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棋道哀楽  作者: 進藤伐斗
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後編

 夕方近くになり、コンコンと部室のドアがノックされる音が鳴った。ほどなく

「こんにちは」

 と横開きのドアを開けて黒縁メガネをかけた男子生徒が入ってきた。何やら箱を手にしている。

「囲碁部の成田と言います。将棋部に奨励会の方が指導に来ていると聞いて……休憩がてらに覗いてみたんですが、少し見学していってもいいですか?」

「ああ、いいよ。こちらは鈴森直人二段だ。今四面指しで指導してもらってるんだ」

 宏和が直人を手の平で示した。

「四面ですか……囲碁でもありますけど、やっぱりプロはすごいですね。囲碁は初段からプロですが」

「将棋も初段になることを入品(にゅうほん)と言うんだよな。まあ俺なんかには到底無理だ。プロになるのはとっくに諦めたよ」

「へー、あんたもプロ目指したことがあるの?」

 広恵が口を挟んだ。

「目指したっていう程大袈裟なもんじゃないけど、な……」

 急に宏和が神妙な表情になった。

「そりゃあ、誰だって一度は考えてはみるだろ」

「そうなの?」

「男はね――誰でも一生のうち一回はプロとか、最強っていうのを夢見る……今の時代こういう言い方をするとセクハラ発言ということになるんだろうけど、ちょっとの間勘弁してくれ」

 悦に入ったように宏和が語り始めた。

「程度の差はあるけどね。これは誰でも見る。けれど誰もがそれをどこかで諦めてゆく。兄弟に負けた時、クラス一強いやつに敵わなかった時、親父に全く歯が立たなかった時。99.9999999……%くらいの人たちは途中で他の夢に行っちゃうんだ」

 日本にそんなに人口がいるんだろうか? と広恵は首を傾げた。

「けれど、ほんの一握り……何があっても、誰に出逢っても、大人になっても決してこの夢を諦めない人たちがいる――」

 立ち上がって、直人を示しながら宏和が語気を強めた。

「こちらにおられる鈴森二段も、そういう人たちの中の一人だ!」

 そう言われた直人は、ただ軽く笑っていた。やがて四面指しが再開された。


 成田は直人の所作を見ていた。将棋の指し手についてはよく分からないが、囲碁と将棋という棋道(きどう)に通じる何かを感じ取っていた。

 しばらく眺めていて、急に体を震わせた後に、成田は思い出したかのように手に持っていた箱を開いた。

「そうだ、これ。家に沢山あったんで持って来て、部でも配ったんですけどそれでもまだ残って……良かったら皆さんにもどうぞ」

 そう言いながら中から取り出したのは果物のジュースでその全てはオレンジジュースだった。箱は発泡スチロールで出来た物だった。成田はまず直人に手渡し、そして順番に各自の席に配っていった。

「はい、部長さん。どうぞ」

「おっ、俺の好きなオレンジジュースじゃないか。いただきます」

 宏和は直ぐにストローを突き刺して飲み始めた。

 全員に配り終えるとまた成田は直人の斜め後ろからの見物に戻った。


「うっ。何か急にもよおしてきたぞ。トイレに行ってくる」

 宏和が勢いよく立ち上がって、ドアを開いて廊下へ飛び出して行った。そんな彼の後ろ姿を見て

「全く、騒がしい男ねえ」

 広恵が呆れた顔をし、佳奈美もそれに同調した。麻里も表情はあまり変わらないが少しだけ頷いてみせた。しばらくは皆自分の将棋だけを考えていたが、やがて広恵が口を開いた。

「ねー、今どっちが勝ってるの?」

 素人の気安さから、宏和の残していった盤面を指差してそう直人に質問した。

「そうですね……中盤の難しい所で勝谷君の手番ですが、銀をこう動かすとこちらが苦しいですね。だけどこっちの歩を取ると逆に勝谷君が勝つのは難しくなります」

「ふーん。じゃあ絶対その歩を取るね。あいつ、口だけだから。みんなもそう思わない?」

 佳奈美と麻里の顔を見ながら広恵がそう言うと部室内に笑いが起こった。そうしているとやがて廊下の方から騒がしい物音が聞こえてきた。

「待てー」

「ひいい」

 バタバタと複数の廊下を駆ける音がし、段々と近付いてくる。一つの足音がこの部室の前で止まったかと思うと、ガラリとドアが開いて宏和が中に飛び込んできた。血相を変えている。

