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世界の不変 sideリヒター



静けさが、不自然なほどに濃かった。


ヴァレンヌ家の屋敷の夜は、いつもは虫の声や揺れる木々の音に包まれていたはずなのに、ここ最近の夜は、まるで世界が音を止めたように、凍りついているように感じられた。


誘拐から戻ってきたシャルロッテは、ひとことで言えば「無事」だった。

身体には傷ひとつない。

けれど、それを「無事」と呼んでいいのかどうか、誰もわからなかった。


彼女は泣かなかったが、そのかわり、なにひとつ感情を表に出さなくなったのだ。


リヒターは廊下の柱に背を預け、ソランジュの部屋の扉を見つめていた。


あの扉の向こうで、シャルロッテは静かにベッドに潜り込んでいるはずだった。

ソランジュの腕の中で、無言のまま目を閉じているだろう。


あの小さな体にどれほどの恐怖が染みついたのか、想像もつかなかった。


(……どうしたらいいんだ)


自分は無力だった。


戻ってきた彼女の頭を撫でることも、手を握ることも、大丈夫だと安心させるやり方を、触れ合いなどしたことがないリヒターは全く知らなかった。


ソランジュにだけ、彼女は縋る。


夜になれば、姉の部屋の扉を叩く。

腕を掴み、小さな声で「一緒にいて」と言う。


リヒターは、その様子を、毎晩遠くから見ていた。






「シャル、そろそろ寝ましょうか」


ソランジュが優しく語りかけると、シャルロッテは黙って頷いた。

その小さな手が、布団の端をぎゅっと握りしめる。


「姉様……寝たら、どこかにいっちゃう?」

「行かないわ。ずっとそばにいる」


その言葉にようやく、わずかにまぶたが閉じる。

だが、眠りは浅く、何かの物音ひとつで身を強張らせた。


まるで、いつまたあの暗闇に連れ戻されるかを恐れているかのように。








その夜、ソランジュはついに熱を出した。

微熱どころではない。

床に伏し、身体が火照って震え、声を出すのもつらそうだった。


けれど、シャルロッテが眠れないと知ると、彼女は起き上がろうとする。

看病していたマルグリットが慌ててその背中を支える。


「姉様、しんどいの?大丈夫?」

「大丈夫よ。おいで。夜、ひとりで眠れないでしょう……」

「……平気よ。もう平気になったの」


シャルロッテは、無理に笑おうとした。

でも、その笑みは痛々しいほどぎこちなくて、すぐに消えてしまった。





リヒターはそのやり取りを扉の外で聞いていた。

気がつけば、扉をノックしていた。


「シャル」


呼びかけると、シャルロッテが驚いたように振り返った。

その灰色の瞳は、リヒターの後ろの廊下の暗闇を恐れているかのように揺れていた。


「今夜、俺と寝るか?」

「……え?」

「ソランジュはしばらく休まなきゃいけない。熱がある」

「でも……」

「俺なら、大丈夫だろう?」


リヒターは、膝をついて視線を合わせた。


「背も高くないし、声もでかくないし、剣も置いてきた。俺の部屋には、お前の好きな菓子もある。どうだ?」

「……兄様と寝たこと、ないけど……」

「じゃあ、初めてだな」


リヒターは柔らかく笑った。

それは、彼にしては驚くほど自然な微笑だった。

シャルロッテは、迷った末に小さく頷いた。






その夜、シャルロッテはリヒターのベッドに潜り込んだ。

戸惑いながらも、彼の腕の中に体を預ける。


リヒターの胸に額を寄せると、彼の心臓の音が聞こえた。

——どく、どく、と。


その音を聞きながら、シャルロッテはようやく、深く眠りについた。


彼女が眠ってしばらくした後、リヒターは天井を見つめながら、ふとつぶやいた。


「……そういえば、俺、誰かとこうして寝るの、初めてかもしれないな」


静かな寝息が腕の中から聞こえる。


眠った彼女の体温は、驚くほど温かかった。

子どもは体温が高いというが、本当だったようだ。


自分の胸のあたりで、すぅすぅと静かな寝息が聞こえる。

細い指が、自分の手のひらをぎゅっと握っている。


その指先は、ひどく柔らかい。


その温もりが、柔らかさが、喉の奥から胸の奥へじわりと染みこんでいく。

そして——自分でも知らなかった感情が、静かに軋みながら動き出した。


胸が、痛い。


まるで、自分の中にあった冷たい石が溶けて、知らない熱を流し込んでくるような、そんな感覚。

何が苦しいのか、何がこんなに自分を揺さぶっているのか、自分でもわからないのに——


気がつくと、ぽろぽろと、涙が頬を伝っていた。


どうして、涙が出るんだろう。


ただ、この小さな少女の呼吸を感じて、体温を感じて。

眠りながら、自分の名前を口の奥でそっと呼んだ彼女の声が、心に刺さっただけで。


「……リヒターにいさま……」


誰にも抱かれず、誰とも眠らず、名前を呼ばれることもなく。

ずっと、冷たい部屋で剣だけを振ってきた。


ただ強くなるためだけに生きてきた。

誰かのためではなく、何かの代わりでもなく。

“居場所”という言葉すら知らずに、ただ立ってきた。


やがて逆らえない眠気がやってきて、ゆっくりと目を閉じる。

涙の意味を知らないまま。







翌朝、陽光がカーテンの隙間から差し込むころ。


ソランジュの見舞いに行くと、顔色はまだ少し悪かったが、穏やかな笑みを浮かべていた。

明け方、ようやく微熱まで下がったようだ。


「リヒター、昨夜はありがとう。シャル、ぐっすり眠れたみたい」

「……そうか」


少し間をおいて、彼はぽつりと言った。


「……妹が、ほしい」


ソランジュは一瞬、驚いたように目を見開いた。

けれどすぐに、ふっと息を吐いて微笑んだ。


「あなたって本当に……」

「なんだ?」

「心にあるものに気づくのが、遅いのね」

「……?」


リヒターが眉をひそめると、ソランジュはいたずらっぽく笑った。


「でもね、リヒター。あなたはいつか分かるようになるわ」


彼女の声はとても優しくて、まるで予言のようだった。


「お父様を憎んでいたことも。お兄様たちを羨んでいたことも。——そして、あなたが本当に求めていたのが、“妹”ではないことも」


言葉の意味は、まだ分からなかった。


リヒターはそれを、ただ静かに胸の奥にしまった。


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