野茨の奥津城(三十と一夜の短篇第73回)
朽ち掛け、城壁に野茨が絡みつく古城に伝えられている話がある。
国を滅ぼす男児を生むと卜占で告げられた姫が高い塔に閉じ込められた。
或いは、戒めを破った姫が呪いを受けて長い眠りに就き、城の中で目覚めを待っている。
また別の言い伝えでは、予言の力を持つ女性がいて、その力を独占する為に領主は決して外に出さず、特別な作りの塔に留め置いた。
城の建設の際、人柱にされた娘の幽霊が城の最上階にいて、時折現れては城主に悪戯をした。
どこまでが史実か、面白おかしく語られた話なのか、昔々の伝承は沈む陽に色を変える水面のごとく一色ではない。
王女はおそれを知らない。危険も禍々しいものからも遠ざけられて育てられた。いつも扶育係や召使いが側にいて、王女の視界に入らぬように注意を払い、気付いても避けるように仕向けてきた。王女は幼児期を脱してからも好奇心のまま悪戯をしようとするので、周囲の者たちは気が気でない。きっちりと締め上げた衣装に歩きにくい靴でも階段を飛び降りようとするし、外に出れば父王の猟犬の尻尾を踏もうとした。階段では乳母が庇って下敷きになるし、小姓は大きな犬に抱きついて落ち着かせるのに必死になった。王妃は母親らしく、王女の行動に仕える者たちが苦労していると王女を叱り飛ばした。父王も落ち着きがないと下々に示しがつかないと、苦い顔をした。しかし、王女は両親がどんなに強く注意し、仕置きをしようとしても、笑顔で謝れば、仕方がないと許してしまうのを知っている。王女はいつも悪びれたふうもなく、にこやかに苦労を掛けてごめんなさいと臣下たちに言い、両親にこれでいいでしょうと笑ってみせた。王女の微笑には激怒していた者も見惚れずにはいられない愛らしい美しさがあった。毎度毎度、痛い目を見た者は報われず、王女の容姿に誤魔化された。
王女の暮らす城は歴代の王の居城とされてきた。古いので、昔から増築や改築が幾度か繰り返された。元の城がどのようなつくりだったか判らなくなってなお、取り残されたような区画があった。北東にある塔は初めの頃は物見に使われていたそうだが、城郭が広くなり、物見の為の塔は新しく築かれた城壁にある。古い塔は取り壊されずに、今は庭となった場所に残されている。だが庭の手入れ道具の収納小屋として使われているではない。北東の塔は王に許された一部の者しか近付けない。城にいる大勢の者たちは北東の塔には何があり、誰が居るのか知らない。王女も知らない。
北東の塔の窓は開け閉めされるが、塔に人の姿は見えない。毎日王から命じられた者が荷を運び込む。その荷は食事や大量の水、麻束や絹の桛、染料であるが、塔の一階に置くだけで受け取る者は出てこない。代わりに空の食器と排水、そして月に何回かは綾衣や麻布が置かれているので、それを運び出す。階上に決して上ってはならないし、大声を出してもいけない。そう決められている。長年のしきたりと伝わっており、誰も疑問を抱かない。完成された綾錦にはその年の出来事や年中行事が模様となって織り込まれている。錦は王宮を飾り、麻布は寺院に寄進された。
王女は父王に庭にある塔について質問するが、まだ知らなくていいことだと言われ、塔に入りたいとねだれば、こればかりは許されないと、笑顔を見せても怖い顔は少しも緩まなかった。
王女は危険を避ける為に乗馬や狩りを覚える必要はないとされたし、当時の女性の嗜みとして高貴の者でも身に着けるべき糸紡ぎや機織り、裁縫、刺繍も教えられなかった。体を動かすことといったら散策と舞踊、時を過すのには聖書を読むなどの座学をせよと躾けられた。常に人にかしずかれる王女としての自覚を持てと言われ続け、それでも蝶を追う子猫のような性質は矯められなかった。危ないからと庇われ、遠ざけられ、痛みを知らず、刺激が欲しいと退屈が影のように付きまとった。
王女が十五歳になり、十五となればもう大人だと口では言いつつ、両親は一層口うるさく、歩き始めた赤子ではあるまいに、一挙手一投足を監視する。どうしても外せない事態が報告されたと、地方に二人で出た。息が吐けるかとほっとしたのも束の間、日が差す隙間のないかと感じるくらいに王女は使用人たちに囲まれた。うんざりだった。しかし午後になって油断が出たようだ。昼食後にうつらうつらし始めた乳母や、集中力の切れた侍女や小姓たちの隙を見て、王女はその場から離れた。
庭に出て、一人、大きく伸びをした。なんて気持ちのいい!
