせ、小さくガッツポーズをしたものだ。
「……静かだね」
舞が窓の外を見つめながら呟いた。
「ああ。嵐が過ぎ去ったあとみたいだ」
キャンパスは春休み中で、学生の姿はまばらだ。
だが、この静寂は単に人が少ないからだけではないだろう。
あの一件以来、大学の空気は一変した。
派手な飲み会やウェイ系のサークル活動は鳴りを潜め、学生たちの間には「デジタルタトゥー」への恐怖と、慎重さが植え付けられた。
軽はずみな投稿、根拠のない噂話の拡散。それらが一人の人間の人生を狂わせ、そしてブーメランのように自分自身に返ってくることを、彼らは目の当たりにしたからだ。
「佐伯、どうなったか知ってる?」
俺が尋ねると、舞は少しだけ表情を曇らせ、タブレットを取り出した。
「知りたい? 結構、悲惨だよ」
「……ああ。一応、知っておきたい。俺の過去を清算するためにも」
舞が見せてくれたニュースサイトの記事と、掲示板のまとめスレッド。
そこには、かつて「大学の王子様」気取りだった男の、見るも無残な末路が記されていた。
* * *
佐伯巧の転落は、ジェットコースターのように急激で、そして止まることを知らなかった。
サークル総会での騒動の後、大学側は直ちに調査委員会を設置。
俺が提示した証拠データに加え、舞が匿名で提供した追加ログ、そして被害者である女子学生たちの証言により、佐伯の悪行は白日の下に晒された。
サークル費の横領、違法薬物の売買疑惑(これは未遂だったようだが)、盗撮、恐喝、名誉毀損。
その余罪の多さに、大学側も庇いきれず、即時の退学処分が決定した。
だが、本当の地獄はそこからだった。
ネット上では「特定班」と呼ばれる有志たちによって、佐伯の実家や家族構成までもが丸裸にされた。
父親は地方の名士で、手広く建設業を営んでいたようだが、息子の不祥事が拡散されたことで会社への抗議電話が殺到。取引先からの契約解除が相次ぎ、経営危機に陥っているという。
激怒した父親は、留置所にいる佐伯に面会にも行かず、弁護士を通じて「絶縁」を言い渡したそうだ。
「『息子とは縁を切る。二度と敷居を跨ぐな』だって」
舞が淡々と読み上げる。
「保釈金も払われなかったから、彼はしばらく勾留されたまま。示談金も用意できないから、被害者たちからの民事訴訟で多額の賠償金を背負うことになるね」
記事には、連行される際に顔を隠す佐伯の写真が掲載されていた。
かつて高級ブランドで着飾り、他者を見下していた男の面影はない。
髪はボサボサで、着ている服は薄汚れたスウェット。
ネットのコメント欄には辛辣な言葉が並ぶ。
『親ガチャ当たりだったのに、自らハズレ枠に転落するとか草』
『一生ネットの晒し者として生きていけ』
『ざまぁwww 因果応報って本当にあるんだな』
そして、彼に加担していたサークルメンバーたちも無事では済まなかった。
俺へのいじめを先導し、偽証した主要メンバー数名。
彼らの実名と顔写真もまた、ネットの海に放流された。
内定が決まっていた大手商社やメーカーには、彼らの過去の言動に関する「通報」が大量に届いたという。
企業側もリスク管理の観点から、内定取り消しや、自主的な辞退を促す措置を取らざるを得なかった。
「若気の至り」では済まされない代償。
彼らは履歴書に書けない空白の期間と、検索すればすぐに出てくる悪評を背負って、厳しい就職氷河期を彷徨うことになるだろう。
「……自業自得、か」
俺は呟いた。同情は湧かなかった。
彼らが俺にしたことは、遊び半分で人の魂を殺すような行為だった。
その報いを受けただけだ。
「あと、一ノ瀬さんだけど……」
舞が指をスライドさせ、別のページを表示しようとした。
俺は一瞬だけ躊躇ったが、小さく頷いた。
「見せてくれ」
そこには、彼女のSNSアカウントの魚拓や、知人と思われる人物の書き込みがあった。
一ノ瀬由奈。
