待ち人来ず
アグニが、ドレークの親友ヴェルキンゲトリクス――――ヴェルと最後に会ったのは、実に1年も前のことだった。
アグニは村での集団生活が始まって、なかなか山奥に入れなくなり、ヴェルもまた5年前のあの事件をきっかけに、厳しい修行に励みだしたため、お互いなかなか会えなかった。だが、それでも二人は時折手紙を書いて、双方の父親経由でやり取りをしており、いつかまた会える日を心待ちにしていた。
そして、3か月前のやり取りで、お互いに都合がつきそうな日程のめどがついた。今日がまさにその日なのである。
「ヴェルはどこまで強くなっているかな? 前は結局引き分けだったけど、今度は僕が勝つぞ!」
「いまだにドレークと渡り合えるとか、とんでもない強さになったな」
霧が立ち込める早朝の川辺を、アグニとグエンはやや速足で歩く。
わざわざ夜更けに起きて、はるばる人間とドレークのテリトリーの境界まで来たというのに、アグニの顔には眠気や疲れは一切見えない。むしろ、久しぶりに会うライバルとの戦いを前に、気分は高揚しっぱなしだ。そんなアグニを見てグエンは、改めて息子がもはや自分を追い越して久しいことに、嬉しさと若干の寂しさを感じた。フアナを超えることすら、もはや時間の問題だろう。
「にしてもアグニ」
「どうしたの父さん」
「お前…………将来、何をしたいか、考えたことはあるか」
「もっと強くなる!」
「いや、そういうことじゃない」
グエンは若干呆れつつも、アグニへの問いかけを続けた。
「大人になっても、お前は山に残るのか? それとも、山を下りて外に出たいという気持ちはあるのか?」
「うーん……なんというか、母さんは強くなるならいずれ山を下りなきゃいけなくなるって言ってたけれど、今の僕には父さんも母さんも、ヴェルだっている。それに比べて、たまに外から来る冒険者さんたちは、ぜんぜん強くないからさ、あんまり外に出たいって思わなくて」
「ほかにも、何かやりたいこととかないのかアグニは」
「わかんない。ベルフは、大人になったら山を下りて、大きな学問所で学びたいって言ってた。そして、勉強したことを、村のために役立てたいんだって。ローザちゃんは、ずっと村で山の民の神官として、みんな幸せを祈りたいって言ってたっけ。でも僕は、ほかの人のために何かしてあげたいって気持ちも、あまりなくて」
「フアナからは…………山の下、外の世界の話は何か聞いたのか?」
「ううん、何も。母さんは何も話してくれないし、僕もあまり聞きたいって思ったことない」
「そうか……」
ここ数年間、グエンはいつアグニが、山を下りて外の世界に行きたいと言い出すか、正直気が気でなかった。ヤテベオを打倒した後日、フアナの口からアグニは自分が鍛えると一方的に宣言されたとき、グエンはできる限りの抵抗はしたものの、心の底では「ついにこの時が来たか」と覚悟はしていた。
ところがアグニは、予想に反して外の世界に何の関心も示さず、愚直なまでに自分を高めることだけに心血を注いでいる。それが、却ってグレンには心配でならない。ドレークのヴェルと、腕が互角と簡単に言うが、グエンの目から見て、ヴェルもまたブレヌスを超えるのにさほど時間はかからなそうだ。つまり、アグニの強さは、グエンを超えるどころか、並のドレークですら歯が立たない域に達しようとしているのだ。これがいかに恐ろしいことか…………
「まあいい。アグニがこの先も、ずっと山で生活し、山を守るというのなら、父さんも嬉しく思う」
「うん、やっぱり僕はこの山で生きていくのが、一番性に合っている気がするよ」
こんな会話をフアナが聞いたらがっかりするだろうか。グエンはそんなことを思いながら歩いていると、ようやく「いつもの」川岸までやってきた。到着するや否や、アグニはさっそく荷物を下ろして竈を組み立て、火をおこし始めた。