「どうしたの?」

 広恵のその問いの答えを聞く前に、彼の後から女子生徒たちがぞろぞろと中に入ってきた。運動着を着ている者、制服を着ている者と服装はまちまちであった。

「その男をこっちに引き渡してくれる?」

 何が起きたのかと皆が不思議そうな顔をしていると

「その男に、私達の着替えをのぞかれたんです。更衣室で着替えをしていると窓の外から物音がして……」

 山口という代表格らしき女生徒が事情を話し始める。

「のぞきって……あんたねえ」

 広恵が露骨な軽蔑の眼差しを宏和に向けた。

「違う、違う。俺じゃない。俺はのぞいていない」

「嘘。その男しかいなかったんだから」

「そうよ、そうよ。誤魔化されないんだから」

 どう仕様もなく険悪な空気が流れ、宏和の身は風前の灯という様相を呈していた。

「待って下さい。無実の人を裁かないで下さい」

 直人が彼女達の前に進み出た。いつものボソボソとした喋り方ではなく、ハッキリとした口調だった。その瞳は将棋の終盤で勝ちに向かう目、局面の真実に向かう目と同じだった。スーツ姿の彼の登場とその言葉によって空気に変化が生じた。

「あなたは……?」

「僕はこの将棋部の指導員として招かれている者です。まずは現場に連れて行って下さい。それからもう少し事情を詳しく聞かせて下さい」

 直人は成田の肩に手を置いた。

「君も一緒に来て下さい。勝谷君の無実の証明を手伝って下さい」

「え、ええ……」

 憧れの棋道のプロに言われて、成田も同行することになった。全員で現場への移動を開始した。


 トイレで小用を足して廊下に出た宏和は突然の大きな物音に驚いた。そして音のした方を見ると、廊下に紙のような何かが落ちている。近寄り拾って手にしてみると、それは女性の写真をプリントアウトして引き伸ばした代物だった。

「おー、これは徳島女流王将じゃないか。何でこんな物がこんな所に?」

 将棋の女流プロの写真を手にして宏和の胸は踊った。そして更にもう少し先の廊下にも同じような紙状の物が落ちていることに気が付いた。迷わず宏和はそのお宝を拾いに歩を進める。

「これはこれは、矢橋女流四段。この先にまだ貴重な逸品が待ち構えているというのか……?」

 廊下をウロウロしていると、向こうから大勢の足音が聞こえてきた。直ぐに女子生徒の集団が目の前に現れた。

「あーあんたね。この痴漢」

「は?」

 一人が呆けてる宏和の胸ぐらを掴んで詰め寄ってくる。

「とぼけるんじゃないわよ、のぞきが」

「何の話だ? 俺が、のぞき?」

「そうよ。私たち、急いで追いかけてきたんだからね」

「待てよ。お前ら、女流棋士になるつもりなのか?」

「なーにわけの分からないこと言ってるのよ」

 その女子がボカっと宏和の頭を殴りつけた。

「何するんだよ。俺はこうしてこの素晴らしい芸術作品を眺めていただけだぞ」

「それと同じような写真が更衣室の窓の下に落ちてたわよ!」

 後ろにいる別の女子が写真を広げて見せた。

「おー、室堂女流初段!」

 写真に向かって飛びかかろうとした宏和に膝が飛んできた。

「グヘッ」

「もう、許さない」

 皆が一斉に殴りかかった。


「何とかスキをついて逃げてきたんだが……」

「あんた、いっぺん死になさい……」

 宏和の話を聞きながら広恵は呆れ果てていた。

「そんな与太話を信じると思ってるの?」

 山口が声を荒らげた。

「窓の外から物音がしたんです。のぞきだと皆が分かりました。それぞれ急いで着替えるか、運動着に戻って廊下に出ました。外からのぞいた犯人が廊下に入って逃げて行く気配があって、それを追いかけてきたらこの男が一人だけ廊下にいたんです」

