第十五話 夜明けの脈動
大陸全土を震わせた決着の共鳴音――その最後の響きが遺跡の石壁に吸い込まれると、世界は静寂に包まれた。
魂を直接握り潰すような圧力が消え失せ、淀んでいた空気が浄化されていくのが肌で感じられる。
黒いエーテルの奔流は光の粒子となって霧散し、遺跡にはただ、古びた石と土の匂いだけが残された。
その静寂を最初に破ったのは、王国騎士隊長の鋭い号令だった。
「包囲を固めろ!一人たりとも逃がすな!」
その声は、魔法が支配した戦場に、秩序という名の鉄槌を打ち下ろした。
今まで指導者の精神攻撃によって動きを封じられていた騎士たちは、呪縛から解き放たれたように一斉に行動を開始する。
指導者の力が消えた今、教団の残党はもはや魔術師の集団ではなかった。
ある者は、信じていた世界の崩壊を前に呆然と立ち尽くし、手にした黒い刃を力なく地面に落とす。
その虚ろな瞳は、もはや救済も絶望も映してはいなかった。
騎士たちは二人一組となり、抵抗の意思を失った彼らの腕を掴み、魔力を封じる枷を手際よく嵌めていく。
しかし、すべての者がたやすく屈したわけではない。
「我らの救済は終わらぬ!」
狂信的な叫びと共に、最後まで武器を捨てない者たちが騎士に襲いかかった。
その黒い刃はかつての禍々しいオーラを失っていたが、その太刀筋にはなお、命を奪うことへの躊躇いがない。
だが、精神的な呪詛という最大の武器を失った今、彼らの動きは騎士団の目にはあまりに直線的に映った。
「無駄な抵抗だ!」
騎士の一人が、教団員の刃を自らの長剣で弾き返す。
甲高い金属音が響き、体勢を崩した相手の鳩尾に、騎士は、剣の柄を容赦なく叩き込んだ。
呻き声を上げて崩れ落ちる教団員を、別の騎士が即座に押さえつける。
遺跡の各所で、そうした短いながらも熾烈な白兵戦が繰り広げられた。
こうして、大陸を静かに蝕んでいた巨大な陰謀は、その尖兵たち一人一人が鉄の規律の前に無力化されていくことで、物理的にも終わりを告げた。
戦いは終わったのだ。
しかし、遺跡に刻まれた禍々しい紋様と、大地に残された癒えぬ傷跡は、この勝利が決して安易なものではなかったことを、静かに物語っていた。
教団本部での戦いが終結し、王都への帰還命令を受けたアランとリィナは、すぐさま北への帰路についていた。
その道すがら、二人は自らが行った『手術』の経過を目の当たりにすることになる。
決戦からまだ一週間ほどしか経っていないにもかかわらず、大地が癒えていく速度は、アランの科学的予測をすら上回っていた。
馬上で揺られながら見渡す景色は、調査に訪れた時とはまるで違っていた。
色褪せた褐色だった木々の葉は瑞々しい緑を取り戻し、潤いを失っていた灰色の大地は、雨を含んで生命を育む豊かな黒土へと変わっていた。
「聴こえますか、アラン」
心地よい風に髪をなびかせながらリィナが言った。
「大地が…深呼吸をしているようです。あの苦しげな脈動はもうありません」
「ああ。流動エーテルの循環が正常値に戻りつつある。データの上でも、大地が快方に向かっているのは明らかだ」
アランはそう答えながらも、その理知的な瞳をわずかに細め、景色の奥にある何かを見つめていた。
やがて二人は、最初に異変が報告された小さな農村に立ち寄った。
以前は不気味な静寂に包まれていたその村は、今、確かな生活の音で満ちていた。
かつて老婆が「大地が呼吸を忘れてしまった」と嘆いた、あの静かな絶望は、もうどこにも感じられなかった。
止んでいた鍛冶屋の槌音が、再び村に響き渡り、パンの焼ける香ばしい匂いが風に乗って鼻をくすぐる。
井戸端では、女たちが屈託のない笑い声を上げながら洗濯をし、その周りを泥だらけの子供たちが元気に駆け回っていた。
二人の姿に気づいた村の老婆が、柔和な笑みを浮かべて近づいてきた。
「旅の方々。お水はいかがですかな? この井戸の水も、やっと元のすっきりした味に戻りましてのう」
老婆が差し出した杯の水を、リィナはありがたく受け取った。
ほんのりと苦い味がした大地の涙は、今は喉を潤す清涼な恵みへと変わっていた。
