蒸し暑い夏の夜の知らせ
彼を最後に見たのは、私が14歳のとき。5歳年上の隣に住むその人は、私の大好きな笑顔を残して旅立った。
彼を見送るとき、私は言えなかった。涙が溢れて、言葉が出なくて。
彼に「ずっと好きだった。行かないでほしい」って言いたかったのに。いつもわがままばかり言って困らせていたのに、一番言いたいわがままは言えなかった。夢を叶えて欲しいとかそんなことは一切考えられなかったけれど、嫌われたくなかったのかな。
あれから彼には会っていないけれど、私は毎日彼の部屋を見つめている。
「香澄!またお兄ちゃんのこと考えてたでしょ。」
そう声をかけてきたのは、彼がいない部屋の窓から覗いた、意地悪な笑顔の人だった。
「べ、別に!」
どことなくニヤニヤした顔が彼に似ているのが悔しい。
彼女は千尋。私の幼馴染で親友、そして彼の妹だ。
「わかりやすいんだから。」
ニヤッとした顔から再びいしし、と笑い声が漏れる。
今は風鈴の音を聞いても涼しく感じない程の猛暑が訪れている夏。私たち高校生には心踊る夏休みである。しかし私は学校と塾の課題に追われ、千尋はアルバイトで忙しく働いていて一夏の思い出などこれっぽっちもないのだが。
多忙な私たちにとってこの窓越しに話をするのが1日の日課であり心が安らぐ瞬間だ。最新機器が発達した現代でも、やはり顔を合わせて話をする方がずっと楽しい。
その日は千尋がアルバイトから残業をして帰ってきた日だった。千尋の部屋の明かりが着くまで塾の課題をやっていた私は、ふっと彼のことに思いを馳せた。
彼は今、何をしているんだろう。
その瞬間に声をかけられたのである。さぞかし間抜けな顔をしてたんだろう。
しかし、今度は千尋がすっとんきょうな声を上げる。
「何よ!びっくりしたじゃない」
驚きの余りシャープペンシルの芯が折れてしまった。
「お兄ちゃん!」
「?」
「お兄ちゃんが帰って来るの!」
「!?」
夢かと思った。千尋がふざけているのかとも思った。でも、顔を合わせているからこそ分かる。彼女が嘘を言っていないことが。
「どうして!?」
「わからないけど…」
私の初恋の相手であると同時に、彼は千尋の兄である。私が彼にずっと会っていないということは、千尋もまた、最愛の兄に会っていないということなのである。
「一週間後にこっちに着くって。」
スマートフォンを見ながら千尋は早口に伝えた。私はというと、折れたシャープペンシルの芯もそのままに口をあんぐり開けたまま千尋を見つめていただけだった。
それからのことは余り覚えていない。多分朝起きて課題がそのままだったところを見るとそのままなにもせずに床についたのだと思う。
かすかに開いていた窓から吹く生ぬるい風が頬を這ってようやく目を覚ました私は、朝食を済ませるためリビングに向かった。
私の両親はパン屋をしている。自宅に併設する形でお店を開店したのは私が5歳の時。彼が9歳の時だった。それから両親は忙しく働き、私もそれを応援していた。寂しいときは彼がいてくれたから、1人の留守番もできるようになった。保育園のお迎えも、学童保育からの帰りも、いつも彼がいてくれた。
朝の仕込みを終え、母が帰宅していたときに私が起床したらしい。
「おはよう。」
母に挨拶をして、キッチンに向かう。自分の朝食は自分で準備をするのが我が家のルール。ニュースを観ながら朝食を食べていた母が、急に話しかけてきた。
「隣の千早君、帰ってくるんだってね。」
「もう聞いてたの?」
私が聞いたのは昨晩のことだ。流石隣同士の連携は凄まじい。
「うん。」
トーストを焼きながら何気なく返事をする。
「よかったね、香澄。会いたがってたし。」
「別にそんなこと…!」
「嘘が下手ね。私に似たのかしら。」
ふふっと笑いながらさっさと食器を片付け、母はパン屋に向かっていった。
顔が赤くなった様な気がして気にしていたらトーストが真っ黒になっていた。