ヴァレンヌ姉妹と婚約
ヴァレンヌ家の別邸は王都の郊外にあり、広い庭園と白亜の館が穏やかな陽射しの中に佇んでいた。
街の喧騒とは無縁のその場所は、かつては社交界の華として名を馳せたヴァレンヌ伯爵家の長女、ソランジュ・ヴァレンヌの住まいだった。
しかし、今では彼女の姿を外で見かけることはほとんどない。
心臓が生まれつき弱い彼女は、人混みや過度な刺激を避け、静かな療養生活を送っている。
馬で駆け付けたシャルロッテは、あとのことは厩番に任せて、玄関に向かった。
ちょうど玄関で掃除をしていたメイドが驚いたように「お嬢様」と呼んだが、シャルロッテは無視して少し開いていた扉から中へと入る。
リヒターが付いてきているかなど確認もしないまま、シャルロッテは駆け足で館の廊下を進んだ。
一足飛び階段を駆け上がり、一番日当たりの良い南側の奥の部屋の扉をたたいた。
返事も聞かないまま、扉を開ける。
開け放たれた窓からは、やわらかな春の風が吹き込み、レースのカーテンを揺らしている。
「姉様!」
ソランジュは、白いベッドの上で静かに微笑んでいた。
「まあ、シャル。そんなに慌ててどうしたの」
「倒れたって聞いたの。具合は?」
「ええ、少し日差しに当たって、くらくらしてしまって……」
その穏やかな声を聞いて、シャルロッテは思わず肩の力を抜いた。
部屋の中には、長年ソランジュに仕えている老侍女、マルグリットの姿もあった。
母がヴァレンヌ家に嫁いだときから仕えている忠実な侍女であり、姉妹にとっては祖母のような存在だった。
彼女は申し訳なさそうに頭を下げる。
「お嬢様、本当に申し訳ありません。私が慌てて伝令を出してしまいました」
「……本当に、大事ないのね?」
「ええ、今日は調子が良かったから、お庭のベンチで日向ぼっこをしていて、立上るときに少しくらりとしただけなのよ。マルグリットったら、大げさなんだから」
「だって、お嬢様が倒れられて、もう私は気が気ではなくて——」
シャルロッテは大きく息を吐きながら、姉に視線を向けた。
顔色は真っ白だが、彼女にとってはそれはいつも通りである。
ソランジュは何事もなかったように微笑んでいる。
——この人は、昔からそうだった。
どんなにつらいことがあっても、決してそれを口に出さない。
幼い頃から、母親の代わりにシャルロッテを育て、いつも優しく微笑んでいた。
「もう……本当に心配したんだから」
シャルロッテはベッドの傍らに腰を下ろし、ふわりと広がるソランジュの銀髪に指を通す。
印象こそ違うが、彼女たちはよく似た姉妹だった。
シャルロッテの銀髪は、冷たい月光のように硬質な輝きを持つのに対し、ソランジュの髪は柔らかな陽光を受けた絹糸のようだった。
瞳の色も同じだが、シャルロッテの瞳が感情を押し隠す氷のような色を湛えているのに対し、ソランジュの瞳は限りなく優しく、全てを包み込む温もりに満ちていた。
「あら。あなたも来てくれたのね。リヒター」
「……あんまり驚かせるな」
「ごめんなさい」
扉のあたりで待機していたリヒターは、ベットの傍にきて、眉を寄せた。
「少し顔色が悪いな」
「あら。本当に大丈夫なのよ?」
くすくすと柔らかい笑い声をあげてから、ソランジュはそうだと両手を打った。
「シャル、お願いしてもいいかしら」
ベッドの上、銀糸のような髪を枕に広げたソランジュが微笑む。
「前に作ってくれた、あの……ハチミツレモン、覚えてる?あれが飲みたいの」
シャルロッテは少し目を見開き、すぐに頷いた。
「うん、すぐ作ってくる」
他人から見れば無表情のままに見えるその顔に、微かに安堵の影が差した。
「私もお手伝いしますよ」
マルグリットと一緒に軽やかな足取りで部屋を出て行く。
そこでふとシャルロッテが振り返った。
「リヒター。二人っきりだからって、姉様に変なことしたらただじゃおかないから」
「しねえよ」
「……婚約者同士、ごゆるりとどうぞ」
扉がそっと閉じられた。
部屋に残されたのは、ソランジュとリヒター。
窓辺に移動した彼は、静かに視線をベットに向ける。
ソランジュは疲れたように目を細めた。
「本当は……気づいてるのよね?」
その問いに、リヒターは頷かず、否定もせず、ただ無言で見つめていた。
「私が本当に倒れたこと。今朝、少し意識を失ったの。起きたときにはマルグリットが泣いていて……正直、走馬灯が見えたわ」
その声は微かに震えていたが、それを覆い隠すように笑みを浮かべる。
「シャルには言わないでね。あなたも知っているでしょうけれど、あの子、意外と泣き虫なの。さっきも泣きそうな顔をしていたし。まあ、分かりにくいけれど、あなたも慌てた顔してたわね」
