1話「誘拐進行 昼間遊戯」
それは数年前の出来事だった。
俺は学校を卒業した後、倉庫の仕事を始めた。仕事の内容はこうだった、カップ麺の値段をパソコンに入力していく仕事。地味だが、量が多いと結構大変だ。
けれど、仕事の内容は決して難しいってわけじゃない。
体力さえ続けば誰も出来ると思う。だから、問題はそんなことではないんだ。
「#&*@!^~+=|<>?/¥$%□●◎◇◆△▽※§☆!」
上司が怒ってるってのは理解できる。でもどうせ、いつもと変わらにない。自分のストレスを発散したいだけの正義無き暴力だ。
「すみません、気をつけます」
怒鳴ってくる相手が記号のように怒ってるのだから、俺も鏡写しのように記号化した謝罪を繰り返す、これが一番相手を怒らせないし、相手が一番ストレスを発散できるやり方なのだ。そうすれば俺は暴力を振るわれない。大事なのは暴力を振るわれないってことだ。人によっては陰湿な方が嫌だって言うけど、俺は暴力の方が嫌いだった、謝って暴力を振るわれないならばそっちの方がいい。
今日も俺は記号化した謝罪をしてその場をやり過ごす。
「次は~街、~街」
俺はバスの声を聴く
「・・・」
ここで降りようと思って、ボタンを押す。すると車掌さんが止めてくれる。俺はふらふらになって帰宅する。何かスーパーで肉か買って料理しないと、いやいいや。俺は肉に手を伸ばすが、結局は弁当に手を伸ばす。
そんな風にいつも言い訳して一度だって料理したことは無い。何でかって言えば面倒だから。
スーパーから出た後、住宅地を歩いていく、そして俺はあるアパートの一室へと向かう。
カギを差し込んで中へ。
扉を開けて、部屋へ入る。
廊下を歩き、明かりをつける。
古臭いせいか、何処かかび臭い。
でも、文句を言ったところで何かが変わる訳ではない。
誰かに相談したところで、お前が悪い。頑張っていい部屋に住めと理不尽なことを言われるだけだから。別に・・・頑張ってない訳ではないと自分では思うんだけどな。スマホで動画を視聴する。
家にテレビは無い、テレビがつまらないからとかではない。
単に高いからだ、自分は金持ちになれば家に置いていいかもしれない。でも、今はちょっと難しい。
スマホだったら楽だ。
「~なんでやねん・・・あはは!」
なんかお笑いの動画を見て時間を潰す。無意味な時間、誰かと一緒に過ごす訳でもなく、孤独な時間を過ごす。スマホを片手に弁当を食べる、恰好はだらしなく、汚れたシャツに、汚い縞々パンツ。ちょっと黄ばんでる。女の子に嫌われるとか考えたことはない、どうせ好かれるような存在でもないし。今更着飾った所で意味は無いと考えてるから。なんというか、いかにも底辺を彷徨ってる男って感じだ。子供の頃はもう少し、自分は夢に向かって頑張ってるキラキラした大人をイメージしてたんだけどな。昼間は経済用語を普段使いして、夜は帰りにbarに行く。そんな洒落た大人をイメージしてた。でも実際は全くの別物だが。
「もう、寝るかな」
どうせ起きてても無駄に時間を過ごすだけだ。それなら明日への体力を回復するのに寝る時間を多く取った方がいい、風呂は・・・いいか・・・面倒だし。俺は歯も磨かないまま、食べかけの弁当が置いてある机に突っ伏すように眠りについた。
翌朝、俺はバスに乗って仕事に行く。
普段使いしてるから定期券を利用してる。
これは電子マネーや現金と違って見せるだけで無料になる。便利な代物だ、まぁ無料と言っても、定期券を購入するのに一万円ほど払ってるが。
「宮内 健治!」
来た、上司だ。
あぁ、すでに怒りのギアは入ってる。
よくもまぁ、毎日イライラできるものだ。
女性の生理すら、一か月に一回なのに、どうしてこのおっさんはいつもイライラ出来るのだろう?
「~!@#$%^&*()_+-={}[]|\:;"'<>/¶§★☆◇◆○●◎■□△▽!」
おっさんはいつも怒ってる。
俺もバカだなって思う。
いや、普段から怒られてて何だかストレスを無意識のうちに感じてたのだろう。だから、つい言ってしまう。
「人にそうやって怒鳴るの止めて貰っていいですか?
ストレスなんです」
俺は彼の怒りに酸素を流し込んだような気がした。
周りが唖然としてる、皆・・・何を驚いてるんだと思ったらすぐに気づいた、そうか、俺が吹き飛んでるのか。頬に鈍い痛みが走る。
「俺様のストレスを刺激するな、スマホを見るときも、トイレに行くと手を挙げるときも、食事をするときも、俺様の気持ちを考えて行動しろ!」
上司の声は低く、震えている。
それが倉庫の上司の久しぶりに聞いたセリフだった。以来、俺は目をつけられた、何かって言うと俺を呼び出して、暴力を振るってくる。周りはそれを遠くで見てる日々。関わりたくないってのがひしひしと伝わってくる。
「火来気町~、火来気町~」
「・・・」
俺はバスのスイッチを押して車掌さんに止めてもらう。一度も会ったことのないこの人が俺の話を聞いて止めてくれる、不思議なものだ。何度も顔を合わせてる上司が話を聞いてくれないのに、一度も顔を見たこともないこの人は俺の話を聞いて止めてくれる。
「大セール!今なら弁当が半額ですよ!」
スーパーでお姉さんが大声でアピールしてる。前だったら買ってたかもしれない、何だかでも今日は食欲すらなかった。
急いでアパートに帰りたい、あそこが俺の居場所・・・だ。
部屋に入ってすぐ、俺はマットレスに顔をうずめる。面倒だな・・・起きたくないな。
行きたくないな・・・面倒だな・・・面倒。
面倒・・・面倒って思うのも面倒。
めん・・・どう・・・め・・・ん。
め。
翌朝のことだった。
「お客さん、乗らないんです?」
車掌さんにそんなことを聞かれる。
「あぁ・・・行ってください」
「分かりました」
バスの運転手はそれ以上聞くことなく、俺の目の前を走り去っていた。
やってしまった、遅刻確定だな。
何故だか足が動かなかった。
俺の影が縫い付けられてるような気分だった。そこから離れられない、夜になれば俺は動き出せる。その頃には仕事はすでに終わってるだろうが。
スマホの画面に通話履歴が凄いことになってる、今まで見たこと無いくらいだ。
有り得るのだろうかってぐらいに。
100件の文字が、友達が居たこと無いのでこれぐらいの通話履歴は初めてだ。
なんて、どうでもいいことを思った。
電話の主は全てわかってる。
上司だ、無断欠勤。
悪いのは当然、俺だ。世間的に見てもどっちが悪かと問われれば俺が悪いと非難するだろう。でも、事情を知れば少しは考慮してくれないだろうか。俺だけが一方的に悪いという訳では無いことを。
一回サボってしまうと、なし崩し的と言うべきか、俺は職場にどんどん行きづらくなる。最初こそ通話の履歴が凄いことになっていたが、次第に俺の存在に飽きて来たのか、電話もしなくなってきた、きっと職場で言ってるのだろう。あいつはもう駄目だって。そしてあの上司は別のストレス発散相手を見つけて、新たな被害者が生まれるのだ。不思議なもので世間は悪を加害者ではなく、被害者だと言って被害者を追い詰めるのだ。そうして、暴力的な上司はどんどん増長して、彼は人を傷つけても尚、どうせ綺麗な嫁を手に入れて金も手にして幸せになる、それが世の中ってものだ。対して俺は何も手に入れることは無い。そんな人生。得たものよりも、失ったことを数える方が多い。
仕事をサボって、サボって、サボりまくったのだ。だから、当然のことだろう。
俺は仕事を首になった。
正当な理由で辞めた訳じゃないから、退職金だって出る訳じゃない。
ホワイトな会社だったら、もしかしたらこちらの事情を汲んで、今まで働いた分ということで退職金が発生するかもしれないが、俺はこういうブラックな場所でしか働いたことが無いので分からない。
という訳で俺は何も得ることなく会社を辞めた。
仕事が無いのだから、当然、住む場所だって無くなる。大家に金が払えないなら出ていけと怒られる、俺は抵抗することなく出て行く。前に見たことがあるのだが、家賃を払わなくても、強引に居座れば出て行かなくてもいいらしい。法律上は問題ないのだとか、それは民事の話らしく大家が裁判で訴えない限りは住んでる側に権利があるらしい。だから、人ってのは何て言うか、無神経なやつほど得をする気がする。俺は出て行けと言われたら、確かにそうだなと思って出て行く。でも、多分無神経な奴は俺を出て行かせるものならば、出て行かせてみろとばかりに強引に居座る、そうしてしばらくは安心して暮らせる。
そっちの方が得だろう、他人から嫌われるが。でも、それでもいいのかもしれない。俺はどうせ友達も居ないしな。だけど行動には移せず、俺は公園に行くしかなかった。
家の無い人間が行く場所と言えば、思いつくのはそこしかなかったから。
子供の時はこうなるなんて思ってなかった。
もっと立派な人間になると思ってた。
馬鹿にしてた気がする、ホームレスなんて馬鹿がなるものだって、で、俺はその馬鹿になった訳だ。
何処かで見たことあるような、ホームレス。
誰がか思い描いていたホームレスに俺はなってる。
ボロボロの服に、風呂に入ってない悪臭が漂う体。
そしてダンボールを布団代わりに眠る。
それが今の俺だった。
家族ともうちょっと仲良くしておくんだったな。
俺はかっこつけて、
一人前の男になると家を出て来た。
立派になるまで帰らないとか、親父は死ねとか。
ババアはうぜーとか、そんなことを言った気がする。
なんか会いにくい。
家に帰ってない、もう何年も。
今頃何してるかも分からないや。
でも、どうでもいいか。
俺はここで誰にも愛されることなく、
秋空の下で冷たくなって死ぬんだ。
多分、死骸はネズミにでも食われるんじゃないかな。
それが俺のラスト。
悲しい結末、ハッピーエンドじゃない俺の人生。
あーぁ、最高に面白い最後だよ。
空を見上げながらそんなことを思う。
ぴと、と突然のことだった。
誰かが俺の頬に何かを当てる。
それはほんのりと暖かかった。
「ねぇ、生きてる?」
「俺・・・か?」
「そうだよ」
最初、俺に話しかけられてるのか分からなかった。ホームレスってのは何て言うか、路上の小石みたいに存在しない者として扱われるか、ストレスを抱えた人間が頭から珈琲をぶっかけて来る、そういう人間のどっちかしか俺は知らなかった。
「これは」
「あげる」
それはミルクティーだった。
「どうして・・・俺に」
コートを着て寒さ対策をしてる女性。
マフラーを巻いて、オスロ帽を被ってた。
何だか洒落てる気がする。
「アタシのこと覚えてないかなぁ」
「職場の人間・・・いや違うな・・・どっかで」
「どぅーきゅーせぇーって言えばわかる?」
「そうか、お前はえっと、加奈?」
「正解」
加奈だと思われる女性は笑う。
「俺に何の用だ、見て分かると思うが金は無いぞ。貸した金を返せって言われても出せないものは出せない」
「違うよ、そのために来たんじゃない」
「なら、どうして」
「こんな所でさ、寝てたら風邪ひくよ?」
「そんなの分かってるさ、だが他に行き場所がないんだ。笑えよ、俺は昔、学校じゃそれなりに賢いって評判だったんだ。でもよ、俺の行きつく先はこれだ。他の奴らは車の整備工場で働いて月収100万円だってよ、はっ、笑えてくるね。俺より学力が低かったのに、運動神経が悪い奴だって居たのに、俺はあいつ等よりも出来損ないだって訳だ」
「そんなに自分を卑下しないで」
「卑下するさ、するしかないだろう。
道を歩いてたら、俺は見たんだ。同級生が塾の前で車を止めて娘を出迎えていたのを。娘が塾から出た時に抱きしめて頑張ってねって、父親は娘を抱きしめていた。20代でも結婚してるやつは結婚してる。そうして幸せを掴んでるんだ。それに対して俺はどうだ?恋人はおろか、友達も満足に作れず、職場の上司が嫌だって、思って逃げ出した。退職しますって、一か月前に言って止めたんじゃない。いきなり電話をしなくなって、職場に行かなくなって自然消滅みたいな形で辞めたんだ。一番カッコ悪いじゃないか、卑下するなって方が無理なんだよ、笑えよ、でなければ頭からミルクティーをぶっかけるか?」
「アタシはそんなことのために来たんじゃない」
「だったらなんだ?」
「アタシの家に来る?」
「加奈の・・・家に?」
「そう」
「おい、分かってるのか、ホームレスの男を迎え入れるってことの意味を」
「どうかな、ちゃんとわかってるっては言えないかも、アタシだってホームレスを家に入れるのは初めてだし」
「俺が女なら百歩譲って分かるぜ、襲う危険性が無いからな、でもよ、俺は男なんだぜ?性欲だってある、仕事もしてなくてぶらぶらしてるんだ、暇を持て余してるって言ってもいい、そんな男が家で寝てる女が居れば襲っても不思議じゃないだろう?」
「そうかもしれないね」
「だったら、何故、俺を迎え入れる」
「助けたいんだよ、君を」
「俺を助けたって何のメリットがある」
「メリットは無いかも」
加奈は苦笑する。
「俺をからかってるのか?」
「そうじゃないよ、助けたいってのは本当」
「分からない」
「君は信じれないかもしれないけど、アタシはね。学校に行ってた時にカッコいいって思ってたんだよ。確かに今は、その、ホームレスかもしれないけど、学校に居た時の君は確かに輝いてた。学校で一番って訳じゃないけど、一生懸命努力してたし、運動は出来てる方だと思う、勉強だって一番じゃないけど、上位には入ってたし」
「・・・」
俺は黙る、努力してたことを見てくれる人が居たんだと少し嬉しくなる。
結果を褒められるのではなく、努力を誉めてくれたのが嬉しかった。
「君がここで死ぬのは何だか寂しいな。
だから、家に来てよ」
「俺は汚いぞ」
「風呂に入れば落ちる汚れだから」
「金は払えないぞ」
「大丈夫・・・かな・・・多分」
「共倒れになるぞ」
「その時はその時かな」
「本当に行くぞ」
「うん、来て」
加奈は俺に向かって手を差し出す。
ホームレスに対して公衆トイレの水に落ちた、噛み終わったガムを見るような目を向ける人間たちとは違う目だった。それは敬虔な信徒が貧しい人間に施しを与えるときの穢れなき美しい瞳に俺は見えた。
それは同じようにアパートだった。
とはいえ、俺が住んでる所よりか綺麗だった。
俺は虫と一緒に住んでるんじゃないかってぐらいの汚さだったが、彼女の住んでる家は俺の所より綺麗で人が住んでると思える場所だった。
「今日から、ここが君の家だよ」
「俺は・・・何をしたらいい」
「え?」
加奈はきょとんとしていた。
「だって、そうだろ、
金が無いんだから、俺は何かをしなくちゃいけない。そのために俺を呼んだんだろ?」
「ううん、何もしなくていいの」
「何もって、何かはあるだろう」
「何も、しなくていいの」
「何もって」
俺は戸惑う。
今までそんな無条件な愛を与えられたことが無いので、取引というか、等価交換のようなものが俺の精神構造の根幹にあったから違和感が。
