序 — 帳簿のはじまり
この帳は私が浜に打ち上げられた日の夕暮れに濡れた指で始めたものだ。書くことしか私には武器がない。夜になるたび島は少しずつ形を変え、朝には地図がわずかに書き換えられている。星の高さが昨日と違い潮の筋が新しい線を描き、杭の影は拳ひとつ分ずれていた。
奪い合えばすぐに尽きる。だから私は三つの掟を決めた。
・奪わない。 力の差を計算に入れない。計算に入れなければ、破滅の帳尻は合わない。
・記録する。 在庫・観測・所感。書くことは未来の私に渡す契約書だ。
・取引する。 相手は人かもしれないし鳥や潮。あるいはこの島の癖かもしれない。与えと受けを対にして、関係を壊れにくくする。
ここには剣も魔法も見当たらない。ただ変わる島と、塩を含んだ風と、掌の小さな傷が事実として残っている。
あなたには監査役でいてほしい。私の在庫表と観測が妥当かどうか、ときどき首を縦に振ってくれればそれで十分だ。
最初の課題は水と塩。最初の手段は記録と合図。夜がくるたび私はこの帳に一行足す。地図がずれるなら、地図を毎晩つくり直せばいい。
そうやって生き延び方を設計していく。
一番先に壊れたのは時間だった。
波打ち際に打ち上げられた体を起こすと、砂が髪にまとわりつき潮の匂いが肺に刺さった。腕を支えに立ち上がると、世界はまだ揺れている。
砂は熱く、靴の中は水を吸い、足は重い。
耳には波が戻っては崩れる音だけが規則正しく届いていた。「生きている」という事実が、やけに異物のように胸に残る。
拾い上げたスマホは右上に12%の数字を貼り付けたまま沈黙している。押せば一瞬だけ白く光りすぐ闇に沈む。音も電波も来ない。けれど、メモは残った。文字はまだ息をしている。私はこれを帳簿にする。
在庫/初日
水:0.7L※キャップに砂がついている。要洗浄。
食:ゼリー飲料1、菓子2 ※うち1は溶けかけ。
火:なし(着火手段なし)
塩:0
体調:震え止まり、擦過傷(軽)
所感:右足親指に違和感/喉の渇き強め
書くだけで砂の白さが現実に寄ってくる。左手首のバンドを外し短い紐にしてスマホを胸ポケットへ移す。ゴミは残さない。砂の斜度、流木の向き、泡の細かさを記して今日の潮の語彙を決める。
ここは無人島だと思った。けれど違和感は空から降りた。昼なのに星が薄く残っている。昨日まで覚えた星座の角度とわずかに合わない。
次に音。鳥が遠くで往復している。波のきわで旋回し一定の間隔で折り返す。数えてみると四十秒ほどで一往復だ。羽ばたきは時計の針のようで待つあいだ孤独が濃くなる。
観測/初日
鳥の往復:東⇄西(周期一定、約40秒)
海の濁り:左側に濃い
漂着物:異なる言語のラベルが混在(同じ流通圏に見えない)
影:太陽角と砂印に微妙な齟齬
砂に印をつける。小石を三つ胸骨の高さを基準に並べた。夕方も同じ場所に立ち印と海との距離を測る。島がずれていれば数値が変わるはずだ。
喉は抗議する。水はある。だが飲まない。塩が先だ。 水を守るには塩がいる。
砂浜の端に白い縁取りが濃い場所を見つけた。鞄の底にくしゃくしゃのレシートを見つけ皿に見立てる。波を掬い少し高い岩へ置く。乾くまで観測を続ける。
影が伸び太陽と砂印がわずかに食い違う。確信する。島は夜ごとにずれる。
鳥の声が、ほんの少し早まった。羽ばたきが時計の針のように往復を刻む。私は島に向かって声を投げた。
「取引をしよう」
返事はない。ただ、風の向きが変わった気がした。レシートの皿に残った水が、陽を受けて白い粒を立ち上げていく。指先でつまみ、舌にのせる。ざらりとした塩の粒が砕け、苦い海が喉の奥にまで押し寄せた。たったひとつまみで、体が勝手に震えた。「命がまだここにある」と喉が鳴った。
在庫/日暮れ
塩:ひとつまみ(紙皿)
水:0.6L
体調:安定
記録:星図のずれ明白/鳥の周期短縮
砂の印に戻る。昼より二歩、海が近い。島が寄ってきている。振り返っても、砂浜には影がひとつきり。「うなずき」の相手はいない。 声を返す人もいない。私は掌を砂に押し当て小石をもうひとつ深く埋めた。行をひとつ増やすたびに、紙片の数字が首を縦に振ったように見える。当分はそれを相手に生きるしかない。
夜が落ちる。空は澄み、星は多い。だが位置は昨日の記憶からずれている。星座が言い直されるたび、孤独が新しく塗り替えられる。私は胸ポケットからスマホを取り出し、最後の白い光を借りて今日の帳を閉じた。