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1話




 窓越しに少しくぐもった小鳥の囀りが朝の訪れを知らせている。

 起き抜けのぼんやりとした意識のまま短い手足を伸ばした。強張った筋肉がほぐれて血液が巡る。体が深く呼吸をはじめたことで、僅かに脈拍が速くなった気がする。


 体が沈み込むほど柔らかい天蓋付きのベッドから這い出した。揃えておかれていた室内履きは小さな足にあつらえられたようにぴったりで、複雑な柄の高級感あふれるカーペットにはシミ1つない。

 サイドテーブルからコップを手に取り、水を半ばまで注いで喉の奥へ流し込む。冷えた液体が体の中を通り抜け、脳の覚醒を促した。


「また、朝……」


 思わず口に出た独り言はかすれていた。もう一度水でのどを潤し、深くため息をつく。

 ため息は不幸を呼ぶというけれど、ストレスを軽減する効果もあるらしい。未来の自分の不幸を対価にしても、与えられるのはほんの一時の心の平穏なのだ。なんて。


「鬱かよ……。 "風の精、カーテン開けて……”」


 声に魔力を載せて囁けば、何もないところから風が吹きあがった。物理法則を無視した空気のうねりはカーテンを窓の両端へ押し流す。

 薄暗い部屋の中へ光が差し込み、漂う埃と淡い光のあとをうつしだした。

 自然光を浴びると体内時計が整うらしい。身体が起きたような気持ちになる。


 手が届かないほど高いところにある小さな窓は、絵の具を適当に塗りたくったキャンパスのように平淡な空の色を切り取っている。

 部屋の中で唯一外とつながるその窓を眺めていると、羽の生えたトカゲ……いわゆるドラゴンが横切っていった。


「相変わらず、ふぁんたじー……」


 独り言も、乾いた笑い声も、誰の耳にも届かないまま静寂に吸い込まれて消えた。

 凝った装飾の置時計を見れば、もうすぐ朝食の時間だ。一人で身支度を整えて、重い両開きの扉を開いた。


「おはようございます、お嬢様。お供いたします」


 扉を開けてすぐ、待ち構えていたかのように声をかけてきたのは専属護衛騎士のフィリペ。整った顔に鉄仮面を張り付けたような男だ。普段は扉の前に立っていて、外出時は後ろに付き従うように歩く。

 もう一人の専属護衛騎士のルシオは無口で、どんなときも常に部屋の前に立ち続けている。もう一年近い付き合いだというのに、ただの一度も声を聞いたことがない。


「おはよう。朝からご苦労様」

「いえ、仕事ですので」


 毎朝のように交わされる事務的な会話が終わる。それから誰とすれ違うこともなく、靴が床を叩く音だけが響く。

 今では慣れたことだが、出会って最初の頃の気まずさは言葉で言い表せないほどだった。表情の見えない、言葉も交わせない相手に監視される苦痛は今でも変わらない。


 和やかな会話の音が漏れ聞こえる食堂の前まで来た。扉は空いている。廊下より大きな窓があるからだろう。そこから差し込む明るさに目がくらむ。

 じんわりと涙を押し出すような目の痛みに耐えながら、沓摺を跨いだ。


 次の瞬間、聞こえていた物音の一切が途切れた。誰もが会話をやめ、動きを止める。

 それは侵入してきた異物に対する防衛反応に違いなかった。

 

 目が慣れたせいか、あの目がくらむような明るさはもう感じない。


「……おはよう、我が娘エステラよ。今日も愛らしいな。天使が舞い降りたようだ」

「おはようございます、お父様」


 食堂の無駄に大きなテーブルでは既に、父親のコルネート子爵と正妻のライムンダ、義弟のロヘリオが朝食をとっている。

 つい先程まで聞こえていた和やかな会話は彼らのものだろう。

 