「強いて言えば、そうだな。
強盗が入ってこないように見張ってて欲しいかな」
「家から出るな・・・そういうことでいいんだな」
「でも、ずっと家も嫌でしょ。
散歩とかしていいよ」
「それは・・・見張りなのか?」
「見張りだよ!すっごく役に立つんだから」
加奈は微笑む。
「まぁ、それが求められてることならば俺はそうするさ」
「求めることをするんじゃなくて、大事なのは君が何したいか」
「俺が?」
「そう」
と言われても思いつかない。
俺という人間の底の浅さを突き付けられたような気分だった。
「俺は・・・その・・・」
「何がしたい?」
加奈は俺の目をじっと見つめて来る。俺が言う、言葉の真意を探るような感じだ。話を聞きたい、理解したい、そんな風に思えた。
「今は・・・何も」
「そっか、じゃあ家でゆっくりしてたらいいよ」
「いいのか?」
「うん、そのために家に呼んだんだから」
「俺が努力して、将来君に何か恩返しをしなくちゃいけないんだろ?」
「それは君がしたいこと?」
「したいとか、そういうことじゃなくて」
俺がやろうとしてるのは、やりたいからではない。与えられたから返す、それが自然だと思うからそうする。楽しいからとかではなく、義務感からそうする。
「うーん、そういうのは嫌だなぁ」
加奈は不満そうな顔をする。
「俺の言ってることは可笑しいか?」
「可笑しくはないんだけど」
「ないんだけど?」
「つまんないなぁって」
「つまらない・・・」
俺の心に少しずきっと痛みが走る。
「例えばだよ?君が、アタシのために、一生懸命仕事して、家に金を入れて、それは全部女の子のために使う。休みの日はアタシの好きな場所に連れてってくれて、アタシにあったら何でも褒めてくれる、それってどう思う?」
「どう、って優しい男だって思うよ。多分だけど、そういう男が世の女性の理想なんじゃないかな」
「世の中が、どう、ではなくて、君はそういう生き方をもしも選んだらどう思う?」
「どうって、立派な男性になったって思う」
「本当に、それが君の気持ち?」
「本当・・・」
今一度、自分に問いかける。
俺の奥底にある心を引っ張り上げてみる、それは深海にあるような気がして、引っ張り上げるのに時間がかかるが、でも、それは紛れもなく俺の心であり、俺の本心だろうと思う。
「お願い、時間をかけてでもいいから最後まで聞かせて、怒らないし、殴ったりもしないし、家を追い出すとか無いから」
「多分だけど、その、辛いんじゃないかな。俺の心は。女の子の悪い部分が見えたら文句を言うだろうし、金だって自分が欲しいものがあれば女の子へのプレゼントじゃなくて自分へのプレゼントを買うと思う。嫌なことがあったら怒鳴るだろうし、そういう意味で言えば俺はあさましい人間だと思う」
善性の高い人間であれば、そうは思わないんだろう。だけど俺は究極、自分が好きで、自分が一番だ。
だから、女の子ために全てを投げうって相手を喜ばそうとするのは出来ない、多分、何処かで限界が来る。
「そっか、それが君の気持ちなんだね」
「一緒に居るのは嫌か?」
「ううん、君の本音って気がして好きだよ」
加奈は微笑んでいた、聞きたかった答えがそこにあった顔だった。
「そうか」
俺は受け止めてくれた気がして嬉しかった。
「アタシはね、そうやってしてくれる男性が居るのは事実だと思うし、否定する気もないよ、でもね、アタシが好きだなって思う人がアタシのために全てを投げうってくれたとしても、一緒に居てとても辛そうなら、嫌だなって思う、それが結果的にアタシの損になってもね」
「加奈・・・」
「家でゆっくり休んで、今はやりたいことが無いかもしれない。でも・・・きっと・・・そのうち・・・やりたいって思えるものが見つかるよ」
「分かった・・・見つかるかどうか分からないけど・・・どうせ俺は他に行く場所なんて無いんだ・・・君が飽きるまでは一緒に居るよ」
「よろしくね、健治君」
「あぁ」
俺はこうして彼女に拾われた。
不思議な日々が続く。
家に居るから家事をしろとか、そういうことを言われる訳でも無かった。
ただ、俺が今日何をしていたかを気になって毎日尋ねて来る加奈。
夜、小さなテーブルを挟んで4畳半の部屋で話しかけて来る。
「ねえ、今日は何してた?」
「何って、寝てただけだよ」
「そっか、気持ちよかった?」
「まぁ」
「そっか、そっか」
「・・・」
「・・・」
外に出てないのだから、会話のネタがある訳じゃない。仕事をしていたら、会食があったとか、上司の接待ゴルフに付き合わされたとか話が出来るだろう。でも、家に居るのだから俺が出来る話は無い。それでも彼女は飽きずに、何度も俺と同じ会話を繰り返す。
「今日は何してた?」
彼女は変わらぬ笑顔で俺の顔を見ながら聞いて来る。
「寝てたよ、何もしてない」
「そっか、そっか」
「あぁ」
「・・・」
「・・・」
加奈は俺から話を聞き終えると満足そうにする。穏やかな会話、家に居るんだから家事ぐらいしたらどうとか、家賃を収めないとこっちだって苦しいんだとか、そういうことが一切ない、本当に穏やかな時間。内心、何か思う所はあるかもしれない。でも、加奈の口から一切、不満が出ることは無かった。
加奈は、俺に料理をしろとか言う人間ではなかった。疲れて帰って来るんだから、料理ぐらい作ってよ。とか聞いたことが無い。
「健治君」
加奈から話しかけて来る。
「なに?」
「じゃーん、唐揚げ弁当」
半額シールが貼ってある弁当を得意げに見せて来る。
「半額だ」
「安かったから思わず買ったんだぁ」
加奈はウキウキだ。
袋から出て来たのは二人分。
いつも、俺の分を一緒に買ってくる。
食べたいのならば自分で働いて稼いで買えばいい、そういう事は一切言われない。
「食べていい?」
「いいよ~、そのために買ってきたんだから。健治君、弁当あっためる?」
「あぁ・・・」
「えーと、耐熱皿はっと、これかな」
彼女は皿を取り出す。
「・・・」
俺は彼女の後姿を眺めるだけで、何もしない。
「えい」
彼女は皿に弁当をひっくり返して乗せる。
唐揚げがご飯に埋もれる。
「豪快だな」
俺はつい、思わず笑ってしまう。
「あはは、面倒でつい」
加奈は笑う。
「君って面倒くさがりだったんだ」
「そうだよ、アタシはそんなに努力家じゃないんだ」
「でも、俺を支えてくれてる」
「それは別」
「別か」
俺は何だか可笑しくって笑う。
2人してレンジの前に立ってる。
別に立つ必要は無いのだが、中で温まる様子を並んで眺める。
「回ってるね」
加奈が話しかけて来る。
「回ってるなぁ」
電子レンジの台が回転してる。
回転しないタイプもあるが、
加奈の家にあるレンジは回転するタイプのようだ。多分、最新のレンジは回転しない。このレンジは使い古された感があるというか、多分古いやつなんだろう。
だから回転式なのだ。
ちーんと音がなる。
レンジの扉を開ける。
「あっ」
「どうしたの?」
「1つの皿でやっちゃった」
唐揚げ弁当2人分を1つの皿に強引に乗せてある。
「まぁ、節約できて良いんじゃない?」
別々に2皿だったら、単純に考えて2回電子レンジを使うことになるから電気代が安くなると思っての言葉だった。
「アタシと同じ皿だけど平気?」
「問題ないよ」
「そっか」
加奈は皿をテーブルに運ぶ。
そして、箸を用意する。
「食べるか」
「うん!」
加奈は跳ねるように声を出す。
そして食事が始まる。
「あ」
俺は気づく。
唐揚げが下に来たことで、熱が集中したんだろう。少し焦げていた。
唐揚げの揚げた香ばしそうな茶色ではなく、失敗を如実に表す炭色。
「やっちゃった、ごめんね。健治君」
「平気、それに俺は言える立場じゃないし、食べれるよ」
「健治君?」
加奈は少しむすっとする。
「あぁ・・・えっと・・・焦げてる部分は・・・取り除いた方がいいかな?」
「そうだね!」
加奈はにこっと笑う。
俺が自分を卑下して、言いたいことを我慢してるように捉えたのかもしれない。彼女は俺が本音で生きることを凄く望んでる気がする。純粋に俺に幸せになって欲しいというか、そういうのを感じる。
そのことに関して何もしない俺は申し訳ない気持ちになってくる。でも、彼女は俺に何かして欲しいと一度も言ったことは無かった。
だけど、きっと奥底では何かしてくれた方が嬉しいって思うかもしれない。俺はそう思って、あることを始めようと思ったんだ。
家事が少しでも出来たら・・・きっと違うって。
だから、ある日の事。
俺はスマホのメッセージを加奈に送る。
スマホは当然、彼女の名義で、彼女が払ってくれてる。
俺はどうせ家に居るだけだし必要ない。
そう伝えたら、心配だからと言って契約した。
だからスマホを持ってるんだ。
そして、今日。
彼女にあるメッセージを送った。
普段、俺から送ることなんて滅多にないし、
だから余計に驚いたと思う。
(俺の分の弁当さ、買ってこなくていい)
そういうメッセージだ。
すると、ものの数秒でメッセージが返ってくる。
まるで未来でも見て来たみたいに早い返信だった。
(お腹が減っちゃうからダメ。
お弁当は買うよ、アタシは負担じゃないから。
生きるの飽きたの?諦めないで、アタシ・・・話聞くから・・・だから・・・もう少し生きよう?)
それが加奈のメッセージだった。
何処までも優しさに溢れたメッセージで心が温まる。俺はこんなことを彼女に言ったことないし、多分だけど、これからも言えない甲斐性無しの男だと思う。でも、今日は少し一歩踏み込んだことを伝えたかった。
(違うんだ、加奈。
お弁当の代わりに、食材を買ってきて欲しい)
(え?)
加奈は純粋にそう思ったのだろう。
短く、そんなことを言ってきた。
かなり驚いてるなと俺は思った。
(料理を・・・してみたいなって)
俺から前向きな部分が残ってたんだと自分でも驚く、だから彼女が驚くのも無理はない。
(うん、わかった。料理番組みたいに古今東西、あらゆる食材を持って行くから)
彼女はメッセージの最後に泣き顔のスタンプを押してきた。多分だけど、感動ってことだろう。期待に応えられるかどうか分からないけれど、俺は挑戦しようと思った。
ぴんぽーんとチャイムの音がする。
加奈が帰ってきたのだろう。
そう思って、俺は玄関に向かう。
知らない人が来たら怖いのでのぞき窓から玄関の外を確認する。
すると、そこには見知った顔が居た。
勿論、加奈だった。
「はーい」
俺は扉を開ける。
すると驚く光景がそこにあった。
「はぁ・・・はぁ・・・ただいま」
荒い息をしてる。
彼女は両手いっぱいに袋を抱えていたからだ。
その袋の中には食材がいっぱい。
ネギとか、なんかよく分からない魚の尻尾とかが袋の外から飛び出てる。
「お帰り、どうしたの、それ」
「健治・・・君が・・・はぁ・・・お料理したいって言うから・・・はぁ・・・食材が・・・はぁ・・・はぁ・・・足りないってなったら・・・やる気を無くすかなって・・・」
「弁当のついでってぐらいに思ってたんだけど、まさか、そんなに買ってくるとは」
「ごめん、プレッシャーかな?」
「いや、大丈夫、作ることは作るよ」
「そっか、良かった」
「でも、こんなに作れるかな」
「大丈夫、残った分の食材はアタシが活用するから」
「料理出来るんだ」
「プロってほどじゃないけどね、
それなりには出来るよ」
「そうなんだ」
「そうなんです」
加奈はむふーって感じで、腰を少し後ろに引いて自信があるように見えた。
「とりあえず、食材を中に運ぼうか」
「そうだね、いっぱいあるから大変だ」
「じゃ、運ぶね」
俺は袋に手をかける。
「うん」
俺は袋を持ち上げる。
あまりの重さに俺は袋を落としてしまう。
まるで、袋の意思があって、その意思に引っ張られたような感覚だった。
「わ、大丈夫?」
加奈は驚いていた。
「あ、あぁ・・・卵とか無い?」
足とかに落とした訳では無いので、
俺にダメージがあるわけではなかった。
しかし、袋の中身はそうではないだろう。
袋にダメージが行くと不味い物の代表と言えば卵だと思った。
「え?」
彼女はあっ、って感じの顔をしてる。
「マジ?」
俺も思わず、やっちまったって思った。
「卵・・・買ったんだ」
「嘘だろ?」
俺は思わず、袋の中を確認する。
すると、中に割れた卵があった。
10個入りのやつで、内7つくらいは割れてる。
「だ、大丈夫。卵焼きとか作れば」
彼女は慌てて俺のフォローに入る。
「オムライス・・・」
「え?」
「オムライスを作ろう」
「健治君・・・」
「ちょうど、作ろうと思ってたんだ。
これなら卵を無駄にしないし・・・俺・・・好きなんだ」
「うん、いいと思う。アタシも好きだし」
「袋のままだと運ぶの難しいから、中身を1つずつ冷蔵庫に運ぼう」
「分かった」
俺と加奈で手分けして運んでいく。
冷蔵庫の中へ食材を入れていく。
それはパズルのような作業に思えた。
「長方形のチーズケーキに、凸型のトマト、正方形の厚揚げ、L字のチョコ、なんかうまく組み合わせられそうな気がする」
「えー、そうかなぁ?」
加奈は分からないのか、分かってる上で惚けてるのかどっちか分からない態度をとる。
「よし、うまく嵌った」
「おー、綺麗だね」
ピタっと綺麗に嵌って見栄えが良い。
料理を作る気だったが、少し整理に夢中になってしまった。
「凄い綺麗だし、凄く上手に嵌めたなって思うよ、健治君。でもね、アタシ、少し疑問に思ったんだけど」
加奈は何故だか褒めては居るが、何かを隠したように話しかけて来る。
「なに?」
「これ・・・取れなくない?」
加奈はとてもシリアスな顔をしてる。
ジェンガのブロックの如く、取り出してしまったら崩壊しそうな雰囲気があった。
「ごめんよ、俺がバカで」
俺は整理に夢中になって、
こういうことになると思わなかった。
それで落ち込んでしまう。
「あーーっ、そういう訳じゃないの、うん、大丈夫、アタシ、ジェンガ抜くの得意だから!わーっ、楽しそう!」
加奈は一生懸命言葉を選んでフォローする。
「ありがとう、ごめんね、俺は馬鹿で」
「ううん、全然いい、平気、問題ない!」
加奈はぶんぶん両手を振って大丈夫だとアピールしていた。
「はぁ・・・」
俺は落ち込む。
「あ、あのさ」
加奈はおずおずと俺の顔を覗き込むように見て来る。
「なに?」
「やっぱり、作らないとかは」
「大丈夫、料理は作るよ」
「良かった」
加奈は安心した顔をする。
俺がやる気を失って、やらないってなるのを杞憂したんだろう。
「オムライスって言えば、チキンライスからだよね」
「うん、そうだと思う」
チキンライスって言葉の定義は定かではないが、俺が思うチキンライスってのは、ケチャップライスか、デミグラスソースライスのどっちかだ。要は洋風味付けご飯ってことだ。
「さっそく作ってみるよ」
「分かった」
「1人で作ってみたいんだけどいいかな」