「窓の外をチェックした子が、のぞきに使った木箱とこの写真が落ちているのを見付けました」

 山口の隣にいた女子が直人に写真を見せる。

「室堂初段!」

「あんたは黙ってなさい!」

 広恵が宏和の首を絞める。

「犯人の顔は見たんですか?」

「いえ。でも状況からいって他にはいないでしょう?」

「でも彼は犯人ではないと思いますよ」

 女子たちが主張する、犯人が外から廊下へ入ったと思われる窓。直人はその窓の下の廊下やグラウンドを眺めた。

「グラウンドの土が廊下のどこにも付いてないでしょう。グラウンドにもここから侵入したような足跡は見当たらないです。勝谷君の靴の裏も確認しました」

「あっ……」

 頭に血が上って実に単純な見落としをしていたことに彼女たちは気が付いた。土を払ったり靴を履き替えたり隠したりする時間がなかったことは明白だった。

「で、でもあの落ちていた写真は……?」

「それは犯人が勝谷君に罪をなすりつけるために置いたんでしょう」

「そ、それじゃあ、犯人は一体誰なんですか……?」

「犯人は複数で準備を進めて協力していたようです。その全員を特定することも捕まえることも難しいでしょうね……」

 直人は顎に手をあてて少しの時間目を閉じた。

「でも、そのうちの一人には心当たりがあります」

 その静かな物言いに、場に緊張が走った。


「犯人は……恐らくグループでしょう。勝谷君がトイレから出てくるのを遠くから見張っていた。そして音を出して誘導した。女子更衣室の方もタイミングを見計らって物音を立てた。外からの逃走も捕まらないタイミングで気配を残しながら彼女たちをも誘導した。今頃はもうとっくに逃げ去ってしまっているでしょう」

 全員が黙って直人の言葉を聞いた。

「恐らくは勝谷君と仲の悪い人。それも集団となると……僕が怪しいと思うのは、森尾麗亜さんの親衛隊の人たちです」

「森尾麗亜って、あの女王様……?」

 運動部の女子たちは顔を見合わせ、将棋部員たちは得心した様子だった。

「森尾さんと勝谷君は仲が悪いそうです。そして森尾さんには親衛隊と呼ばれる人たちが取り巻いている。そういう人たちは、自分のこと以上に森尾さんのことを思っていたりもするでしょう。実際に親衛隊の人たちが勝谷君を睨んでいたという話ですし」

「そうだな。他には思い当たらないな。まず、やつらだろうと思う。だけどそんなやつらのメンバーなんて俺はあんまり知らないな。興味ないし」

 宏和は首を捻った。

「この計画――不確実な面もありますが、とにかく充分に準備されていました。かなり勝谷君の趣味・嗜好や体質などについて調べ上げられていたようです。この計画の成功に必要なことはもう一つ、勝谷君にトイレに行ってもらわなければなりませんでした。それも彼女たちが着替えるタイミングに合わせて――」

 直人は成田の方を向いてその瞳を見詰めた。

「成田君。君が持ってきたジュース、あれに利尿剤か何かが入れてあったのではないですか?」

 全員の視線が成田に向けて集中した。

「なっ……」

 成田は一瞬固まった。

「成田君が部室に現れた時、ジュース入りの箱を手にしていましたが、しばらくはそれを開けませんでした。時間差で皆にジュースを配り始めました。その直前に成田君の体が少し震えたのを見ました。あれはあの時に『今ジュースを渡せ』という合図を携帯で受け取った瞬間だったのではないですか? やましい所がないのでしたら、ポケットの中の携帯電話を見せて下さい」