「お腹が空いたよ。はやく朝ごはん食べよう!」
「お前は最近、よく食べるようになったな。父さんが子供の時の倍は食べてるんじゃないか?」
「だって…………動くとすぐにお腹がすくんだもん」
「あのな、山の民は3日食わなくても戦えるようになんなきゃ、肝心の時に役に立たんぞ。ま、お前は今成長期だし、食えるうちに食うのも子供の仕事だ」
ほかの里や村では、食べ物がなくて大きくなる前に亡くなる子供も多いというのに、アグニ一家はその超人的な狩猟技術のおかげで、飢えとは無縁の生活でいられた。そして、その獲物となる獣を育み、川には魚が泳いで、木には果実が実のるのは、はるか遠くに見える世界樹の恩恵によるものなのだ。たぶん。
「腹ごなし、腹ごなしっと♪」
あらかじめ小麦粉を練り固めたものを、串に巻き付けて焼いたパンを齧りながら、これから行われるライバルとの戦いを、今か今かと待つアグニ。
ところが、ヴェルはなかなか姿を現さない。
「遅いな。前来たときは、朝ごはん食べる前にはヴェルはもう来てたのに」
以前やり合って引き分けた時は、アグニが朝食をとる前にヴェルが仕掛けてきたせいで、危うく空腹で負けそうになった。そのため、アグニは戦う前に、早めにエネルギー充填したのだが、今回は肝心のヴェルがなかなか来ない。
太陽は徐々に高く昇り、霧が晴れて川向こうの様子が地平線まで分かるようになったというのに、親友は一向に姿を見せない。
「むぅ、ヴェルったら、約束忘れてるのかな」
「それはないだろ。あいつは、お前以上に勝負バカだ。半年どころか10年後の決闘の約束があったとしても、忘れないだろうよ。しかし、ブレヌスも来んな………何かあったのか?」
ドレーク族はみな、高潔な戦士であることを誇りとしている。約束事に関しては、同じ人間よりも信用できるとグレンは思っているほどだ。にもかかわらず、約束の時間をとうに過ぎても、彼らは一向に姿を現さない。
待つこと半日、とうとう昼飯の時間も過ぎてしまった。
「おいおい、本当にどうしちまったんだ、あの二人」
「あう…………またお腹が空いた。でも、ヴェルより先に食べるのは気が引ける……」
アグニは、空腹を紛らわすように、愛用の鉈を手で弄び、グエンも久々にブレヌスと飲もうと思っていた蜂蜜酒を手元でぶらぶらさせている。太陽は、もう徐々に降りてきているというのに、ドレークの親子は一向に来る気配がない。
「しゃーない、このまま待ってたら夕飯までに帰れん。軽く昼めし食って帰るぞ」
「はぁい……」
結局、これ以上待つことをあきらめたアグニとグエンは、ヴェルとブレヌスたちと一緒に食べようとした肉や野菜を半分だけ焼いて、胃に入れた。せっかくおいしい部位を持ってきたと言うのに、アグニはこの日はなんだかあまり味がよくわからなく感じた。父親と二人きりというのも悪くはないのだが、アグニの落胆は大きい。
「ヴェルのバカ。せっかくずっと待ってたのに」
「まあまあ、あいつらにも何か訳があるんだろう。そのうちまた会えるさ」
すねるアグニを、グエンは頭をくしゃくしゃ撫でてなだめる。
「もう……あまり子ども扱いしないでよ」
「おっ、そうかそうか。お前ももうそろそろ、大人になるんだったな。じゃあ、これ一杯いってみろ」
そう言って、グエンはアグニに小さな木製の器を渡した。キョトンとするアグニだったが、その直後には器にグエンが蜂蜜酒をなみなみと注いでいた。
「飲んでみろ」
「えー……お酒? 僕まだ子供なのに?」
「子ども扱いするなって言ったのは、どこのどいつだったかな? なに、子供が飲んだって死にゃあしないさ」