「うん、じゃアタシはスマホで流行りの動画でも見て待ってる」
加奈はキッチンから姿を消した。
遠くのリビングでスマホを見ながら、ごろんと横になってる姿が見えた。
「さて、やってみますかね」
俺は料理に取り掛かる、
といっても、やることは大したことない。ケチャップライスを作り、炒めるだけだ。それでいい筈。
ボウルにご飯とケチャップを投げ入れる。で、フライパンで炒めた。
木べらで、かき混ぜる。
火を通すと、香ばしさが広がる。
「ん、良い香りがする」
加奈の鼻を刺激したようだ。
「味見してみる?」
火を止めて、俺はフライパンにスプーンを刺す。
「うん」
リビングで横になってた加奈は俺の傍に近寄ってきて、フライパンに刺さったスプーンを回収する。
そして、それを口に運んだ。
「どう?」
「ん-ーーーっ、しょっぱい!」
「しょっぱい?」
「しょっぱいよ、水!」
「あぁ、ほら」
俺は水道の蛇口をひねって、コップに水を注ぐ。加奈は俺から強引に奪って一気に水を飲みほした。
「ぷはぁっ」
海に囲まれた孤島で飲める水源を見つけたんじゃないかって思う程の飲みっぷりだった。
「ダメか・・・」
俺は料理に失敗して落ち込む。
「ダメじゃない、ダメじゃないよ」
加奈はフォローする。
「これは失敗だよ、はぁ、やっちゃった」
俺は足でゴミ箱のペダルを踏む。
そして、フライパンに手をかけて捨てようかなとしていた時だった。
「大丈夫、持ち直せるって」
「どうやってさ」
「任せて」
加奈は白飯を持ってきて、どかっとフライパンの中へ入れた。
先ほどまで真っ赤だった飯は綺麗なピンク色に変わっていく。
「おぉ」
「これならしょっぱさを緩和出来るでしょ」
「凄いね、加奈は」
「えへへ、そうかな」
俺に褒められて、加奈は嬉しそうな顔をする。花に水を与えた時みたいだった。
「やっぱり、俺一人で作るなんて無理な話だったんだな」
俺は落ち込む。
1人で出来ると意気込んで、スマホでレシピも見ないで頑張ろうって思ったのがダメだった。素直に格好つけずにレシピを見ながらやればよかった、いや、レシピを見ながらでも、所詮俺では失敗するだけかもしれない。
「なら・・・!」
「え?」
「2人なら!うまくいくと思う…」
加奈は顔を赤くしながら俺に伝えて来る、恥ずかしそうだった。
「そっか、2人なら出来るかも」
「そうだよ、きっと上手く行くよ」
「何だか勇気が湧いてきた気がする」
「うん、その調子」
加奈は俺の事を励ましてくれた。
「それじゃ、加奈はコンソメスープを作って欲しい」
「分かった」
「こんな感じなんだけど」
俺はスマホで調べたレシピを見せる。
そこには大体、こう書いてあった。
にんじん、じゃがいも、キャベツを食べやすいように切って、市販のコンソメパウダーを投下。という料理。
そこまで難しくないかなって思ったのだ。パテ・アン・クルートのような料理をいきなり作ろうとしても素人には絶対に無理なので、ここら辺が妥当かなと思ってのことだった。
「ok,任しといて」
加奈は自信満々だった。
「よし、それじゃあ俺は自分のやることに集中してよう」
味加減を間違えてしまったからな。
次は少量を意識しよう。
最初は味をしっかりつけなきゃって思ってたから失敗したんだ。
でも、次はちょっとずつって思えば成功する筈。
「あっちゃーーーーーっ!」
いきなり隣で加奈が騒ぐ。
「どうしたの?」
俺は何が起きたか、すぐ理解した。
鍋が沸騰して水があふれたのだ。
「あはは、やっちゃった」
加奈はけらけら笑う。
地面に思いっきり水が散らばってる。
「加奈、火傷は?」
「平気、平気。仮にしても平気」
「ダメだよ、痛いよ?」
「あはは、心配してくれてありがとう。
健治君」
加奈は俺と握手する。
「何故」
「そんな気分だったのさ~あははっ」
加奈は楽しそうだ。
いや、いつも明るい気がする。
暗い俺とは対照的に。
俺が暗くても、彼女が居ると自然と俺の世界に光が差し込む気がする。
どれだけ扉を閉めても、隙間から光が漏れ出て俺の部屋を明かりで侵食する。
「怪我はしてないみたいだし、大丈夫かな」
「うん、このまま料理続けよ~♪」
「でも、床は掃除しないと」
「いっけね、そうだった」
「俺やっとく?」
「健治君は料理してて、地面を汚したのはアタシだしさ」
「そう?」
「うん、こっちは任せて」
加奈は雑巾を持ってきて床を拭く。
「加奈がそう言うし、俺も続きを作るかな」
俺はオムライス作りに集中することにした。
卵を割って、ボウルの中へ入れる。
「えっと、卵をかき混ぜて」
シャカシャカと箸で混ぜていく。
「良い感じだね」
隣で雑巾を持った彼女がそんなことを言ってくる。
「ボウルに雑巾の汁が入りそうだから、ちょっと遠くに行って」
「あー、酷い。素っ気ないんだから」
「ち、違うって。衛生観念とか大事だろ?」
「ふふっ、分かってるって」
加奈は雑巾を持って洗面所へ向かった。そこで雑巾を絞って置いて来るのだろう。
「えっと、といた卵を・・・」
俺はフライパンの上に流し込んでいく。
「ど~う?」
加奈は雑巾を置いてきたのだろう。
両手が空いた状態で戻ってくる。
「今、入れたばかりだから」
「そっか」
俺は固まるのを待つ。
今はどろどろとした液体のまま。
「ん?」
それは急に来た。
卵が一気に固まり始めたのだ。
火が入ったのだろう。
「あー、固まってるよ」
加奈は隣で言ってくる。
「分かってるって」
俺は焦ってどうにかしようとする。
でも、上手くいかない。
何て言うかぐちゃぐちゃだ。
綺麗な楕円形の店で見るような感じにしたかったのに、これじゃスクランブルエッグだ。
「あー・・・」
隣で見てた加奈が失敗したって感じの顔をしてる。
「ごめん、やっぱり俺ってば上手くいかないや」
「ううん、大丈夫だよ。調味料とか入れてないでしょ?」
「あぁ」
「それだったら、普通に食べれるよ。
別に焦がしたとかって訳じゃないし」
「そう?」
「うん、だから落ち込まないで。ね?」
「そう・・・言うなら」
俺は失敗したけれど、気持ちを持ちなおそうとする。ここで変なことを言って彼女と喧嘩になるのは嫌だし。
「ね、もうちょっと頑張ろう?」
「あぁ」
俺はスクランブルエッグになったやつを、先ほどのチキンライスの上に乗せる。
「良い感じだよ、美味しそう」
「そうかな」
「うん、とっても」
「なら、いいんだけど」
俺はオムライスを盛り付けていく。
「アタシの方も良い感じ」
加奈はコンソメスープを俺の様子を見ながら作ってたようだ。俺は自分のフライパンだけに集中していたので、器用なものだなと思う。
「良い香り」
「味見してみる?」
「あぁ」
俺は自分でスプーンか何かを差し込んで、味見するつもりだった。でも、加奈はそうじゃなかったようだ。
「はい、あ~ん」
「え?」
俺は驚く。
加奈の持ってたスプーンにスープが入ってる。それを俺の口に持ってこようとしていた。
「どうぞ、召し上がれ」
「た、食べれないよ」
俺は照れくさくって顔を赤くする。
女の子からのあーんって緊張する。
「そっか、出来立てだから暑いよね。
ごめんね、気を遣えなくて」
「いや、そういうことでは」
単に俺が恥ずかしいだけなのだが、
彼女は勘違いをしていた。
だからなのか、余計に恥ずかしいことになる。
「ふーふーしないとね」
「えぇ?」
「ふーっ・・・」
彼女はスプーンに息を吹きかける。
「それは余計に恥ずかしいのでは?」
「はい、どうぞ。
それとも、スープに息を吹きかけられるのは嫌だった?」
「別に、俺は潔癖って訳じゃないから。
多分、嫌な人は嫌だと思うけど。
俺は、その、気にしないし」
「それなら遠慮せずにどうぞ」
彼女はずいと差し出してくる。
俺はそれを自分の口へと運ぶ。
「どう、美味しい?」
「まぁ、まぁ」
「まぁまぁかぁ、もっと頑張らないとだなぁ」
加奈は苦笑する。
俺がまぁまぁと言ったのは微妙という訳ではなく、素直に何だか美味しいって言うのは照れくさいだけだ。
「早く、食べよう。俺のオムライスが冷めるし・・・」
「そうだね、食べよ~♪」
加奈はルンルン気分でスープを皿に盛りつける。
何だか、俺の言葉に傷ついたかもしれないが、笑って誤魔化してるようにも思える。俺の考え過ぎだろうか?素直に褒めれば良かったかなとかそんなことを思う。
テーブルの上にはオムライスとスープの2種類が盛り付けられる。
「じゃ、食べようか」
「そうだね」
「頂きます」
「いっただっきま~す♪」
加奈は明るく言う。
「・・・」
俺はスプーンを自分で作ったオムライスに差し込む。そして、すくい上げて口に運ぶ。
「どう?」
加奈は感想を聞いて来る。
「まぁ、良いんじゃないかな」
加奈がしょっぱさを調整してくれたからか、それなりに食える味になってると思う。
「どれどれ、アタシも」
「・・・」
人が食べるのは緊張する。
別にプロって訳じゃないから、人の批評何て気にしなければいいのに、性格だろうか。気になる。
「美味しい~♪」
加奈は笑う。
それも、とても嬉しそうに。
「そうかな、別に店と比べると大したことないんじゃないかな」
「そんなことない、最高だよ。健治君」
加奈はがつがつと食べていく。
それこそ思春期の高校生みたいによく食べる。
「そうか、そっか」
加奈が嬉しそうに食べる。
その顔を見て、俺の心の中で何かが宿った気がした。
「美味~い」
加奈は美味しそうに食べる。
「あの・・・さ」
「なぁに?」
「俺さ、料理の・・・仕事・・・興味あるか・・・も」
俺はぽつり、ぽつりと雨のように途切れながら言葉を紡ぐ。
「・・・」
加奈は無表情になってスプーンを持った手を止める。
「俺、まずいこと言ったかな」
その顔に恐怖を感じて、俺は思わずそんなことを言ってしまう。
「健治君!」
バンと加奈はテーブルを叩く。
「な、なに?」
俺は少し怯む。
身体を加奈から遠ざける。
「やりたいことが見つかったんだね、おめでとう!」
加奈は笑顔を向けて来る。
あぁ、杞憂だったな。
そういう子だってわかってた筈なのに、怒らせたと勘違いしてた。
「うん・・・やってみないと分からないけど・・・挑戦して・・・みたいかも」
「いいね、アタシ応援するよ」
「そう?」
「うん、頑張って!」
加奈は俺の手を握ってぶんぶん握手する。俺は少し痛かったが、今は嬉しさの方が上回った。
料理をするってのも考え無しって訳じゃない。接客だったらあの、嫌な上司と出会う可能性がある。
向こうにも非はあると思う。
でも、ああいう性格だから向こうは非を認めないだろうし、何より俺もバックレたって事実がある。それがあるせいで、世の中から共感は得にくいだろう。ああいう上司は何処にでも居る、逃げ出したお前が悪いって。でも、厨房ならば接客はしなくていいし、上司と会わなくて済むかも。という狙いもあったのだ。
何処か、飲食店を探してみようかな。近場の方が行きやすくていいかも。なんてことを考えてた。
「ご馳走様」
俺は手を合わせて食事が終わることを告げる。
「ごちそうさまでした」
加奈も両手を合わせて礼儀を出す。食への感謝、これを忘れるのはきっと良くないだろう。
そう思ってのことだった。
翌朝の出来事だった。
布団から起きると、傍に居る筈の加奈が居ない。
まぁ、普通に仕事に行ったんだろう。
俺は怠惰な生活を送ってる。
ゆっくりと起きて、鏡を見る。
社会的に底辺の顔だなと自嘲する。
起きてても暗いことを考えるばかりだ。もう一度寝ようかな、とか思った時だった。
スマホに連絡が入って来る。
スマホに連絡が入るなんてのは、加奈以外あり得ない。
画面を見たら、案の定というべきか、加奈だった。
俺はスマホを取って電話に出る。
「おはよう、どうしたの」
「外見て、外!」
加奈はテンションが高い。
朝から、よくこんなテンションだなと思う。
俺は窓を開けて驚く。
道路に屋台があった。
加奈が押して運んできたのだろう。
「どうしたんだよ、それ」
「健治君が・・・使うかなって」
「えぇ?」
俺は戸惑う。
「ごめん、迷惑だった?」
「迷惑って言うか、これ、どうしたんだよ」
「中古でね、買ってきた。
100万したんだ」
「安くない買い物だな、大丈夫なのかよ」
「大丈夫、取り返せるよ、きっと」
「飲食店でバイトもしたことないのに、いきなり大丈夫なのか?」
「大丈夫だよ、うん、いける」
「というか、俺は最初、飲食店とかでバイトとかしてって思ってたのに」
「あれ、そうなの?」
「いきなり屋台って・・・」
「てっきり、アタシは屋台するのかと」
「その選択は珍しいんじゃないかな」
「返してこようかな」
「い、いや、その、驚いたけど。
挑戦してみるよ」
「本当?」
「あぁ、屋台だから自分の店だ。
誰に遠慮することも無く、自分の好きなように出来るよ」
「頑張ろう、健治君。
出来るよ、きっとさ。ダメでも、またアタシが支えるからさ。出来る所までやってみようよ」
「そう・・・だね・・・うん・・・頑張る」
駄目でも、加奈なら支えてくれそうな気がした。俺は無職になっても不安では無かった。彼女はどうかは知らないが、少なくとも俺は、そう思えた。
そうと決まれば行動は早かったと思う。講習会に行って、保健所の許可を貰って、道路の使用許可を貰って、
火気使用の許可を貰って、開業届を出したので、多分合法的に活動できるだろう。
そうして、俺は無事に道路で屋台を開き始めた。太陽の下で、午前の時間に開店準備を始める。
「お客さん、来ると良いね」
加奈は笑ってる。
いつも、本当によく笑う人だ。
「あぁ」
料理屋台の名前は宝船という名前にした。
屋台を船に例えて、宝は金持ちになれるように。のれんにはたからぶねとひらがなで一文字ずつ入れてる。
「ごめんね、アタシはあんまり入れないけど」
「いいよ、俺一人でも平気」
「心配になったら言ってね、いつでも駆け付けるから」
「分かったよ」
加奈は昼間は手伝えない。
それは今やってる、化粧品販売の仕事を手放せないからだ。なんか前に、アマゾンの奥地か何かで取れた特別なエキスが入った化粧水を売ってるらしい。本人も効能があるのか良く分かってないが、仕事なので売ってるという感じの事をしてると前に聞いたことがある。
俺がもし、仮にやっぱりダメだってなった時に、加奈の生活費が生命線だからだ。俺を見捨てるという選択をすれば生きるのが楽になるだろうが、加奈はその選択をしない人だから、それなら解決策として、そういう選択するのは納得できる。俺1人で心細いが、仕方が無いのだ。
「それにしても、健治君。眩しいの?」
「いや、そういうんじゃないよ」
俺がサングラスをしてるから、
そう思ったのだろう。
「じゃ、何のため?」
「知り合いに会ったら嫌だなって思って」
「あ~、なるほど」
「バレるかもしれないけどね」
「大丈夫、健治君だって分からないよ!
