共闘
アグニは、ヴェルとスピカと共に家の前に立ち、竜人の襲撃を手ぐすね引いて待ち構えていた。
アグニとヴェルはいつものように、それぞれ短槍と大剣を右手に握っている。一方でスピカは、立派な白銀の鎧に全身を包み、右手に大きなカイトシールドを構え、左手でやや短めの剣を握っている。身長ほどもあるバスタードソードは、背中に背負ったままだ。
「あんた、左利きなのか?」
気になったヴェルがそう尋ねるも――――
「さあどうかな?」
スピカはなぜかはぐらかすだけ。
「俺が言うのもあれだが、いくら奴らが戦士の心得を知らないとはいえ、竜人を侮ると痛い目見るぜ」
「侮ってはいないさ。これもまた、私の戦い方だ」
「しっ――――二人とも、そこまで。すぐ近くまで来てる」
二人が話すのを制止したアグニ。仕掛けた鳴子が鳴ったのだ。今回の襲撃も、また森の方からくるようだ。
はたして、しばらくもしないうちに森の低木が揺れ始めたが、やがて、一度揺れが止まり静まり返る。
襲撃者があきらめたわけではない。家の前で佇む3人の姿を見て、襲撃の指揮を執る竜人のザガンがその意図を図りかねていたのだ。
「なんなんだあいつら? 俺たちがここに来ると知っていたのか? しかも、追い出された残りカスまでいるじゃねぇか。人間の力を借りようとは、だから弱っちいんだろうな」
この里の人間は、一度同胞の襲撃を退けているため、ザガンはやや慎重になっていた。しかし、追い出した弱い竜人を含め3人程度ならなんてことないと判断し、攻撃を加えることを決意する。
「いくぞおおぉぉ!!」
『うおおおおおおぉぉぉぉぉぉ!!!!』
竜人の集団は、一斉に雄たけびを上げ、里に向かって殺到した。
今度の襲撃者は全部で12人、それも前回よりやや年上――――ヴェルと同年代ほどの竜人が中心のようだ。装備はやはりすべて斧で、中には手斧を二本持っている者もいる。リーダーのザガンは、柄の長い大きな両刃斧……いわゆるバトルアックスを構え、自ら先陣を切って駆け抜けてくる。
ザガンは、里を囲う柵を破壊しようと、自慢の斧を振り下ろす――――その瞬間!
「グガッ!?」
ザガンの右目に矢が深々と刺さった! しかし目の前の人間と竜人3人組は、先ほどから微動だにしていない。ザガンの右目を射た矢は、3人の後ろ、アグニの家の窓からフアナが放ったものだ。
「よし、ヴェルはあのリーダーをやれ。仲間の仇討だ」
「おうよ!」
「私が正面からあたって敵を引き付ける。その間にアグニは右から背後に回ってかく乱してくれ」
「わかった!」
「フアナ殿、グエン殿、それに子供たち、援護を頼んだ」
「まかせて!」
「しっかりやれよ!」
「やってやろうじゃない!」
「がんばっちゃうよー!」
フアナの攻撃を合図に、スピカの指示で人間たちが一斉に攻勢に転じた。
いきなりリーダーが負傷し、若干怯んだ竜人たちだったが、人間たちが向かってくるのを見て、彼らはザガンの指示を待たずそのまま突っ込んでいった。
「人間の雌か!? そんなのが戦うのか?」
「知らないなら試してみるか?」
竜人にとって、戦うのはもっぱら男の役割だが、人間は違う。
竜人が振りかざした斧を、スピカは難なく盾で受け止め、そのまま弾く。力を思わぬ方向に流された竜人が一瞬体勢を崩したのをスピカは見逃さず、左手の剣で腹部を切り裂いた。
「ぬっ!?」
皮膚が硬い鱗に覆われた竜人には致命傷にはならなかったが、思わぬ反撃を受けた彼は、ショックを受けたようだ。
「おのれっ!」
「やっちまえ!」
スピカはたちまち竜人たちのヘイトを一身に集めたようだが、それこそ彼女の思うつぼ。一斉に襲い掛かる竜人を見て、スピカは楽しそうな笑みを浮かべた。
「こい! 貴様らが束になっても、この私は倒せんぞ!」
スピカは、盾を自在に操り、四方から襲い来る斧攻撃を防ぎながら、的確な反撃を加えた。
そう、スピカが右利きにもかかわらず盾を利き手に持っているのは、彼女が盾を中心とした守備重視の戦闘スタイルをしているからである。
スピカの役目はまさに「盾」であり、攻撃は二の次とあれば、利き手に盾を持った方が戦いやすいのだろう。ヴェルもアグニも、一人で複数人の竜人相手に余裕の表情で奮戦するスピカに、興味津々だった。
(なるほど、猟騎士はチームワークだって母さんから聞いたことがあるけど、こういうことなのか)
(あの人間が自信満々だったのは、そういうことだったのか。あれもまた戦士の姿だ!)
