第一話 崩落のアルゴリズム
グラスの中で立ち上るシャンパンの泡が、暖色の照明を浴びて黄金色にきらめく。
俺、木島蓮は、対面に座る恋人の顔を見つめながら、これまでの人生で最も満ち足りた瞬間を噛みしめていた。
「蓮、本当に内定おめでとう。すごいよ、プログレス・ゲートだなんて」
頬をほんのりと桜色に染めた一ノ瀬由奈が、潤んだ瞳で俺を見つめている。彼女の少し舌足らずな甘い声は、二年付き合った今でも俺の胸を心地よく震わせる。
「ありがとう。由奈がずっと応援してくれたおかげだよ。就活で心が折れそうな時、由奈の笑顔が一番の支えだった」
「もう、大げさだよぉ。私はただ、蓮なら絶対に大丈夫って信じてただけだもん」
由奈は照れくさそうに笑い、フォークでデザートのケーキを小さくつついた。
ここは都内の夜景が一望できるレストラン。俺たちのような大学生には少し背伸びをした場所だが、今日は特別だ。俺が第一志望のIT企業「プログレス・ゲート」から内定をもらった祝いと、二人の交際二周年記念を兼ねている。
窓の外には、無数の光が散りばめられた大都会のパノラマが広がっている。
情報工学科でプログラミングに没頭してきた俺にとって、あの中に広がるデジタルネットワークの海は戦場であり、憧れでもあった。プログレス・ゲートはその頂点に立つ企業の一つだ。
そして、隣には愛する由奈がいる。
彼女は文学部に通う、俺とは正反対の感性を持った女性だ。少し優柔不断で、周りの意見に流されやすいところはあるけれど、その分、人の痛みに寄り添える優しさを持っている。そんな彼女を守り、共に生きていく未来が、すぐそこまで来ていた。
「ねえ、蓮。これからもずっと一緒にいようね」
「ああ、もちろんだ。約束するよ」
俺たちはグラスを軽く合わせる。チーン、という澄んだ音が、永遠を誓う鐘の音のように響いた気がした。
この時の俺は、完全に幸福という名の麻酔に浸っていたのだと思う。
自分が積み上げてきた「信頼」や「実績」という土台が、悪意あるハッカーの手によって、いとも簡単に書き換えられる脆いデータに過ぎないことを、まだ知らなかった。
翌朝。
いつものように目が覚めると、隣で眠っているはずの由奈の姿がなかった。
同棲しているアパートの空気は冷たく、静まり返っている。
大学の講義が早いのかな、と思いながらスマホを手に取ると、画面には異常な数の通知が表示されていた。
『MINE』の通知が99件以上。
『Twotter』の通知に至っては、アプリを開くのをためらうほど断続的に震え続けている。
「……なんだこれ?」
寝ぼけた頭が一瞬で覚醒する。
胸騒ぎを覚えながら、俺は震える指でTwotterのアイコンをタップした。
タイムラインの上位に、見知らぬハッシュタグがトレンド入りしている。
#木島蓮 #プログレス・ゲート内定者 #クズ男 #六股
心臓が早鐘を打つ。血の気が引いていくのが分かった。
トレンドをタップすると、そこには信じがたい画像が溢れていた。
俺が、知らない女性と腕を組んでラブホテル街を歩いている写真。
別の女性と路地裏でキスをしている写真。
さらには、ベッドの上で女性と肌を重ねているような写真まで。
「は……? 何だこれ、俺じゃない……!」
思わず声が出た。
だが、写真の中の男は、間違いなく俺の顔をしており、俺が持っている服を着ていた。画質は鮮明で、どう見ても合成には見えない。
だが、記憶にはない。絶対にない。俺は由奈一筋で、他の女性と二人で会うことさえ避けてきたのだから。
投稿のコメント欄には、罵詈雑言の嵐が吹き荒れていた。
『うわ、こいつウチの大学じゃん。最低』
『プログレス・ゲートの内定者? 人事の目、節穴すぎw』
『彼女と同棲してるんでしょ? 可哀想すぎる』
『死ねよ、ゴミが』
吐き気を催すような悪意の奔流。
俺の個人情報、住所、さらには由奈のアカウントまでもが特定され、リンクが貼られている。
由奈。そうだ、由奈はこれを見たのか?