街中で出会って話しかけられても、ナンパだって思って、きっとアタシはスルーしちゃうね!」
「それはちょっと寂しいなぁ」
「アタシは分かるよ! でも世の中の人は分からないと思うなぁ」
加奈は訂正する。
「そっか」
俺は笑う。
「それじゃ、そろそろ遅刻するから行ってくるね」
加奈はOLの恰好でバックを持ちながら、手を振って俺の事を送り出す。
「あぁ」
俺も手を振る。
「頑張ってねーっ!」
遠くに行っても加奈は手を振ってる。
「・・・」
俺も手を振る。
「頑張ってーーーーーーっ」
加奈がコメ粒ほどに見えるほどの距離に行っても何だか応援する。
「ちょっと恥ずかしいな」
俺は少し顔を赤くして手を振り続ける。
そうしてようやく加奈の声が聞こえなくなる。
仕事を始めようかな。
俺は準備に取り掛かる。
さぁ、客よ。
何時でも来い。
そう、身構えてたんだ。
夜になって、加奈がやって来る。
「どう?急いで戻ってきたんだけど、手足りる?」
加奈は駆け足で戻ってくる。
「手が足りるって言うか、有り余るって言うか」
「どういうこと?」
加奈は不思議そうな顔をする。
「客が来ないんだよ、1人も」
知名度が無いからなのか、一切の客が来ない。
普通、新店を開いたら物珍しさに1人ぐらい来ても良さそうなのに。
全くの暇である。
「あーー・・・」
加奈は言葉を失う。
なんて声をかけていいか分からないのだろう。
「やっぱり、俺に才能何て無いんだ」
あまりも客が来ないから自信を無くす。
「で、でも始めたばかりじゃない。
これから、これから!」
加奈は俺を励まそうと懸命にアピールする。
「分かった、もう少しだけ続けるよ」
「うん、それがいいよ」
「でも、今日はこれ以上続けても来なそうだし止める」
「そうだね、明日頑張ろう?」
「あぁ」
俺は屋台を片付けて、家に帰宅する。
売り上げ0。
このままで本当に屋台の分の金を取り戻せるのだろうか。俺は不安を感じてた。
翌日の事だ、俺は昨日のように屋台で客を待つ。
相変わらず暇だ。
加奈は仕事で居ない。
今日も何もせず一日が無駄に終わっていくんだろうな。そんな風に思っていたころだ。
夕方の時間帯、客がやって来る。
「やってる?」
「やってます、何にします?」
「ロモサルタード」
「えっと、なんです?」
「だから、ロモサルタード」
「少々お待ちを」
俺は聞き馴染みのない料理に驚く。
スマホで調べてみると、ペルーのステーキ丼みたいなものだと分かった。
「出来る?」
「自信ないですが、挑戦してみます」
「不味かったら金は出さないぞ」
「え・・・えぇ・・・」
プレッシャーだ。
チャーハンとか、野菜炒めとか言われるなら分かるが海外の料理名を出されるとかなり困る。
でも、やらないとは言えなかった。
せっかく来てくれたのに逃してしまったら次が無いからだ。でも、料理に自信がある訳じゃないしなぁ。
とか、思うが、スマホでレシピを見ながらやってみるしかない。和風料理店とか、中華料理店とか、つければよかった。じゃないと、こうして謎の料理を注文される可能性があるって思わなかった。
「・・・」
客は俺のフライパンをじっと眺める。
「・・・」
俺はその視線に耐えながら、フライパンを振るう。
牛肉、玉ねぎ、トマトを炒める。
それをご飯の上に乗せるという感じ。
調味料は日本人に馴染みやすい、しょうゆらしい。
彩りに、パセリをちぎって乗せる。
「出来たか?」
「お待せしました」
俺は丼に出す。
「・・・」
男はスプーンで食べる。
「どう・・・ですかね」
何しろ初めて作ったのだ、味がいいか分からない。
「1000円」
「1000円・・・っすか」
1人前なら300円ほどの値段だ。
わりと儲けがある方だ。
「気に入らないか?」
「い、いえありがたいっす」
俺は頭を下げる。
「ほら」
1000円を直接渡される。
不味いとも美味いとも言われなかったが、
結果は上々だろう。
「ありがとうございます」
自分の力で稼げたってのは少し嬉しい。
客は食べ終わったら、早々に帰っていく。
「健治君、ただいま」
OLの恰好をした加奈が帰宅する。
「お帰り」
「ん・・・香ばしい匂い」
「客が来たんだ」
「本当!?」
加奈は飛んで跳ねる。
そして、俺にずいと近づいて来る。
「といっても1人だけだけどさ」
「1人でも凄いよ、来てくれたんだ」
「あぁ」
「健治君が認められた、
健治君が認められたんだ!」
加奈は言葉を繰り返す。
「認められたって一人だけだけどね」
「0よりずっといい、
1人でも認めてくれたんだよ」
「そう・・・だね」
確かに加奈の言う通り、
0より1人は居た方がいい。
「よーし、成功パーティーを開こう」
「1人だけだから気が早いよ」
「大丈夫、シャンパンを開けるだけだから」
「大丈夫・・・なのか?」
加奈は屋台でシャンパンをポンっと開けて飲み始める。
「加奈が飲みたいだけじゃないの?」
「あはは~、そうかも」
加奈はすでに酔っぱらってる。
普段から明るいので、酔っぱらっても分からない。
判断基準は顔が赤くなってるかそうじゃないかぐらいなものだ。
「付き合うよ」
「お~。飲め」
「屋台の車があるから水だけど」
屋台は手押しではあるが、
酒を飲んだらもしかしたら飲酒運転かもしれない。自転車でも確か酒を飲むと飲酒運転で捕まると聞いたことがある。酒+乗り物は日本では良くないのだろう。だから手押しとはいえ、俺は酒ではなく普通の水を飲むのだ。
「あはは~、ビールも水みたいなものだしね」
「いや、普通に酒だよ?」
加奈は酔っぱらってるなって思う。
「つまみだせ~!」
加奈は何だか暴れ出しそうだ。
つまみだせって言うと、追い出せって聞こえるけど、そういうんじゃなくて酒の相方が欲しいのだろう。
「何かあったかな」
冷蔵庫の中を開ける。
さっと作れるものは何がいいか考える。
ぱっと思いついたのはソーセージを焼くことだった。
マスタードでもつければ十分だろう。
包丁で切れ目を入れて火を通りやすくして、フライパンで焼く。
「あはは~、肉だ~」
「ほら」
俺はソーセージを出す。
「酒に合うねぇ」
加奈は喜んでいた。
「喜んでるようで何より」
俺は多分、最後の客だと思い片付けに入る。
皿を洗って、皿を拭いて、食器を仕舞う。
客が座る椅子を仕舞って、屋台を引いて帰る。
「がぁ~・・・zzzz」
加奈は疲れてたのかもしれない。
屋台で眠ってる。
仕方ないので寝かせておこう。
このまま屋台を手で引いて足で帰宅する。
幸い、家までは遠くないので何とかなるだろうな。
「ほら、ついたよ」
俺はアパートの前に屋台を止める。
「おんぶぅ」
加奈は何だか今日は妙に甘えて来る。
なので俺は背負って2階へ上がる。
「重いな」
女子とは言え、身長163cmの、体重50kgは重い。電子ピアノほどの重さらしい。
「重くないよぉ」
「いや、重い物は重い」
「ひどぃ~」
背中でうめき声が聞こえる。
「ちょっと開けるからな、降ろすぞ」
俺は加奈を地面に置く。
ゆっくりとだ、美術品を降ろす時みたいに慎重に。怪我はしてないと思う。
俺はカギを玄関に差し込んで開ける。
そして扉を開けたら、加奈を寝室へと運ぶ。
「うへへへ」
加奈は楽しそうだ。
夢でも見てるのかも。
「おやすみ、加奈」
「ぐがぁ~・・・健治君・・・やったね・・・」
加奈は気持ちよさそうに眠ってる。
今日、俺が客を1人相手したことが嬉しかったのだろう。
「さて、屋台を倉庫に仕舞わないと」
俺は屋台を倉庫まで運んでから家に戻って就寝した。
翌朝の事だった。
今日も屋台で店を開く。
いつものようにどうせ暇なんだろうなって思ってたんだ。でも今日は違った。
昨日、相手した客が恐らく有名人だったのかもしれない。有名ブロガーか、ユーチューバーの可能性がある。何故、そう思ったか。
急に客足が増えたからだ。
「す、すごい数だね健治君!」
加奈は本来やってる販売の仕事が休みだった。休んでも別に構わないのだが、俺が店に立つからって言うとアタシも出るって言って協力してくれたのだ。
だから今日は居る。居てくれるならかなり助かる、普段は別にいなくても問題ないが、今日に限っては居て貰わないと困る。
「捌ききれるのか?」
行列になってて驚く。
「でも、チャンスだよ」
「あぁ」
俺はこの客の数に戸惑いつつも、
頑張って捌いた。
結果から言えば、全ての客を満足させることは叶わなかった。
しかし、それでも固定客は一定数ついた。
そのお陰で金持ちとはいかなかったが、安定した収入は得られるようになった。
俺は仕事が出来てる。
あの上司の影が時折、ちらつく。
でも、今は結構幸せに生きてるなって思えた。俺の事を受け入れてくれる人だけで構成されてる世界なのだ、これが幸せでなくて何て言うのだろうか。
屋台は順調な方だろう。
一軒家が手に入るって訳じゃないが、
生活していくには困らないのだ。
服とかボロいし、調理器具とかも汚くなってくる。
買い替えるのが難しいけど、
それなりに充実してるって思う。
仕事的には安定し始めただろう。
そんな時だった、何だか加奈がいつもと違う服を着ていた。
柔らかなニットに身を包み、
ロングスカートが揺れる。
ヒールなんて普段は履かないのに、
不安そうな足取りではあるものの、
今日は履いてきた。
スワロフスキーのネックレスがキラキラしてて、
特別感を演出してる気がした。
まるでアカデミー賞に出席するように。
「こんばんわ、健治君」
今日の加奈は別人に見える。
「どうしたんだよ、随分と気合入ってるじゃんか」
「仕事はもう、終わりでしょ?」
「あぁ・・・そろそろ閉めようと思ってた」
「それじゃ、着替えて」
「何処に行くんだよ」
「ふふ、レストランを予約したの。
ドレスコードがあるような店よ」
「どうしたんだよ、そんな店」
「今までは健治君を支えてたから、1人で2人分払ってた訳でしょ、でも今は2人で2人分稼いでる。だから貯金する余裕が出来たの。ねぇ、行こうよ、たまにはさ」
加奈はそんなことを言う。
「いいけど、そんな洒落た服持ってたかな」
「じゃー、服屋さんを見てからだ」
「レストラン予約してるんじゃ」
「大丈夫、客だし、ちょっとぐらい遅れてもいいって」
「大丈夫かな、5分とか遅れたら出禁とかあるんじゃ」
「もー、そんなに厳しくないって」
「そう?」
加奈が言うのだから、そうかもしれない。
俺より世間に詳しいのだから。
「ほら、早く行こう?」
「あぁ」
俺は油で汚れたエプロンのまま服屋さんに向かう。
そこで俺は言われるがまま着替えた。
ジャケットを羽織って、ジーンズを履く。ネクタイには長方形の金色のクリップをつける。純金では無いので1000円ほどで買えるもの。クリップの意味はあまり無いが金色が上品さを出す。
「うーん、いいんじゃない?」
加奈は満足そうな顔をする。
指で自分の顎をさすってる。
「良さが分からない、けど君が好きならいいや」
「あるでしょ、こういうのがカッコいいとか」
「どうかな、俺は安ければスカートを履いて出かけても別に気にしない。公共良俗に反してなくて、家計の負担にならなければ別に」
「それはちょっと極端じゃないかな」
加奈は苦笑する。
「そうかな」
「服を着るのは楽しいんだよ」
「分からないや」
「むぅ」
加奈は不満そうだ。
「ごめん、同じように服に関心があれば話が合っただろうに」
「いや、いいよ。健治君のこと好きなのは変わらないし」
「そう・・・か」
あまりにも真っすぐ言われるので顔が少し赤くなる。
俺も単純かもしれない。
好きという言葉に深い意味は無いかもしれないのに。
何の疑いも無く喜んでしまうのだから。
「それじゃ、行こうか」
「あぁ」
俺たちは服屋を後にして予約したレストランへ向かう。
入り口はアーチ状。
その周りに色とりどりの花が飾られていた。
緑、黄、赤、白、黒という風に。
「お~、綺麗だね」
加奈は喜んでいた。
「高そうだけど、本当にここ?」
「うん、間違えなくそうだよ。
だって看板があるし」
看板には”Époustouflant”と書かれてた
意味は驚くべき、圧倒的な、息をのむような、といったニュアンス。
料理で驚かせてやろうというのが伝わってくる。
「えっと、それじゃ、ここに入る感じ?」
「そうだね」
俺は歩を進める。
でも、その歩は緊張でガチガチ。
俺は凍り始めてる気がした。
「もー、ガチガチだなぁ」
加奈はケラケラ笑う。
だけど、俺はそれどころではなかった。
「Bonjour, vous êtes ici pour dîner ?」
近くにスーツを着た外国人っぽい男性が、
そんなことを聞いて来る。
「あぁ・・・うあ・・・」
何を言ってるのか理解できない。
俺は戸惑うばかりで何も出来ない。
「こんにちわ、予約したんですけど」
加奈が外国人に向かって話しかける。
「予約の方でしたか、美しいお嬢さん。
お名前を聞いても?」
「加奈」
「なるほど、予約した名簿に書いてあったのを見ましたよ。
どうぞ、お入りください」
外国人の男性は店に俺たちを案内してくれた。
「日本語喋れるのかよ、からかわれた?」
俺は少し落ち込む。
「あはは、違うって。
店の雰囲気を壊さないためだよ」
「だといいけど」
俺の被害妄想かもしれない。
そう思って、考えを切り替える。
「これから楽しい時間なんだから暗い顔は駄目だよ?」
「分かってるよ」
俺は加奈に励まされて、店の奥へ向かう。
廊下は絨毯が敷いてて高級感がある。
「歩いても疲れない!」
「確かにね」
美術館とか、こんな感じだよなって思う。
廊下を進んでいくと、扉に辿り着く。
ドアノブを開けると、そこには別世界が広がってた。
テーブルクロスが敷いてあって、フォークとナイフが並べてある。
窓ガラスから外を見るとリゾートガーデンが広がってる。
「凄い、こんな所で食事するんだ」
加奈はテンションが上がってた。
「そうみたいだね」
「楽しみ~♪」
本当に加奈は楽しそうだ。
俺たちは席に座る。
するとワイン持った男性が現れる。
ウェイターだろう。
「どうぞ、当店自慢のワインです」
「ちょーだい♪」
加奈はグラスを向けておねだりする。
「はい」
ウェイターは加奈のグラスに注ぎ込んでいく。
ついでに俺のも。
ブドウの深い香りが鼻に入ってくる。
そこに僅かな快感がある。
しかし、変わってるなと思う。
それは透明な液体だったからだ。
「えぇ~、ナニコレ?」
加奈は驚いていた。
「店の人が海外から注文したそうです。
味は普通の白ワインですが、少しだけ驚いたでしょう?」
ウェイターはにこっと笑って説明する。
「はい、とっても」
加奈はウェイターと会話する。
「それでは食事が運ばれてくるまでの間、ワインをお楽しみください」
ウェイターは席を外す。
「どうなってんだこれ」
白ワインって言うと、大体濁った淡い黄色というか、
そういう感じだったはず。これは水のように透明だ。
「うんまい」
加奈はすでに飲み終わってた。
「早いな」
「えへへ、飲んじゃった」
加奈はけらけら笑う。
「こちらは前菜になります」
ウェイターは
白ワインのジュレ、トマト、サーモン、レタスをクラッカーの上に乗せたものを皿のうえに乗せたものを持ってくる
「鮮やかだね」
加奈は目を輝かせてる。
「美味しそうだね」
俺も見てると腹が減ってくる。
「じゃ、食べるよ」
「どうぞ」
加奈は俺に両手を広げて、アピールする。
彼女の奢りだから、どうぞという言葉に間違えは無い。
「美味い」
「本当?」
加奈も続いて食べる。
「美味しいでしょ」
「うーん、最高」
加奈は喜んでる。
「スープはストロベリーガスパチョになります」
ウェイターがどんどん運んでくる。
「わぁ、これも鮮やかだね」
加奈は出て来る料理全てに感動してる。
こうしてると料理を作った人は嬉しいだろう。
俺も端くれだから気持ちは分かる。
「どうぞ、こちらはメインの料理になります」
ウェイターは皿に透明なガラスのクロッシュを被せてある。
中はスモークで見えない。
「もくもくしてる!」
加奈はこれにも驚いていた。
「そんなに驚いてたら、心臓が持たないかも」
俺はそんなことを伝える。
「持つよ!」
加奈は反論する。
「どうぞ」
ウェイターは客の前で蓋をカパッと開ける。
すると、鴨肉のローストが登場した。
桜チップの香りが広がる・
ソースは赤ワインだと思った。
「お見事」
加奈は拍手する。
「ありがとうございます」
ウェイターは頭を下げる。
「ん~ジューシー」
加奈は肉を味わう。
かちゃかちゃとナイフやフォークが皿にぶつかる音が聞こえる。
「デザートの方はすぐにお持ちしますか?