二人もスピカに負けじと、左右に分かれて竜人の集団に切り込んだ。
「そらそらっ! 遅いよっ!」
アグニは自慢の脚力と巧みな槍捌きで、スピカに群がる竜人の集団を横に後ろに飛び回り、攻撃を加えていく。スピカの剣では致命傷を与えられない竜人の硬質な皮膚も、アグニの槍はものともせずに貫いていく。
竜人たちが、アグニに反撃しようにも、スピカがうまい具合に動いて捕らえられない。
このように二人が大半の敵を引き付けている間に、ヴェルは側面から背後の方に回り込み、激痛で動けないザガンを狙う。
竜人の一人が、ザガンが狙われたことに気が付き、ヴェルを止めようとするが……彼はヴェルの前に立ってすぐに、ヴェルから強烈な蹴りを腹にお見舞いされた。体勢を崩した竜人は、そのままヴェルの大剣に胸を一突きされ、背中まで串刺しとなり――――
「ドゥオラッ!」
叫びと共に、ヴェルの筋肉が山脈のように盛り上がる。そして、串刺しにした竜人を大剣ごと持ち上げ、宙に浮かせると、そのまま後方に振りぬいて地面にたたきつけた。
哀れ串刺しにされた竜人は首の骨を折り、戦闘不能。さらにヴェルは、わざと彼の顔を踏みつけて、胸を貫いた大剣を力任せに抜いた。
取り巻きを片付けたヴェル、次はリーダーのザガンとやりあう番だ。
「おう、てめぇ! よくも俺たちの里を横取りしやがったな!」
「へっ……人間ごときと一緒になってる奴が…………何を言おうと知ったことか!」
右目を射られ、痛みに苦しんでいたザガンだったが、ヴェルが勝負を挑んできたため、戦わざるを得ない。刺さった矢を目玉ごと強引に引き抜いて、その場に投げ捨てると、斧を構えてヴェルに立ち向かった。
「よしよし、二人ともいい戦いぶりだ。子供とは思えんな」
アグニとヴェルの活躍に、スピカも満足し、自身もまた負けるわけにはいかないと奮起した。
スピカは相変わらず里の中心で竜人の集団相手に大立ち回りを繰り広げ、彼女を援護すべくアグニが右へ左へ流れるように舞う。
さらに、アグニの家と、その隣の家からはフアナとイオナが放つ正確無比な矢が放たれ、スピカがひきつけた竜人を狙う。弓矢を射かけられる竜人たちは、出所を叩こうとするも、アグニとスピカが邪魔して先に進めず、中には草むらに偽装された罠にかかる者もいた。
ここまで不利な状況だと、一度撤退して体勢を立て直した方がいいのだが、リーダーのザガンがヴェル相手に手いっぱいで指示を出すことができない。
「ち、ちくしょうっ! こ、この怪我さえなければっ!」
「不意打ちした奴がよく言うぜ!」
ザガンが怪我をしているのもあったが、両者の戦いはヴェルが圧倒的に優位なまま進んでいた。
ザガンは片目で間合いがつかめずに、自慢の斧は空を切るばかり。対するヴェルの大剣は、重さを感じさせないほどの速さでザガンに襲い掛かり、着実にダメージを与える。そして―――――
「こいつで! 仕舞いだ!」
ヴェルの大剣がザガンを胸から腹にかけて斜めに切り裂いた。
ザガンの身体から急激に血液と力が抜け、その場に片膝をつく。
「ボッ…………グゴッ!?」
「あばよ! くそったれ!」
ヴェルは大剣の先端をザガンの首元に当て、軽くトントンと叩き――――ザガンにこの後待ち受ける運命を親切に教えると、素早く大剣を振りかざしその首を叩き折った。
「り、リーダーがやられた!」
「そんなばかな!」
「次は貴様らだ! 生きて帰れると思うな!」
ついにスピカは盾をその場に放り出し、背中のバスタードソードに手をかけた。
残る竜人は3人。彼らは慌てて逃げ出そうとするも、一人はスピカがバスタードソードを抜きざま背中から一気に切り裂き、もう一人は方向転換の隙に矢を両ひざに受けて転倒、アグニに悠々ととどめを刺される。そして最後の一人は、ザガンを倒してすぐに駆け付けたヴェルの一撃を、脳天に受け即死した。
