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第二話 学者の測定器と大地の声

 アランが南方に到着して、まず最初に向かったのは、連合の政庁が置かれた都市だった。

 彼は特命調査官として、エララ長官から全面的な協力を取り付け、すぐさま調査を開始した。

 連合の政庁の一室を借り受けたアランの臨時研究所は、夜遅くまで明かりが消えることはなかった。

 持ち込んだ錬金術器具の放つ冷たい光が、壁にずらりと並べられた土壌や水のサンプルが入った試験管を照らし出す。

 彼はこの数日間、眠る時間も惜しんで分析作業に没頭していた。

 昼間は罹病者たちの集められた施設へ足を運び、一人一人を丁寧に診察した。

 だが、彼の医学知識は完全に無力だった。

 患者たちの脈拍、体温、血圧、その全てが正常値を示す。

 採取した血液を拡大鏡で覗いても、そこに病原体や毒物の痕跡は見当たらない。

「医学的には、彼らは健康そのものだ」

 アランは歯噛みした。

「だが、彼らの魂は、確かに今この瞬間も消えかけている…!」


 土壌や水の分析も同様だった。

 南方の豊かな大地が育んだはずのそれらは、彼の精密な測定器にかけても、何一つ有害な物質を示すことはなかった。

 結果はどこでも同じ――「異常なし」。

 通常の科学的アプローチは、完全に壁にぶつかっていた。


 しかし、アランは諦めなかった。

 彼は視点を変え、個々の症例ではなく、病の「広がり方」そのものに注目した。

 すると、奇妙な法則性が浮かび上がってきたのだ。

 病は交易路に沿って広がるのではなく、ある一点を中心として、放射線状に、まるで水面に落ちたインクのように染み出していた。

「これは伝染病ではない…」

 アランは確信する。

「これは、大地そのものが起こしている壊死だ。そして、その中心、全ての元凶となっている『病巣』がどこかにあるはずだ」

 彼の指が地図上を走り、無数の発生地点が描く線の中心――名もなき山間の地域を、強く指し示した。


 アランは政庁都市で馬を一頭と、観測機材を運ぶための屈強な騾馬(らば)を借り受け、病巣の中心地へと向かった。

 最初の二日間は、まだ人の営みの気配が残っていた。

 道は整備され、時折、生気の乏しい農夫とすれ違うこともあった。

 しかし、彼らが耕す畑の作物はどこか元気がなく、空を飛ぶ鳥の数も日に日に減っていくのをアランは冷静に記録していた。


 三日目には、道は荒れた獣道へと変わった。

 地図に記された村に立ち寄ったが、そこはまるで時間が止まったかのような静寂に包まれていた。

 住民はいる。

 しかし、誰もが虚ろな目でアランをただ見つめるだけで、問いかけに答える者はいなかった。

 井戸の水は淀み、ほんのりと苦い味がした。

 家々の扉は開け放たれている。

 その村を後にしてから、世界の色彩は急速に失われていった。

 木々の緑は色褪せた褐色に、土は潤いを失った灰色へと変わり、生命の音が完全に消え失せた。

 馬と騾馬(らば)は時折不安げに立ち止まり、鼻を鳴らした。


 最後の行程は、道なき道を進む過酷なものとなった。

 アランは馬から降り、手綱を引いて、白くひび割れた大地を踏みしめて歩いた。

 太陽は空にあるはずなのに、その光はまるで(うすぎぬ)を通したかのように弱々しい。

 風さえもここでは音を立てるのをためらうかのように、不気味な静寂が支配していた。


 目的としていた地点に着くと、彼は早速、持参した機材を展開し、この土地の「病」を数値化し始めた。

 土壌を採取し、試薬を垂らしても毒物は検出されない。

 大気中に含まれる微弱なエネルギー、いわゆる「流動エーテル」の濃度も正常値だった。

 携えてきた最新鋭の観測機器の針は、不可解なほど静かに安定したままだった。

「データ上は、完璧なほど正常…。だが、現実はこの有様か」

 アランは白衣の袖で汗を拭い、苛立ちを隠さなかった。

 彼の「地図」は、彼自身をここまで導いてはくれたが、肝心の病の原因については何一つ指し示してはくれない。

