エピローグ
「王都中央広場で暴走馬車が発生!何者かが制御不能のまま走り回っている模様!」
詰所の扉が勢いよく開かれ、息を切らした伝令が駆け込んできた。
だが、室内の空気は、それとは対照的にどこまでも緩やかだった。
厚い石壁に囲まれた隊舎の一室。
そこでは、灯りの下に男たちが寄り集まり、カードを握りしめていた。
沈黙が支配する。
瞳は、誰もが手札に釘付けだった。
「あと少しで、人生が変わる——」
そんな予感とともに、全員の手が震えている。
既に3人が沈んでいた。
負けた者たちは床に突っ伏し、敗北のまま掛け金を思って泣き崩れている。
残るは4人。
「……馬車?」
カードをじぃっと見たまま、レオン・ダルトワが低く呟く。
隣で、双子の妹のルナが無造作にカードをシャッフルしながら笑った。
「また貴族のバカ息子が酔っ払って暴走してるんじゃないの?」
「戦争が終わってから、はしゃぎすぎなんじゃない? もう少し静かにしてって伝えといて」
彼らの反応に、伝令の顔が引きつる。
「いやいや! 違うんです!」
必死に手振りを交え、彼は懸命に訴えた。
「報告によると、馬車に乗っているのは黒装束の男たちなんです! あの、最近話題のテロ組織ですよ! これは第3師団第隊の出番です! 放置したとなると……」
「夜番はどうしたの?」
ちらりとも視線をよこさないルナの声に、伝令は言いにくそうに答えた。
「皆様……馬車にひかれて地面に転がっておいでです」
「なるほど。鍛えなおさないといけないわね」
抑揚のない声が、会話の隙間に滑り込んだ。
シャルロッテ・ヴァレンヌ少尉。
彼女は無造作に固い木の椅子から立ち上がると、ゆっくりとした動作で手札を裏向きに置く。
まるで、それがこの世で最も重要な儀式であるかのように。
そして、肩にかけた剣を軽く転がしながら、軍服の袖をまくる。
瞳の奥に滲むのは、「面倒くさい」という明確な感情。
「私が飛び乗るんでしょう?リヒターたいちょー?」
壁に背を預けていた男が、手札から顔を上げた。
リヒター・リュベーベル中佐。
いつもどおり、眉間に皺を寄せ、冷静に事態を見つめている。
「もう少しでロイヤルストレートフラッシュだった」
「嘘つけ。賭け事であんたがそんな強いわけないでしょ」
「うるせえ」
短く言って、リヒターは手札をぽんっと机の上に投げた。
「鎮圧しろ」
「あいあいさ」
シャルロッテは小さく息をつくと、剣の柄を指先で転がした。
双子が勢いよく起き上がる。
床に沈んでいる者たちは、もうしばらく再起不能だろう。
今月の給与が入った直後に、他人の懐に消えたのだから。
「行くぞ」
リヒターの低い声が響く。
その瞬間——隊舎の中の空気が、凍りついた。
風が走る。
誰よりも早く、誰よりも鋭く。
シャルロッテの身体が一瞬で視界から消えた。
続いて、双子も軽やかに机を飛び越え、夜の冷気へと駆け出す。
取り残された伝令は、呆然としながらぼそりと呟いた。
「お願いだから、普通に出動して……」
御者のいない馬車が、狂ったように夜の王都を駆ける。
馬の首筋には鞭打ちの跡が残り、車輪は石畳に火花を散らしていた。
「隊長! 馬車の中に人影があります!」
ルナが屋根の上へと飛び乗りながら叫ぶ。
「シャル!」
リヒターの短い命令に、シャルロッテは軽く息を吐いた。
「はいはい」
次の瞬間——。
彼女は風になった。
壁を蹴る。
屋根を蹴る。
馬車の真上でくるりと宙返りし、片足で馬車の後部へと着地すると、無音の舞踏のように、彼女は影の中に溶け込んだ。
決して闇夜に溶けない白い髪が、さらりと広がる。
「……こんばんは」
無表情のまま、剣を構える。
黒装束の男たちが息を呑んだ。
「な、なんだこいつ!」
「くそ、侵入者だ!」
刃が抜かれる。
だが、振り下ろされるよりも早く——シャルロッテは動いていた。
一閃。
夜の闇を切り裂く銀の閃光。
その後に残るのは、倒れ伏す影のみ。
「……思ったより反応が遅いわね。御上の気概が足りないわ」
淡々と呟きながら、彼女は月の下で剣を返した。
戦争が終わった今もなお、この剣は眠ることを許されない。
夜の王都に静寂が戻る。
この静寂を守るのが、今の彼女たちの役目だった。