アグニは、ヴェルが酒を嫌うのを見て、なんとなくお酒は大人が飲むまずいもの程度の認識しかしていなかった。母であるフアナも、お酒をほとんど飲まないので、アグニは余計飲まず嫌いになっている。
だが、気持ちがもやもやしているアグニは、意を決し、ヤケクソで器の中の酒を、のどに流し込んだ。
「おいおいおい、そんなに一気に飲まなくてもいいんだぞ。少しずつでいいからな」
強引に勧めたにもかかわらず、アグニが一気飲をはじめてしまったため、グエンは慌てて自制させようとした。が、アグニはまるで聞く耳を持たず、喉で乱暴な音を立ててがぶ飲みし続け、驚くことに最後の一滴まで飲み干した。そして、器から口を放し、やや上の方を向いてふーっと深い溜息を吐いて――――
「案外おいしいね、これ! もう一杯頂戴!」
「いけません!」
息子の深淵的な何かを垣間見たグエンは、反射的に蜂蜜酒の瓶を鞄の中にしまい込んだ。
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太陽が西に沈み、茜空が山々と世界樹の影を黒く塗りつぶす頃、アグニとグエンは足取り重く帰路を下ってゆく。これほどまでに寂しい気持ちで山を下るのは、ヤテベオにボロボロにされた時以来だろうか。
「結局奴らは来なかったな。残念だが仕方ない」
「ヴェル、元気だといいんだけどな」
アグニとしては、せっかく楽しみにしていたのに、それがふいになってしまったことが心苦しかった。
川の向こう側…………ドレークたちの里で、ヴェルは今頃何をしているのだろうか。そんなことを考えながら、アグニは歩みを進める。
「一応、手紙を書いておいてきたから、後で来たときに時に読んでくれるといいんだけど」
「そういえば、俺が片付けてた時に、アグニは何か書いてたもんな。だが、川辺に置いておいたら、朝霧で濡れてインクがくしゃくしゃになるぞ?」
「それは大丈夫。そうならないように、手紙は瓶の中に入れておいた」
「なるほど! それならば濡れる心配はないな!」
どうやらアグニは、片付けそっちのけで、ヴェルへの手紙を書いたらしい。
手紙の内容は、ヴェルへの恨み言がほんの1割と、再戦への希望が8割、そして次に山に帰れるのがいつごろかを律義に書いたのが1割といったところ。
「しかし待てよ、アグニ、瓶なんてどこから用意した?」
「お酒が入ってた瓶を使った」
「中身はまだ半分入っていたはずだが」
「全部飲んでからにしたから大丈夫!」
「勝手に飲むな!」
グエンは、久々にアグニの頭に拳骨を食らわせた。
「いてっ! な、殴らなくても……」
「いいか覚えておけアグニ。人の食べ物や飲み物に、勝手に手を付けたら殺されても文句は言えんぞ。俺だったからまだ拳骨で済んだが、フアナにやってみろ、半年は飯を作ってくれんぞ」
飲酒したことよりも、勝手に人の飲み物に手を付けたことを叱るグエン。よほど息子に、二度とこんなことはしてほしくないという思いが強いのだろう。
「うう、ごめんなさい」
「ったく、瓶が欲しいならそう言え。あと、お前は当分酒を飲むな」
こうして、グエンに怒られたアグニは、里に帰るまでしょんぼりとしていた。
アグニが、ヴェルと勝負をしてきたと思っていたフアナは、家に帰ってきたアグニを見て、てっきり負けて帰ってきたのかと勘違いしてしまった。
そのあと、アグニにこっそりお酒を飲ませたことがばれて、グエンもフアナにお説教されてしまう。
アグニ父子の久々の山巡りは、さんざんな結果に終わってしまった。
「あーあ、せっかくの里帰りだったのに、なんだかなぁ…………」
帰郷して3日目、メルタ村に戻る坂を下るアグニの足取りは重い。
ヴェルと久々のバトルが出来なくて、燃え損ねた闘争心が、心の中で燻っている。魔獣狩りをしたところで、アグニの心は晴れることはないだろう。