それとも、15分後にお持ちしますか?」
「15分後ね」
加奈は指示する。
「かしこまりました」
ウェイターは下がっていく。
「何だか女社長って感じだな」
俺は加奈に対してそんなことを思う。
「ごめん、偉そうだった?」
加奈は申し訳なさそうにする。
「いや、成功者みたいって褒めたつもりだったんだけど」
「そっか、そっか、なら良し」
加奈は笑う。
下らない雑談をして15分があっという間に経過する。
「どうぞ、こちらデザートになります」
ウェイターが運んでくる。
抹茶と苺ティラミスだった。
上の苺は花が咲いたように乗ってる。
そして、追加でラテアートの珈琲。
ハートマークが描いてある。
「わぁ、とってもかわいい」
加奈は両手を頬に当てて喜んでいた。
「食べるのが勿体ないね」
俺はそんなありきたりな感想を言う。
「どーしよ~迷うなぁ~でも食べちゃおう♪」
短い葛藤だった。
加奈はサクッと食べる。
「美味しい?」
俺は尋ねる。
「甘~い、天使の声が聞こえたみたい」
加奈はそんな感想を漏らした。
「幸せそうでいいね」
「うん、幸せだぁ」
加奈は今日一番の笑みを浮かべていた。
食事が終わり、席を立つ。
そして廊下を歩いて外に出る。
「また、来て下さい。お待ちしております」
入り口に居た外国人スタッフが挨拶をする。
「美味かったなぁ、満腹、満腹」
店の外に出る。
俺はこのまま家に帰って寝ようかな。
とか思ってた。
でも、何だか加奈の様子がおかしい。
「どうしたんだ、加奈」
「あの・・・さ」
「ん?」
「少し歩こう?」
「あぁ・・・いいけど」
今日は美味しいモノを食べたからカロリーでも消費したいのかも。
俺はそんな風に思ってた。
そして住宅街を歩く。
「・・・」
加奈はいつも明るいのに、食事が終わった後は静かだった。
その雰囲気が不気味で、俺は何だか言葉を紡ぐことが出来なかった。
「あのさ・・・月が綺麗だね」
「そう・・・かも」
加奈は素っ気ない。
何だか俺もそのうち喋るのを止めた。
歩いてるうちにある場所に辿り着く。
住宅街だからそれは無いと思ってたが、あった。
それはラブホテル。
周囲には民家があるのに、ここだけ別空間だった。
「ここって・・・」
「入ろう?」
「マジ?」
俺は驚く。
思わず加奈の目を見る。
「仕事も安定してきたし、そろそろいいかなって。
でも、健治君に夢があるなら止めようかなって」
「夢?・・・俺はそうだな・・・」
特別、夢って夢は無い。
だから、その先の結果がどうなろうと別にいいかなって気がした。
「どう・・・?」
加奈は上目遣いで見て来る。
「いいと・・・思う。でも上手くやれるかな」
「わかんない、でも、きっといい未来があるよ」
加奈はそんなことを言う。
「それじゃ、行こうか。不幸を味わいに」
「うん」
俺と加奈はそのままラブホテルに入っていくのだった。
あのレストランで食事をした日から、数日が経った。
加奈の中に子供が居ると分かり、それが娘であることを医者から
教えてもらった。
その知らせが頭の片隅に残したまま、日々が過ぎていく。
俺が屋台で客に料理を振る舞ってる時だった。
「何だって?」
それは加奈が出産するって報告だった。
本当だったら良くないんだろうが、
俺は屋台で料理を食べてる客を置いて走り出す。
急いで近くの病院へ向かった。
病院のベットには妻が居て、周囲には医者や看護師が居た。
「旦那さんですか?」
「えぇ、まぁ」
正式に婚姻届けを出した訳では無い。
告白もせずに流れで、関係を持ったから。籍を入れてない
加奈の父であることに変わりはないし、
何だか説明するのも面倒だったのでそういうことにした。
「うぐうぅぅぅぅぅ・・・」
加奈は苦しんでる様子だった。
まるで体内に巨大な虫が巣を作ってるみたいに苦しんでる。
あぁも苦しんで、子供を産もうとしてる。
産むな、とは言えない。
だけど俺に育てることが出来るのだろうかという不安はぬぐえない。
「奥さんの手を握ってあげてください」
看護師に言われる。
「あ・・・あぁ・・・」
俺は正直、何したらいいか分からなくてただ加奈の手を握ってた。
それは加奈が心配でというより、ただ目の前で苦しんでる彼女を見て、
戸惑う事しか出来ず、看護師の言いなりになってた。
という方が正しかった。
「頭は出てます、もうすぐですよ!」
医者らしき男がそんなことを言う。
俺はその言葉を信じて、加奈に伝える。
「もうすぐだってよ、頑張れ」
「ああああああああっ」
加奈は会話できる状態ではなく、悲鳴なのか苦痛なのか。
言葉にならない声を出していた。
それからすぐのことだった。
「おぎゃあ・・・・おぎゃあ・・・」
粘液やら血やらで汚れてる物体が加奈の中から出て来る。
それは赤ん坊だと思えた。
カワイイ、とは素直に思えなかった。
父親になるという責任かもしれない。
だから、そういうネガティブな感情を引き起こすかも。
「おめでとう、ございます、カワイイ赤ちゃんですよ」
医者は俺の方を見てにこっと笑う。
カワイイって本当か?
と思ったが、普通の人は実の子が生まれて可愛いと思うモノなのだろう。
俺は、そうは思わなかったが。
嫌い、という訳では無いが、
ホラー映画に出てきそうなグロさだと思ってしまった。
でも、加奈が無事だから十分だろう。
それだけでも出産が無事に行ったと思うべきなんだと自分に言い聞かした。
俺はかつて、
彼女のヒモだった自分が今は立派な父親。
屋台で料理の仕事を始めて子育てを頑張れるどうか不安だった。
それでも育てたいって気持ちはあった。
だから、その決意表明という訳では無いが、
俺は赤ん坊が生まれてすぐに婚姻届けを加奈と一緒に市役所に出しに行った。
子供が生まれた、
それから少しは成長して1歳ぐらいだろうか。
赤ん坊の時は、あまり可愛いと思えなかったが、
このころになると、柔らかな髪の毛が愛らしさを感じさせる。安直かもしれないが、彼女に愛と名付けた。
誰にでも愛される子供になって欲しいという願いで。
面白さを狙って奇抜なものにするのは可哀そうだし。
子供の名前に王子様ってつけるのは少し問題と俺は思う。
実際の王子様でも役職名が名前ってのはどうもな。
「ちゃぷちゃぷ」
赤ん坊は親指をしゃぶってる。
そんなに美味いモノなのか?
と思うが、子供に聞いても答えは返ってこないだろう。
「可愛いね、健治君」
アパートの1室にあるベビーベットに向かって加奈は語る。
「あぁ」
俺も可愛いと思う。
本能というべきか、
やはり自分の血が繋がった存在が目の前に居るのは何か他の子供とは違うものを感じさせる。
「・・・zzzz」
赤ん坊は眠くなったのか眠り始める。
目がゆっくりと閉じて行くのが見えた。
「俺たちも寝ようか」
時間はすでに夜中だ。
赤ん坊だけではなくて俺たちも眠い。
「そうだね、アタシも眠いかも」
俺たちはベットに向かう。
寝室は赤ん坊と同じ部屋。
何かあったらすぐに駆け付けられるから。
部屋の灯りを消して、暗くする。
そして、ベットに入るのだった。
けれど、悪夢が始まる。
「ぎゃあああああああっ」
殺人鬼に出くわしたんじゃないかってぐらいの悲鳴が聞こえる。何事かと思って目覚めると、その原因に気づく。
それは赤ん坊である愛だった。
「っと・・・うるさいな」
俺は目を覚ます。
1時間ほどしか眠れてない。
部屋の灯りを消したままにする。
加奈が起きるのではないかと思ったからだ。
「健治くん・・・?」
隣に居た加奈も目覚める。
俺の悩みは杞憂だったと心の中で自嘲する。
そして明かりをパチッと壁についてるスイッチを入れた。
「あぁ・・・起きたのか」
当然だろう、
俺ですら起きたのから余程の鈍感でなければ起きるだろう。
「うん・・・愛が怖がってるから」
「俺が見てるよ、だから寝てて」
俺は加奈に優しく語り掛ける。
「ううん、健治君が起きてるんだもん。
アタシも起きてるよ」
「加奈・・・」
「2人で1人、3人でも1人でしょ?」
「あぁ」
俺は加奈と一緒に愛をあやす。
愛が抱っこしてあげる。
「よーし、怖くないからねぇ」
「お母さんが抱っこしてるんだぞ、喜んでくれ」
俺は愛に向かって話しかける。
すると、通じたのか赤ん坊はきゃっきゃと笑いだす。
「偉いぞ、愛」
俺は小さな愛の頭を撫でる。
壊さないように慎重に。
「・・・・zzzzz」
愛は満足したのか眠りだす。
「寝たね」
加奈は俺に向かって笑いかける。
「あぁ」
「じゃ、ベットに戻すね」
加奈はベットに戻す。
「俺たちも寝よう」
「うん」
部屋の灯りを消す。
それから1時間ほど眠っただろうか。
「ぎゃあああああああっ」
愛が泣き出す。
「よく泣く子だな・・・ったく」
ため息を吐く。
ループ物のホラーを味わってる気分だった。
こんなことが繰り返される
「ん・・・」
加奈が起き出す。
「寝てていいぞ」
「そういう訳にはいかないじゃん?」
加奈は笑って見せる。
「寝てろって」
俺は強く言い放つ。
「大丈夫だって」
加奈は気にしないように明るく笑う。
それが無理してるように見えてならない。
「寝てろって言ってるだろ!?」
俺は怒鳴る。
「あ・・・」
加奈は寂しそうな顔をする。
「ごめん」
俺は謝る。
彼女を寝かせてあげたいって思いでやった筈なのに。
かえって傷つけるだけに終わった。
「アタシは大丈夫だから、一緒に起きてよ?」
「悪い・・・」
俺はダサいなって自嘲する。
「ほ~ら、アタシだぞ~ままだぞ~」
加奈は抱っこをする。
俺はそれをぼーっと眺める。
寝不足からか、意識がもうろうとする。
「早く眠るんだぞ」
「それ、アタシだよ」
「間違えた」
俺は娘の愛の頭を撫でようとしたのに、間違って妻の加奈の方にしてしまった。
「変なの」
加奈は苦笑する。
そのやり取りが面白かったのか、愛は笑う。
「きゃっ、きゃっ」
「笑ってる・・・」
愛が笑うことで少し報われた気がした。
俺の寝不足にも意味があったんだと思えたから。
「zzzz・・・」
愛は眠る。
「もう、朝だね」
加奈はそんなことを言う。
カーテンから差し込んできた光が現実なのだと教えてくれた。
「そう・・・だな」
結局のところ。
俺も加奈もよく眠れなかった。
これから仕事だって思うと面倒くささが勝つ。
でも、客が待ってるんだ。
いかないという選択は無い。
「行くの?」
「あぁ」
俺はアパートの外に出る。
「行ってらっしゃい」
加奈はベットに愛を寝せて、
俺の事を送り出してくれた。
あくびをしながら、まだ夜の続きだと思ってる目に太陽の光を当てて活を入れて仕事へと向かうのだった。
それから数年が経つ。
娘が夜泣きしなくなったころ、
大体3歳くらいだろうか。
赤ん坊の頃から眠るのが苦手だった。今も変わらないらしい。
そのくせ、本を読んでもらうとすぐに寝てしまう。
それでも、ピーナッツの冒険を読んでとせがんでくる。
愛にとっては、物語が眠りへの扉なんだろうか。
「ねぇ、ぱぱぁ」
「早く寝なさい」
「このまま寝るのはつまんない」
「つまんないって言われてもな」
俺は頭をかく。
「本を読んで」
「前にも同じの読んだろう」
愛は絵本が好きだった。特に”ピーナッツの冒険”は何度もせがまれる。
図書館でおススメと書いてあったのを適当に持ってきただけなのだ。
駄目だったら、どうせ無料だし他のにするかぐらいだったのが当たりだった。
娘が妙に気に入った。ピーナッツが殻を船にして人を助ける。
大人からすればどうせ童話で見知った話にしか思えず退屈だろうが、
娘にとっては初めて見る本だった。
それが世界で初めて娘が物語がこの世界にあると知った瞬間だろう。
「同じのでいいから読んで」
「飽きないのか?」
「飽きない!」
娘にせがまれるものだから、俺も仕方なく本を読む。
「それじゃあ、ピーナッツの冒険を読もう」
「わくわく」
娘は俺が本を読むのを楽しみにしてた。
「読むぞ?」
「うん!」
愛の目がキラキラ輝いて見える。
その光は俺の目に届いてる。
「主人公のピーナッツは冒険が大好きです。
彼は世界を見て回るのが夢だから。
ある時、冒険してる時に川でおぼれそうな人がいました」
俺は春の季節の風のように穏やかな声で読む。
「可哀そう、助けてあげないと」
娘が先に話を読んでしまう。
「覚えてるのか、偉いな」
「えへへ、何度も読んでもらってるもの」
娘は朗らかに笑う。
「続きを読むぞ?」
「うん!」
「可哀そう、助けてあげないと。
そう思った彼は、近くにあった木の枝を向けました。
しかし、届きません。
うーん、困ったな。ピーナッツは悩みました。
このままでは海に流されてしまう。
それは困る、考え抜いたピーナッツはあることを思いつきました。
そうだ、殻を脱ぎ捨てよう。
彼は自分が着てる殻を脱ぎ捨てて、船にしました」
「もう少しで・・・助かるよ・・・旅人さん・・・」
娘は少し眠くなってきたのだろう。
目がとろんとし始め、言葉が少し消え始めてる。
「これに掴まって!
溺れた人は懸命にその即席の船に掴まります。
ありがとう、助かったよ。
彼は感謝を伝えてくれました。
しかし、ピーナッツは身体が小さくなってしまいました。
これでは棚の上にある隠してるお菓子を取ることが出来ません」
「zzzz・・・」
「でも、彼は心の中は満足してました。
人を救えた、嬉しい!
ピーナッツは家族の元へ溺れた人を送り届けました。
御終い」
俺はパタンと本を閉じる。
「すぅ・・・すぅ・・・」
その頃にはもう、娘は眠ってた。
「ったく、最後まで聞いてくれよな」
俺は苦笑する。
娘に布団をかけてあげて、部屋の灯りを消して自分の寝室へと戻っていった。
俺はこの日のことを一生忘れないだろう。
人生で運命の転機というのならば、この日なのだから。
「行きたい行きたい、行きたい~!」
娘の愛が何だかやけにだだをこねる。
「別に行かないとは言ってないだろ。
でも、まだ開店してないんだから」
俺は娘に対して怒る。
ワークショップでパンダのボールペンを作ると約束してしまった。チラシかテレビか、スマホかもしれないが何らかの理由で娘は情報を得た。
そして、俺におねだりをしてきたのだ。
高額という訳でも無かったし、別にいいよと快諾。
しかし、これが問題だった。
娘は楽しみすぎて、早起きしたのだ。
朝の6時ではさすがにワークショップも空いてない。そのことを説明したつもりなのだが、
どうにも聞き入れてくれる気は無さそうだ。
「やだぁ、行くんだから。あいは絶対、絶対行くんだからぁ!」
「行かないって訳じゃない。
でも、まだ開いてないの、分かる?」
「お父さんは連れて行く気が無いんだ、だからそんな風に怒るんだ、びえええええええええええん」
愛は泣き出す始末だ。
「困ったな」
俺は頭をかいて、どうしていいか戸惑う。
「どうしたの?」
あまりにも泣くものだから、妻である加奈が俺の傍にやってくる。
「娘が泣いて困ってるんだ」
「原因は分かってるの?」
「今日、ワークショップに行くだろ?
行くって伝えてるんだけど、今すぐがいいみたいで、でも朝早いからさ。開いてないだろ?
