猫大名
昔々あるところに、江戸の片隅で細々と番傘づくりの内職で生計を立てている男がいた。この男、名を忠篤といい、汚いなりはしているが歴とした武士である。
長く続く平和な時代、下級武士はお上からの俸禄では食っていけず、内職の番傘づくりをしては小銭を稼ぎその日暮らしをせねばならなかった。
出が農民でも天下人になれた時代とは違い、生まれた家で一生が決まってしまうのだ。出世の望みがほとんどない御家人下士ではなおさらで、今や商人の方がよっぽど金持ちでいい暮らしをしている。
しかし、この男はいつか良いことが起こるに違いないと、生き生きと内職の傘を作っていた。
ある日のこと、さっきまでからりと晴れていたのに急な夕立がやってきた。これは大変と乾かしていた傘を大急ぎで取り込んでいると、綺麗な身なりをした武士がばしゃばしゃとこちらに走ってきた。
「ごめん。傘を二本くれ」
武士が言った。少し向こうにはたいそうかわいらしい娘が雨宿りをしている。年の頃は二十歳手前といったところだろうか。
普通、軒先で直接商売をすることなどないのだが、売らぬ訳にもいかず、できあがっていた傘を渡した。傘を携え去っていく二人をじっと見送っていると、どうやらさっきの男は娘の従者のようだった。
「あんな愛らしい娘さんを嫁にもらえたらなぁ」
忠篤は呟いた。
そのまたある日のこと、晴れた日に番傘を干していると先日の娘が現れた。今日は一人である。
「あの、傘を……」
娘はおどおどと視線を泳がせながら忠篤に言った。
「こんな晴れた日にかい? それに、拙者はここで商売はしていない」
「そう、ですか」
「しかし、まあなんだ。綺麗な娘さんがわざわざ足を運んでくだすったんだから売らぬわけにもいかんだろう」
きっかけはこんなところで、この二人が恋仲になるのに時間はかからなかった。娘の一目惚れによる身分違いの恋であったが、二人は人目を忍んでこっそり会っては仲を深めていった。
しかもこの娘、恐れ多くも無城一万石の大名家の姫様であった。無城一万石では大名家としては大したことはないが、腐っても大名である。
だが、このようなことが長く続くわけもなかった。ある時姫は屋敷の者にあっさりと連れ帰され、忠篤もしょっぴかれるように屋敷に連れていかれた。
忠篤は「ここで待て」と言われた小部屋にぽつんと正座し、唇まで青くして震えていた。
姫様に失礼をはたらいたと、即刻首をはねられるかもしれない。切腹を命令されるかもしれない。悪い想像ばかりが浮かんでは消えていた。
そのうち、強面の男が忠篤に付いてくるように言った。
「なに、怖がらずともよい。ただ、殿に失礼のないようにな」
「殿様ですと?」
まさか、殿様にお目見えすることになるとは思っていなかったので、心の準備もできぬままあれよあれよと殿の御前に平伏すこととなった。
「姫から話は聞いた。その方、猫田家の婿に入る気はないか?」
殿の第一声はこれだった。忠篤は思わず顔をあげて
「は?」
と聞きなおした。
「一人娘の姫にはただ気に入った相手と結婚してもらいたいと姫が幼い頃より思っておったのだ。身分など婿に入ればお主も立派に大名家の一員となるしな」
「はぁ」
あまりにも突拍子のない申し出である。これは夢ではないかとも思ったが、まぎれもない現実であった。
忠篤は番傘内職で生計を立てる御家人下級武士から大名家への大出世を果たすことになったのだ。
忠篤はめでたく姫と結婚、猫田家に婿入りした。夫婦の間に姫が生まれるとほどなくして殿様はぽっくりと亡くなり、忠篤はついに大名家の殿様となった。
美しい妻、可愛らしい娘、たくさんの家臣、誉れと富に囲まれて忠篤は大変幸せであった。
ある晩のこと、忠篤はなかなか寝付けずに明りの下で書を読んでいると、風もないのに行燈の火がふっと消えた。
背筋にぞっとしたものを感じたと思うと、目の前にはいつの間にか一匹の猫がいた。部屋の中は真っ暗だというのに、この猫だけがぼうっと光って見える。
「どうじゃね? 番傘づくりから大名へまで出世した気分は」
猫が忠篤に話しかけた。
「最高だ。ひょっとして、これはお前さんのおかげか」
「それ以外に何があるというのだね? 常識で考えりゃあお前さんのように幸運なもんがいるわけはないじゃろう。がしかし、残念ながらもう時間じゃ」
忠篤の顔がさっと青くなった。
「こんなに早くか? まだ娘も小さいし、殿様にもなったばかりだ。なんとか、もう少しなんとかならないか」
「欲張りなやつじゃ。まあ、でもいいじゃろ。こうみえてもわしはやさしいんじゃ。ただし、ひとつ条件がある」
「なんだ」
「お主の一人娘には娘がただ気に入った相手と結婚させてやり、婿に迎えてやれ。お前のようにな」
「そんなことか。よかろう、のもう」
忠篤はこの幸運を逃すわけにはいかぬと、ただ必死の形相である。
「よし、では孫が生まれるまで待ってやる」
妖しげな猫が忠篤の前からふっと姿を消すと、行燈が再び灯った。
* *
その若い浪人は大波の打ち寄せる断崖絶壁の淵に立ち、大きなため息をついた。
「生まれが悪けりゃ一生貧乏暮らし。こんな辛い毎日ならば生きていたってしょうがない。それならばいっそ……」
浪人が一歩足を踏み出そうとしたとき、一匹の猫が足元に現れた。
「そうじゃ、この世は理不尽じゃ。このままおまえが生きていたってなんもいいことはないじゃろ。どうじゃ、わしにまかせていっちょいい思いをしてみないかね」
言葉をしゃべる猫にびっくりして浪人はあやうく足を滑らせるところを、なんとか持ちこたえた。
「ば、化け猫か!?」
「いきなり化物扱いとは失敬なやつじゃ。まあ、当たっているがな。で、どうじゃ、話を聞いてみる気はないか」
「化け猫の言うことなんか信用できるか。どうせなんか持っていくんだろう?」
「ほんのちょっと、寿命をいただくだけじゃ」
「ばかなこというな! あげられるものか!」
「では聞くが、このまま貧乏のまま古稀まで生きるか、地位も富も得て還暦まで生きるか、どちらがいいかね? むしろお前さんは今まさに命を断とうとしていたではないか」
浪人はしばし考えた。
「確かにそうだ。捨てかけた命、この化け猫に任せてみるのもよいかもしれん。よし、その申し出のもう」
「良い選択じゃ。では、残りの人生楽しく生きてくれ。寿命をいただくときにまた現れるよ。その日まで、さよなら」
終