後日談 色褪せたリボンの墓標 ~「悲劇のヒロイン」になれなかった女の独白~
カーテンの隙間から差し込む細い光が、埃の舞う部屋を一直線に切り裂いている。
私は布団を頭まで被り、その光から逃げるように体を小さく丸めた。
朝が来たのだ。
世界中の人々が活動を始め、希望や目標に向かって歩き出す時間。
けれど、私、一ノ瀬由奈にとって、朝は絶望のサイレンでしかない。
今日もまた、何も変わらない、救いのない一日が始まることを告げる合図だからだ。
「……由奈、起きてる?」
ドアの向こうから、母の遠慮がちな声がする。
かつては明るくハキハキとしていた母の声も、今では腫れ物に触るような、弱々しい響きに変わってしまった。
「ご飯、置いておくわね。……今日はいいお天気よ。少し窓を開けたら?」
返事はしない。
足音が遠ざかっていくのを確認してから、私はのっそりと布団から這い出した。
部屋の鏡に映った自分と目が合う。
ボサボサに伸びた髪、生気のない土気色の肌、窪んだ目元。
そこには、かつて大学のキャンパスで「可愛い」ともてはやされ、テニスサークルのアイドル気取りで笑っていた女の面影は、欠片も残っていなかった。
「……誰、これ」
乾いた唇から漏れた声は、老婆のように掠れていた。
これが私。二十代半ばにして、人生を終わらせてしまった女の成れの果て。
私はふらつく足で机に向かった。
そこには、母が隠していたはずのタブレット端末が置いてある。
昨夜、母が寝静まった後にリビングからこっそり持ち出したものだ。
ネットは禁止されている。見れば精神が崩壊すると、医者にも止められている。
分かっている。分かっているけれど、見ずにはいられないのだ。
私の世界はもう、この四角い画面の中にしか存在しないから。
震える指で検索窓に文字を打ち込む。
『木島蓮』
エンターキーを押す指が重い。
画面が切り替わる。
そこに表示されたのは、私が知っている「蓮」であって、もう私の知らない「蓮」だった。
『プログレス・ゲート、東証プライム上場へ。立役者は若き天才エンジニア・木島蓮氏』
『新時代のセキュリティシステム「Phoenix」、世界シェア拡大』
ニュースサイトのトップには、スタイリッシュなスーツを着こなし、自信に満ちた笑顔で握手に応じる蓮の写真があった。
髪型も洗練され、学生時代の少し頼りなげな雰囲気は消え失せ、誰もが認める「成功者」のオーラを纏っている。
かっこいい。
悔しいくらいに、かっこいい。
「……嘘つき」
私は画面の中の彼に向かって呟いた。
「ずっと一緒だって言ったじゃない。私を守るって言ったじゃない。……なんで、そこに私がいないのよ」
写真の中で彼の隣に立っているのは、私ではない。
知的で涼しげな目元をした、黒縁眼鏡の女性。星野舞さん。
記事によると、彼の公私とものパートナーであり、先月入籍したばかりだという。
二人の左手には、シンプルな、けれど洗練されたデザインのプラチナリングが光っている。
ズキン、と胸の奥が痛んだ。
嫉妬? 後悔? そんな生易しい言葉では表現できない。
内臓を素手で掻き回されるような、激しい苦痛。
その場所は、本来なら私の場所だったはずなのだ。
私がその指輪をはめ、私がその隣で微笑み、私が「天才エンジニアの妻」として称賛されるはずだったのだ。
どうしてこうなったんだろう。
どこで間違えたんだろう。
そんなことは分かっている。
あの日。蓮が偽造された浮気写真をばら撒かれた日。
私が彼を信じず、保身のために彼を拒絶し、あろうことか彼を陥れた佐伯巧の腕の中に逃げ込んだからだ。
「だって……怖かったんだもん」
誰にともなく言い訳を呟く。
あの頃、サークルの中での同調圧力は凄まじかった。
みんなが蓮を「クズだ」「浮気男だ」と罵っていた。
佐伯くんはサークルの中心人物で、お金持ちで、キラキラしていて、逆らったら居場所がなくなるような気がした。
蓮のことは好きだったけれど、自分が「いじめられる側」になる恐怖には勝てなかった。
それに、佐伯くんの甘い言葉にも、心のどこかで酔っていたのかもしれない。
「俺が守ってあげる」「君は特別だ」。
そんな安っぽい言葉を信じて、私は一番大切な宝物を、自らの手でドブに捨てたのだ。
画面をスクロールする。
コメント欄には、蓮への称賛の声が溢れている。
『素晴らしい技術だ』
『日本の誇り』
『奥様もお綺麗で、理想の夫婦ですね』
そして、その下の方に、私のことについて触れているコメントを見つけた。
『そういえば、学生時代にこの人を裏切った元カノいたよな』
