第二話 拡散される悪意、断絶のリンク
スマートフォンのバイブレーションが、まるでドリルで脳を直接削られているかのように鳴り止まない。
ブブブ、ブブブ、ブブブ。
枕元のサイドテーブルに置かれた端末が、短い間隔で震え続けている。それは通知音という生易しいものではなく、俺、木島蓮という存在を社会的に抹殺しようとする悪意の鼓動そのものだった。
昨日の大学での騒動から一夜が明けた。だが、悪夢は覚めるどころか、その深淵をさらに広げていた。
俺は重たい体を起こし、恐る恐る画面をタップする。
Twotterの通知数は、もはやカウント不能なほど膨れ上がっていた。
『ここが性獣・木島蓮の自宅か』
『特定完了。住所は××区……アパート名は「メゾン・ド・エスポワール」203号室』
『彼女と同棲してる部屋に連れ込んだとかマジ?』
『近所なんで凸ってきますw』
血の気が引く音が聞こえた気がした。
住所が晒されている。しかも、アパート名や部屋番号まで正確に。
俺が理工学部の研究室にこもって論文を書いていた時間や、由奈とスーパーで買い物をしていた日常の風景さえも、盗撮された画像と共に「次の獲物を物色中」「DV男の日常」といったおぞましいキャプションをつけて拡散されていた。
情報の拡散速度は、ウイルスのパンデミックを遥かに凌駕していた。
「正義」という名の皮を被った匿名のアカウントたちが、面白半分に、あるいは歪んだ使命感に駆られて、俺という一個人に石を投げつけてくる。
俺はカーテンの隙間から、そっと外の様子を窺った。
アパートの前の電柱の陰に、スマホを構えた数人の人影が見える。彼らはニヤニヤと笑いながら、こちらの窓にカメラを向けていた。
「……ふざけるなよ」
恐怖と怒りが入り混じった乾いた声が漏れる。
ここはもう、安全な場所ではない。
由奈は昨夜、実家に帰ると言って出て行ったきりだ。彼女を巻き込まなくてよかったという安堵と、一人取り残された孤独感が胸を締め付ける。
その時、インターホンが鳴った。
ピンポーン、ピンポーン、ピンポーン。
執拗な連打。モニターを覗くと、配達業者を装ったマスク姿の男が、中指を立てて立っているのが見えた。
俺は息を殺し、男が立ち去るのをじっと待つしかなかった。ドアの向こうから、ガシャッという何かがぶつかる音と、「死ね!」という罵声が聞こえた。
部屋の隅で膝を抱えながら、俺は唯一の希望である内定先、プログレス・ゲートのウェブサイトをスマホで開いた。
日本を代表するIT企業。実力主義で、公正な評価をしてくれるはずの場所。
彼らなら、こんなネット上のデマに踊らされたりしないはずだ。俺の提出したポートフォリオや、面接で語り合った技術への情熱を信じてくれるはずだ。
そう信じ込もうとした矢先、着信画面が切り替わった。
表示された名前は『プログレス・ゲート 人事部・相沢』。
心臓が跳ね上がる。震える指で通話ボタンをスライドさせた。
「……はい、木島です」
『お世話になっております、プログレス・ゲート人事部の相沢です。木島さん、今お時間はよろしいでしょうか』
相沢さんの声は、最終面接の時に見せてくれたような温かみのあるものではなく、氷のように冷たく事務的だった。
「はい、大丈夫です。あの、ネットの騒ぎについては、完全に事実無根で……」
『その件についてご連絡しました。木島さん、現在SNSを中心に拡散されている貴殿に関する情報について、当社としても看過できない状況となっております』
「待ってください! あれは全部捏造なんです。写真は加工されたもので、証言も嘘なんです! 僕はやっていません!」
俺は必死に食い下がった。声が裏返り、惨めなほど震えているのが自分でも分かった。だが、電話の向こうの相沢さんは、淡々とマニュアル通りの言葉を紡ぐだけだった。
『真偽のほどは警察や大学側の調査を待つ必要がありますが、当社のコンプライアンス規定に照らし合わせ、内定者としての適性に疑義が生じていることは否めません』
「そ、そんな……」