「外からくる、武術の先生たちが、もっと強かったらな~、僕も退屈しないんだけれど」
実のところ、メルタ村まで来れる冒険者の実力は、そこまで低くはない。
並大抵の冒険者では、まずメルタ村まで来るまでに高山病で倒れてしまうし、それを克服したとしても、ほかの地域に比べても、魔獣は強力な個体がそろっている。アグニがよく一人で狩ってくるレインディアも、本来であれば5人がかりで、まる一日かけて仕留めるのがやっとである。さもなくば、鎧に蹄型の穴をあけられるか、角にめった刺しにされるのがオチだ。
しかし、前述のレインディアをたった一人で、しかも一撃で仕留める実力を持つアグニにとっては、冒険者程度では満足に相手にならない。メルタ村の村長が、子供たちに武術を教える武芸者を探して、何人も来てもらったが、いずれもアグニに教えるどころか返り討ちにされてしまい、プライドを傷つけられて帰ってしまうのだ。今、子供たちに武術を教えている武芸者は、もはやアグニの存在は無視しており、ほかの子供たち相手にしっかり教え込んでいる。
「つまんないの。ヤテベオみたいなのはもう勘弁だけど、たまには血沸き肉躍るような強敵と闘いたいな」
いまや、アグニより明らかに格上の相手は、母フアナか、ヴェルの父ブレヌスくらいの物だろう。
ヴェルと闘えなかったフラストレーションを、一体何にぶちまければいいのだろうか? くさくさした思いを引きずりながら、アグニはメルタ村が眼下に見える崖まで下りてきた。
「村からもっと下の世界には、戦い甲斐がある相手がいるんだろうか」
ふと、アグニの頭に、昨日父が話していた言葉が思い浮かぶ。
――――将来、何をしたいか、考えたことはあるか――――
「そもそも、僕は何のために強くなるんだっけ」
アグニはなぜか、急に心に空虚を感じた。
何か大切なものが、すっぽり抜けていたのに、今頃気が付いた…………そんな焦りが、じわじわと身をむしばむ。いったい自分は何者なのか? 何のために存在しているのか?
アグニは、今下ってきた坂を振り返る。
アグニの里にはもう当分帰れない。なのに、今頃になってグエンやフアナに、聞きたいことが山ほど湧いてくる。
「いくしかないのか」
アグニは崖から飛び降りた。
ほとんど垂直の崖を、まるでカレーリアラパンのように、軽々と岩伝いに飛び跳ねていく。
普通の人間にとってはまさに自殺行為に等しい動きを、アグニは体のバランスを巧みに操って、迷うことなく下って行った。
標高差にしておよそ60メートルを一気に下ったアグニ。メルタ村まで続く道に出たところで、彼は意外な人物と出会った。
「わぁっ!? あ、アグニ君!?」
「あれ? ローザちゃんじゃないか。どうしたのこんなところで?」
「アグニ君こそ! 何で崖から落ちてきたの!? 怪我とかはない!?」
「落ちてきたんじゃないよ。近道だから下ってきただけだし」
「や、やめてよ…………こんな高い崖、落ちたら死んじゃうよぉ! もう二度とやらないで!」
アグニが崖を下ってくるのを見たローザは、真っ青な顔で、涙目になりながらアグニに詰め寄った。
アグニにとってはなんてことない道のりだったが、傍から見れば崖を下るなど、正気の沙汰ではない。かつてフアナに咎められた無茶癖は、しばらくして復活していたらしい。
「まあいいじゃん。それより、急いでいるみたいだけれど……僕の里か、上のどこかの里に用事でもあるの?」
「それなんだけれどね、ちょうどアグニ君と、アグニ君のお父さんに知らせなきゃいけないことがあるの」
「知らせなきゃいけないこと? 山の此処かで何か起きたの?」
「それがね、アグニ君……落ち着いて聞いて」
「?」
ローザは、一瞬言っていいのかどうか思案していたようだが、意を決して、口を開いた。
「西の里が…………ドレークに襲われたの」