前回とは違い、襲撃者は一人残らず全滅してしまった。対するアグニたちは傷一つ受けていない。完全勝利である。
「やったねヴェル!」
「おうよアグニ!」
アグニとヴェルは片手で拳を交わして、お互いの健闘をたたえた。両者とも本格的な近接戦闘での命の奪い合いは殆ど初めてだというのに、それを感じさせない動きだった。
「よくやったな二人とも。腕に自信があるとは見ていたが、此処まで完ぺきにこなすとは思わなかったぞ!」
スピカも、二人の戦いぶりに大満足のようだ。
「スピカさんこそ、あんなに大勢の竜人を一人で相手するなんて、凄いよ!」
「俺もなんだか盾を持ちたくなったな。俺たちの里には防御できる奴がいないから……あんたみたいなのがいたら、もっと違ってたかもしれん」
相手を倒すためでなく、敵の攻撃から味方を守るために戦う姿を、二人はこの日初めて見た。彼女がいなかったら、先頭に立つアグニかヴェルのどちらかが負傷していた可能性が高い。
「いや助かったぜスピカさん。この勝利はあんたの的確な指示のおかげだ」
「ええ、素晴らしかったわ。あなたのような人がいれば、猟騎士もまだ捨てたものじゃないわね」
猟騎士嫌いのグエンも、元猟騎士のフアナも、素直にスピカの戦いぶりを称賛した。
「ありがとう。お宅の子供たちも、実にいい動きだった。家族のチームワークがよくできている証拠だ」
「よし、戦いの後は飯だ! アグニとイオナは浴室の準備をしてくれ!」
「わかった」
「はぁい」
「それとヴェル君、ご飯を食べてお風呂に入ったら…………ブレヌスさんを迎えに行くわよ」
「あざっす!」
勝利に沸くアグニ一家は、念のためフアナが後続がいないか確認している間に、食事と風呂の準備、それに戦場の片付けに走った。
昼ご飯は、前日仕留めたカーネルヴィークの肉の残りと、保存のために焼いた黒パンだった。
「グエン殿、それにアグニ、ヴェル。私は食事を終えたら、私はメルタ村に戻るよ」
「ああ、世話になったな。この里には当分襲撃はないだろう。それにヴェルもいるし、ブレヌスを中心に生き残りの竜人をこの里に集めるつもりだ。そっちはメルタ村の守備を頼んだ」
襲撃を退けたとはいえ、事件はまだ終わったわけではない。スピカは約束通り、今日中にメルタ村まで帰らなければならない。
「そっか……一緒に浴室に入っていけばいいのに。もっといろいろなお話を聞きたいな」
「よ………浴室に一緒に入るのか!? いやしかし、私は女だから…………」
「人間の女は風呂に入れないのか?」
「いや、そうじゃなくてだな…………」
「ふふ、スピカさん。この地方のお風呂…………「浴室」は大事なところは隠しますが、基本は混浴なんですよ♪ アグニ、ヴェル君。スピカさんみたいな山の下の人たちは、混浴に抵抗があるの。注意してね」
「そうだったんだ」
「なんだ、別に入れないわけじゃないのか」
「あ、ああ……すまないな」
いくら大事なところは隠すとは言え、屈強な若い男二人とほぼ裸で密室に入るのは抵抗があるに決まってる。結局、スピカは食事を終えて少し休んだ後、里を去ってメルタ村へと戻っていった。
「よしヴェル、俺たちもブレヌスを迎えに行くぞ!」
「助かるぜアグニの親父さん! 俺が案内するぜ!」
「アグニはイオナとウリユで狩りに行ってらっしゃい。食べ物は何より大事よ」
『いってきまーす』
アグニ一家もまた、明日を生きるために動き始める。
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食後、家の外にある丸太に腰掛けて、山の向こうにわずかに見える世界樹を見つめるスピカのところにアグニがやってきた。