『つきましては、事態が収束し、木島さんの潔白が法的に証明されるまでの間、内定を「保留」とさせていただきます。また、今後の状況次第では、内定取り消しの可能性もございますので、あらかじめご了承ください』
保留。それは実質的な戦力外通告に等しかった。
IT業界は情報の正しさを何より重視する。ネットタトゥーとして刻まれた「性犯罪者予備軍」というレッテルは、俺のエンジニアとしてのキャリアにとって致命的なバグだ。
『では、失礼いたします』
プツン。
通話が切れる音が、俺の未来が断ち切られる音のように響いた。
スマホを取り落とし、フローリングの床に突っ伏す。
努力して手に入れた内定。由奈との未来を描くためのチケット。それが、指の隙間から砂のようにこぼれ落ちていく。
「なんでだよ……なんで俺なんだよ……!」
拳で床を叩く。痛みなど感じなかった。
ただ、理不尽な悪意に押しつぶされそうな無力感だけがあった。
* * *
同じ頃。
都心の一等地に聳え立つ高級タワーマンションの一室。
眼下に広がる夜景は、木島蓮のアパートから見える景色とは比べ物にならないほど煌びやかだった。
間接照明に照らされたリビングのソファに、一ノ瀬由奈は座っていた。
その手には高級なワイングラスが握られているが、彼女の指先は小刻みに震えている。
「まだ震えてるの? 由奈ちゃん」
優雅な手つきでボトルを傾け、グラスに赤ワインを注ぎ足したのは、佐伯巧だった。
シルクの部屋着を身に纏い、その整った顔立ちには余裕の笑みが浮かんでいる。
「……ごめん。まだ、ちょっと怖くて」
「無理もないよ。あんな騒ぎになったんだから。実家に帰らなくて正解だったね。実家も特定されるかもしれないし、僕のここならセキュリティは万全だから」
佐伯はソファに腰を下ろし、自然な動作で由奈の肩に腕を回した。
由奈は一瞬だけ体を強張らせたが、拒むことはしなかった。
彼女の心は今、恐怖と混乱で極限まで疲弊していた。
「蓮……どうしてるかな」
ふと漏らした言葉に、佐伯の目が鋭く細められたが、声色は変わらず甘いままだった。
「まだあいつのこと気にしてるの? 優しいね、由奈ちゃんは。あんな裏切り者に」
「で、でも、蓮は『やってない』って……」
「往生際が悪いだけだよ。証拠写真は見たでしょ? それに、プログレス・ゲートの人事とも繋がりのある先輩から聞いたけど、あいつ、もう内定取り消し寸前らしいよ」
内定取り消し。
その言葉の重みに、由奈の顔色が一層青ざめた。
大手企業への就職は、二人の将来を支える柱だった。それが折れた今、蓮には何が残るというのか。
社会的に抹殺され、犯罪者扱いされている男。
そんな彼と一緒にいて、自分は幸せになれるのか。
周りの友人たちから、親から、どう思われるのか。
「あいつと一緒にいたら、由奈ちゃんまで不幸になる。ネットの連中は残酷だよ。君の就職先にも凸撃するかもしれない」
「いや……そんなの嫌……!」
「だよね。だから、僕が守ってあげる。僕なら、君を絶対に傷つけたりしない。君の友達も、就職も、未来も、全部守れる」
佐伯の囁きは、甘美な毒のように由奈の心の隙間に浸透していく。
孤立を恐れる彼女にとって、「みんなから認められている」佐伯という存在は、あまりにも眩しく、頼もしく見えた。
佐伯の手が、由奈のブラウスのボタンに触れる。
「……佐伯、くん」
「巧って呼んで。……ねえ、忘れさせてあげるよ。あんなクズのこと」
佐伯の顔が近づき、その唇が由奈の唇を塞いだ。
蓮とのキスとは違う、強引で、どこか支配的なキス。
だが、その強引さが、今の由奈には「強さ」に感じられた。思考を停止させ、ただ流されることの安楽さに、彼女は逃げ込んだのだ。
彼女は抵抗する力を失い、その身を佐伯に預けた。
窓の外の夜景が滲んでいく。
それは、彼女の中で何かが決定的に壊れ、変わってしまった瞬間だった。
* * *
夜が深まり、日付が変わろうとする頃。
アパートの暗い部屋で膝を抱えていた俺のスマホが、短く震えた。
『MINE』の通知音。
発信者は、由奈だった。
跳ね起きるようにして画面を見る。
ブロックされていなかったのか。もしかして、信じてくれたのか。
一縷の望みを抱いて、メッセージを開く。