だから、困ってるんだ」
「なるほど」
加奈は考える仕草をする。
「大丈夫そうか?」
俺は不安になって尋ねる。
「任せて」
加奈は動き出す。
「ああああああああっ」
娘は泣き続ける。
「あいちゃん、ちょっといいかな?」
「ああああああああっっ」
娘は妻の声には耳を貸さず、泣き続ける。
「ほら、見て」
加奈はパンダのぬいぐるみを見せる。
「あああああ・・・・」
娘がちらと目線を向ける。
ちょっと泣き声が収まる。
「パンダ君が遊んで欲しいって」
「ぐす・・・遊ぶ・・・」
娘の愛は泣き止み始めた、
そしてパンダと遊び始める。
「凄いな、加奈」
俺は妻を褒める。
「あははははは、アタシにかかればこんなものよ」
妻は笑いだす。
暫く遊んでるうちにワークショップへ向かう。
近場なので歩きだ。
こうして娘も出来て、看板も老朽化してるのを見ると俺も大人になったなと少し寂しさを感じる。
「お散歩、お散歩楽しいなぁ」
娘の愛は先ほど泣いてたのが嘘みたいに明るかった。
「やれやれ、さっきの涙は何処へやら」
俺は呆れる。
「子供ってそんなものよ。
アタシたち大人は人前で泣くって凄いことのように思えるけど、子供にとってはコミュニケーションの1つに過ぎないから、すぐに泣くし、すぐに泣いたことを忘れる。あくまで感情表現の一種だもの。大人になればそれが涙ではなくて言葉に変わるだけよ」
「なるほどなぁ」
加奈の言葉に一理あると俺は思った。
そんなことをしてる間に、
ワークショップがやってる店に辿り着く。
今日、体験させてもらえるのはボールペン作りだ。
扉を開けると、中で家族が賑わってる。
何処の家族も仲良さそうに子供のボールペン作りを手伝っていた。
「違うって、ここはこうだよ、パパ」
「そうか、違うのか、あははは」
隣で家族の談笑が聞こえる。
「あ、予約してた人ですか?」
お姉さんが話しかけて来る。
多分、ここのスタッフだろう。
「そうです、宮内 健治で登録してると思うんですが」
「はい、間違えないですよ。
入店料として1000円頂きます」
「了解です」
俺はポケットから財布を取り出して、1000円札を払う。
「どうぞ、中へ」
俺はお姉さんに席に案内される。
「ぱんだ~、ぱんだ~」
愛は自分の好きな動物の名前を連呼する。
「そうだな、あるといいな」
俺はそんな相槌を打つ。
「あるよ、絶対ある!」
愛は断言する。
根拠は何処にあるだろうと思うのだが、
愛の中では確信があるのだろう。
「そうだな、あるな」
俺はいい加減かもしれないが、俺も根拠なくあると思って言う。
席につくと、様々な動物のフィギュアがついたボールペンのノック部分がある。ここに好きなノックをつけてオリジナルのボールペンを作るのだった。
「キリンだぁ~」
愛は席につくなり、さっそくボールペンにキリンのノックをつける。
「てっきり、パンダと思ったんだが」
俺は苦笑する。
「色々試してみたいのよ、きっと」
隣で妻の加奈がそんなことを言う。
「うーん、違う」
愛的に微妙だったようで、キリンのノックは外された。
「違うか」
俺は可笑しくて笑う。
「ネコか、パンダか」
愛は迷ってる。
愛の中では王道のパンダか、それとも世間で可愛いと評判のネコか。迷う所である。
「どっちがいいかなぁ」
俺は答えを出さずに見守る。
ここでネコだろ、とか、パンダだろ。
とかは言いたくなかった。
娘の自主性を育てるには、親が答えを出してはいけないのだから。
「パンダ―っ!」
娘のランキング戦で勝利したらしい。
ボールペンのノック部分につくパンダが輝いて見えた気がした。出来上がったそれは娘は満足してるようだった。顔を見て、その満足度がうかがえる。
連れてきて良かったなと思う。
「良かったな、愛」
「ねぇ、見てパパ。あいね~凄く良くできてると思うんだ」
「よくできてるよ」
俺は娘の頭を撫でる。
すると、娘は俺の手をパシッと払いのける。
「愛は大人だもん、頭を撫でられて喜ぶのは子供だけよ!」
愛は仁王立ちして、大人ですとアピールしてくる。
鼻息を出して、ふんすって感じだった。
「そうか、愛は大人だったな」
俺は手を離して戸惑う。
「ふふふっ」
隣で見ていた妻の加奈が笑う。
帰りの時間になる、スタッフのお姉さんが袋に丁寧に梱包してくれた。透明な袋で、外から中身が見えるため愛はずっとボールペンを眺めてた。自分で作ったというのが嬉しかったのだろう。
「パンダ~、パンダ~」
愛は上機嫌だった。
「連れてきて良かったね、健治君」
加奈が話しかけて来る。
「そうだな」
仕事を休んで来た甲斐があった。
穏やかな1日、こんな日が続けばいいと思えた。
そんなとき、俺はふと変なことに気づく。
「ごめん、電話」
妻は会社から電話がかかってきたのだろう。
急いでスマホをポケットから取り出し、電話に出る。
俺は何かを蹴飛ばした。
「なんだ?」
きらりと光るもの。
一瞬、それがカギか小銭かと思った。
誰かが100円でも落としたのかと。
でも、そうじゃない。
あれは”ネジ”だ。
嫌な予感がした。
そして、その予感は的中する。
「パンダ~、パンダ~」
娘の上から看板が落下しそうになるのが見える。
「愛!」
俺は急いで駆け寄って、娘を抱きかかえる。
すると看板のネジが外れて落下。
地面の床をえぐる程の威力だった。
「ママ・・・?」
愛は呟く。
「はぁ・・・はぁ・・・」
娘の命は守れた、
この腕の中にある暖かくも柔らかな命は壊れてない。
娘の命は守れたんだ。
だけど。
「・・・」
看板の下で、ドラマの中でしか今まで見たことない量の血が地面一帯に広がっていく。
あの血は・・・誰のだ?
連想してはいけない、あの下に居るのが誰だなんて。
「あああああああああああっ」
通行客が騒ぐ。
落下した看板の下に、
ぴくぴくと痙攣する指が見えたからだろう。
「加奈、何処だ!」
俺は真っ先に彼女のことを探した。
違う、看板の下に居るのは彼女ではない。
別の誰かだ。
テレビで見たニュースのように、他人事の事件として今日も何事もなく終わるハズなんだ。
そうだ、明日になれば妻の加奈と娘の愛と俺の3人でいつものように生きるのだ。
だけど、いくら叫んでも加奈は呼び声に答えない。
そうだ、電話をしてるから。
電話の最中・・・だから。
看板の下敷きになってる人間の手には、
見覚えのあるスマホが握られていた。
「パパ・・・お母さんは何処なの?」
腕に抱かれてる愛がそんなことを聞いて来る。
「うああああああああああああっ」
俺は冷や汗を人生で一番出したんじゃないかってぐらいに出して、悲鳴をあげた。
でも、そんなことをしたって、現実が変わる訳では無かった。
妻は、結局助からなかった。
そして、葬式が開かれた。
笑顔でピースしてる妻の遺影の前で、
俺はただ愕然と膝を落とす。
そんな時、妻の父が・・・いわゆる祖父が俺に近寄る。
「この、バカタレが!」
俺は葬式の場で思いっきり人前で殴られた。
「お父さん、やめてください。
皆が見てますよ」
祖母が祖父の横暴を止めようとする。
これは不味いと思った他の人たちも集まって来て5人ほどで取り押さえる。
「ごめんなさい」
俺は謝ることしか出来なかった。
「娘を守れない、貴様に謝罪する権利など無いわ!」
俺は何も言い返せなかった。
ただ頭を地面につけることしか方法が思いつかなかった。
加奈に対して、どうしたら許してもらえるのか分からなかった。
「退け!」
70代くらいだろうに、5人の拘束を押しのける。
そして俺の事を殴ろうと近寄ってくる。
まだ殴り足りない、そんな風に見えた。
だけど、5人では止めれなかったが1人の人間が彼の動きを止めた。
それは彼の娘ではなくて、俺の娘。
愛だった。
「パパをイジメないで下さい」
娘が俺の前に立ちふさがったのだ。
「愛・・・?」
「くっ・・・」
祖父は振り上げた拳を降ろそうと思った。
「っ・・・!」
愛は目を閉じて顔を逸らす。
それでもその場から動かない。
殴られる覚悟を感じる。
「お父さん・・・」
俺は祖父が拳を引っ込めるのが見えた。
「貴様にお父さんと言われる筋合いなど無い」
そう言って去っていった。
「許して頂戴ね、事故だってわかってるけれど。
怒りをぶつけないと心が持たないの。ああみえて弱い人だから」
加奈の祖母がそんなことを言う。
そう言って2人は去って居った。
「帰ろう、パパ」
愛がそんなことを言う。
「あぁ」
俺は娘を連れて家に帰る。
手を繋いで歩いて帰る。
そうして家に辿り着いて2人きりになる。
「パパ・・・」
愛が玄関で抱き着いて来る。
「なんだ?」
俺は娘を抱き返す。
「許すよ」
「え?」
俺は何のことを言われたのか分からなくて戸惑う。
「ママは、きっとパパにそう言うから」
「愛・・・」
「ママは怒ってないよ」
「そうかなぁ・・・」
「愛が言うんだもん、間違えないよ」
「そう・・・だといいなぁ・・・」
これは自分勝手な解釈かもしれない。
妻を守れなかった男の。
俺は娘にそう言われて、そうかもしれないと自分に言い聞かせた。
これは一種の現実逃避かもしれない。
だけど、そうしないと心が保てるか分からなかった。
俺は生きねばならないのだから。
妻は死んでしまったかもしれないが、娘は生きてる。
彼女が大人になるまで面倒をみなければならない。
今はごめん、愛。
俺は守れなかった君に勝手に許されたって思うことにするよ。
だから、もう少し生きるつもりだ。
もしも怒ってるのならば、死んだ後の世界で沢山説教を受けるからさ。
でも、心の何処かで加奈は何だか許してくれそうな気もしていた。
夏のジメジメした季節。
30度ほどの気温で、湿度が70%ぐらいだろうか?
電柱から張り巡らされた電線が空を覆い、
まるで仕舞ってあったイヤホンのコードのように、
複雑に絡み合ってた。
カタカナで書かれた看板がいくつも並び、
どこか昭和レトロな印象を与えてくる。
壁にはシミが出来ており、犬が小便をした臭いがする。
建物の壁は時間に蝕まれ、塗装が剥がれ、ひび割れが走っている。
近くの古びたアパートには、
むき出しの蛍光灯が廊下に並んでる。
白くギラギラした光を放っている。
その光に引き寄せられるように、虫たちが音もなく集まる。
時折、バチっと暴力的な音が聞こえる。
すると虫が息絶えて地面に落ちる。
そんな不気味な静けさが漂っている。
夕海町と呼ばれる町に俺は今いた。
妻が居なくなってから3年後。
俺と娘の2人きりだった。
火来気町は嫌な思い出があると思ってだ。
その所為か、家は決して金持ちという訳じゃなかった。
いや、引っ越しても、引っ越さなくても金が無いことに変わりないか。
妻が居れば妻の財産がプラスされるが、今は俺一人なのだ。
金持ちになれるわけが無い。
娘の愛は11歳。
俺は31歳になってた。
部屋にはバケツが置いてあって、
そこにポタ、ポタとバケツの水が少しずつ入っていく。
だけどそろそろ限界だ。
「パパ~、これ捨てとくよ」
「頼む」
娘の愛はバケツを持って、階段を下りて行く。
そして、道路の排水溝に水を流す。
油分や化学汚染物質が入ってれば問題だが、雨水程度ならば問題ないだろう。
雨の日は、これが日課なのだ。
「捨てといた」
「いつも助かるよ」
「えへへ、愛はパパの娘だもん」
彼女は他の娘と比べてとても優しい子に成長した。
母が死んでしまったからか、母の代わりになろうとしてる部分も何処かあるのかもしれない。負担になると分かっていても、
つい俺は娘に甘えてるのだろう。
「そろそろ、学校じゃないか?」
「あ、そうかも。行ってくるね!」
娘はさっと着替えて、風のように早く学校へ向かって居たった。
弁当は作らなくてもいい。
中学までは給食があるから問題ないだろう。
高校生になったら弁当を作らなくては。
妻が居れば、妻が作ってくれただろう。
でも今は俺しか居ないのだ。
俺がやらねば。
って、気が早いか。
まだ小学5年生なのに。
なんてことを思う。
俺は屋台を担いで街へと繰り出した。
屋台で料理を作るのが俺の仕事だから。
昔は、味付けが無駄に濃かったり、食べ物を焦がしたりと失敗も多かった。
でも今は0ではないがだいぶ減ったと思う。
下準備もしっかりしてるし、客に出せるほどにはちゃんとした料理と呼べるものは出せてると自負はある。
さぁ、今日も頑張ろう。
俺は屋台を押していくのだった。
屋台を開くと、すぐに客がやってくる。
「チャーハンね」
「了解です」
俺は客の注文を淡々とこなしていく。
そうして、夜になっていく。
「パパ、ただいま」
「お帰り」
仕事してる最中に娘がひょこっと屋台に顔を覗かせる。
「可愛い娘さんだねぇ、よかったらオジサンと一緒に飲まない?」
そんなことを客が言ってくる。
「娘はまだ成人してないんだ、酒は駄目だぞ」
俺は客を戒める。
「あはは、怒られちゃったよ!」
オジサンはけらけら笑う。
「今は子供ですので駄目ですが、大人になったら是非、誘ってください」
娘の愛は躱し文句を伝える。
「お、上手いこと言うねぇ、断られちゃったよ」
オジサンは断られたにも関わらず楽しそうだった。
「愛、ほら」
俺はタッパーに入った料理を渡す。
「ありがとう、パパ」
「先に夕飯食っててくれ」
「うん!」
そう言って娘は去っていく。
「しょうがない、オジサンはパパさんと喋りますかね」
客はそんなことを言ってた。
「俺と仲良くしても、娘はやりませんよ?」
「たはーっ、こいつは一本取られた」
おじさんは自分の頭にぺしっと自分で叩く。
顔を真っ赤にして、楽しそうに酒を飲むのだった。
それが今日の最後の客だった。
彼が帰った後、俺は皿を片付け、屋台を仕舞う。
そして家に帰っていく。
倉庫に屋台を仕舞った後、俺は2階のアパートの扉を開けて中へ入った。
「パパぁ!」
いきなり俺に抱き着いて来る。
「どうしたんだ?」
俺は驚く。
「また出たのぉ!」
「またか」
うちにはよく頻繁にあいつが出て来る。
そう、ネズミだ。
顔は可愛いのだが、恐ろしい奴だ。
感染症の危険もあるし、食べ物を勝手に食べていく。
毒エサで殺すって案も悪くないが、見つからなかった際に腐臭が凄そうだ。
娘のベットで死んでたら、そのベットで寝せるのは難しいだろう。
何より、殺すのは寝ざめが悪い。
「どうしよう、パパぁ!」
泣きつかれたので、何とかしなければ。
俺は古典的ではあるが、ホウキを持って追い払う。
「この、何処か行け!」
ホウキで払うとネズミは慌てて外に走っていった。
「ありがとう、パパ」
「これぐらいならな」
俺は娘の役に立てて嬉しい気分だった。
「それじゃ、おやすみパパ」
「あぁ」
娘は部屋に戻って、眠りについたのだろう。
俺は1人になって、風呂に入る。
身体を綺麗にした後、娘の部屋をノックする。
ちゃんと眠ったかどうか気になったのだ。
「わっ、ダメ!」
「どうした、入るぞ」
「ダメだってば!
俺は何かあったのかと思い、強引に娘の部屋に入る。
「ど、どうしたの急に来て」
娘の愛は少し慌ててるようだった。
強盗が入ったとかでもなく、特に何でも無さそうだった。
「もう寝たのかと思ってな、どうした眠れないのか?」
「うん・・・そんな感じ」
愛は何だかはぐらかしてるように見える。
その真意は何だろう?
俺は違和感の原因を探す、すると見つけてしまった。
「あ・・・」
俺はあるものを見つける。
それはゴミ箱に入ったパンフレットだった。
私立の中学が表紙に書いてあった。
別に公立の中学があるのだから、そっちに入ればいい。
金もかからず、近場で行きやすいのだから。
でも、私立は設備が整っており、勉強のレベルも高いと聞いてる。
最近ではAIの授業も取り入れてるとか。
入れるのならば、そっちの方がいいだろう。
だが、うちの資産状況では無理だ。
そのことを娘も何となく知ってるからだろうか。
俺に悪いと思ってパンフレットを急いで捨てた。
「これ、何でもないの。街で配ってたから断れなくて受け取ったの。
あーあ、迷惑なんだよね、本当困っちゃった、だから捨てたの。
気にしないで」
娘はパンフレットのことをそう説明した。
「そう・・・か」
俺はそれ以上何も言えなかった。
嫌ならば断わればいいのに、それを受けとった。
ということは少なからず興味があるってことだ。
でも、持ち帰ったはいいものの、うちの資産状況を思い出してしまった。
その葛藤がきっとあったのだろう。
でも、俺は力になれない。
金持ちの家ならば、やりたいことをやれ。
それが子供の役目だ。
親はそのサポートをするだけだ。
とか、そういうカッコいいことを言えたんだ。
でも俺の口からは出ることは無かった。
「おやすみ、パパ」
「あ・・・あぁ・・・」
俺は強引に娘に押し出される。
この時間まで起きたのはパンフレットを眺めていたからかもしれない。
そう思うと、胸が締め付けられる思いだった。
それは、ある日の出来事だった。
夏の夕暮れ、
ジメジメとした暑さが
誰かに舐められてるのでは?
