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半年前の体育祭の日。
美術棟で事件――中等部の理科教師・清野清を、当時高等部1年の冴木晃が刺した――があった。
腹を刺された清野の返り血を浴びた晃の裸が、今でも目に焼きついている。
振り返り、嗤った晃の貌。
その妖しさに幻惑する。
第一発見者は、他ならぬ久保田と美術部部長の木村だった。
毎日、晃の所へ入り浸っていた久保田だったが、晃と清野の関係には、気付かなかった。
しかも、清野によって晃が薬物に侵されていたなんて、知る由もなかった。
後日、事情聴取で刑事から聞かされて初めて、晃が清野の薬物で繋がれていたことを知ったほどだ。
2学期から編入した久保田だが、夏休み中に手続きをしに登校した折、1棟だけ離れた木造校舎の窓から、寂しそうに外を見ている少女の姿を見つけた。それが、当時有名な“高校生画家・冴木晃”だとは知る由もなかった。すぐに、目当ての“少女”が“少女”でないことは分かったが、晃の描く油絵に魅了されるのに時間はかからなかった。
どれだけ煩がられようとも、毎日放課後には顔を出していた。そのお蔭か、階下で活動している美術部の木村ともすぐに打ち解けた。
今から思えば、ほんの20日足らずの付き合いだったが、久保田にとって晃は憧れそのものだった。
事件を知らせに行った久保田と共に駆けつけた教師等は、室内の凄惨な状況に恐れをなしたのか、救急車だけでなくパトカーまで呼んだ。ただならぬ気配に集まってきた生徒達を掻き分け、やっとの思いで晃の部屋まで辿り着いた久保田が見たものは、警察官に抱えられ運び出される晃の哄笑する姿だった。
「冴木さん!!」
久保田の声は、周りの喧騒と晃自身の笑い声で消されてしまった。
その後、晃に関する消息は聞かない。いや、無責任な憶測はいくらでも耳にし、週刊誌やテレビで事件が取り上げられたこともあり目にもしたが、自分の目で確かめるまでは何も信じないと決めている。
「だから・・・せっかく会えたのに、このままうやむやになるのは絶対嫌だ!」
ブツブツと独り言を言いながら、意を決したように勢いよく立ち上がる。
傍から見たら、かなり怪しい中学生・久保田。
1度深呼吸して屋敷の門を覗いたら、車は既に敷地内へ移動させたのか、誰も見えない。かなり気勢をそがれた格好になったが、いっそそれで気持ちが静まった。
今度は落ち着いて、そして、慎重に塀伝いに門のほうへ近付いた。
門から中を覗くと、すぐ内側に追ってきたランドクルーザーが駐車している。
その奥には、よく手入れされた日本庭園が広がっている。
平屋建ての古く大きな建物は、長い廊下沿いに雨戸がぴたりと閉まっている。
人の手が入った庭と比べると、屋敷の方は、長いこと住居として使っていないのだろうか、暗く沈んで見える。
人の気配がないらしいのをいいことに、そっと敷地内に足を踏み入れる。
庭の奥まった場所に、1本の桜の古木が満開の花を咲かせている。
盛りを過ぎた花びらの、風に吹かれ散りゆく様は目を見張るほど見事だ。
「・・・学園の桜の比じゃないな。」
久保田は、また独り言した。
たしか今朝。
新学期初登校の折、何処の桜よりも学園の桜が一番だと思ったばかりなのに、そんなことなど忘れてしまっているのが久保田らしい。
「やっぱり、ここの桜が一番よね?」
女の弾んだ声が聞こえる。
「そうだな。今年もギリギリ間に合ってよかった。」
誰の声かと、吃驚する。――そうだ、運転をしていた男だ。
男女と少年の姿は見えないが、話し声が聞こえるということは、久保田と3人は割合近い場所にいるのだろう。
――ふと、この2人と冴木晃の関係が気にかかる。
女が男の事を「兄さん」と呼んでいたから、この2人は兄妹なのだろう。
しかし、冴木晃は2人とあまり似ていないような気がするし、何より男との年齢差を考えたら、2人の弟とは考えにくい。男が晃の父かとも考えたが、それにしては若すぎるような気がする。それでも晃を気遣う様子の細やかさを見ると、全くの他人ではないのだろう。
何度か男女の声は聞こえたが、目当ての少年の声は聞こえない。
植え込みの向こうに、架台に掛けられた輸液バッグの一部が見える。
「あそこにいるのかな?」
久保田は少年の顔を一目見ようと、隠れていた物陰から移動してみる。
ばきっ!
落ちていた小枝を踏んでしまった音が、思いのほか大きくて、空気が凍りつく。
「誰っ!?」
男の鋭い声が響く。
「・・あの・・」
植え込みから姿を現す。自分の間抜けさに顔が赤くなる。
「・・・冴木さん?」
冴木・・と、呼ばれた少年は、やっと久保田の方を見る。
車椅子に、点滴を繋げた儚げな姿。
昔通りの・・と言っても、たった半年前のことだ。端整な顔立ちは変わっていない。
美術棟で過ごした幸せな日々が突然壊れた、あの“事件”以来の再会。
「冴木晃は、発狂して精神病院にいるらしい」とか、「かなり悪くて廃人のようだ」とか、そんな噂はあったが、久保田は信じなかった。
現に、目の前の冴木晃は、華奢だった体が更に細くなってはいるが、特に何処か悪いようには見えない。変わったところと言えば、背中まであった長い髪が跡形もなく消えて、伸びかけた坊主頭になっていることくらいだ。
グレイのVネックセーターを着、中に白いTシャツの襟を覗かせ、首元へ点滴の管を繋いだ冴木晃は、無言で久保田を凝視している。
膝の上に置かれた右手が、何故か緑色のカエルのぬいぐるみを握っていることや、フリースの膝掛けの下から覗いている丈の短い青いジャージズボン(新脩学園指定の体操服だ)、靴ではなく上履きを履いている足元を見るうち、昔の冴木晃とどこかが違っている事に気付く。