人間がいかにして頭にパラボラアンテナをつけるにいたったか、またその顛末
ことの発端は、中堅私立大学に通う学生のレポートであった。ここにその一部を紹介しよう。
…………コミュニケーションとは「記号等、何らかの因子の移動を伴う、ある、分けられる事象間の相互作用の過程を意味」である。
私は今パソコンの前にいて、タイプしている。今、「き」と打とうとする。脳が指にKとIを押せと命令し、指はそれに従った。これはコミュニケーションではないだろうか。そして今度は、指がパソコンに「き」を表示しろとキーボードを介して命令する。パソコンは命令に従って「き」を表示する。それで私は満足する。これもまたコミュニケーションではないだろうか。何らかの行動を起こして反応が帰ってくれば、それがコミュニケーションだ。
と、考えてみると全てのことはコミュニケーションであると、わたしは思う。
●日常コミュニケーション ――「グローバリゼーション」
携帯でメールをする。SNSでコミュニティーをつくり記事を書き込む。ブログの日記でコメントを得る。コミュニケーションだ。本来、わたしたちはただ生活しているだけでコミュニケーションしているはずだが、最近はどうも、わざわざ遠まわしでコミュニケーションしていると感じることがある。ちまちまメールをするのなら電話で話せばいい。SNSでコミュニティーをつくるなら友達とその話で盛り上がればいい。そして、日記というものはそもそも他人に見せるものなのだろうか。
誰でも簡単に誰かとコンタクトを取れる。携帯電話、ノートパソコン、携帯ゲーム機。本来の機能にプラスされている、インターネット機能。インターネットとはコミュニケーションツールでもあると私は思う。掲示板であったり、ブログであったり。動画共有サイトのコメント機能もそうだ。人はコミュニケーションを求めている。携帯等の端末がどんどん軽量、コンパクト化、低価格化してゆく、人々はコミュニケーションを求めている。現実世界でのコミュニケーションでは足りないのかつまらないのか、とにかく満足していないのだ。もっと規模を広げたいと思い、現実生活の外にそれを見出す。しかし、ちょっと考えてみれば、わたしたちは息をするのと同じ様にコミュニケーションをしているのが解る。
今、一人の男がハンバーガーを食べようと思う。ハンバーガーを食べるには、まず注文しなくてはいけない。つまり、店員とのコミュニケーションを図らなくてはいけない。その店員はキッチンのほうに注文を伝えなくてはいけない。すると客のオーダーを消化すべくハンバーガーが作られる。ところがこのハンバーガー、というのもまた結構複雑な造りになっているのだ。パン、肉、ピクルス、たまねぎ、ケチャップ、マスタード、包装紙。これらの具財たちがハンバーガーになるまでの過程を辿ってゆこう。まずはパンだ。工場でつくられ各店舗に配送される。そこにも配達人と店の人とのコミュニケーションがある。ところがそのパンもはじめからあったわけではない。企業の企画者やプロジェクトの責任者達が会議に会議をかさね、研究者達が柔らかさ、味などを調整してゆくなかのコミュニケーションがあってはじめて存在する。肉、ピクルス等も同じこと。包装紙はもっと厄介だ。まずそのハンバーガーにあった材質を決め――場合によっては開発し――、そのハンバーガーを包みきれる大きさを決め、デザインを選ばなければならない。そのデザイン案をいくつか提示するのはデザイナーだ。最終的な決定を下すのは企画者の側。こうして彼はコミュニケーション製のハンバーガーを食べるのである。
なにをするにしても、なにをしてもらうにしても、そこにはコミュニケーションがあるのだ。
●受送信 ――「コミュニケーション」
コミュニケーションとは、伝達することだ。伝わり達しなければ成功とは言えない。メールを送り、向こうが、あるいはこちらが圏外にいては送れない時、画面に表示される言葉――送信に失敗しました。相手は失敗したことすら知らないのだ。これが現実でおこると思うと、なんとも恐ろしいことである。伝えたいことがあるのに、伝わるどころか気付いてさえもらえない。だからわたしたちは常にアンテナを張っておかなくてはならない。それも、特大のパラボラアンテナを。しかし人間は携帯電話と違っていくらか融通が利くから、たとえばこちらが送信に失敗した際、あちらが受信に失敗したのかと気付ける機能がついている。しかし携帯電話と違って精密さに欠けるから、送信できたと思い込む、もしくは受信できたと思い込むこともある。これもまた恐ろしい。仲のよかった友人とケンカをしているときは、互いが圏外にいるということに気付かない為、このようなことが起こるかもしれない。
こんなに恐ろしいことを、どうして人間は止めないのか。なぜならば、生きるのに必要だからだ。人間はコミュニケーションをしないと死んでしまう。