俺がかつて愛し、共に未来を誓った女性。
彼女は今、大学を休学し、実家のある地方の病院に入院しているらしい。
総会での真実発覚後、彼女は精神のバランスを完全に崩してしまった。
佐伯に騙されていたというショック、自分自身の裏切りに対する罪悪感、そして周囲からの冷ややかな視線とバッシング。
それらが彼女の脆い心を粉々に砕いたのだ。
噂によれば、彼女は一日中部屋のカーテンを閉め切り、スマホの電源を入れることすら怯えているという。
「通知音が怖い」「誰かに監視されている気がする」と錯乱し、食事も喉を通らない状態が続いているそうだ。
『由奈ちゃん、完全に壊れちゃったみたい』
『自業自得だけど、ちょっと可哀想かも』
『いやいや、彼氏が一番辛い時に浮気した女だぞ? 同情の余地なし』
掲示板の意見は厳しい。
俺は目を閉じた。
脳裏に、かつての由奈の笑顔が浮かぶ。
「蓮なら大丈夫だよ」と励ましてくれた、優しい笑顔。
あの笑顔は嘘ではなかったはずだ。
だが、彼女の弱さが、その笑顔を歪め、そして俺たち二人を地獄へと引きずり込んだ。
もし、あの時彼女が俺を信じてくれていれば。
もし、俺がもっと彼女の不安に寄り添えていれば。
そんな「たられば」を考えても、もう意味はない。
バックアップデータのない現実世界では、クラッシュした関係を復元することはできないのだ。
彼女はこれから長い時間をかけて、自分自身の罪と向き合い、壊れた心を修復していくしかない。
それが彼女に課せられた罰であり、再生への唯一の道なのだから。
「……行こうか」
俺はタブレットを舞に返した。
もう十分だ。過去のログは確認した。
これ以上、振り返る必要はない。
「うん。行こう」
舞が微笑み、サボテンの鉢を抱え直した。
俺たちは研究室の鍵を閉め、誰もいない廊下を歩き出した。
靴音がコツコツと響く。その音は、以前よりも力強く、前向きなリズムを刻んでいた。
* * *
そして、時は流れた。
五年後。
都心の高層オフィスビルの一角。
「プログレス・ゲート」の最先端セキュリティ開発部門のフロアは、今日も静かな熱気に包まれていた。
俺、木島蓮は、プロジェクトマネージャーとしてチームを指揮していた。
入社以来、俺と舞が開発に関わったセキュリティシステム「Aegis」は、業界標準となるほどの高い評価を受け、多くの企業のデータを守っていた。
「木島チーフ、例の攻撃パターンの解析終わりました。やはり海外のサーバーを経由したDDoS攻撃です」
部下の報告に、俺は頷く。
「了解。トラフィックの遮断と、発信元の特定を急いで。ログの保存も忘れずに」
「はい!」
指示を出し終え、一息つこうとコーヒーメーカーに向かうと、そこには先客がいた。
ショートボブから少し髪が伸び、大人びた雰囲気になった星野舞だ。
彼女はシニアエンジニアとして、俺の右腕……いや、それ以上のパートナーとして活躍している。
「お疲れ様、蓮。眉間のシワ、深くなってるよ」
彼女は手渡されたコーヒーを受け取りながら、悪戯っぽく笑った。
社内では「木島チーフ」「星野さん」と呼び合っているが、二人きりの時は昔のままだ。
いや、昔以上に近い距離感になっている。
「舞こそ、昨日は遅くまで残業してただろ? 無理するなよ」
「平気だよ。バグを見つけると、どうしても潰したくなっちゃう性分だから」
「相変わらずだな」
俺たちは顔を見合わせて笑った。
この五年間、俺たちは共に走り続けてきた。
仕事だけでなく、プライベートでも。
休日は一緒に新しいガジェットを見に行ったり、映画を見たり、時には互いの家で料理を作ったり。
特別な言葉を交わしたわけではないが、自然と寄り添い、支え合う関係になっていた。
かつての俺が由奈との間に感じていた、どこか不安で、相手の顔色を窺うような関係とは違う。
論理と信頼で結ばれた、強固で安定したリンク。