「スピカさんっ、帰る前に少しだけお話ししたいんだけど、いいかな」
「アグニか。狩にはいかなくていいのか?」
「もちろんこの後すぐに行くよ。でも、スピカさんとはもしかしたらこの後会えなくなるかもって思って」
「ははっ、縁起でもないことを言うんじゃないぞ」
そう言いつつも、スピカは手で自分の横に座るよう、アグニに促した。
スピカもまた、アグニの戦いぶりについて興味を持っていた様で、少し話がしたかったようだ。
「アグニ。君は今いくつだ?」
「ええっと……今年で16」
「ああ、そういえば村長の息子……ベルフ君と同い年だったな。にもかかわらず、竜人あいてに近接戦闘を挑み、先日も意識がもうろうとした私を、里まで運んでくれた。いったいどこからその力が湧くのか、不思議だな」
「父さんと母さんに鍛えられたんだ。小さいころから険しい山を駆けまわって……それにヴェルもいた」
「フアナ殿もグエン殿も、かなりの実力者のようだからな。そんな親に育てられれば、こうもなるか」
これほど若いのに、自分に匹敵する実力を持つアグニを、スピカは素晴らしいと思う反面、少々もったいなく感じた。口には出さなかったが、ここで一生を終えて朽ち果てるのは、あまりにも惜しいとすら思っている。
(この子に……私の「後釜」になってもらえれば、もしかしたら…………いや、そう簡単にはいくまい)
だが、見た限りでは、アグニは今の環境に十分満足しているようだ。
わざわざ過ごしやすい世界から、過酷な世界に招き入れるのは、どうしても躊躇われる。
「そういうスピカさんの戦いぶりも、本当に頼もしくて、かっこよくて……! 敵を倒すだけじゃなくて、仲間を守るっていうのがなんだか新鮮だった」
「そうかそうか。そういう君たちの本業は狩人なのだろう。いかに相手を追い込んで仕留めるかで動いているわけだ。しかし、私たち猟騎士は、敵を倒すだけが仕事じゃない。力なき者を守る使命を負っているんだ」
「力なき者を……まもる」
スピカは、アグニに自分の盾を差し出した。アグニが盾を見ると、塗装が剥げ掛けているだけでなく、大小さまざまな傷や凹みがあるのに気が付いた。それだけではない。スピカの着ている鎧も、所々傷跡が残っていて、中には比較的新しい――――つい先ほどできたと思われる傷や凹みもあった。
「私はな、元々どこにでもいる普通の家に生まれた。小さい頃から喧嘩だけは人一倍強くてな、泣き虫な幼馴染を庇って、しょっちゅう他の男の子と殴りあっていた。ところが、その泣き虫な幼馴染が猟騎士に志願したんだ」
淡々と話すスピカの目は、遠くを見ながらも、どこかうれしそうだった。
「私は大反対した。「自分の身も守れない奴に、あの猟騎士が勤まるわけない」と。ところがあいつはすぐにこう言い返してきた「世界には、僕のことを必要としている人が大勢いる。こんな僕でも、役に立てるんだ」とな。その時の彼の嬉しそうな顔ときたら…………………。そして気が付けば、私も彼を追って猟騎士になっていた。あいつはほかの人が救えても、自分は守れない。ならば、私が守ってやるしかない。こんな重い盾を持って、重い鎧を着るのは、そんな思いがあったからだ。今ではすっかり、守らなければならないものが増えてしまったが……一番大事なものは見失っていないつもりだ。だから――――」
スピカはふーっとため息を一つつき……
「この任務を終えたら、私は引退し…………結婚する」
「結婚! 本当に!? そ、そのお相手ってもしかして!」
「我がパーティー『テルミドール』副リーダーにして、私の幼馴染である精霊術士、ザイフリートだ」
「はへ~……なんだか凄いこと聞いちゃった!」
スピカが戦う理由から、まさか惚気話を聞かされるとは思わなかったアグニは、思わず赤面してしまう。