コミュニケーションの媒体は多用だ。言葉、身振り、手振り、表情、さらには雰囲気、そしてお金もまたコミュニケーションツールの一つだといえる。権力者が自分をブランド物や宝石で飾り立ててそこにいるだけで、「おれは、わたしは金持ちなんだぞ」と主張(送信)しているようなもので、周囲の者は「彼は、彼女はお金もちなんだなあ」と認める(受信)するだろう。もっとあからさまに、現金での取引はどうだろう。ある男が店で朝食のパンを買う。「すみません、これを買いたいのですが、お願いします」「154円です」男は200円払う。店員が釣りとパンを渡す。これで送受信ともに成功だ。しかし、ここにお金がなければどうなるだろう。「すみません、これを買いたいのですが、お願いします」「154円です」ここで男がお金を持っていないとなると、店員はパンを渡さない。もしかしたら店員は警察を呼び、男は連行させるだろう。コミュニケーションは失敗した。こればかりはアンテナを張っても駄目である。ここでは、お金はコミュニケーションをするのに絶対必要なものだからである。
●共に生きる ――「共生」
家庭で、学校で、社会で生きるのにはコツがいる。共生しようとすることだ。どっちにしろ共生しなくてはいけないのだから、自分から働きかけた方が簡単だ。何故といえば、一方的な共生は共生ではないからだ。一方通行は不便なだけで利益がない。
Symbiosis(共生、相利共生)ということばがある。つまり共益関係にあるということだ。わたしはここで、Symmetry(釣りあい、均整)ということばを引き合いにだそうと思う。Sym…ではじまるこの二つの単語は、まったく無関係とはいえない。互いが互いの力を利用して、互いが利益を得ている、そしてそれは釣り合いが取れているものである――。私が思うに、Symmetry があってこそのSymbiosisだ。他方が多くても、少なくてもいけない。左右対称でなくてはいけないのだ。共生とは、つまり、言い換えると、やはりコミュニケーションであるということだ。送受信できていなくてはいけない。一方通行ではいけないのだ。双方がアンテナを目一杯張らなくてはいけないのだ。
●まとめ
わたしはフランス語学科で、教授はネイティブのフランス人である。四月の頭、わたしは彼がなにを言っているかまったく聞き取れなかった。ただの音のつながりに思えたのである。もちろん教授は日本語を流暢に話せるのでまったくの意思疎通がはかれないことはなかったが。しかし、いつの間にか音のつながりが「言葉」へと変わっていった。教授のごく単純な指示や、教科書の会話文もどうにか聞き取れるようになっていた。
この変化は嬉しいと同時に奇妙な感覚でもあった。英語は得意な方で、それなりに会話ができる程度なのだが、わたしはこの変化――音から言葉へ――に気付かなかった。いつの間にか英会話ができるようになっていて、その時はどうも思わなかったのである。だから、新しいコミュニケーションツールを手に入れ、そのツールに対応したアンテナを手に入れつつあることを自覚している今、すごくくすぐったい。今では教授に自分の意思をフランス語で伝えようと試みるようになり、日常生活で「ああ、あれ習ったな。なんだったっけ。ああ、あれだ」とも思うようになった。もちろん、わたしはまだまだフランス語を始めたばかりで中一の英語レベルにもかなわない。だからまずはフランス語とコミュニケーションをとろうと思う。
すべてのことはコミュニケーションだ。コミュニケーションのない生活などない。わたしたち人間はそれを、息をするようにしているが、それは、実は恐ろしく曖昧なもので、とんでもない勘違いやすれ違いを引き起こすこともある。
上にあげたフランス語云々の例では間違いを恐れる必要はない、何故なら習いたてで、向こう側もそれを知っているからだ。しかし、いつかフランス語をそれなりに話せるようになるとそうはいかない。コミュニケーションを学んでいるうちは間違いにびくびくする必要はないのに、コミュニケーションを学び終えると常に受送信信に気を配っていなくてはいけない――しかも無意識の内に――なんて恐ろしいのだろうと、わたしは思う。
このレポートを読んだ助教授はえらく感銘をうけ、レポートを書いた学生の了解を得て再考察し、論文として発表した。彼の論文は元となった学生のレポートを、より専門的に、深く考察されており、A4用紙5枚のレポートは47枚の論文へと化けたのである。それは学会で高く評価され、彼は教授へ昇進した。