 科学という光が、ここではまるで意味をなさなかった。


 その時、彼の視界の端に、一人の女性の姿が入った。

 外交官が着るような仕立ての良い旅装に身を包んだ彼女は、この荒涼とした土地にはあまりに不似合いだった。

 彼女はただ静かに身をかがめ、片手をひび割れた大地に触れ、目を閉じている。

 まるで、死んだ友を悼むかのように。


「君、このような場所で何をしている?」

 アランが声をかけると、女性――リィナはゆっくりと目を開けた。

 その瞳には深い哀しみの色が浮かんでいた。

「……この土地の声を、聴いていました」

「声、だと?馬鹿なことを。ここは生物の気配すらない不毛の地だ。聴こえるものなど何もない」

 アランは彼女の言葉を非科学的だと一蹴した。

「いいえ、聴こえます。声にならない、痛みの声が」

 リィナは静かに首を振ると、およそ三十歩ほど先の、ひときわ大きくひび割れた岩場を指さした。

「特に、あそこ。あそこは、この土地の苦しみが最も集中している場所。まるで大地の血管が詰まって、脈が止まってしまっているようです」

 アランは鼻で笑った。

「大地の血管が詰まる、か。非科学的な表現だな。だが、残念ながら感覚では何も解決しない。私の調査では、あの岩も周囲の土壌も、成分に何ら変わりはない」

「ですが、あそこが全ての淀みの中心なのです」

 リィナはまっすぐにアランを見つめて言った。

 その揺るぎない瞳に、アランはほんの少しの興味を覚えた。

 どうせ調査は手詰まりだ。

 この非科学的な女性の戯言に付き合ってみるのも一興かもしれない。

 彼は懐から、地中に流れる微弱な生命エネルギー――エーテル流を測定する三次元コンパスを取り出した。

 このコンパスの針は、通常、大陸の生命力の源から発せられ、北から南へと穏やかに流れるエーテルを捉え、常に南を指し示すように設計されている。

 この土地ではその流れが極端に弱いことはすでに確認済みだった。

 彼はリィナが指さした岩場へと歩み寄り、まず岩の北側にコンパスを置いた。

 針は、弱々しいながらも正しく南――つまり、目の前の岩場を指し示した。

 ここまでは正常の範囲内だ。

 次に、彼は岩場を回り込み、今度は南側にコンパスを置いた。

 もしエーテルが正常に流れているなら、針はここでも南を指すはずだった。

 しかし、アランは我が目を疑った。

 針はゆっくりと、しかし確実に180度回転し、再び岩場――今度は「北」を指して静止したのだ。

 流れが南に向かっていない。

 まるでこの岩が、周囲のエーテルをすべて吸い上げる「排水溝」のように振る舞っている。

 これは、流れが「弱い」のではなく「逆流」していることの証明だった。

 アランは息を呑み、最後の検証として、コンパスを岩の真上に置いた。

 瞬間、針は壊れた玩具のように激しく回転し、やがて全ての力を失ったかのように、だらりと下を向いて静止した。

 どの方向も指さない。

 ここは流れが「無」になっているのだ。

 彼は慌てて数メートル離れた場所で測定する。針は微弱ながらも再び南を指す。

 しかし、岩に近づけば近づくほど、その流れは岩の中心へと歪められていく。

 リィナが指し示した「脈が詰まっている場所」が、物理的なエネルギーの消失点――特異点として、彼の地図上に完璧な形で示されたのだ。

「なぜだ……なぜ、ここが分かった?」

 アランは呆然とリィナを振り返った。

 彼の声には、もはや彼女への侮りや嘲りはなかった。

 ただ、自らの常識を根底から覆された科学者としての、純粋な驚愕だけがあった。

「言ったはずです」

 リィナは答えた。

「私には、この大地の苦しみが聴こえるのです」


 学者の緻密な測定器と、大地の声。

 決して交わるはずのなかった二つの世界が、静かに死にゆく大地の上で、初めて重なり合った瞬間だった。

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