そこには、俺の心を粉々に打ち砕く言葉が並んでいた。
『ごめんね。いろいろ考えたんだけど、もう蓮とは一緒にいられない』
『写真のことも、サークルのみんなの話も、どうしても信じられないの。火のない所に煙は立たないと思う』
『私、ちゃんと就職したいし、親にも心配かけたくないから』
『荷物は後で送ってもらうように手配するね。今までありがとう。さようなら』
文字だけの、冷淡な別れの言葉。
電話ですらない。会って話すことすら拒絶された。
二年間の思い出が、笑顔が、約束が、たった数行のテキストデータに変換されて消去された。
指先から力が抜け、スマホが滑り落ちそうになる。
「……嘘だろ、由奈」
画面をスクロールしても、「嘘だよ」というメッセージは来ない。
代わりに、由奈のアイコンが変わっていた。
今までは俺と二人で撮った風景写真だったのに、真っ黒な背景に『Re:Start』という文字が書かれた画像になっていた。
リスタート。
俺を切り捨てて、新しく始めるということか。
絶望に打ちひしがれる俺の目に、新たな通知が飛び込んできた。
TwotterのDM。
送り主は、捨てアカウントのような無意味な英数字の羅列。
だが、添付されていた画像を見た瞬間、全身の血液が逆流した。
それは、今の由奈の写真だった。
背景に見えるのは高級そうな部屋のカーテンと夜景。
バスローブ姿の由奈が、グラスを持って眠るように目を閉じている。その首筋には、生々しい赤い痕が残されていた。
そして、その横に添えられた男の手が、Vサインを作っている。
その男の腕には、見覚えのある高級腕時計が巻かれていた。
佐伯巧が自慢していた、海外限定モデルの時計だ。
メッセージ本文には、たった一言。
『残念だったな。お前の席、もう埋まったわ』
「ああ……ああああああっ!!」
声にならない慟哭が喉からほとばしった。
理解したくない現実が、脳髄に直接焼き付けられる。
由奈は、俺を信じなかっただけではない。
俺を陥れた張本人である佐伯の腕の中に逃げ込み、あろうことか関係を持ったのだ。
俺が社会的信用を失い、内定を保留され、部屋で一人震えているまさにその瞬間に、彼女は俺をあざ笑う男に抱かれていたのだ。
スマホを壁に投げつけたい衝動に駆られたが、ギリギリで踏みとどまる。
画面の中で、佐伯のVサインが俺を嘲笑い続けている。
その画像が、俺の中で何かのスイッチを切り替えた。
悲しみや未練という感情が、急速に冷却されていく。
代わりに湧き上がってきたのは、氷のように冷たく、鋭利な殺意に近い決意だった。
こいつらは、人間じゃない。
人の心を弄び、人生を破壊することをゲームのように楽しむバグだ。
そして、そんなバグに流され、安易な快楽と保身を選んだ由奈もまた、俺が愛した女性ではない。ただのエラーデータに過ぎない。
「……上等だよ」
俺は床に散らばっていたコンビニの袋を蹴り飛ばし、部屋の隅にあるデスクに向かった。
埃をかぶっていたハイスペックPCの電源を入れる。
ファンの回転音が、静まり返った部屋に響き渡る。
モニターの青白い光が、俺の顔を照らし出した。鏡に映った自分の顔は、酷くやつれていたが、その瞳だけは異様な光を宿していた。
泣くのは終わりだ。
弁明も、嘆願も、もうしない。
俺には、俺のやり方がある。
「佐伯、由奈……お前らが消したと思っている俺の『潔白』、そしてお前らが隠している『罪』。全部、ログに残ってるんだよ」
キーボードに指を置く。
カタカタカタ、と軽快な音がリズムを刻み始める。
ネットの海は広大だ。しかし、どんなに深く潜っても、デジタルな足跡は決して消えない。
俺は情報工学科のエースと呼ばれた男だ。
Twotterの裏アカウント、MINEの送受信履歴、位置情報、画像のメタデータ。
あらゆる手段を使って、奴らの化けの皮を剥いでやる。
これは復讐ではない。
システムを正常化するための、大規模なデバッグ作業だ。
俺はPCの画面に、佐伯のアカウント情報を入力し、解析プログラムを走らせた。
エンターキーを叩く音が、宣戦布告の銃声のように夜の闇に響いた。