さて、学会ではこの論文の話で持ちきりであった。パラボラアンテナを張るという斬新かつ奇抜なアイデアは哲学者を唸らせ、それに科学者が興味をもち、そしてアンテナの開発が進められた。例の学生は特別措置として大学を主席で卒業――当時一回生だった――、教授の助手となった。二人は科学者ではなく、もっぱら文系の人間であったので主に開発を研究するのは科学者と脳外科医に神経科医達の仕事である。科学者たちは論文の正しい解釈ために彼らを傍に置いておきたがった。しかしそう上手くことは運ばない。二人は哲学者たちの大きな集まりや、心理学者との懇談会、パーティーに講演会で、てんてこ舞いであったからである。
それでも開発研究は続けられた。まず、彼らは携帯電話の仕組みを学んだ。圏外とはどういう状態を指すのか、失敗した時、携帯電話はどうやってそれを知るのか。さらに、受信したときのシグナル、つまりは着信音の必要性、音に気付かない時のバイブレーション機能やマナーモドに電源のオン、オフ……課題は山積みである。
そういった諸々の問題を片し、ついには取り付けるところまで進んだ。まず人間の頭に取り付けるパラボラアンテナは取り外し可能でなくてはならない。しかし脳との接続を必要とするのでそう簡単にはいかない。人間の頭が耐えられる重さの統計をとり、頭蓋骨の構造や強度を考慮しつつ、風に煽られ抵抗をうけにくくする工夫をこらし、そしてついに試作品が完成した。全国の刑務所に服役中の犯罪者から無作為に五十人を選び、彼らを使って試作品のテストが行われる。
結果は成功といえた。アンテナを装着した状態で二人きりにし、一時間雑談させる。うち一人が特定の人間に対して誤作動を起こし、一人は無差別に誤作動を起こした。三人が時間差で送受信した。
その後、試行錯誤を繰り返しついに完成したのは真珠色のパラボラアンテナである。個人の頭の直径と同じサイズであるから、完全オーダーメイドで価格は手術費込みの三百二十五万。四年に一度のメンテナンスが必要で、ここでのコミュニケーションツールは言語に限る。自分の声に出した言葉が相手に自分の思ったとおり伝わっているか、まったく失敗したのか、自分が圏外にいるのかを知らせてくれる。頭蓋骨の強度と骨格の変化、言葉の未発達度等諸々の都合により、取り付け可能年齢が定められた。一般に成長が止まるとされている十八歳までは取り付けができない。学生のレポートの言うように特大のそれではないが、ともかく完成したのだ。
しかしここにきてある宗教団体が反対を訴える。そんなものがなくとも生きていける、今までだってやってこれたじゃないか。
オカルト研究家が口を揃えていう。そのアンテナは未知の物質で作られているに違いない、宇宙からの隕石から云々。
いんちき占い師とスピリチュアルカウンセラーはワイドショーでこう言う。そんなのもで人間の心が理解されてたまるか、そんなことはあるべきではない云々。
しかし、結局パラボラアンテナは社会に受け入れられたのである。
世界は円滑に回るようになった。各国首脳会談でも――驚くべきことに、このアンテナは言葉の壁をも越えていたのである――これまでにないほど話はスムーズに進んだ。テロ組織との和解、核保有国の核廃棄同意。
必要なのは和解であり同意であり友好であると、例の学生は言った。
必要なのはコミュニケーションであると、教授は言った。
中身がどうあれ、形だけでいいいと、二人は言った。
アンテナはコミュニコーションを大いに助け、かつ正確にできるが、互いを和解させ、誤解をなくすことはできない。送信に失敗したと知ることができても、向こうあるいは自信が圏外にいると知っていても、本人がそれを正そうとしない限りは失敗したままである、それは本人のすることであってアンテナはそこまで賢くできていない、あるいは作っていない。
では口先だけで「OK、解った了解。じゃ、仲直りといこうぜ、兄弟」といい、互いにそれが嘘であると知っている和解・同意に、はたして意味はあるのか。ある。そう言っておけば、とりあえずは当面ごたごたを片していられるし、マスコミもこぞって平和を報道するだろう、それが嘘と知りながら。視聴者は平和を喜ぶに違いない、それを嘘と知りながら。
そこで倫理学者の出番である。偽りの平和なんて望んでいない、そんなものは逃げであって何の解決にもならない。一時的に戦いを回避できてもそれが未来永劫続くわけがない云々。が、待ってましたとばかりに猛反論を吹っ掛ける傍ら、いつの間にやら世界は変わりつつあった。
世界規模で平和を演じているうち、本当にそうであるかのように感じるようになる者がいる。平和だね楽しいねみんな幸せだねごっこをしていると、それが楽しくて、現実であればいいのに、現実だったらいいのに、じゃあ現実ってことでいいじゃん、と考える者がいる。偽りは本当になりうるのだ。
学生と教授は平和のためにとアンテナをつくったのではない。つくり終えた後のことなど考えてもいなかった。偽りの平和に暴動が起ころうが、倫理学者が喚こうが、SF近未来映画さながらのディストピアをうもうが知ったこっちゃなかった。しかし、それでも結果的にはよかったのだから。
終わりよければ、すべてよし。