 コルネート子爵は思ってもいない賞賛を口にしてへらへらと笑った。そんな態度にも、背丈の割にひょろりとした体躯にも、下がり切った眉にも、無性に腹が立つ。


「ピア、朝食をお願い」

「か、かしこまりましたっ」


 湧き上がる苛立ちを抑え込んで、壁際に控えた顔馴染みの年若い侍女に声をかける。すると、待ち構えていたのだろう、料理の乗ったカートが入ってくる。

 ピアが何をするまでもなく、年嵩の侍女の手によってすぐさまテーブルの上に一人分の朝食が並んだ。手持無沙汰になったピアが引いてくれた椅子に腰かける。


「……いただきます」


 毎日ほとんど変わらないメニューの朝食に手を付ける。これはただの栄養の摂取。そう自分に言い聞かせ、呼吸を止めて飲み込んだ。

 味のしないスープとパサパサのパンは粘土のように口の中で混ざり合う。これが毎日の食事だと心が理解してしまったら、耐えられる気がしなかった。


「ミルクが嫌いだと聞いたから、果実水を用意させたんだ。飲みなさい」

「……はい、お父様」


 果実水が好きなわけではない。味とも呼べない甘い香りしか感じられない液体。しかしミルクの臭さに比べれば、ほんのり甘い香りのする果実水は人の飲むものだった。

 足りなくなる栄養を取らせるためか、他の三人の皿には見当たらない、ミルクを使ったメニューがあるようだった。子供の好き嫌いに理解があるコックだ。


「エステラ、おいしいかい?」

「……えぇ、お父様」


 そんなわけがない。粘土がおいしいわけがない。ただ、わたしがそう言わなければ罰せられるコックを知っているだけ。

 それでもここの食事は、心底、口に合わない。

 一言も言葉を発しないライムンダとロヘリオを尻目に、コルネート子爵は1人で言葉を紡ぐ。


「そうか。それはよかった!」

「……」

「……ところでエステラ。今日はよく眠れたか?」

「……えぇ、お父様」


 大げさすぎる喜んだ()()にうんざりしたころ、最も聞かれたくない話題が始まった。

 ここまで続いた無意味な会話の全ては、親と娘のそれではない。ただコルネート子爵がわたしにそれを聞くためだけの前振りでしかなかった。


「そうか……。その、夢を見たりは……」

「いいえ、お父様」


 間髪入れずに否定すれば、瞳に浮かぶのは落胆。金の卵を産むはずの鶏が、卵を産んでいないことに気づいた瞬間の落胆だ。

 隣のライムンダの、わたしを居殺さんばかりの鋭い視線よりはましだろうか。

 わたしは予知夢を見る子供だ……と、思われている。

 

 (わたし)が金の卵を産んだのは、生まれてからの7年間でたった3回だけ。それに最後の予知夢から、もうすぐ1年が経つ。

 しかしそのたった3回で、没落一歩手前だったコルネート子爵家はすっかり左うちわの金持ちに成り上がった。ほんの少し前までは、大きな失態でもなければ将来安泰の大金持ちになっていた。


「お父様、過ぎた欲は身を亡ぼすものです」


 コルネート子爵とライムンダが欲に溺れて、身に余る散財を重ねなければ。


「エステラッ!」


 コルネート子爵が反応するよりもはやく、ライムンダが声を荒げた。

 胸元で、ごてごてと宝石をあしらった派手なネックレスが揺れる。新しいものをあつらえる余裕がないからだろう。流行遅れのデザインだ。


 他の貴族からの圧力と、裏がありそうな多額の借金によって家そのものが潰される前に、コルネート子爵は莫大な富の源だったあらゆる事業を手放した。今では貧しかったころに逆戻りしかねない衰えっぷりだ。


「……失礼いたしました。ライムンダ義母様(おかあさま)

「あなたに母と呼ばれる筋合いはありません」


 膨らみすぎた風船がはじけるように、すっかり萎んだコルネート子爵家。

 事業は失っても培ったすべてが消え去るわけではなかった。金があったころに得た経験や人脈、惰性で行っていた慈善事業による恩は残り、現在の生活を支えている。

 ただ恩と同時に恨みも残った。コルネート子爵家が成り上がると共に様々なものを奪われ、コルネート子爵家が落ちぶれると共にまた力を持った家は少なくない。


 このままでは先が見えないことは疑いようがなかった。しかし同じ失敗をもう一度犯してしまえば今度こそ破綻することも想像に難くない。


「……ごちそうさまでした」


 黙々と栄養の摂取を終えてしまえば、この居心地の悪い空間に用はなかった。挨拶もそこそこに席を立つ。


「待ちなさいエステラッ!」


 ライムンダの声を背中に浴びながら、食堂を後にした。フィリペは相変わらずの鉄仮面でぴたりと後ろに付き従っている。

 強制的に上げられた舞台からやっと降りられた気分になった。廊下の薄暗さに安心する。


 人気のない廊下に出ると、見えない場所に張り巡らされた使用人通路から人の気配が感じられる。この、朝の忙しい時間帯特有の活気が好きだ。

 朝食を部屋で摂れば、誰と顔を合わせる必要もない。望めば不可能なことでもないだろう。

 

 それでも部屋を出てきてしまうのは、たった一人で無為な時間を過ごすあの部屋にいては感じられない、人の温度があるからだった。


 部屋まで帰ってくると、ルシオが迎えてくれる。歓迎はしてくれないけれど、何もかもが変わってしまったこの人生で、日々変わらないものがあることに安心してしまうのは事実だった。


「ご苦労様、ルシオ。フィリペも」

「いえ、仕事ですから」


 フィリペは相変わらずの鉄仮面。ルシオも無言のままこくりと頷いた。

 重い扉を開いて部屋に入る。護衛騎士の二人は扉の前に立ったまま。記憶にある限り、一度も入ってきたことはない。


 窓が小さいせいで薄暗い部屋の中には、光を反射して鏡が鎮座している。背丈を超える大きさの、前身鏡だ。中にはワンピースを着た幼女が映っている。

 鏡に歩み寄れば、鏡の中の幼女もこちらへ近づいてくる。見慣れない自分の姿だ。藍白の髪も同色の瞳も、生まれてから7年は経っているのにまだ見慣れない。


 わたしには前世の記憶がある。黒髪黒目の大学生こそ、記憶にある自分自身の姿だった。

 7年前、終わったはずの人生がまた始まった。人生の終わりこそを希望に思っていたわたしにとって、それは想像したくもない悪夢だった。




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