舞となら、どんなトラブルもバグも、二人で解決していける。そう確信できる関係だ。
「ねえ、蓮。今度の週末、空いてる?」
舞がふと、真面目な顔で尋ねてきた。
「ああ、空いてるけど。どうかした?」
「……指輪、見に行かない?」
「えっ」
俺は持っていた紙コップを取り落としそうになった。
舞は少し頬を赤らめ、視線を逸らしながら続けた。
「その……そろそろ、次のフェーズに移行してもいい頃かなって。プロジェクトも一段落したし、私たちも『バージョンアップ』が必要じゃない?」
エンジニアらしい、少し遠回しな言い方。
でも、その意味は痛いほど伝わってきた。
俺の心臓が、かつてないほどの早さで鼓動を打つ。
俺はずっと待っていたのかもしれない。
過去の傷が癒え、自分自身に自信が持てるようになるその時を。
そして今、目の前には、俺の全てを受け入れ、共に歩んでくれる最高のパートナーがいる。
「……うん。行こう」
俺は舞の手を取り、しっかりと握りしめた。
「俺も、同じことを考えてた。舞と一緒に、新しい人生のログを刻んでいきたい」
舞がパッと顔を輝かせ、満面の笑みを浮かべた。
「言質とったよ! もうキャンセル不可だからね!」
「ああ、望むところだ」
オフィスの窓から見える空は、あの日の卒業式と同じように澄み渡っていた。
俺の人生は一度、理不尽なエラーによって強制終了しかけた。
信じていたものが崩れ去り、絶望の底を見た。
だが、そこから再起動し、バグを修正し、より強固なシステムとして生まれ変わることができた。
それは一人では不可能だった。
舞という理解者、そして技術という武器があったからこそだ。
* * *
その日の夜。
俺は自宅の書斎で、一冊の古いノートを開いていた。
それは大学時代、まだ何も知らずに由奈と付き合っていた頃の日記だ。
読み返すと、当時の自分の甘さや、盲目的な愛情が記されていて、少し恥ずかしくなる。
だが、不思議と嫌な気持ちはしなかった。
これもまた、俺という人間を形成する重要なデータの一部なのだ。
『人は裏切る。でも、ログは嘘をつかない』
かつて俺はそう思い、心を閉ざしかけた。
だが今は違う。
『ログは嘘をつかない。だからこそ、信じられる人と積み重ねるログは、何よりも尊い真実になる』
ふと、スマホの通知が鳴った。
舞からのMINEだ。
『来週のブライダルフェア、予約完了! (`・ω・´)b』
可愛らしい顔文字付きのメッセージ。
俺は自然と頬が緩むのを感じながら、返信を打った。
『了解。楽しみにしてる』
その時、ふとニュースアプリの通知が目に入った。
『地方都市で孤独死増加、20代の若者も』
記事の内容を詳しく読むことはしなかったが、なんとなく、胸の奥がチクリとした。
由奈が今どうしているのか、俺は知らない。
風の噂では、彼女はまだ社会復帰できず、実家でひっそりと暮らしているらしい。
もしかしたら、一生癒えない傷を抱えて生きていくのかもしれない。
だが、それは彼女が選んだ道の先にある景色だ。
俺が関与できる領域ではない。
俺にできるのは、今ある幸せを大切にし、舞と共に前へ進むことだけだ。
PCの画面には、俺と舞が開発中の新しいセキュリティソフトのコードが表示されている。
そのコードネームは『Phoenix』。
不死鳥。灰の中から蘇る再生の象徴。
俺たちの物語にふさわしい名前だ。
俺はキーボードに指を走らせた。
軽快な打鍵音が、夜の静寂に心地よく響く。
過去の傷は消えない。デジタルタトゥーも、完全には消せないかもしれない。
だが、それを上書きするほどの、圧倒的な「幸福なログ」を、これから一生かけて積み上げていけばいい。
「さて、やるか」
俺はエンターキーを強く叩いた。
コンパイルが通り、エラーなしの表示が出る。
全ては正常。
俺の、そして俺たちの未来は、ここからまた新しく記述されていくのだ。