「……」

 成田は黙って携帯を差し出した。調べると、ちょうどそのくらいの時間に着信があったことが分かった。

「だ、だけど、利尿剤を入れたという証拠はない……」

「確かに証拠はないですね。でも君が森尾さんの親衛隊員であることが分かれば、もはや言い逃れをすることは困難だと思いますよ」

「そ、それこそ証拠がないだろう。どうして俺が親衛隊員だと……」

 直人は左右に大きく首を回して皆に呼びかけた。

「どなたか、この成田君が森尾さんの親衛隊員であることを知っている人はいませんか?」

 だが芳しい答えは誰からも返ってこなかった。

「さあ」

「知らないわねえ」

「うーん、分かんない」

 しばらく待ったが状況は変わらない。

「……少しの間待っていて下さい。直ぐに戻ります」

 直人は廊下を歩いていき皆の前から姿を消した。


 再び皆の前に姿を現した直人の手には一枚の写真が握られていた。

「そ、それは……」

 うろたえた様子の成田の足元に、直人は静かにその写真を置いたのだった。

「森尾麗亜さんの写真です。廊下の壁に貼り付けてあったのを剥がして持ってきました」

 直人の表情に、残酷な微笑みが一瞬浮かんだように見えた。そして直ぐに顔を引き締めた。

「成田君。君がもし森尾さんの親衛隊員でないというのなら、その証拠にこの写真を踏んでみせて下さい」

 踏み絵だった。

 江戸時代に隠れキリシタンを発見するために用いたと言われる。親衛隊にとってのキリストとは……森尾麗亜である。

「……!」

「さあ、早く踏んでみせて下さい」

 成田の額に脂汗が浮かぶ。右足を少し上げて前に動かそうとするが、その足がぶるぶると震えて思うように動かない。手がわなわなと震えている。

「どうしたんですか? 簡単なことですよ。こんな風に……」

 直人が片足を上げて勢いをつけ、写真にめがけて思い切り下ろそうとする。その時――

「や、やめてくれえ」

 成田が写真を庇うようにして体を覆い被せた。直人は足の動きを止めた。

「ああ、レイア様。レイア様ー」

 涙を流しながら成田は絶叫した。


「レイア様の敵は俺たちの敵。レイア様のためになることならば何でもする。そしてその行いが成績となって、隊の中での出世につながる。ランクが上がればもっとレイア様にお近付きになれる。今回のことは数人の仲間で勝手にやったことだ。レイア様の指示ではない」

「さ、行きましょう。残りの仲間についても吐いてもらうわよ」

 背中を丸めて両腕を前にだらりと下げて手首を交差させている姿の成田、その彼の肩に手を置いて山口は言った。両脇を数人の女子で固める。彼女らの姿とその様子はまるで刑事が犯人を連行する光景のように見えた。。

「仲間は売らん」

「のぞきの実行犯を逃すわけにはいかないわ」

「のぞいてはいない。勝谷の犯行に見せかけようとしただけだ」

「それをこれから調べるわ」

 宏和の容疑は晴れたが、彼女たちにはまだやることが残されているのだった。将棋部員たちをその場に残し、場所を移しての取り調べを行うために彼女らは移動を開始した。

「おい、成田」

 遠ざかる成田の背中に向かって宏和が声をかけた。成田が振り向いた。

「お前も俺たちと同じ、棋道を志す人間だろう」

 直人に向けた成田の視線。その時の真摯な眼差し。紛れもなく自分たちと同じものを宏和は感じ取っていた。

「お前も棋道を目指すんだったらもっと志を高く持って、囲碁の女流棋士を狙うんだ。森尾麗亜なんか目じゃないぜ」

「何言ってやがるんだ。ふざけるなよ……」

 そう言ってまた前を向いた成田が少し寂しそうな微笑を浮かべた。


「何だか大変なことが起こったわねえ。まあ無事で良かったけど」

「無事でもなかったぞ。何発か殴られた」

「でも、兄さん。良かったほうだよ……」

 部室に戻って後片付けをしながらさっきの出来事について皆で話した。将棋の途中ではあったが、もうお開きにすることにした。

「勝谷君がオレンジジュースが好きなことも知っていた。それから多分薬が効きやすい体質なんじゃないですかね?」

 直人が宏和に確かめる。

「ああ、確かにそうだな。そんなことを教室でも話していたような気がする」

「あんた、ああいう秘密結社みたいな連中に狙われているんだから、個人情報はどこでも喋らない方がいいわよ。今日部活することも、鈴森君が来ることも全部分かってたんだよ」

 広恵が忠告した。佳奈美も同調する。

「分かったよ、今後注意するよ」

「……」

 言葉を発しないながらも麻里も胸を撫で下ろしていた。この場が取り壊されて今までの日常が失われる可能性があった。そうなるともう直人がやって来ないかも知れないのだから。

「ようし、今日はもう解散だ」

 廊下に出て部室の鍵を宏和が閉めた時、時計の針はちょうど午後五時を示していた。

                                           <了>

シリーズ物としての1つの話として書きました。途中の話とするつもりですが、本編の完成がいつになるやら……


作中に登場した『歩女子』という言葉は一般には知られていませんが将棋をする女子という意味で、勿論『腐女子』を文字った言葉で作中もそんなイメージに寄せて描いていますが、現実の歩女子には腐女子的な人は少ないと思われます。


「刃牙」「モンハン」ネタは分かる人には分かると思います。

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