「ありがとうございます。村がとても活気に満ちていますね」
リィナがそう言うと、老婆は深く頷き、子供たちが遊ぶ方へと目を向けた。
「ええ、ええ。あそこにいる孫も、この通り。また花の名前を尋ねてくれるようになったんですよ。あの子の瞳に、また光が戻ったんです」
その視線の先では、以前はガラス玉のような虚ろな瞳をしていた少女が、元気に野の花を摘んでいた。
確かな回復の兆し。
それは、アランとリィナの胸を温かいもので満たした。
しかし同時に、二人は気づいていた。
人々の笑顔の奥に、そして豊かな大地の奥底に、あの静かな病の記憶が、そして癒えぬ『古傷』が、まだ深く刻まれていることを。
二人は、この確かな回復の兆しと、それでもなお残る大地の痛みを胸に、大陸の未来を決定づける評議会が開かれる王都への道を急ぐのだった。
王都エレジアで開かれた大陸円卓評議会は、勝利を祝う華やかな雰囲気と、未来への真剣な議論が同居する場となった。
円卓の前に立ったアランは、まず作戦の成功を報告した。
そして、南方をその目で見てきた者として、厳しい現実を突きつけた。
「『大陸規模の外科手術』は成功し、地脈の動脈瘤は消滅しました。ですが…」
アランは言葉を区切り、隣に立つリィナに視線を送った。
リィナは静かに頷くと、評議会の面々に向かって語り始めた。
「大地は快方に向かっています。ですが、地脈の動脈瘤があった場所には、今も癒えない痛みが残っています。それは、肉体から病巣を切り取った後に残る、『古傷』のようなものです」
アランは、彼女の言葉を科学的な見地から補足した。
「リィナ特使の言う通りです。私の測定でも、かの地点の地脈は極めて不安定な状態にあることが確認されています。今回の事件は、いわば大陸という生命体に対する緊急の外科手術でした。我々は命を救うことには成功しましたが、その傷跡が完全に癒えるには、長い時間と慎重な経過観察が必要です」
彼の言葉に、評議会を包んでいた祝祭の空気は、真剣な緊張感へと変わっていった。
そのすべてを見通していたかのように、宰相カイル・ヴァーミリオンが静かに口を開いた。
「アラン博士の言う通りだ。我々は、二度とこのような危機を繰り返してはならない。そのためには、問題が起きてから対処するのではなく、常に大陸の健康状態を監視し、病の兆候を早期に発見する仕組みが必要となる」
カイルは、評議会の面々を見渡すと、決然とした声で宣言した。
「よって、大陸円卓評議会の総意のもと、世界の健康を維持するための新組織の設立をここに提案する。その名は、『地脈観測局』」
その提案に、異を唱える者はいなかった。
科学と神秘、各種族が持つ知恵と技術を結集し、大陸の未来を守る。
それは、この未曾有の危機を乗り越えた彼らがたどり着いた、唯一の答えだった。
会議が終わった後、アラン、リィナ、そしてこの歴史的な会議に招かれていたゴリンとライラの四人は、王都の城壁の上を歩いていた。
「『地脈観測局』、か。またとんでもないものを考え出す」
ゴリンが、呆れたように、しかしどこか楽しげに言った。
「でも、とても素敵な名前ね」とライラが微笑む。
「大地と対話し、その声に耳を傾ける場所。まるで、私たちの観測所のようだわ」
眼下には、活気をに満ちた王都の街並みが広がっている。
人々の笑い声が、心地よい風に乗って四人の元まで届いてきた。
「私たちの戦いは、終わったのですね」
リィナが、感慨深げに呟く。
アランは、その言葉に静かに首を振った。
「いや、違う。まだ始まったばかりだ」
彼は、遠くに広がる空を見つめながら言った。
「これまでは、目に見える敵との戦いだった。だがこれからは、いつ、どこに現れるか分からない『病』そのものとの、終わりのない戦いが始まる。私たちは、大陸の医者になるんだ」
その言葉には、かつての彼からは考えられないような、深い責任感と、そして温かな決意が満ちていた。
科学と神秘、論理と共感。
決して交わることのなかった四つの道は、今、大陸の未来を守るという一つの大きな道へと合流したのだった。




