12日目 返還と試しの取引 〜嘴の黒、藻の緑、輪の意味〜
習慣を壊すものに慈悲などいらない。
十日以上、続けてきた在庫表。
記すことは水を得るのと同じ。呼吸と同じ。
帳の余白に「空白」があるだけで背筋をつかまれるような不安が走る。
今朝、私は在庫を記せなかった。
昨日の夜、ペンが奪われたまま戻らなかったからだ。
指先に残るのは煤を擦りつけた炭のざらりとした痕だけ。
「生命を繋ぐ習慣を壊すものに慈悲などいらない」
そう言葉にした瞬間、胸の奥で別の声が響いた。
「なら、ペンを奪った鳥を食べてやろうか」
怒り半分、本気半分。
自分の声に自分で苦笑した。
けれど…記す手段を失うことは、それほどまでに私の存在を追い詰めていた。
砂を渡る影。羽音。
波の線に沿って降りてきた一羽の鳥の嘴に黒。
「ペンだ!」
鳥は輪の外にそれを落とすと、二歩ぶん距離を取り首を傾げた。
砂に半分埋もれた黒。十日ほどの習慣を奪った犯人。
輪を越えて奪い返すことはできる。だが制度は昨日、砂と紙に刻んだばかり。
…奪わない。取引する。
私は胸骨の高さで海藻を一本掲げ、∴の印を添えて外に置いた。
鳥は一瞬、首を振り、やがて嘴を伸ばして藻を裂く。
緑が消えると同時に黒が弾かれたように砂から外れて、私の足元へ転がった。
返還。
深く息を吐く。
胸の奥に残る怒りはまだ重い。
だが「返還」という科目に書き換えられた瞬間。怒りは数値へと変換される。
在庫/十二日目・朝(ペン復帰後)
・水:0.55L(夜露微増)
・食:海藻 中(束×2)/貝なし
・塩:ひとつまみ強(縁の結晶)
・火:炭化流木わずか/火起こし痕あり
・記録具:ペン復帰(機能良)/炭 予備
・体調:良好/右手小擦過(砂で痛む)
・所感:空白回避。鳥=返還行動あり。敵対から取引相手へ昇格?
胸の底にあった「喪失」の感触が黒いインクの滲みで上書きされていく。
私は短く線を引いた。紙がそれを吸い取り昨日の断絶が一段だけ埋まった。
沖では潮の人が立ち砂に〇を描いていた。
やがて、その内側に小さな点を置く。
◎に見えるが点は中央ではない。半歩、私のほうへ寄っている。
私は《◎?未定義》と記し、括弧で保留とする。
理解かただの反復か。判別不能は敵ではない。むしろ観測の糧だ。
条項補注(十二日目・午前)
・取引の予告は∴で示す
・返礼があれば返還として記録、相手の地位変更可
・代理記帳は空白抹消を優先、出所不明を併記
・◎は未定義。観測を続け解釈は遅延
昼。祠の水面に影が浮かび昨日よりも線が少ない。
濁りが退いたのか目が慣れたのか。
私は水を一口含み塩を一粒舌にのせた。
生命が喉を通る感覚と同時に、昨夜の赤茶の符号が遅れて胸に刺さる。
「空白を埋めるということは、記帳者を二人にする」
救いか監査の侵入か。今は断じない。
断じないことを今は制度にする。
午後。
輪の南に印石を一つ増やし小さな受け台をつくった。
ここが交換台になる。∴を刻み砂を軽く叩く。
やがて鳥が戻り、受け台に黒い粒を落としていった。
小さな貝片。裏には—が刻まれている。
昨夜のものとは違う。新しい線。
「賄賂か、贈答か、それとも……」
言葉が途切れる前に、潮の人が砂に〇を描き、隣に∴を置き、最後に空に=を二本、ゆっくりと重ねた。
〇→∴→=。
私の制度は=→∴。
順序が違う。
どちらが正しいのかは決めない。
二つの制度が並立して存在する。
在庫/十二日目・夜
・水:0.4L/祠 5割
・食:海藻 小(受け台に予告分残し)
・塩:微
・記録具:ペン復帰/炭 予備
・所感:返還→交換→予告。制度が循環を始めた
・記録:彼女=〇∴=/私==∴。順序差あり
夕陽が祠の縁を撫でる。
潮の人は水に立ち胸の前で=を描いた。
私は頷き最後の一行を声に出して記す。
「=を重ねるたび〇は崩れて縁だけが残る。…それでも、輪は見える。」