歌声が風に乗って聞こえてきた。
塔で誰かが歌う、と乳母か古株の侍女が言っていたような覚えがある。父王は今いない。この機会を逃してはならない、と王女は決めた。一人、北東の塔の扉を開いた。
塔の一階はガランとして誰もいない。毎日運び込まれる荷もない。塔の住人が階上に運んだのか。王女は小鹿のように階段を上った。最上階の、歌声の漏れ出る扉まで辿り着いた。扉を叩いて都合を確認する気遣いは王女にない。臆せず開けた。
何かが割れ、砕ける、強い音が鳴った。
「何者か!」
誰何する声に王女は驚いた。歌声から若い女性かと思い込んでいたが、部屋には老女が一人、高貴な身分を表す衣装をまとって立っていた。
「びっくりした」
立ったまま腰をかがめる素振りもしない老女を無礼と感じ、王女は言った。
「お前はこの国の王女の前にいるのを知らないのですか?」
老女は恐れ入る素振りもない。
「そなたこそ誰の前に立っているのか知らぬか?」
目下に使う言葉で話し掛けられ、王女は再び驚き、不愉快を隠さなかった。
「知らないわ」
老女は冷たく笑った。
「知らない? 当代の王は困ったものだ。国と民の栄えを守るために塔に籠った斎の女の存在を王女に教えぬとは、とんだ恩知らず。天に唾する愚か者」
老女の物言いに、王女は胸を押さられているように苦しくなった。
「国王を侮辱するのは止めなさい」
しかし、老女は頭を下げない。
「当代の王など、わたくしに機織りを命じたかつての王の足元に及ばぬ。そなたは王の威を借る婢に過ぎぬ。そなたこそわたくしに礼を尽くすべきだ」
目の前の人物は何者なのか、知らずにへりくだったら恥ではないかと、王女は大いに惑った。王女は威厳を保ちつつ、晴れやかな笑みを浮かべてみた。
「申し訳ない。わたしはお前が誰か知らない。知らない相手にどのような礼をすればよいのか見当がつかない。どうかお前が誰か教えて欲しい」
老女は王女の微笑が目に入らなかったかのようだ。いや、微笑の威力は通じなかった。
「そなたがわたくしを何者か知らなくても、わたくしはそなたを知っている」
老女は自らの背後を指差した。後ろには金属を磨いた大きな鏡があった。鏡は大きく裂け、割れている。
王女はこの部屋に入って響いたのは、この金属の砕けて割れた音だったのかと、瞠目した。
「つい先刻までこの鏡は外界の様々な姿を写し出してくれていた。そなたがここに入ってきて、物の役に立たなくなった」
「それは……」
ごめんなさいと言いそうになって、王女は止めた。
「鏡が古くなったからであって、わたしの所為ではない」
「古くなったから。確かにそうであろう。しかし、そなたの仕業であるのに違いはない」
王女はぐっと息を呑む。
「そなたが生まれて、当代の王と妃は誕生の祝いの宴を催した。宴には国に住まう不思議の業を持つ女たちが招待され、それぞれそなたに祝福を与えることになっていた。洗礼式が終わり、宴となり、不思議の業の女たちが一人一人、美しさや賢さをと祝福を与えていった。ところが、一人だけ招かれなかった不思議の業の女がいた。その女が途中でしゃしゃり出てきた。自尊心を傷付けられた女は、そなたが十五になった年に糸錘に刺されて死ぬと告げた。
不思議の業の女が一人、まだ祝福を与えていなかった。年若く、業は未熟で、先のお告げを完全に取り消せなかった。それでも糸錘では死なない、眠る、と変えた」
王女は自分が生まれた時にそんな出来事があったと知らされていなかった。不思議の業を持つ女など単なる言い伝え、正しい信仰の入ってくる以前の邪教。そんな者を祝いの席に呼ぶなど有り得るのか。王女は嘘か真か、判断できず、声も出ず、ただ身をすくめて聞いている。目の前の老女の顔つきが少しずつ変わっていくように見えるのは、初めて聞く話に胸が震えるからだろうか。
「当代の王は国中全ての糸錘を焼き捨てた。この塔にある糸錘を除いて。そしてそなたを傷付けぬように、危うい物すべてを近付けぬように、細心の注意を払った。
そなたの父は、そなたがわたくしの贄となるか、代わりにさせられるのかと思ったようだ。そなたの父はそなたにここに入ってはならぬと言い聞かせてはいなかったか? しかし、そなたは猫をも殺す好奇心を抑えられなかった。愚かなこと、愚かなこと。すべては不思議の業の女の授けた言葉通りに動いている」
