新たな旅立ち
「すまんが、しばらく旅に出なにゃならん」
実家。居間。懐かしい声。
「旅って親父、またなんで」
父。時に思うことは無い。
「古い友の誘いでな」
「ふうん、いつから行くつもりなんだ?」
「今すぐにでも」
「……随分と急ですね、お義父さん」
母。
「すまんのぉ」
「父さん、具体的に何処へ行って、何をする予定なのか聞いても?」
おば。少し怒っている。
「詳しいことはようけ知らん」
「……何ですかそれ。いいと思ってるんですか。勝手過ぎますよ。ただでさえ60超えているのに」
「そうだぜ親父。らしくないじゃねえか。」
諍いには怯えたい。足をプラプラ妹のんき。
「本当ですよ!ローレンス達もまだ幼いというのに。
お義母さんからも言ってください!」
母が声を荒げてビクリ。おばあはズズズと茶をすすると、
「行かせてあげなさい」
「母さん?!」
「行かねばならぬのでしょう?」
静かな海のような笑みをあのひとに向けた。
「……すまんの」
場面とんで、朝の玄関。
荷物を持ったあのひと。隣に知らない黒いひと。
「ローレンス。ええ子にしとるんだぞ」
「うん」
だめだ
「行ってくる」
いかせるな、ひきとめろ。
「いってらっしゃい」
影はどんどん小さくなる
手を振るな、足を動かせ。
もう点になった
どれだけおもっても、ぼくは決して動かない
幼い自分はぼんやり手を振るばかり。
ああ、もう声も届かない
それが最後だったのに
空がぐちゃぐちゃ落ちてくる
「……あ」
そこで目が覚めた。
ぼやけた視界と思考。
どれだけ眠っていたのだろう。いつから眠っていたのだろう。
西窓からわずかに見える太陽は、午後であることを示している。
狭い室内には、安酒の瓶がゴロゴロ転がっている。
ああ、酒飲んで寝たのか。
残っていないだろうかと、見ようとしてベッドからぐでり落ちるように這い出る。
匂いしか無かった。
いよいよ何もやることもない。
自分には何もない。
死ぬのも生きるのにも気力がない。
身体も心も動かない。
淀んで、朽ちて、腐るのを待とう
チリン
音だ。
チリン
また鳴った。
ああ、呼び鈴か。
チリン チリン
2回鳴った。ほっといてほしい。
コンコン
ノックになった。
コンコンコン
一回増えた。
コンコンコン
しつこい。
コンコンコン
これだけしつこいということは、きっと強盗か化け物だろう。
コンコンコンコン
なら殺してくれるかもしれない。
体がとても重い。転んだ。起きた。
戸を開ける。
「殺してください」
「ローレンス・ササキさん、書類を書いてください」
藍色のフード、わずかに覗く髪は青白。
整ってはいるが表情筋が死んでいそうな顔、氷のような瞳。
手には袋を二つ。
立っていたのは強盗でも怪物でもなく、イェルシャだった。
恐ろしいことに、イェルシャは自分を殺さなかった。
「……大したものは出せませんが、どうぞ」
彼女に室内に上がってもらい、酒瓶を差し出した。
「……何も入っていませんが」
何もない。空っぽな。人生。
「…は」
「書類が濡れますので涙を流さないでもらえますか」
彼女が自分の借りている部屋にやってきたのは、ギルド脱退の正式な手続きをするためだった。
「…ヤスダさんは、どうしたんですか」
こういった仕事は事務員であるヤスダさんの領分のはずだ。
「体調不調でしばらくお休みです」
「…あー、そういうことですか」
そんなやり取りをしながら、イェルシャは持ってきた書類を部屋の机に並べた。
脱退同意書、保険証、退職証明書などなど。
一枚ずつ順番に処理していく。
「ここは今日の日付でいいですか」
「はい」
「今日は何日ですか」
「4月の9日ですが」
あの日から5日も経っていた。
そういえばそれ以来外に出ていない。
まあいいか。なにはともあれ書いてしまおう。
やることあるのは幸せだ。
「早いですね。記入漏れも今のところありませんし」
「そですか」
「とても疲れたご様子でしたので、不安でした」
「……まあ一度見たことありますし」
「事務の方が向いているのでは」
しばらくして、最後の書類。
「……これって」
冒険者免許返納手続書だ。
「冒険者免許返納手続書に関しては必須では無いですが、冒険者を続ける意思がないのであれば返納をおすすめします。
持っているだけで月一回徴収義務が発生しますし、更新手続きもありますから」
ああ、そんなにも自分に、冒険者であって欲しくないのか。
「……後日提出」
「面倒ですので今決めてください」
すぐに決めろと迫られる。
決められるはずがない。
一度返納すれば、再取得にどれだけかかるか。
「そんなすぐには……」
「こちらは五日待ちましたが」
凍てつく視線の重圧。
加速する脈が、身体内部で反響する。
熱い。汗。
息。息。息。
「私の意見としては、冒険者をやめるべきだと思います」
「……」
「向いていないのに、これ以上続けていたら遠くない将来命を落とすでしょう」
そんなことはわかっている。
向いていないことも。
「あなたに死なれると困るのです。余計な噂が流れそうですから」
そんなものはそっちの事情だろう。
「何を求めて冒険者に執着しているのか存じ上げませんが、そんなものよりも御家族と一緒にいることの方が、幸せではないですか?
わざわざ命の危険を冒して、価値ある時間を捨てるという行為が、私には理解に苦しみます」
家族?
「……ひ」
愛する家族と共にいることが幸せなら、
自分はずっと幸せになれないじゃないか
「なんですか」
こっちの気も知らないで
「睨みつけるくらいなら何か言ったらどうですか?」
自分は弱い
資格がない
あそこに行くことは出来ない
探しには行けない
あの人には永遠に会えない
返した方が良いのだ。
そうするのが正常な判断なのだ。
「……返します」
「それは幸いです。署名以外は記入してありますから、そこだけ書いてください」
「はい」
紙を渡される。
ペンを手に取る。
署名欄に先を向ける。
書け
書け
書け
書け
書け
「ギいいいいいい」
バキ
ペンが壊れた
「そんなにも返したくないのですか」
無理だ。
駄目だ。
壊れてしまう。
「そうですか。もう良いです。
そんなに冒険したいならアディヒにでも行ったらいいじゃないですか」
……アディヒ。
そうか、アディヒなら、今の自分でも行ける。
これまで行ったことないから、あの人もいるかもしれない。
目から鱗とはこういうことか。
「ああ、いいですねそれ。
どうせマビヤキアに祖父を探しに行くこともできないなら、せめて冒険者として死ぬことにします」
「待ってください、それはどういう…」
「アディヒに行きますので免許は返しません。
用は終わったでしょう?帰ったらどうですか」
「10年前の落天…」
「もう関係ないです。
帰ったらどうですか? 」
「……そうですね、そうします」
彼女は書類をまとめて袋1つを持ち立ちあがった。
「……最後に一つ」
「これ以上何か」
「あなたのことは、大嫌いでした。
さようなら」
ガチャリ。
戸は閉じて、人は居なくなった。
自分もずっと苦手でしたよ