そう思うほど不快だった。
湿った空気が肌にまとわりつき、
Tシャツは背中に貼りつく。
屋台の赤ちょうちんが、
夜の道を照らして、
空腹の人間を誘い出す。
屋台のラーメン釜にぐつぐつと煮だった湯。
その湯気が暑さを倍加させる。
「ラーメンくれる?」
のれんを手でのけて、
サラリーマン風の男性が話しかけて来る。
ネクタイを少し緩めて椅子に腰を下ろした。
「はい、ただいま」
俺はいつものように冷蔵庫から乾麺を取り出す。
そこで気づいた、食材が少ないことに。
「どうしました?」
俺が固まったから変だと思ったのだろう。
「あぁ、いや材料が」
「そうですか、なら別の料理を」
「いえ、ラーメンは出来るんです。
ただ・・・貴方の分を作ったら他の人を作れなくなるというか」
「どちらにせよ、困るんですよね。なら、他の料理でも」
「でも、ラーメンを食べたいと来て下さる客に他のものを出すってのはどうも、料理人のプライドが」
「では、ラーメンを」
「だけど食材が」
「どっちなんですか、もう」
サラリーマンの男は怒ってしまう。
無理もない、煮え切らない態度の俺が悪いのだ。
しかし、困ったどうしたらいいモノだろうか。
悩んでる時だった。
「なんか、困ってる?」
白いセーラー服姿の愛がそこには居た。
頭には大きなリボンをつけてる。
「学校はどうした」
昼間だったから変だと思ったのだ。
「今日は早い日なの、今から温度が急激にあがるって天気予報で言ってたから学校側が気を使って今日は早めに帰すんだって」
「そうだったのか、丁度いい」
「どうしたの?」
「いや、実はな食材が少なくて」
「分かった、買ってくるよ」
「本当か」
「うん、任せて」
「それなら、頼もうかな」
「頼まれました」
娘の愛は手を掲げてOKのサインを出す。
そして、買いだしへと出かけて行ったのだった。
「へぇ、随分と利口な娘さんですね」
サラリーマンの男性はそんなことを言う。
「えぇ、俺には勿体ないくらい」
そんなやり取りをするのだった。
客に料理を出して、すぐだろう。
娘が戻ってくる。
「ごめん・・・はぁ・・・はぁ・・・結構走ってきたんだ・・・けど」
愛は息を切らしてた。
両手には食材が入った袋が握られていた。
「ありがとう、疲れただろ。椅子に座って、ジュースでも飲むか?」
「うん・・・もらう・・・」
愛はミルクティーをガブガブ飲む。
紅茶の上品な甘い香りが漂ってくる。
「いい飲みっぷりだな」
「そうかな」
愛は口を手で拭う。
「せっかくだし、夕食でも食ってくか?」
「でも、他にお客さんの席開けといた方が」
「この時間は来ないよ、それにこんな遅くに娘を1人で帰す方が危ないし」
もう、夜も遅い。
来るのは余程の酒好きか変質者だ。
「それじゃあ、お言葉に甘えて」
愛は屋台の席に座る。
「いらっしゃい、何にする?」
「もぅ、お客さんじゃないよ、パパ・・・ふふっ」
愛は笑う。
「好きなものを言ってくれ、何だって作ってやる」
「それじゃあ、オムライス」
「っ・・・!」
一瞬、フラッシュバックした気がした。
妻の加奈が最初に俺の料理を褒めてくれたのはオムライス。
それを娘の愛が選ぶってのは偶然か、必然か。
「どうしたの?難しい?」
「あぁ・・・いや・・・作れるさ」
「良かったぁ」
「楽しみにしてろ、とびきり美味いの作ってやる」
「やった」
愛は微笑む。
俺は美味いと言われるように一生懸命作る。
火加減に気をつけて、ふわとろを作る。
「ほら、出来た」
黄金に輝くオムライスがそこにはあった気がする。
自分で作ったから少し贔屓目で見てるかもしれない。
「わぁ、美味しそう」
「冷めないうちに食えよ」
「うん、頂きます」
娘の愛はスプーンで、真ん中のオムレツを割る。
すると、綺麗に開き、卵が天の川のように流れる。
「どうだ?」
「綺麗だね」
「そうだろ、熟練の技って所かな?」
「味もいいよ」
愛はスプーンでオムライスを口に運んでいた。
「そいつは良かった」
俺は笑う。
食事が終わったら、屋台を片付ける。
パタンパタンと閉じていく。
「愛、手伝うよ」
椅子を運んでくれる。
「おう、ありがとうな」
俺は愛に感謝を伝える。
「これで、大丈夫かな?」
「そうだな、出発できそうだ」
俺は屋台を引っ張る。
「愛も一緒に引っ張るよ」
「2人でやっても変わらないと思うんだが」
「こういうのは気持ちだよ」
「そうか?」
「うん」
愛は頷く。
「それじゃ、そうするか」
引っ張るスペースに愛も入る。
そして2人で引いて家に帰るのだった。
倉庫に屋台を仕舞った後、アパートの中へ入る。
「パパ、風呂はどうする?」
「先に入っていいぞ」
「そうさせてもらおうかな、夏だから汗が凄いんだ。
もー、べっとべと。早く入りたかったんだぁ」
「3分数えてから出るんだぞ」
「もー、子供じゃないんだからそんなのしないよ」
愛がそんなことを言ってくる。
「そうか」
俺は苦笑する。
「~♪」
愛が風呂で鼻歌を歌ってる。
こうしてる間は暫く出てこないだろう。
俺はそう思って、仏壇の前に行く。
そして加奈に懺悔する。
別に娘が嫌いって訳じゃない。
俺に対して気を使ってくれるし、
世の娘は父に気を使うことなく横柄に振る舞ってると聞く。
でも、うちではそんな感じじゃない。
だけど・・・俺は元々努力家って訳じゃない。
だから、つい、思ってしまう。
ヒモ時代が楽だったなと。
妻の加奈が面倒を見てくれたあの時代。
俺は家で寝てるだけで良かったんだ。
でも、今は娘の生活を守らなくてはと責任感が生まれてる。
そのことが少し重荷に感じてるのは否定できない。
「加奈・・・・俺1人で娘を守れるのか?」
そんな不安をつい、死んだ妻にぶつけていた。
でも、言葉が聞こえることは無い。
死んでしまった人とは会話が出来ないのだから。
翌朝のことだった。
ベットから目覚めた俺はある場所に向かう。
それはゲームセンターだった。
今日は仕事が休みなのだ。
けれど、本当はあまりよくない。
何故なら1人で来てるからだ。
これは一種の虐待?
娘を家に置いて1人で来てるのだから。
いや、違う筈。
俺は自分にそう言い聞かせる。
久しぶりに来たゲーセンは随分と様変わりしていた。
昔は、もっと地味でゲームの台が輝いてるだけだった。
音楽なんて流れて無かったし、店内も暗かった。
タバコ臭かったし、ゲームの台が指の油で見えづらい部分があったりした気がする。
それに女の子も居なかった気がする。
でも、今はどうだ?
派手な音楽に、ギラギラと輝く店内。
タバコの香りはしなくなり、無臭に近い。
喫煙室に皆、行ってるからだろう。
今ではギャルっぽい女の子もゲームに興じてる。
絶対にイコールという訳では無いが、
女の子が業界に入ってくると、何処の業界も何て言うかクリーンになる気がする。
男だけの世界だと、ちょっとアングラっぽい雰囲気があるような気がするのだ。
犯罪者とまでは言わないが、人生が上手く行ってないような奴らの集まりみたいな。
そういうのが好きだったりするのだが。
今はそういう感じは一切なく、清潔感のある店内になっていた。
昔、好きだった100円でプレイできるゲームの台の所に行ってみる。
すると、すでに台は消えてクレーンゲームになってた。
何もしないまま帰るのは勿体ないので、クレーンゲームを数回プレイする。
特に何かを手に入れる訳でもなく、そうして無駄な時間が過ぎていく。
やりたいゲームがあった訳じゃないから、こういういい加減な遊びしか出来ない。
まぁ、でも、久しぶりに自分のためだけに時間を使えてストレス発散になったかな?
そんなことを考えていたら、いつの間にか夜になっていた。
そろそろ帰らないと、娘は生きてるだろうか?
小学生の娘を家に置いておくのは危険だ。
しかし、俺はそれをやってしまった。
今更になって罪悪感を覚える。
俺は玄関の扉を開ける。
「お帰り、パパ」
そこにはボロボロのワンピースの愛がそこに居た。
彼女は笑顔で俺を迎える。
「あ・・・あぁ・・・」
俺は少し悪いなと思い、逃げるように風呂場に向かう。
更衣室で服を脱いで浴槽につかる。
よく考えてみれば、風呂が沸いてるかどうか分からない。
冷たかったら追い焚きすればいいか。
そう思っていたが、風呂は妙に暖かった。
すでに準備されてたのだ。
そして風呂の湯加減が”ちょうど良かった”
熱すぎる訳でもなく、少し冷たいとかではなかった。
丁度良かったのだ、娘は俺の帰るタイミングに合わせてそうした。
ということだろう。
娘は本当に気遣い上手な娘だと思った。
俺はこんな子を置いてゲーセンに行ったのかと思うと余計に罪悪感に苦しむのだった。
「湯加減どうだった?」
風呂から出た後、愛がそんなことを聞いて来る。
「ちょうどよかった」
「なら、良かった」
愛は微笑む。
「なぁ、責めないのか?」
俺は罪悪感に耐え切れず思わず聞いた。
「何で?」
「だって、俺は勝手に遊びにいって・・・お前を置いてったんだぞ?」
「しょうがないよ、パパだって1人になりたいときはあるだろうし」
「愛・・・」
「でも、今度は一緒に連れてってよ。
やっぱり1人は寂しいしさ」
「そうだな、次はちゃんと連れて行くよ」
「約束だよ?」
「あぁ」
俺は愛に指切りをするのだった。
小さな約束。
今度はちゃんと遊びに連れてってあげないとな。
じゃないと罪悪感に押しつぶされるのだから。
朝にも関わらず空は暗い。
理由は雨が降ってるからだ。
この前は食材が足りなくて困ったことが起きた。
なので、念のために補充しに行った方がいいだろう。
今日は雨が降ってるし、客もあまり来ない筈。
そう判断してスーパーに向かった。
娘は学校に行ってるので、今日は俺だけで向かう。
スーパー、紅丸。
食材だけでなく、様々な日用雑貨を置いてて主婦層に人気がある店だ。
花も置いてあり、人にプレゼントする人は助かる。
レジはセルフレジが中心だが、接客タイプのレジも残ってる。
店内は明るいけれど、丁度いい明るさといった感じ。
「やー、久しぶりですね」
明るいテンションで話しかけて来る女性が居た。
スーパーの制服で、ポニーテールが活発な印象を与える。
「早苗か、ここで働いてたのか」
俺は驚く。
「はい、そうですよ」
「結構、何度か通ってたんだがな。
全然、会わなかった」
不思議なもので、今まで会わなかった。
「居るって分かってたら、会いに行ったんですけどね」
「いや、別に無理して会いに行くことは無いだろう」
「私にとっては恩人なんで、無理にでも会いに行きますって」
早苗はそんなことを言う。
彼女がこんなことを言うには理由があった。
…回想。
それは前に、偶然俺が働いてる屋台の前に居た。
俺は妙に気になったのだ、若い女性が道端で倒れてるのは危ないって。
医者を呼んだ方がいいのかと思って話しかけた。
「うぜーな、消えろ」
それが早苗の俺と会って初めて行った台詞だった。
「こんな所で寝てるなんてどうした」
「ほっとけよ、アンタには関係ない」
妙に露出の多い恰好で、しかも髪を染めて、いかにも夜遊びしてる雰囲気だ。
「学校は?」
「だから、うざいって言ってるだろ」
「帰る家は?」
「はぁ・・・めんどくさっ」
早苗はそう言って去っていった。
「大丈夫・・・か?」
俺にあれだけ噛みついて来るんだ。
元気そうだ、放っておいても大丈夫だろう。
そう思って、俺は仕事に戻った。
何日か経った頃だった。
偶然、早苗と再会する。
「げっ」
早苗は俺の顔を見るなり嫌そうな顔をする。
「よぉ」
俺は友達に話しかけるみたいに気軽に接する。
「タバコか?」
早苗が右手に握ってる小さなものが俺にはそう見えた。
「違うよ」
「違うなら、何だってんだ?」
「お菓子だよ、疑うのか?」
「御菓子なら俺にもくれ、甘いものが食べたくてな」
「人にやらねーよ、バーカ!」
早苗はそう言って俺の元を去る。
「あれは・・・やっぱり・・・」
俺はやっぱり早苗の持ってるものがあまりよくないものだと思えた。
でも、彼女が何処へ行くのか分からない。
もし、また会えたなら叱ろう。
そう、思ったのだった。
そして、その時はもう一度訪れる。
「っ・・・」
目の前でふらつく早苗に出くわす。
「おい、大丈夫か?」
「触るな、おっさん!」
早苗は気丈にも俺の手を払いのける。
「寝不足・・・いや栄養不足か?」
「ちげーよ・・・」
早苗の言葉に覇気を感じない。
「なら、昨日何喰った?」
「何って」
「言えるはずだ、何食べた?」
「それは・・・ステーキだよ、奢って貰ったんだ」
「何処の店で?」
「何処って、それは」
早苗は言葉に詰まる。
「行ってないから、言えないんだろ?」
「うっぜーな、だったらなんだよ。関係ないだろ、アンタには」
「親は飯を作ってくれないのか?」
「しらねーよ」
「家出か」
「・・・っ!」
どうやら図星らしい。
彼女の目に怒りが灯ったのが見えた気がしたから俺の考えが確信に至った気がする。
「家に帰れないから、飯も食えない。
そういう訳か」
「だったらなんだって言うんだよ、アンタには関係ないだろ。
そうやって、大人は知ったような口を聞いて、私達子供を助けない。
そうだろ?」
「・・・」
俺は黙る。
「図星か、はっ、こいつはお笑い草だね。
事実をつかれて黙るんだもんな、バーカ!」
早苗は俺のことをバカにしてくる。
「チャーハン」
「はぁ?」
「好きか?」
「そんなの今関係ないだろ」
「いいから」
俺は強引に迫る。
「好きか、嫌いかで言えば・・まぁ・・・嫌いじゃないけど」
「そうか」
俺は中華鍋を取り出して、チャーハンを作る。
「おい、おっさん。何作ってるんだ?」
「お前の飯だよ」
「なんて、私の・・・」
「腹減って、ふらついてるんだろ、なら満たせばいい」
「金はねーよ?」
「いらないよ」
「不味かったら殺す」
「あぁ、不味かったら殺してくれ」
俺は鍋を振るう。
「・・・」
早苗は屋台の椅子に座って、黙っての俺の鍋を眺める。
「ほら」
俺は皿にチャーハンを盛り付けて出す。
「いただきます」
早苗は礼儀正しく挨拶をする。
「そういう礼儀は知ってるんだな」
「ば、ばっかじゃねぇの?」
早苗は顔を赤くして恥ずかしそうにする。
「たんと食えよ」
「食ってやるよ、捨てるのは勿体ないからな」
早苗はレンゲでがぶつく。
「どうだ?」
「まぁ・・・悪くないんじゃないの?」
早苗は不満そうな顔でそんなことを言う。
「そうか」
でも、俺は殺されなかったから最低限のレベルは超えた。
ということだろう。
早苗は結局、チャーハン全てを平らげる。
「ご馳走様」
早苗は両手を合わせる。
「完食だな」
「捨てるのが勿体ないだけだよ」
早苗はツンと接する。
「腹減ったらいつでもこい」
「そうやってたぶらかす気か?」
「別に、そんなんじゃないさ」
「ふん、暇なら来てやる」
「あぁ、暇な時に来い」
少しは、生きるということに関心がありそうだ。
俺の所の飯を食うのだから死にたいわけではなさそうだ。
それだけでも十分成果だろう。
「名前!」
「なんだ?」
「あんたの名前、聞いてなかったと思ってな」
「俺は健治だ」
「私は速水早苗、覚えてなかったら殺すぞ?」
「覚えてるよ」
「じゃーな!」
そう言って早苗は走って去っていくのだった。
…そして現代に戻る。
スーパーに居る大人の早苗の姿になった。
「別に大したことはしてないんだがな」
「それでも私は救われたんです、家出そのものが解決した訳じゃない。
でも、ご飯が食べれる。それだけでも明日生きる希望があるじゃないですか」
「そういうものか?」
「はい」
早苗は朗らかに笑う。
「それよりも、その、前と比べると随分と変わったな」
今では黒髪で真面目に見える。
「やっぱり、働くってなったら服装は派手じゃダメじゃないですか。
モデル系の仕事だったら問題ないんでしょうけど、私はスーパーの店員なんで」
彼女はそう言っていた。
でも、耳に空いたピアスの穴が少しだけ彼女の歴史が垣間見える。
「そっか、真面目に頑張ってるんだな」
「はい!」
早苗は笑顔だった。
「じゃ、肉と野菜貰おうかな」
「ありがとうございます」
俺は金を出して、会計を済ませた。
そしてレジ袋を持って家に帰宅するのだった。
俺はスーパーで買った食材を冷蔵庫に仕舞っていく。
そこに、ピンポンとチャイムが鳴るのだった。
誰だろうと思い、玄関へと向かう。
多分、娘の愛だろうと思って扉を開ける。
「やっ、元気してた?」
それは相川美咲だった。
服装は胸を強調したニット。
自分の体形に自信があるのだろう。
確かにスタイルは良い。
でも、目線のやり場に少し困る人だった。
「えっと、久しぶり」
俺はぎこちない笑顔を向ける。
というのも、かつて美咲とは同僚だった。
でも、決して仲のいい関係性では無かったと思う。
俺は上司にいびられて、美咲は傍観者。
別にイジメに参加してたって訳じゃないが、
立場的には微妙だろう。
助けたわけでもなく、敵だった訳じゃないし。
俺に何の用事だろうと不思議に思う。
「やだー、何それ。
よそよそしい態度、同僚だったじゃない」
「あ・・・あぁ・・・」
あまりにも親し気に接するものだから、
俺たちって友達だったっけと錯覚する。
「ただいま~」
そこに白いセーラー服の娘の愛が戻ってくる。
「お帰り、愛」
俺は愛に挨拶をする。
「あれ、お客さん?」
愛は不思議そうな顔をする。
「あぁ、元同僚の美咲さんだ」
俺は彼女を教える。
「初めまして、娘の愛です。父がお世話になったようで」
愛は丁寧に挨拶する。
「へぇ、娘・・・」
美咲の目が少し鋭かったように見えた。
「カワイイ娘だろ、自慢の子なんだ」
俺は美咲にそう説明する。
「えへへへ」
愛は照れくさそうに笑う。
「あらぁ・・・確かに可愛いわね」
美咲はにこっと娘の愛を見て微笑む。
まるで値踏みしてるようにも見えるのは俺の気のせいだろうか?
