聞き込みは足で勝負っていうよね
石畳を覆う薄靄は人々の足音を吸い込みながらゆっくりと消えてゆく。
遠くの鐘の音が低く響き、街の目覚めを告げていた。
市場では露店の店主たちがせわしなく動き、焼き立てのパンの香ばしい匂いが漂う。石造りの建物の隙間からは、まだ眠りの残る光が滲んでいた。
しかし、その穏やかな朝の裏側で、人々の心には不安が影を落としていた。
最近、王都周辺の村や町で若い女性が行方不明になる事件が相次いでいた。
それだけではない。
王都のスラム街でも、人が消えているという噂が広がり始めていた。
何者かが人を攫っている。——そう、まるで闇に呑まれるように、忽然と姿を消してしまうのだ。
「……で、お前は何を食べているんだ?」
低い声が響いた。
黒髪に鋭い瞳を持つ男は、朝の光を受けながら厳しい顔をしていた。
シャルロッテは飄々とした態度でその隣を歩いている。
銀の髪を揺らしながら、どこか無表情なまま、楽しげに剣の柄を指先で転がしていた。
「何のことです?」
「なんだその手に持っているもんは」
「え? 肉串ですけど。王都の名物ですよ。知らないんですか?」
「知ってるわ!そうじゃなくて、なんで勤務中に串を買い食いしているにかを聞いてんだよ」
「おいしいから。食べます?」
シャルロッテが食べかけの串をリヒターの口元に持っていくと、深くため息をついた。
「お前は昔から、俺の言うことを聞かないよな」
「聞く理由がありませんから」
「俺、一応上官なんだけど……」
リヒターはこめかみを押さえたが、それ以上は何も言わなかった。
何故なら、このやりとりもまた”いつものこと”だったからだ。
二人は王都の中心から少し外れた、商業地区の通りに足を踏み入れた。
人々の声が交錯し、荷馬車が石畳を軋ませながら進む。
色とりどりの布を広げる商人たちが声を張り上げ、果物を売る店では甘い香りが風に乗る。
だが、彼らの目に宿るのは、警戒と不安。
シャルロッテは、目についた宿屋の女将に「あの」と声をかけた。
——そして、笑った。
無邪気で、屈託のない笑顔。朝の光の中で、その銀の髪が柔らかく揺れる。
普段はほとんど感情を表に出さないシャルロッテが、こうして微笑むのを見た者は少ない。
リヒターの頭が、さらに痛んだ。
「あの……?」
女将が戸惑いの表情を浮かべる。
「すみません、少しお話を伺いたいのですが」
女将は、リヒターの軍服を一瞥し、緊張したように頷く。
「……最近、この辺りで何か変わったことは?」
「……ありますとも」
彼女の声はかすかに震えていた。
「この一ヶ月で、近くの村から来た娘が二人、行方知れずになりました。それだけじゃない。スラム街でも、若い女の子が突然消えるって話を聞きます。まるで……夜の闇に呑まれるみたいに」
「目撃した人間から話を聞きたいんだが……」
「誰もさらわれたところは見てないんです。振り向くと、さっきまでいたはずの娘がいなくなっている……」
リヒターとシャルロッテは、無言で視線を交わした。
「ご協力ありがとうございます」
シャルロッテの声は、いつもと変わらず淡々としていたが、微笑んだままであるせいか、妙に愛想が良く見えた。
店から離れると、リヒターは小さく息を吐いた。
「シャル、笑顔はやめろ」
「なぜです?」
「怖い」
「……」
シャルロッテは無言でリヒターを見つめる。
「普段無表情なやつがいきなり笑うと、なんか、こう……ぞくっとするんだよ」
「それは私に対する偏見では?」
「いいから普通にしろ」
「まあ、リヒターがそう言うなら」
シャルロッテは笑顔を消すと、また無表情に戻った。
それから、二人は特に打ち合わせもなく、王都の外れに向かった。
スラム街——そこは、王都の繁栄とは対照的な場所だった。
崩れかけた建物が並び、細い路地には日が差さない。
病を患った者、行き場のない孤児たちが身を寄せ合うように暮らす、王都の影の部分。
「……ここで、女の子たちが消えている、と」
シャルロッテが低く呟く。
リヒターは鋭い目を光らせた。
二人は、路地の奥に座っている老人に目を向けた。リヒターが一歩進み、静かに問いかける。
「この辺りで、若い娘たちが消えていると聞いた。何か知っていることは?」
老人は、しばらくリヒターを見つめ、それからぽつりと呟いた。
「……黒馬車だ」
「黒馬車?」
「夜更けに、黒い馬車が通る。あれが来た次の日には、誰かが消えている……」
リヒターは沈黙し、シャルロッテはゆっくりと唇を噛んだ。
消えた人々。黒装束の男たち。そして黒馬車——
これはただの誘拐ではない。何か、もっと大きな”闇”が背後に潜んでいる。
王都の空は、ゆっくりと茜色に染まり始めていた。
喧騒に満ちた市場も、次第に静けさを取り戻し、長い影が石畳に伸びる。シャルロッテは、リヒターの隣でそっと呟いた。
「……夜になれば、黒馬車が現れるかもしれませんね」
「だな」
リヒターは短く頷く。
「夜の巡回を増やす」
「でもそれじゃあ被害は大きくなるかもよ。私たちだって、四六時中すべての暗がりを調べることはできないもの」
「……何が言いたい」
「私が囮になるわ。ちょうどいいでしょう。私なら、最悪応戦できるし」
リヒターは、鋭い視線を向けた。
「囮になるのは、私がいちばん適任よ」
シャルロッテがさらりと告げたその声は、風よりも軽く、確信に満ちていた。
銀糸のような髪が微かに揺れて、彼女の灰色の瞳がまっすぐリヒターを射抜く。
リヒターは少しの沈黙ののち、低く、険しい声を漏らした。
シャルロッテは微かに笑った。
その笑みは無表情の奥からふとこぼれたようなもので、夕焼けが彼女の頬に柔らかな色を灯していた。
「私に、怖いものなんてないわ」
その一言に、リヒターは声を詰まらせる。
彼のまなざしが、ほんの一瞬だけ揺らいだ。
「お前なあ……」
「できることをしてるだけ」
「できることとやれることは違う」
リヒターは一歩、彼女に近づいた。
そして、その目を細める。かつてまだ小さな少女だった彼女が、震える手で必死に自分自身を抱きしめていたあの夜を思い出すように。
「……捕まえられるんだぞ。閉じ込められるだろうな」
「そりゃあそうでしょう。捕まえてくれないと囮にならないわ」
「俺は嫌だ」
その言葉には、かすかな怒りと焦燥、そして——どうしようもなく優しい色が滲んでいた。
「……なに。そんなんだから、隊長はお嬢に甘いなんて言われるのよ」
シャルロッテが眉を上げる。
「うるさい」
「じゃあ、過保護?私は大丈夫よ、お父さん」
「……せめてお兄さんにしてくれ」
「過保護なのは認めるんだ」
「……お父さんって年齢じゃない」
その顔に刻まれた皺は、ほんの少しだけ和らいでいた。
シャルロッテは、くすりと喉の奥で笑いながら、小さく首をかしげる。
「迎えに来てくれるんでしょ?」
「……当然だ」
「だったら、問題ないわ」
風が吹いた。
茜色の風が、二人の間をなぞっていく。
二人の立つ距離は、ほんの一歩分近づいていた。