慌てて由奈に電話をかけるが、コール音すら鳴らずに留守番電話サービスに繋がる。拒否されている。
MINEを送ろうとするが、既読がつかない。いや、ブロックされているかもしれない。
焦燥感で呼吸が浅くなる。
これは誤解だ。誰かが悪質な悪戯をしているんだ。
とにかく由奈に会って説明しなければならない。俺は慌てて服を着替え、大学へと走った。
キャンパスに足を踏み入れた瞬間、空気が変わったのが分かった。
すれ違う学生たちが、一様に俺を見てヒソヒソと何かを囁き合う。
軽蔑、嘲笑、嫌悪。
無数の視線が、鋭い針のように全身に突き刺さる。
「おい、あれだろ? 例の……」
「うわ、よく来れるな。メンタル鋼かよ」
「気持ち悪っ。近づかないでよ」
聞こえてくる声に耳を塞ぎたくなるのを堪え、俺は由奈がいつもいるテニスサークルの部室棟へと急いだ。
部室の前には、既に人だかりができていた。
その中心に、由奈がいた。
彼女は顔を両手で覆い、肩を震わせて泣いていた。
そして、その肩を抱くようにして支えている男が一人。
佐伯巧。
サークルの副代表であり、経済学部の学生だ。実家が太く、ブランド物で身を固めた派手な男だが、表向きは人当たりが良く、サークルの中心人物として君臨している。俺とは真逆のタイプで、正直苦手な相手だった。
「……由奈!」
俺が声を上げると、人だかりが一斉に俺を振り返った。
その視線は冷ややかで、まるで汚物を見るような目だった。
由奈がビクリと肩を震わせ、ゆっくりと顔を上げる。その目は赤く腫れ上がり、俺を見るなり恐怖と怒りに歪んだ。
「……来ないで!」
悲鳴のような拒絶の声。
俺は足を止めた。
「由奈、違うんだ。あれは全部嘘だ。俺じゃない、誰かが合成したんだよ!」
「嘘つき!!」
由奈が叫び、スマホの画面を俺に突きつけた。
そこには、俺が知らない女性とMINEで生々しいやり取りをしているスクリーンショットが表示されていた。アイコンも、IDも、口調も、すべてが俺のものに見える。
「こ、これは……」
「まだ言い逃れする気かよ、木島」
佐伯が低い声で割り込んできた。彼は由奈を背に隠すようにして、俺の前に立ちはだかる。その整った顔には、軽蔑の色が浮かんでいたが、目の奥だけは奇妙に冷たく、楽しんでいるようにも見えた。
「佐伯、お前なら分かるだろ? こんなの、今の技術ならいくらでも偽造できる。俺がそんなことするわけない」
「往生際が悪いな。偽造? ここまで完璧にか? お前、自分の技術力を過信しすぎなんじゃないか?」
佐伯は鼻で笑い、周囲のサークルメンバーたちに視線を向けた。
「なあ、みんなも見たよな? 木島がこないだ、裏垢で『彼女チョロすぎw』ってつぶやいてたの」
「ああ、見ました。すぐ消してましたけど、スクショありますよ」
「私も見ました。駅前で違う女の人と歩いてるのも、何回か目撃されてますし」
サークルの男たちが、口々に証言を始める。
俺は愕然とした。
見た? 俺が? ありえない。俺はそんな裏垢なんて持っていないし、他の女と歩いたことなんて一度もない。
だが、彼らの口調はあまりにも自然で、確信に満ちている。まるで、本当に見たかのように。あるいは、そう言うように「台本」が配られているかのように。
「……なんでだよ。俺は、やってない」
「もういいよ、蓮」
由奈が震える声で呟いた。
彼女は佐伯の背中から顔を出し、絶望に染まった瞳で俺を見た。
「信じてたのに。忙しいから会えないって言ってた日も、本当はプログラミングの勉強してるって言ってた日も、全部嘘だったんだね……」
「違う! 本当に勉強してたんだ! 研究室のログだってある!」
「ログ? そんなの、情報系の蓮ならどうとでも改ざんできるんでしょ!?」
由奈の言葉が、鋭利な刃物となって俺の胸を抉った。