『一ノ瀬由奈だろ? 冤罪信じて間男と浮気した馬鹿女』
『今頃何してるんだろうなw』
『逃した魚がデカすぎて発狂してるんじゃね?』
『自業自得。一生後悔して生きろ』
「ひっ……!」
タブレットを取り落としそうになる。
見なければよかった。
私の名前は、ネットの世界では「愚か者」「裏切り者」の代名詞として、永遠に刻み込まれている。
デジタルタトゥー。
消すことのできない焼き印。
私が死んでも、このログは残り続ける。未来永劫、私は「木島蓮を捨てた最低の女」として語り継がれるのだ。
「嫌だ……嫌だ嫌だ嫌だ……!」
私は頭を抱えてうずくまった。
耳の奥で、あの日のサークル総会のざわめきが蘇る。
スクリーンに映し出された私の裏切りのチャットログ。
『忙しいって嘘ついて、他の女と会ってるのかもよ?』と佐伯に言われ、『怖いよ、どうすればいいの?』と返した私。
そして、佐伯との情事の後で送った『もう蓮とは一緒にいられない』という別れのメッセージ。
あの時の蓮の目。
怒りでも、悲しみでもなく、ただ汚いものを見るような、冷めきった瞳。
『バックアップなんて取ってない。復元不可能なんだよ』
そう告げられた瞬間、私の足元から世界が崩れ落ちた感覚。
「ごめんなさい……ごめんなさい、蓮……」
涙が溢れて止まらない。
謝りたい。
土下座して、靴を舐めてでも謝りたい。
そして、「もう一度やり直そう」と言ってほしい。
でも、もう遅い。
彼は遠い場所に行ってしまった。
物理的な距離だけでなく、魂のステージが違う場所へ。
ふと、机の引き出しを開けた。
奥の方に押し込んであった、小さな箱を取り出す。
中には、安っぽいペアリングが入っている。
大学生の頃、蓮がアルバイト代を貯めて買ってくれたものだ。
『ごめん、今はこれが精一杯だけど……就職したら、もっといいやつ買うから』
そう言って照れくさそうに笑った彼の顔。
あの時の私は、それを嬉しく思いながらも、心のどこかで「もっと高いブランド物がいいな」なんて思っていなかったか?
佐伯くんがつけていた高級時計や、彼が奢ってくれる高級ディナーに目が眩んでいなかったか?
私はそのリングを指にはめてみた。
痩せ細った私の指には、リングはぶかぶかで、すぐに抜け落ちそうになる。
かつてはぴったりだったのに。
私の指も、心も、何もかもが痩せ衰えてしまった。
「……会いたい」
狂おしいほどの衝動が突き上げてくる。
一目だけでいい。今の彼に会いたい。
そして、彼に私の今の惨めな姿を見てほしい。
そうすれば、優しい彼は「可哀想に」と同情してくれるかもしれない。
彼の中に、まだ私への情がほんの少しでも残っていれば、奇跡が起きるかもしれない。
私は立ち上がった。
部屋着のスウェットを脱ぎ捨て、クローゼットを開ける。
数年前の流行遅れの服ばかりだ。
その中から、蓮が好きだと言ってくれた白いワンピースを取り出す。
カビ臭い匂いがしたが、構わなかった。
髪をブラシで梳かし、久しく使っていない化粧品を顔に塗りたくる。
鏡の中の私は、厚化粧をした幽霊のようだったが、私の目には「蓮を待つ健気な彼女」に映っていた。
部屋を出る。
リビングには母がいた。
異様な出で立ちの私を見て、母は息を呑んだ。
「ゆ、由奈? どうしたの、その格好……」
「お母さん、私、東京に行ってくる」
「えっ?」
「蓮に会いに行くの。彼、テレビに出てたでしょ? きっと忙しいから、私が支えてあげなきゃ」
私の言葉に、母の顔色が蒼白になる。
「な、何を言ってるの……蓮くんはもう結婚したのよ? それに、あなたとはもう何年も会ってないじゃない」
「違うよ! 結婚なんてニュースの間違いだよ! 蓮が私以外の人を好きになるわけないもん! だって私たちは運命なんだから!」
私は叫んだ。
自分でも支離滅裂なことを言っている自覚はあった。
頭の半分は冷えていて、「お前は狂っている」と囁いている。
でも、もう半分の熱暴走した脳が、「そう思い込まなければ死んでしまう」と悲鳴を上げているのだ。
「やめなさい! 目を覚まして!」
母が私の腕を掴む。
「離してよ! お母さんは私の幸せを邪魔する気!?」
「幸せなんて……あんたが自分で壊したんでしょう! あの時、蓮くんを裏切ったのはあんたじゃない!」
母の悲痛な叫びが、私の胸に突き刺さった。
一番言われたくない言葉。
一番認めたくない真実。
「……うるさい、うるさい!!」
私は母の手を振り払い、玄関へと走った。
サンダルを突っ掛け、外へ飛び出す。