「……ソランジュ」
「昔を思い出したわ。まだあなたたちが幼い頃、シャルが熱を出して、あなたが馬を飛ばして駆けつけてきたときのこと」
「覚えてる。……あのときは、頭が痛いって泣いていたな、あいつ。俺が来たら、お父様に来てほしかったって」
リヒターは苦々し気にため息をるつく。
「あの子、お父様っ子だから。それでも、あれであなたには気を許しているし、甘えているのよ」
「知っている」
リヒターは静かに頷いた。
「……ソランジュ、俺は——」
ソランジュは優しく微笑み、言葉を遮った。
「リヒター。私たちの婚約のことだけれど」
リヒターの低い声が、空気を震わせるように響いた。
「あなたがこの歳まで婚約を続けてくれたおかげで、私たち姉妹はなんとかやってこれたわ。父が亡くなって叔父様が伯爵を継いだとき、どうなっていてもおかしくなかった私たちを、あなたとの婚約が守ってくれた」
「そんなことはない」
「元々は父が決めた婚約よ。父が死んだあと、体が弱くてほとんどベットから起き上がれもしない私との婚約をこんなに長く続けてくれたこと、本当に感謝しているわ」
リヒターはどう応えていいのか分からないといった風に沈黙した。
「私は……守りたかったのよ、自分の居場所も、シャルの自由も。あなたが私の婚約者でいてくれたことで、私の立場は守られた。シャルが戦場に出ると決めたときだって、あなたが後ろ盾でいてくれたから、あの子が伯爵家の”駒”としてどこかに売られることはなかった」
彼女の視線は遠くを見つめていた。
「あなたは、私たちの自慢の幼馴染よ」
「……俺は、当然のことをしただけだ。師匠にもお願いされていた」
リヒターの剣の師匠は、姉妹の父親だった。
小さいころは一時的に伯爵家に滞在していたこともあり、婿としてソランジュとの婚約が成立したのだ。
「ふふ、あなたのそういうところが好きよ。昔から、強くて、誠実で、ぶっきらぼうで」
静かに微笑んだソランジュの頬を、柔らかな陽光が優しく照らす。
「シャルももうすぐ十六歳。成人を迎えれば、もう叔父様には手を出せない。伯爵家の駒になることもないでしょう」
「ソランジュ」
「ねえ、父との約束をこんなに長い間守ってくれたあなたにお願いするのは、ダメなのはわかっているの。でも、お願い。私がいなくなっても、シャルを守ってあげて。あの子は、誰よりも不器用で、優しい子なの」
リヒターは一歩、彼女の傍へと近づいた。
「……俺は、あの子を守るよ。ずっと、昔からそうしてきた。それは変わらない」
ソランジュの目には、うすく膜が張っていた。
けれど、それはすぐにまばたきの中に隠される。
「でも、お前だって、俺からすると同じくらい大事な幼馴染だ」
「……ありがとう」
やがて、扉がノックされる音がして、シャルロッテが入ってきた。
小さな陶器のカップに、ほんのり湯気の立つハチミツレモンを携えて。
「お待たせ。……ちょっと酸っぱいかも」
「ありがとう、シャル」
ソランジュがそのカップを両手で受け取り、微笑む。
シャルロッテはふと、リヒターへと視線を向ける。
「今日はここに泊まるんだよな。俺は帰るが、明日の仕事に遅刻したら、報告書三日分書かせる」
「うっ……」
リヒターは目を伏せ、背を向ける。
「じゃあな。……ソランジュ、また来る」
「ええ。気をつけて」
扉が音もなく閉じたあと——
室内には、姉妹だけの静寂が戻ってきた。
シャルロッテは、ソランジュの傍に腰を下ろし、静かにその手を取る。
細くて、白くて、冷たい指。
「ねえ、姉様。……本当に体調は大丈夫なの?」
「……どうしてそう思うの?」
「嘘つくとき、姉様、瞳が少し揺れるの。……子供のころから、ずっと」
ソランジュはわずかに息を呑んだ。
「……ごめんなさい。でも、本当になんでもないのよ。久しぶりに2人に会えて、なんだか嬉しくて感傷的になっちゃってね」
「そっか……姉様が大丈夫なら、それでいいの」
シャルロッテはそっと額を姉の肩に寄せた。
「だから、無理はしないで」
姉の胸元にふわりと抱き寄せられ、幼い頃と同じ匂いに包まれながら——
シャルロッテはそっと目を閉じた。
その横顔に、ソランジュはそっと口づけるように、額へ唇を寄せて囁いた。
「大好きよ、シャル。……あなたが、私の妹でいてくれて、幸せ」
「私も、姉様が姉でいてくれて幸せ。……あんな仏頂面だけど、リヒターだって、姉様のこと大切に思っているわ。……婚約者として」
夜の闇が、姉妹の間に降りてくる。
その穏やかな静けさの中で、ふたりはただ寄り添いながら、時を分かち合っていた。