俺が誇りに思っていた技術。彼女のために、将来のためにと磨いてきたスキルが、今、彼女の中では「嘘をつくための道具」として認識されている。
「由奈ちゃん、もう十分だ。これ以上こいつと話しても傷つくだけだよ」
佐伯が優しげな声で囁き、由奈の肩を抱き寄せた。
由奈はその腕にすがるようにして頷く。
その光景が、スローモーションのように俺の目に焼き付いた。
俺の場所だったはずの隣。俺が守るはずだった肩。それが今、別の男のものになろうとしている。
「待ってくれ、由奈。ちゃんと説明させてくれ。証拠を見つけるから、お願いだから……」
俺は手を伸ばそうとした。
だが、佐伯が冷徹な声でそれを遮った。
「触るな。汚らわしい」
その一言で、周囲の空気が完全に固まった。
サークルメンバーたちが一歩前に出て、俺と由奈の間に壁を作る。
「帰れよ、浮気男」
「由奈ちゃんが可哀想だろ」
「プログレス・ゲートにも通報しといたからな」
嘲笑と敵意の壁。
その向こうで、由奈はもう俺を見ていなかった。彼女は佐伯の胸に顔を埋め、泣き崩れている。
佐伯が俺を一瞥した。
その瞬間、彼に唇の端が微かに吊り上がったのを、俺は見逃さなかった。
それは勝利宣言であり、獲物を罠に嵌めた狩人の笑みだった。
(……全部、仕組まれていたのか?)
写真の偽造、MINEの履歴、サークルメンバーの偽証。これほど周到な罠を、一晩で用意できるはずがない。長い時間をかけて、俺を社会的に抹殺し、由奈を奪うために計画されていたのだ。
俺は今まで、バグのないコードを書くことには自信があった。論理は裏切らないと信じていた。
だが、人間の悪意という不条理なバグの前では、論理など無力だった。
「……行くぞ、由奈ちゃん」
佐伯に促され、由奈はその場を立ち去っていく。
一度だけ、彼女が振り返ることを期待した。
だが、彼女の栗色の髪が揺れ、遠ざかっていくだけだった。
昨日、俺が「可愛いね」と褒めたあの髪留めが、西日ではなく冷たい蛍光灯の光を反射して、鈍く光っていた。
教室の廊下に、俺一人だけが取り残された。
ポケットの中で、スマホが再び激しく震え出す。
Twotterの通知、そしてMINEの着信。
画面を見ると、非通知設定の電話がかかってきていた。
恐る恐る出ると、低い、加工されたような機械的な音声が聞こえた。
『ざまあみろ、エリート気取りが』
プツン、と通話が切れる。
その直後、俺の内定先であるプログレス・ゲートの人事部からメールが届いた。
件名は『重要:内定に関する緊急のご連絡』。
本文を開くまでもない。その文面が何を意味しているのか、震える指先が理解していた。
視界が歪む。
足元の床が抜け落ちていくような感覚。
これが、絶望か。
俺は壁に背を預け、ずるずるとその場に座り込んだ。
通り過ぎる学生たちの視線が、嘲笑が、俺の存在を削り取っていく。
何もかもが崩れていく音が聞こえるようだった。
だが、心の奥底にある冷たい部分で、俺の脳はまだ動いていた。
エンジニアとしての本能が、感情の奔流に抗って囁く。
――ログは残っている、と。
どんなに精巧に偽造されたデータでも、必ず痕跡はある。
デジタル空間において、完全犯罪など存在しない。
涙が頬を伝うのと同時に、俺の中でどす黒い炎が種火のように灯った。
それは復讐心という名の、新たなアルゴリズムの起動音だった。
(……許さない)
俺は涙を手の甲で乱暴に拭った。
まだ終わっていない。
すべてを奪われたとしても、俺にはまだ、この指と、頭脳がある。
佐伯巧。そして、俺を信じなかった一ノ瀬由奈。
この理不尽なエラーを吐き出し続ける世界を、俺がデバッグしてやる。
俺はふらつく足で立ち上がった。
向かう先は自宅ではない。
大学の図書館にある、高度な情報処理が可能なPCルームだ。
そこには、俺と同じ種類の人間――真実以外に興味を持たない、ある人物がいるはずだ。
戦いは、ここから始まる。