久しぶりに浴びる外の空気は、眩しすぎて目が焼けるようだった。
近所の家のカーテンが揺れた気がした。
誰かが見ている。
「あそこの頭のおかしい娘が出てきた」と噂している。
それでも私は走った。
駅へ向かわなければ。東京へ行かなければ。
息が切れる。足がもつれる。
体力が落ちきった体は、数メートル走っただけで悲鳴を上げた。
足が絡まり、アスファルトに激しく転倒した。
「痛っ……」
膝から血が滲む。白いワンピースが泥で汚れる。
起き上がろうとするが、力が入らない。
通りかかった小学生たちが、私を見てギョッとして避けていく。
遠くから、ヒソヒソという嘲笑が聞こえるような気がする。
『見て、あの人』
『ヤバくない?』
『近寄っちゃダメだよ』
私は地面に這いつくばったまま、空を見上げた。
抜けるような青空。
かつて蓮と二人で見上げた空と同じ色。
あの頃、世界は私たちを中心に回っていると思っていた。
未来は無限に広がっていて、幸せになる権利が当然のようにあると信じていた。
でも、違った。
私は主人公ではなかった。
主人公である蓮を傷つけ、物語から退場させられた「悪役」ですらなかった。
ただの「愚かなモブ」として、路傍の石のように捨てられたのだ。
ポケットに入れていたタブレットが、衝撃で飛び出していた。
画面にはまだ、蓮と舞さんの写真が表示されている。
二人は微笑んでいる。
私のことなど、一ミリも思い出していないような、晴れやかな笑顔で。
「……あ、あぁ……」
嗚咽が漏れる。
どんなに泣いても、どんなに叫んでも、あの場所には戻れない。
タイムマシンはない。バックアップデータもない。
私が佐伯を選び、蓮を捨てたあの日、運命の分岐点は確定してしまったのだ。
「蓮……助けて……」
情けない声で名前を呼ぶ。
けれど、もう彼は来てくれない。
「由奈、大丈夫?」と駆け寄って、手を差し伸べてくれる彼は、もうこの世界のどこにもいない。
彼は「星野蓮(※実際は木島蓮のままだが、彼女の心象風景として)」になり、新しい家族と新しい人生を歩んでいる。
私の知らない時間、私の知らない場所で。
私は汚れた手で顔を覆った。
化粧が涙で混じり合い、醜く崩れていくのが分かる。
ガラスの靴は割れた。
カボチャの馬車は来なかった。
私は灰かぶり姫のまま、いや、灰に埋もれたまま、ここで朽ちていくしかないのだ。
「由奈!」
後ろから、母の泣き叫ぶ声が聞こえた。
サンダル履きのまま、追いかけてきてくれたのだ。
私を抱き起こそうとする母の手は、温かくて、そしてとても小さく感じた。
「帰ろう……家に帰ろう、由奈……」
「お母さん……私……私……」
「分かってる。辛いね、苦しいね……でも、生きていかなきゃいけないのよ……」
母も泣いていた。
私という娘を持ってしまった不幸を嘆いているのだろうか。
それとも、こんな娘でも愛してくれているのだろうか。
どちらにせよ、私は両親の人生まで巻き込んで、地獄の底へ道連れにしてしまった。
私は母に支えられ、よろよろと立ち上がった。
振り返ると、タブレットの画面が暗くなり、蓮の笑顔が消えていた。
黒い画面に、泥だらけで泣き腫らした自分の顔が映り込んでいる。
「……さようなら、蓮」
私は小さく呟いた。
それが、私にできる精一杯のけじめだった。
彼の幸せを願うことなんてできない。そんな綺麗な心は持ち合わせていない。
ただ、彼がもう私の手の届かない「光」であることを認め、私は「影」の中で生きていく覚悟を決めるしかなかった。
帰り道、一陣の風が吹き抜けた。
私の髪を揺らし、泥だらけのワンピースをなびかせる。
春の風。
新しい季節が始まる匂いがした。
けれど、私の季節は冬のまま、永遠に止まっている。
家のドアが閉まる音が、重く響いた。
再び薄暗い部屋に戻る。
でも、さっきより少しだけ、部屋の空気が澄んで見えたのは気のせいだろうか。
私は泥だらけの服を脱ぎ、シャワーを浴びた。
冷たい水が、体についた泥と、心の澱を洗い流していく。
完全には消えないけれど、少しずつ、薄めていくことはできるかもしれない。
鏡の前で、すっぴんの自分と向き合う。
目尻のシワ、荒れた肌。
これが現実の私。
「木島蓮の元カノ」という肩書きにしがみつくのは、もうやめよう。
私はただの「一ノ瀬由奈」。
過ちを犯し、全てを失った、何者でもない女。
そこから、本当に小さな一歩を、いつか踏み出せる日が来るのだろうか。
答えはまだ見えない。
ただ、窓の外で揺れる木漏れ日が、少しだけ優しく見えた気がした。