語るうちに老女の顔の皺は消え、肌のたるみもなくなった。その声に相応しい若々しく輝く頬に、長い睫毛に縁取られる瞳、たるみに埋もれていた唇ははっきりと赤い。衣装を通して瑞々しい姿が浮かび上がる。王女の姉でも通じそうな容姿は王女よりも気高く清らかだ。
「何故王はこの塔の糸錘を燃やさなかった?」
「燃やさなかったのではなく、燃やせなかった。
わたくしは国つ神に捧げられた斎の女。外の世界に触れることなく、糸を紡ぎ、絹桛を解いて帛や綾を織り、国つ神を寿ぐと定められた。それを守る限り、国は栄え、民は安らぐ。歴代の王たちはこの塔を、わたくしを守り続けた」
王女は既に老女の姿ではなくなった女性を見詰める。
歴代とは? 一体いつの時代からこの塔は存在し、この女性は暮らしていたのか。
「何も知らなかったとはいえ、この国を統べる者の娘が戒めを破った。
綾に織り込む外界を写し出してくれた鏡は砕けた。わたくしはもうこの国の歴史を織り込めない。
この国は終わる!」
女性は弾けたように笑った。
「王族は尊き責務を負い、男は戦場に立ち、女は民の暮らしを豊かに導く。
行末を案じた父親の情ゆえに、そなたは盾も矛も持たず、鍬も刃物を扱えず、針の持ち方も知らぬまま、王族に相応しい務めを行えぬ。鼠の捕り方を知らぬ猫同様、ただ愛玩されて生きているだけ。
そのそなたが国を滅ぼすのだ。なんと可笑しい」
王女は行く手を塞がれた鼠同様に、悲鳴を上げた。
「お願いします。どうかそんな不吉なことは言わず、また糸を紡ぎ、国の栄えを物語る綾を織ってくださいませ」
「それはできない。外界を写してくれた鏡は砕けた。
わたくしはこの鏡が歪み、砕ける日までこの塔で鏡に写る景色を綾に織り込めと命じられた。わたくしが同じ日の繰り返しに倦み、疲れようとも続ける限り、この国はさいわいに満ち、民は飢えも渇きもなく暮らせる。あの時わたくしは十八だった。それから地に落ちた木の実が大樹となり、その大樹がまた実を結び、種子が芽を出し枝葉を伸ばすほどの長い時を過した。金属でできた鏡が割れる日など来ぬと思っていたが、そなたがやって来てくれたお陰でこの通り。わたくしの役目は終わった。わたくしは塔を降りる。
そなたが代わりに国つ神への斎を務めるがよい。
もっともそなたたちは既に国つ神を奉じてはおらぬ。磔にされた神の子を信仰している。そなたたちの信ずる神は、ほかの神を尊ぶなと説いているそうだな。どちらの神も喜ぶまい。
王女よ、わたくしに代わってそなたが麻束から糸を紡ぎ、糸を掛けて機織りができるか?
そなたに下された呪いが恐ろしいか? しかし糸錘で傷付き、死ぬかも知れないし、眠るだけかも知れない。
眠るだけならさいわいだ。いつか目覚める。務めを果たせ」
王女は初めて覚えるおそれの感情に何も言えない。
「務めを果たせぬのなら、そなたは王女ではない」
王女はゆっくりと糸巻車に近付き、震える手を伸ばした。
国王夫妻が急ぎ城に戻ってくると、空に鳥たちが群れているのを見た。庭には見知らぬ女性が花に埋もれて横たわっていた。永遠の眠りに就いた女性に鳥たちが花々を空から雨と降らせる。王に仕える騎士は女性の顔を覗き込む。
「臈けた貴婦人が何故ここに。生きておいでならば、それがしは生涯の忠誠と愛情を捧げましたものを」
王は青ざめ、王妃と共に塔へ入る。塔を上ればそこには深い眠りに落ちた王女の姿。抱き起こし、揺さぶり、声を掛けても王女は目を覚まさない。王女の側には糸錘が転がっている。一粒種の娘の変わり果てた姿に父母の嘆きは深い。このままいつまで眠り続けるのだろう。
王と王妃は本拠を変えてまつりごとを行うと決めて、側仕えから下働きまで、家畜も連れて別の城へと移った。
時は過ぎ行く。木の実から芽が出て、人を見下ろすほどの高さになる頃に王統が代わり、山から崩れ落ちた岩が川に流され、海に至って細かな砂粒になる頃には王政は消えた。
朽ち掛けた城は野茨に囲まれている。茨の古城には言い伝えがある。
神に捧げる綾衣を織り続けた王族の女性がいた。神聖さを保つ為に姫は外界から遠ざけられたが、代わりに不思議な力を持った。織られる綾錦のごとく国は栄え、民は豊かに暮らしたが、閉じ込められる生活に姫は飽き、外にいる溌剌とした人の姿に憧れ、初めて塔から外に出た。その行為は命を代償とし、姫は城壁から飛び出す前に息絶えた。
或いは、呪いを掛けられた王女が眠っている。戒めを破ったが故に百年の眠りに就いて、目覚めを待っている。目覚めさせる力を持つのはおそれを知らぬ純真無垢の者のみという。
城は女を閉じ込める。
城は女の奥津城。