「で、でも引退するっていっても、いつかまた猟騎士に戻ってくるよね?」
「どうだろうな。もうこんな年だが、子供が生まれてひと段落して、それでもまだ動けるようなら、それも悪くないな」
「そっか。なんだか、5年前に来たあの人たちみたいだ」
「ん? 5年前に来たあの人たち?」
「そうそう。5年前に、山奥で守護の神樹――――のふりをしていた、すごく大きい樹の魔物に村や里が滅ぼされそうになった時、猟騎士の「女王の古時計」っていう二人パーティーに助けてもらったんだ。思えば僕が強くなりたいって思ったきっかけは、その二人が――――」
「ちょっと待て! 今「女王の古時計」といったか!?」
と、穏やかだったスピカの顔が急に鋭くなる。
一瞬噛みつかれるかとすら思ったアグニは、反射的に身を逸らして、腰に吊下げた短剣に手を置いた。
「あ、ああ、すまない。まさかその名をここで聞くとは思わなくてな」
「びっくりした……スピカさん、グスタフさんとメリアさんになにか恨みみたいなのが?」
「いや、恨みなどない。どころか、私は会ったことすらない。だが猟騎士パーティー「女王の古時計」と言えば、王国が誇る最強のコンビだ。最近行方が知れなかったが、まさかこのようなところに…………」
何か重大な事情があるのではないかと思ったアグニは、その後の会話でそれとなく探ってみたが、スピカもまた頑として口を割らなかった。益々気になってしまったが、結局帰る時間が遅くなるということで、この話は一方的に打ち切られてしまった。
「すまないな。また余裕が出来たら、話してやろう。また逢う日まで達者でな」
「スピカさんこそ、帰りは倒れないようにね」
「この山の過酷さにはここ数日で十分慣れた。もうあんな無様な真似はせんよ。では、さらばだ」
坂を下って行くスピカを、アグニは名残惜しみつつも、目一杯手を振って見送った。
アグニだけではない。ヴェルも、フアナも、グエンも……それに妹二人も、揃って別れを告げた。
「かっこいい人だったね」
「ああ。俺も負けちゃいられないぜ」
その後彼らは、昼食に決めた各々の役割を果たすべく、四方八方へ動き始めた。
一方、里を離れメルタ村へと戻るスピカも、なんども里の方を振り返り、別れを惜しんだ。
もう二度とこれないわけでもないのに、なぜか一際寂しく感じる。
「のどかで静かなところだ。もともとメルタ村とその周囲の里は、都会の喧騒を嫌った人々が移り住んだ地と聞いているが……」
今はもう慣れたが、メルタ村まで登ってきたときは、あまりの空気の薄さにここが地獄なのではないかと思うくらいだった。
だが、数々の過酷な環境を生き抜いた彼女の体は、すでに高地に順応しているようで、下り坂であることを差し引いても、かなり足取りが軽く感じられた。
「ザイフリートと過ごすなら、こういうところも悪くはないかな。子供も丈夫に育ちそうだしな」
もちろん半分冗談だが、生まれながらに過酷な環境に慣れれば、きっと強い子供に育つだろう。
そんなことを考えながら、スピカが急な坂道を下っていくと、道の途中にある一本の木の下に、見知った人の姿が見えた。
「ダビッド殿、このようなところにいたのか」
「ようスピカ。首尾はどうだった? 竜人相手でも、お前にとっては準備運動に過ぎなかったか?」
そこにいたのは、スピカがメルタ村に入った際に、一人だけどこかに行ってしまった猟騎士、ダビッドだ。
「いいや、それなりに手ごわかったさ。何しろ彼らには生半可な攻撃は通らないからな。しかし、こんなところまで何の用だ? わざわざ私を出迎えたという風でもあるまい」
「いやな。お前に少し聞きたいことがある。さっきまでいた里に住んでいる一家のことと……失踪した「女王の古時計」についてな」
「……………」
二人の間に――――わずかな緊張が走った。