「ありがとうございます」
愛が返事する。
「最近さぁ、物騒だと思わない?」
美咲さんがいきなりそんなことを言ってくる。
「物騒・・・ですか?」
俺は何のことだか分からず尋ねる。
「うっそぉ、知らない?
ここらで、連続誘拐事件が起きてるって話」
「はぁ」
初めて聞いた。
俺は何て答えていいか分からず、
そんな惚けた返ししか出来ない。
「気をつけた方がいいわよぉ、大事な娘なんでしょ?」
「そういう話をしにここへ?」
俺は美咲さんにそう尋ねる。
「違うわ」
「では、何の用でしょう?」
「こういうこと言っちゃなんだけど、困らない?」
美咲は何かを思いついたように言う。
「困る?」
俺は何の事だろうと不思議に思う。
「ほら、あまり大きな声では言えないけど。
その、溜まるんじゃない?」
美咲は何だか妙に艶めかしい声で言ってくる。
「それは・・・その」
俺は言葉に詰まる。
「ごめん、パパ・・・愛と一緒なのはストレスが溜まるってこと?」
愛は申し訳なさそうな顔をする。
「いや、そういうことじゃないんだよ。愛」
俺は否定する。
「違うのよ、愛ちゃん。その、大人になるとね、分かるのよ」
美咲は弁明する。
「そう・・・なの?」
愛は分からないって感じだった。
「ちょっと悪いんだけど、食材を冷蔵庫に閉まっておいてくれるか?
まだ、残ったままなんだ」
俺は愛をこの場から離す。
「う・・・うん」
愛は冷蔵庫へと向かっていった。
「あのさ、言ってることは間違えないし、正しいよ。
俺だって、その、性欲はあるさ。でも、娘の前ですることは無いだろう?」
「あら、ごめんなさい。そういうつもりじゃなかったの。
本当よ?」
美咲は申し訳なさそうにする。
「分かってくれたならいいんだけど」
俺は引き下がる。
「うちね、思うのよ。やっぱりトキメキって大事じゃない?
娘と居るのは幸せなんだと思う、子供じゃないと得られない感情ってあるのは否定しないわ。でもね、それとは別に何かこう、世界から隔離されたって感じの気分になる時は無い?」
「それは・・・」
俺は否定できなかった。
娘と居るのは幸せであることに違いは無いけれど、
その閉ざされた世界の中に居続けると何だか世界に置いて行かれたような感覚に陥る時はある、そういう時は普通の人ならば友達だったり、恋人と遊ぶことで今はこういうのが流行ってるとか、こういうのが最近のタブー行動とか知ることが出来る。そういう世間の流れを知らないままで成長する孤独感。
そういう感覚だった。
「それね、うちもなの」
「美咲さんも?」
「そう、シンプルに言えば寂しいって感覚よ」
「寂しい・・・」
「奥さんが居るってのは分かるわ、でもね、少しくらい友達と遊ぶってのもいいんじゃないかって思うの。その相手に、うちはどう?って思って今日来たのよ」
「そうだったのか」
「良かったら遊ばない?それとも奥さんに悪い?」
「妻は、その、死んじゃって」
「ごめんなさい、知らなかったわ、本当よ?」
美咲さんは驚いていた。
その言葉は嘘じゃないのかもしれない。
俺には嘘に見えなかった。
「世間的には問題ないと思う、不倫とかって訳じゃない。
でも・・・」
「でも?」
「娘を置いて、その君と遊ぶってのは罪悪感があるんだ。
勿論、君と遊ぶのが嫌って訳じゃないんだ。
君は綺麗だし、一緒に居て楽しいって思う。でも、娘を放っておくのは出来ないんだ。せめて、人と遊ぶのは娘が大人になってからって思ってる」
「それじゃ、遅いのよ・・・」
美咲さんはぼそっとそんなことを言う。
「遅い・・?」
その言葉に俺は何か引っかかる。
「おほほほ、気にしないで。それじゃ、また。機会があれば遊びましょ」
そう言って美咲さんは去っていく。
「あ~あ、惜しかったな」
モデル体型で、胸が大きかった。
付き合えば良かったと思わなくもない。
でも、娘を放っておくわけにはなと思う。
仕方ない、娘が寝た後に1人で慰めるか。
俺は涙を流す。
「あの綺麗な人帰ったんだ?」
娘の愛が出迎える。
「そうだね」
「遊びに行けばよかったのに」
愛がそんなことを言う。
「いいんだ、高根の花だよ。
期待するだけ、俺が傷つくだけさ」
「そういうもの?」
「あぁ。それだったら、
目の前に確かにある愛を大事にした方がきっと正しい」
「そっか」
愛は短く言い放つのだった。
夜、俺は愛と一緒に食事をする。
「夕飯、何がいい?」
「オムライス」
「好きだな、お前も」
「だってぇ、パパの美味しいんだも~ん」
「しょうがない、作るか」
「やった!」
俺は愛のためにオムライスを作る。
そして、一緒の席で食事をしてる時のことだった。
「ニュースの時間です、最近この近辺で誘拐事件が多発してる模様。
子供が居る家庭だけではなく、大人も注意してください」
5000円ほどで買ったラジオから、そんな声が聞こえてくる。
家にテレビが無いため、こうやって世間のニュースを入手してるのだ。
「ったく、ここら辺も物騒になったな」
「怖いね、パパ」
「夜中、1人で出歩くなよ?
夕かいってのは夜に起きるんだからな」
「うん、気をつけるよ」
そんなやり取りをするのだった。
「明日は遊びに行く日だ、早めに寝よう」
「分かった!」
食器を早々に片付けて、俺たちはベットで眠るのだった。
翌朝。
俺は以前、娘を置いて1人遊びに行った。
そのことがキッカケで、今度は2人で遊びに行こうと娘と約束した。
だから今日、俺は娘の愛と一緒に来たのだった。
「よーし、今日は遊ぶぞ」
「うん!」
ゲーセンは煌びやかに虹色に輝き、
じゃらじゃらとコインの音がうるさいほどだった。
人が賑わっており、繁盛してるなと思った。
店に入ろうと思ったその時だ、ふと何かに気づいた。
「なんだこれ」
俺はそのチラシを手に取る。
それは誘拐注意と書かれた張り紙。
どうして捨ててあったのだろうか?
いや、違う。
剥がされたんだ。
端のテープが強引に引きちぎった跡があったから。
「パパ・・・?」
俺が立ち止まったから、変に思ったんだろう。
「何でもない、遊ぼうか」
「うん!」
俺は暗い顔を見せずに、明るい顔を見せる。
こんなチラシは些細なことだ。
誰かが悪いことを考えてるなんて陰謀論者と思われても仕方ない。それはネットの変な人たちだけだ。
俺は…違う。
そう言い聞かした。
「何したい?」
俺は愛に尋ねる。
「えーとね、なんか運転するゲームしたい!」
「分かった、でもあれは種類あるからなぁ。
リアル系と、アニメ系のどっちだ?」
「アニメ系!」
「それはあれか、バナナとか投げる奴か?」
「それ!」
「OK」
俺はそこに向かった。
今では家庭用が普及して、あまりゲーセンでは見かけなくなった。
でも探せばある所にはある、あのゲームだ。
このゲームの面白い点はアイテムを敵にぶつけて怯んでる間に相手を追い抜かすというのも1つの面白さではあるが、ゲーセンに置いてあるのは少し違う。
なんと写真を撮ることが可能で、自分の顔でプレイすることが出来るのだ。
こういうのはゲーセンならではだろう。
「わーーっ、パパって意外と強い!?」
「昔やってたんだ、運動じゃ若い人に負けるだろうが、ゲームじゃ負けんぞ」
「愛だって、けっこー、ゲーム上手なんだから」
俺たちは対戦して遊んだ。
「俺の負けかぁ」
「えへへ、愛の勝利だ」
愛は勝利して嬉しそうだ。
俺も負けないように頑張ったが、やはりゲームも若い方が強いのだろう。
「次は何したい?」
「んーとね、クレーンゲーム」
「おっ、いいね」
俺たちは移動する。
「・・・」
「痛っ」
俺は誰かとぶつかる。
それはフードを被った男性だった。
「・・・」
男は無言で立ち去る。
すれ違ったとき、一瞬だけ目が合った。
その瞳には、妙にねっとりとした粘着質な感情が宿っていた気がして、ぞくりとした。
「なんだよあいつ・・・一言くらい謝るとかないのか?」
「どうしたの、パパ?」
「なんでもない、行こう、愛」
せっかく楽しい場に来たんだ、顔の知らない奴に怒りを感じるようじゃダメだ。愛との時間を大切にしなければ、そう気持ちを切り替えるのだった。
「どれにしようかなぁ」
愛はどの台にするか悩んでた。
音楽機器、フィギュア、お菓子系と色々だ。
「何がいい?」
「んーとね、パンダが良いなぁ」
「パンダか、パンダねぇ」
色々見て歩くと、偶然にもパンダのぬいぐるみを見つける。
「これがいい!」
愛は指さす。
「愛は本当にパンダが好きだな」
「うん、好き」
「何処が好きなんだ?」
「食べるのが笹ってのがカワイイ。
熊系なのに肉食じゃなくて草食ってのが何だかいいの」
「そ、そうか」
変わった視点を持ってるなと思った。
「パンダぁ~、ぱんだぁ~」
「コインを投入しよう」
「入れて!」
俺はコインを投入する。
すると起動音が鳴る。
「ほら、ボタン押して」
「この、えい!」
娘は挑戦するが、中々上手く行かない。
「あー、残念」
「難しい!パパやって!」
「俺も出来るかなぁ」
「パパなら出来るよ!」
「そう言うなら頑張ってみようかな」
俺はコインを入れて挑戦する。
「パパ、もうちょっと右」
「分かった」
娘が横にくっついてアドバイスをする。
それに従って、なんとかぬいぐるみの上にアームを持って行く。
「行け!」
愛も熱くなってる。
俺も負けじと熱くなる。
「俺が誘拐してやる!」
「パンダさん、誘拐だ!」
愛も俺の言葉につられてそんなことを言う。
するとアームが上手くハマってパンダを捕まえる。
「もう、逃げれないぞ」
俺は誘拐犯になりきってパンダを回収する。
「誘拐だーーっ!」
愛はケラケラ笑ってる。
そしてアームはパンダを運んで出口まで運ぶ。
「よし、もうちょっとだ」
「パンダさん・・・!」
愛は祈ってる。
「そこだ!」
俺はボタンを押す。
するとタイミングよくアームが開き、パンダが出口に落ちた。
「やった、とれた!」
愛は喜ぶ。
「よし、ほら愛」
俺は娘に渡す。
「ありがとう、パパ!」
彼女は素敵な笑みを俺に向けるのだった。
パンダを取れたという安堵感からか、俺は少し疲れた気分だった。
「少し疲れたな、休んでもいいかな」
「うん、いいよ!」
「じゃ、あそこの自販機の前で」
「そうだね」
俺たちは休憩エリアに向かう。
「俺は喫煙所でタバコを吸ってるから、愛はこれでジュースを買うんだよ」
俺は愛に小銭を渡す。
500円玉だ。
「分かった!」
愛は元気よく返事した後、そのまま自販機でジュースを選んでいた。
俺は彼女を置いて移動。
扉からは外の様子は確認できない。
完全な密室。
そんな喫煙所でタバコをする。
ちゃんと・・・俺は父親をやれてるかな。
そんなことを思う。
5分ほど吸ったらすぐに戻る。
愛を1人にしておくのは危険だからな。
そう思って、急いで戻ったつもりだった。
しかし、自販機の前に行くと愛の姿が無いことに気づく。
「愛?」
パンダのぬいぐるみが乱暴に地面に落ちていた。
俺は嫌な予感がして、走り回る。
時計の針が動き出す。
1分経過。
「娘・・・ですか?」
ゲーセンの店員に話を聞く。
「あの、ボロいワンピースを着てると思うんです。
頭には大きなリボンをしてて・・・」
「いやぁ、見てないですねぇ」
「そうですか、仕事の邪魔してすみませんでした」
俺は挨拶をさっと済ませて、探しに行く。
頭の中に嫌な言葉が連想される。
”誘拐”の2文字。
10分経過。
「リボンの少女ねぇ、見てないな」
コインゲームをしてる40代くらいの男性に話しかける、
しかし彼は知らないと答える。
「失礼しました」
俺はさっと移動する。
愛、愛、何処なんだ?
呼吸、乱れる、荒い、はぁはぁ。
…動機が止まらない…心臓が300のテンポで鼓動を打つ。
どっ、どっ、どっ、どっ。
焦り、冷や汗、痛い足、気にしないフリ。
俺の感情は一気に冷え込む。
最悪の考えが脳を支配する。
「あの、娘を」
20代くらいの男性に話しかける。
「しらねぇよ!」
負けが込んでいたのか、話しかけてすぐに怒られる。
こっちは娘が誘拐されたってのにと俺は怒りを覚える。
でも、大事なのはそこじゃない。
怒りをぶつけることじゃない。
娘を探すことだ。
俺はこの男を後にしてさっさと移動する。
1時間・・・2時間・・・どれだけ探しても見つからない。
誘拐…なのか?
愛はこの日を最後に姿を消した。
【次回予告】
妻の死、娘の誘拐。
立て続けに起こる不幸。
そんな俺の心の隙間に入り込んだ彼女。
そこに突然現れた大家の男。
彼が告げるのは“家賃を払え”という言葉。
俺はしっかり払ってるにも関わらず何故そんなことを?
第一、俺の大家は女性だ。
家に押しかけて来たこの女性は一体何を考えてる?
彼女の本当の目的は?
俺は彼女を信じ、受け入れることができるのか?
そして、娘の行方は?
次回、『ラブドレイン』